acts_nav

キンシャサ生活の始まり

 

ナイロビまで

 

 出発したのは一九八九年二月十一日のことだった。成田発パキスタン国際航空(PIA)カラチ行きである。そこから乗り換えてケニアの首都ナイロビに向かう。

 PIAは、後々まで楽しい旅の思い出として、私の記憶に残ることになる。というのは、南回りのこの路線は、途中マニラ、バンコクに寄ってカラチに着き、そこで三日間のトランジットの後、アブダビを経て、ナイロビに至るのだが、一回飛び上がるたびに、周りの人々の顔つきや肌の色がだんだん濃くなってゆき、供される機内食も、それにつれて変わっていったからである。

 成田で飛行機に乗り込んだときは、周りは卒業旅行にアフリカを選んだ女子大生でいっぱいの状態だった。彼女らは、そろってケニアのサファリ・ツアーに出かける連中だった。私が学生だった一〇年前には、およそ考えられないことである。なんとも隔世の感がある。

 それに対して私は、海外旅行はおろか、飛行機に乗るのさえ初めてだった。飛行機がそろそろと動き出し、滑走路の端までゆっくりと進んだところまでは特に異常なく平静を保っていた。しかし、飛行機がゆっくりとUターンして停止し、突然全速力で滑走しはじめたとき、思わず前の座席の背中にしがみついて周りの爆笑を買ってしまった。

 離陸の瞬間は頭が真っ白になっていた。機首がどんどんあがってゆき、旋回とともに一方の窓から地面が遠くに眺められるようになると、不安のあまり平衡感覚を失った。

 私のパニックとは裏腹に、周りの女の子たちは、そろって快活だった。旅行慣れした彼女たちは、観光ガイドブックを片手にサファリ・ツアーの計画や見られるであろう動物達のことを話し合ってにぎやかだった。

 時々、スーツ姿で飛行機に乗り込んだ私に、どこへ行くのか、仕事へ行くのかと、屈託のない笑顔で話しかけてきた。「ザイールだよ。」「それって、どこなの。」「君の行くケニアの隣の国だよ。」「ふうん。」

 私は足許を占領した荷物にいらだっていた。しかもガイド・ブックなどのない危険きわまりない旅程を予想して、実に暗澹たる気分だった。その気分を晴らしてくれたのは、何を隠そう機内食だった。物を食えば機嫌の良くなる自分の性格を、この時ばかりは神に感謝した。

 マニラまでのフライトで出された物は、日本人のためと心遣ってか、寿司を中心とした和食メニューだった。次のフライトで東南アジア風の屋台料理に近づき、周りの人の顔つきもアジア色を強めていった。さらにカラチに着く前には、カレー料理に変わり、明らかに肌の黒いアジア人が増えていった。

 カラチ着。カラチでのトランジットは、食って食って食いまくる三日間だった。カラチ・エアポート・ホテル。この名前を思いだしただけで、私は腹が減ってくる。カレー好きでなくても、ここの料理はすごかった。PIAの利用者でトランジット客は、このホテルに無料で宿泊できたうえに、広い中庭の見渡せるレストランでバイキング料理がただで食い放題だったのである。

 実に様々なカレーとサブジとタンドール料理のオン・パレードだった。腹一杯食っては、へなへなと自分の部屋に戻り、外はピーカンだというのにそのまま昼寝を決め込む私に、女子大生や客室係はあきれかえっているようだった。私としても、特に外出を嫌っていたわけではない。ただ単に、料理のバリエーションがすごすぎて、食わなければ申し訳ないという気がして、ひたすら食っただけのことである。

 私は三日間のトランジット期間中、三度三度の食事をそこで心ゆくまで堪能した。おかげで、オープン・キッチンになっていた厨房から見ていたコックは、私がやってくるとわざわざそこから出てきて、満面の笑顔で持ちきれないほどの皿やスープを運んでくれたものである。「今日のお薦めはこれだ。さあ食え。」

 三日後、カラチで心配されたトランジット客の荷物の紛失や、ビザ関係その他のトラブルもなく、我々は無事、ナイロビ行きの飛行機に乗ることが出来た。

 この便では、我々日本人の集団はバラバラにされ、私の周りには見事な真っ白いターバンをまとった、見るからに石油商と思われるアラビア人が乗り込んできた。

 のみならず、料理も日本人から見れば何と形容してよいかわからない代物になった。基本的にはシチューなのだが、味付けが日本人の常識を越えている。これでもかというほど脂っこい。さらにデザートの驚異的な甘さには目を見張った。ホイップ・クリームから、溶け切らない砂糖があふれ出していた。そのあと出された塩味のバター茶にも驚いた。

 しかし、周りの人の食い方を見て、その通りにやっていると、なんとなく味わいがわかるような気がした。のみならず、暇に任せて隣にいた眉毛の一本につながったアラビア人と話すうち、アジア人とアラブ人の味覚談義まで片言の英語でおっぱじめてしまった。

 彼がアブダビで降りてしまうと、今度は私の周りは黒人で埋め尽くされた。一度にこんな至近距離で、こんなにたくさんの黒人を見たのは初めてだったから、正直言って私は圧倒された。

 機内食もアフリカのものとなった。ウガリなる揚げパンとスープに、肉の煮たものが出た。こってりした前の料理に比べると、幾分あっさりしているようにも思った。

 周りの黒人達と私のこれから行く先についての話になると、前後左右から黒い顔が身を乗り出してきた。「どこへ行くんだ?」、「キンシャサ」、「えっ?」。身を乗り出していた黒い頭がすっと消え、まわりで多分スワヒリと思われる言葉で、大きなひそひそ話が始まった。「何しにそんなところへ行くんだ?」「あそこの音楽が好きでね。」またひそひそ話。こうして、私が英語で何かひとこと言うと、裕にその十倍は返ってくるようなありさまだった。

 やがて彼等の間で意見がまとまったらしく、最も説得力のありそうな体の大きな奴が、私にゆっくりと話しはじめた。「ザイールへ行くのを止めはしないが、十分に気をつけろ。」

 なんだか会う人会う人に同じ事を言われるので、行く末を案じて私は暗い気持ちになった。そんなことをしているうちに、にぎやかに飛行機はジョモ・ケニヤッタ国際空港に降り立ち、ツアーに守られた安全な私の旅は、ここで終わった。ついにアフリカにやって来た。

 ナイロビではザイールへの入国許可と、エア・チケット探しのため、三日間滞在した。その間、昼は日本大使館やザイール大使館、旅行代理店などの間をかけずり回り、夜はそこで知り合った日本人観光客らとともに、ナイト・クラブめぐりをした。

 安いチケットを求めて、何軒目かでカメルーン航空のオフィスへ入ったときのことは忘れられない。「どこへ行くのか。」と訊かれたので、「キンシャサ」と答えた。受付の若いのは、「えっ」と言う感じで、もう一度聞き返した。「キンシャサだ。」私がパスポートに押されたザイールのビザを示しながら、もう一度ゆっくりと繰り返すと、彼は、信じられないという風に肩をすくめて、後ろの連中に向かって、「キンシャサだってよ。」という感じで伝票を回した。

 事務所の連中が一斉に私の顔を見、例の大きなひそひそ話が始まった。発券されたチケットを持ってきた男が、私にチケットを手渡しながら、「グッド・ラック」と真顔で言った。少しぞっとした。しかしもう買ってしまったのだ。なぜかとんでもないことをしでかしたような、打ちのめされた気分でしょんぼりとそこを出た。

 ナイロビの町は、全体にイギリス風の街並みで、高地にあるためか、気温は低い。ナイト・クラブへ行っても、確かにリンガラ風の音楽はかかっていたが、耳の肥えた私からすれば、とうてい楽しむに値しないものだった。私はなるべく早く目的地へ発ちたかった。

 そんなわけで、ナイロビの印象はさほど強いものではない。ただ、泊まっていたホテルや、日本人旅行者のよく立ち寄る店などに行くと、海千山千の面構えをした旅行者に数多く出会い、そこで色々な情報を得ることが出来た。

 そこでも情報は、ザイールへ行くのなら、相当な覚悟が必要だという点で一致していた。「なあに、とって食われるわけでもあるまいに。」のんきな返事をする私に、髭面の旅行者が真顔で忠告した。彼はザイール川を筏で下っている途中で持ち物と現金のほとんどを強奪されたという事だった。いったいどんなところなんだ。しかし、もうチケットも買ったし、日本で大見得を切ってきてしまったし、もうあと戻りする事は許されなかった。かくして私は、三日後にカメルーン航空に乗って、ナイロビをあとにした。

 

KINSHASA AIRPORT ARRIVAL JAM

 

 カメルーン航空の機内でも、隣り合った黒人達は、そろってこの向こう見ずな日本人の考えを思いとどまらせようとして最後まで努力した。「そんなとこで降りんとカメルーンに来い。カメルーンはええとこやぞ。酒はうまいしねえちゃんはきれいや。」

 途中、ルワンダのカンパラあたりから、赤土と緑の高原が延々と眼下に広がるようになった。「地球か・・・。」とひとり感慨に耽っている間も、親切なカメルーン人が、「チケットやビザが問題なら、俺が何とかしてやる、悪いことは言わんからキンシャサで降りるのはやめておけ。」うるさいことこのうえない。「俺はミュージシャンだ。ザイールで音楽を勉強する。ザイールでなきゃいかんのだ。」と、声を大にしたが、彼等の方がうわてだった。「カメルーンにも素晴らしい音楽はある。食わず嫌いはいかん。」

 そうこうしているうちに飛行機は降下を始めた。正直言って、彼等をはじめ、道中で私にくれぐれもと忠告した親切な人々の言うことが本当で、気軽に「行って来い」などと言って送り出した日本の友人たちの方の認識が甘かったのだとしたらどうしよう、本当に生きて帰れぬ程の所だったらどうしよう、でも、何人かの友人たちは向こうで楽しんで帰ってきたのだし・・・などと、この期に及んでくよくよと怖じ気付きはじめる自分をどうすることもできなかった。

 しかし、親切な機内のカメルーン人たちに向かって「お前らの知った事か、俺がどこへ行こうと勝手だろ。」と、啖呵を切って彼等を黙らせてしまった以上、意に反して震えだす足を両手で押さえつけてみたり、生唾を飲み込む音を聞かれたくなくて、必死でこらえたりしていた。

 ふらふらと何度も雲に翻弄されたあと、飛行機は急降下をはじめた。ザイール河の蛇行する河筋が現われ、赤い地面と潅木が間近に見えるようになった。とうとう来てしまった。「あかん、やっぱり待ってくれ」などと言う暇もなく地面はどんどん上昇し、すなけむりとともに轟音を響かせながら、キンシャサ・ンジリ空港に飛行機は降り立った。

 私は立ち上がった。さっきから足はがくがくで、心臓の動きは、こめかみを打つほどに激しくなっていた。荷物を通路に出し、ボストンをかついで、意を決して前方を見た。多くの同情的な目が、まるで哀れむかのように私に注がれていた。なかには、十字を切る失礼な奴までいた。

 私は進みはじめようとしたのだが、辺りを見回してびっくりした。なんと、その客室からここで降りようとしたのは、私一人だったからである。出口へと進んでいくと、多くのびっくりした目が輝いた。私はたったひとりでそのタラップを降り、灼熱の地面に降り立った。後ろで即座にタラップが引き上げられる音がした。

 どぎつい太陽と鋭い暑さに目も開けられぬ程だったが、すなぼこりの舞散る地面の前方に、建物が見えた。自分の立っているところから、その建物の入り口とおぼしきところまで、両側を銃を構えた軍服姿の兵隊が、何人も整列してこっちを睨んで立っている。

 その間を、スーツを着込んだ私は、滝のようにほとばしる汗を拭うこともできずに、両手いっぱいに荷物をかかえてとぼとぼと歩きはじめた。

 頭の中は真っ白だった。前方にいた兵隊の一人が、大きな身振りで私に向かって何か叫んでいた。リンガラ語ではなかった。とするとフランス語か。ならばお手上げだ。

 スーツ・ケースのキャスターを取られてまごついている私に、数人の兵隊が駆け寄ってきた。彼等は、私の荷物をもぎ取ると、銃の台尻で、激しく私をこづいた。

 促されるままに、彼等のあとについて、私は歩いて建物に入った。通路は窓際を右に折れていて、その曲がりしなにふと後ろを振り返ると、ファースト・クラスから白人が五、六人降りてくるのが見えた。そのあとを、機内預けの荷物を積んだリヤ・カーがひとりの黒人に押されてきていた。「私の荷物は・・・?」と思う間もなく、私は取調室らしきところへ連行された。

 そこは、ロングテーブルが手前と向こう側に一台ずつ置かれた殺風景な小部屋だった。向こう側のテーブルに、いかにも難しい顔をした取調官とおぼしき人が座っていた。こちら側のには小さなザラ紙に、何やら細かい字で色々と箇条書きにされたものが、確か三種類ほど重ねて置いてあった。

 ロングテーブルはごく低いのに椅子さえ置いていなかったが、彼はその紙を指さして、「書け」と身ぶりで示した。私は紙を覗き込んだが、フランス語だったので何が書いてあるのかさっぱりだった。それよりも、私をとりまく不穏な空気に、すっかり恐れおののいていた。

 考えてみれば、フランス語を公用語とする国に、フランス語のフの字も知らずにやって来たこと自体、あまりにも常識外れなことと言わざるを得ない。しかし今更どうにもならなかった。

 混乱した頭の隅から、なんとか身を救ってくれそうなリンガラ語をひねり出し、おずおずと、「フランス語はわからないのでリンガラ語でやってくれないか。」と訊いた。

 日本人からリンガラ語が飛び出したのにさすがに驚いたのか、彼等の間に一瞬、ふっと気分のほころびるのがが見られたが、彼等はすぐに威厳を取り戻し、あくまでもフランス語で私に何やら言った。

 私はわからないので、お手上げだと言う動作を示すと、そこの主は、私の脇にいた一人の男に「助けてやれ」と身ぶりで指示した。「ボン」と彼は言った。ボン?、そうか、とりあえず最悪の事態は免れたようである。

 それらの紙は、要するに私の素性や、ザイールの訪問の目的を尋ねていただけだった。私は、訊ねられるままに、その紙を埋めていった。ところがその紙を主に渡したとたん、彼の表情が厳しいものになった。

 問題は私の滞在期間だった。私はビザを申請する際、三ヶ月の観光ビザを申し込んでいたはずだった。だから入国審査の用紙にも、滞在期間三ヶ月と書き込んだのだが、実際にパスポート上に記されていた滞在期間は、何故か二ヶ月だった。

 何故こんな手違いが起こったのか、さっぱりわからなかった。というのも、パスポートは、ビザを申請するまでは、必要書類を揃えるのに必要だったから、私の手許にあった。しかし、それからあとは、様々な実務的な必要のため、日本の旅行代理店に預けっぱなしになっていた。

 代理店との連絡はかなり頻繁にとっていたが、ビザについてのトラブルは聞いていなかった。パスポートが代理店から手許に戻ったのは、団体ツアーというものがたいていそうであるように、成田空港の出発ロビーでだった。私はそこでそれを受け取り、そのまま飛行機に乗ったのである。

 ビザの滞在期間等に関する記載は、当然ながらすべてフランス語だった。さらに悪いことに、数字ではなくアルファベットだった。そこに書かれていたdeuxが「2」を意味し、moisが「月」の複数形だったとは知らなかった。

 口の中で「あいつらめ」と罵ったが、もう遅かった。こんな所で、この代理店の不手際についてクレームを発してみても彼等が助けに来てくれようはずがなかった。しかたなく私は、リンガラ語でなんとか、苦虫をかみつぶしたような顔をした官憲達をなだめにかかった。

 「私はこんな格好をしているが、実はミュージシャンで、日本であなた達の国の音楽をやっていて、それを学ぶためにここへ来た。私はこの通りリンガラ語ならなんとかなるが、フランス語はさっぱりで、ビザに記載されている内容が理解できない。それは単なる代理店の手違いだろうから、私の希望としては三ヶ月滞在したいが、もしどうしてもだめなら二ヶ月でもやむを得ない。」などと、身ぶり手振りを交えて申し述べた。

 これに対して主は、「お前は何かビジネスをしにやって来た者に違いない。ミュージシャンだと言うが、もしそうならその旨の身分証明書を見せろ。仕事に来たとしても、勉強に来たとしても、どちらにしてもその目的のビザが必要で、観光ビザでの入国は認められない。フランス語が読めないと言うが、だいたい自分の持っている書類に書かれてあることが理解できないということそのものがおかしいではないか。従って、ここを通すわけにはいかない。」というのが詰まるところだった。

 私は、頭がくらくらしてきた。何のためにここまで来たのか、大枚の苦労と時間と金をかけて。次第に絶望に涙が出そうになったが、それをこらえてうわずった声で訴えた。

 ここへ来るまでに様々な準備をしてきたこと、書類に不備があるのなら、今ここですべての手続きをやり直してでも入国したいこと、そうしないと何のためにここまで来たのかわからない、信じてもらいたいが私は決して怪しい者ではない、などとほとんど泣きそうになりながら、つながらないリンガラ語でまくしたてた。

 ふと主が私の隣の若いのに目で合図した。彼は私の肩を柔らかくたたいて、指先をもむ仕草をした。きょとんとしている私の耳許で、彼は「ドラール」と言った。ドラール?、それはダラー、つまりドルのことだった。

 そうか。私は気づかなかった。彼等の本当の目的は、書類の不備や滞在期間のことではなく、金持ちの日本人から金を巻き上げることだったのだ。結局、値段交渉の末、そこにいた五人の官憲に一人頭三〇ドルずつ与え、そこを出ることになった。

 このごたごたは、ビザの滞在期間の記載をめぐって始まったのだが、ビザの記載については後日、別のトラブルに巻き込まれることになる。私はザイール訪問とともに、隣国コンゴへも行きたかったから、その旨を代理店に伝えてあったのだが、コンゴのブラザビルへ渡航するレッセ・パッセという許可証をもらう段になって、このビザではコンゴに渡れても、そこからザイールに帰れないことがわかった。

 これは船着き場の窓口にいた男が大変親切で正直な奴だったから、事前にわかったことだが、もし知らずにザイール河を渡っていたら、本当に帰れないところだった。つまり、こういうことである。

 ビザにはいったん出国したら効力を失うものと、有効期間内なら何度でも出入国出来るものがあって、フランス語の記載では、それぞれ「unvoyage」とか「plusieur voyages」とか記されているのである。英語でいうと、「single entry」と「double entry」のことである。私のものはなぜか前者だった。

 海外旅行をする者なら誰でも知っている、こんな初歩的なことを、現地へ行くまで何も知らなかったのである。しかも、ビザにそのような種類のあることなど、代理店からは聞いていなかったし、こちらからシングルにするように指示するはずもなかった。いってみればこれも代理店のミスである。

 とにかく、初めて使ったリンガラ語は以上のようなものだった。これはあまりにも自分に対してかわいそうなことだったが、しかし、ザイールという国を思い知る通過儀礼でもあった。

 かくして私はその取調室を出、機内預けの荷物を探しに行った。私の隣にいた若いのは、大枚の金を得て、ほくほく顔で私の案内役をかって出た。建物のどこがどうなっているかわからないので、彼について行くより仕方がなかった。

 しばらく行くと、預けた荷物があるとみられる、人々でごったがえした大きな部屋に出た。青い汚れたつなぎを着た男たちが、私の荷物を取り囲んでいた。私が荷物の方に歩いていくと、若いのは急いで私の先に立ち、荷物を彼等からもぎ取ろうとして、彼等と争いになった。

 早口の、機関銃のようなリンガラ語が飛び交い、何が起こったのかと大勢の人々が集まってきた。私は自分の荷物や、口論している彼等のことより、集まってきたあまりに大勢の黒人達に恐れをなした。目つきがただものではなかったからである。それに、そんなに大勢の黒人を、しかも自分めがけて殺到してくるのを見るのは、当然初めてだったし、みんなが口々に何か叫んでいたから、暴動でも起こるのではないかと思って、生きた心地がしなかった。

 何十分という、訳の分からぬもみ合いのあと、どうやら彼等の間で決着が着いたようだった。若いのは私に、一〇ドル出せと言った。しかし、もう現金は残っていなかった。あとはトラベラーズ・チェックばかりだったのである。

 再び何やら協議が始まった。しかし今度は、より実務的なことでもめているようだった。またしばらくの時間が過ぎたあと、彼等はあっさりと荷物を若いのに渡した。彼はそれをつかむと、私の方を振り返りもせずに、ずんずん人並みをかき分けていった。私は見失うまいとして、荷物を抱えて彼を追った。

 多くの黒い手が、私の服や眼鏡やベルトなどにからみついたが、私はもう何も恐れずに、それらを振り払いつつ、闇雲に前へ進んだ。急に目の前が開けたと思ったら、外だった。荷物検査も何もなかった。呆気にとられる私を置いて、彼はなおも進んでいった。

 その先に、黄色や緑の車が列をなしていた。彼はそのうちの一台に近づくと、中にいた男に私を指さして何か言った。タクシーの近くにいた私服の黒人達が大勢集まってきて、また騒ぎになった。それを聞きつけたのか、黄土色の制服を着て棍棒を持った黒人達が、その群に割って入った。

 再び始まった激しいもみ合いのあと、やがて騒ぎは収まり、黄土色の制服から金を要求された。私が現金はないというと、また協議に入り、若いのがそれをとりまとめて、私を荷物ごとタクシーに押し込んだ。

 こうして長い混乱とトラブルの末、私は空港から脱出することが出来た。空港に着いたのは確か昼前だったが、もうかれこれ夕方に近かった。この間、正直言って、私はなにが起こっていたのか、全く理解できていなかった。通常の入国の仕方とは、あまりにもかけ離れていたからである。

 車は走り出した。ピリピリから、「ホテル・ディアカンダ」という名前を聞いていたので、私は運転手にそれを伝えた。車の前部座席には、運転手の連れとおぼしき男が乗っていたが、私がリンガラ語を話せるとみると、二人して快活に話しかけてきた。やっとまともな会話に苦労して覚えた言葉を使えると喜んだ私は、音楽の話をした。むろん彼等は乗ってきた。そんな話には目がなかったからである。

 私との話が一段楽すると、彼等は自分たちの話に没頭しはじめた。むろん、私には、早すぎて聞き取れなかった。私は道の両側に延々と広がる潅木の丘と、そこを荷物を頭に載せて歩く女達や、ぶらぶら歩く男たちをぼんやり眺めていた。やっと夢の国に着いたなどと言う感慨などは、空港での長いごたごたで吹っ飛んでいた。ただただ疲れていた。早く休みたかった。

 しばらく行くと、だんだん家が建て込んできた。どれも土壁や煉瓦積みの簡単なものだった。道が碁盤の目のように整然と並んでいた。助手席に座っていた男が、「現金を持ってないんだっけな。」と問いかけてきたので、私は「ない」と答えた。彼は、先に両替に行こうと提案し、私も同意した。両側の風景は、明らかに都会的になっていった。幅の広い舗装道路に出てさらに行くと、ゴージャスなホテルに着いた。ザイール随一の高級ホテル「ホテル・インターコンチネンタル・キンシャサ」である。

 その前に車を止めると、助手席のが私を導いてホテルに入って行った。レセプションの横手に両替所があった。レートを聞くと一ドルが三〇〇ザイールだった。最初だから、色々物いりだろうと思って、二〇〇ドル両替した。

 車に戻ると、彼等は「じゃあ今度はディアカンダだ。」と言って走り出した。彼等は快活だった。私は緊張の糸をゆるめていた。車は、塀に挟まれた車幅ぎりぎりの細い道をそろそろと進んでいた。

 突然、運転手が車を停め、助手席にいた男が、私に紙切れを示した。何やらの精算書らしかったが、乱雑な走り書きなので何が書いてあるのかさっぱりだった。しかし、各明細の数字の下に、合計らしき数字があったので、目を凝らしてよく読んでみると、そこには三万ザイールとあった。

 円、ドル、ケニア・シリングとめまぐるしく通貨が変わったので、私の金銭感覚はぼけていた。ゼロが四つもついているのでびっくりしたが、それが高いのか安いのか、とっさに判断しかねていた。

 男は早口で、「さあ払え、いま払え」と言った。私は、懸命にかけ算と割り算を繰り返していた。トラブルとパニックと暑さと、人の言うことを信じやすい呑気な性格のせいで、私は位取りをひとつ間違え、その請求額を、大体一〇ドルと算出した。

 しかし、まけさせるに越したことはないと思い、「一万ザイールにしろ」と言った。アフリカのふっかけ相場は、大体三倍ぐらいだと、ものの本に書いてあったからである。私はまだ、事態をよく飲み込んでいなかった。あくまで三万ザイールだと言う彼等に、笑いながら、「そんなこと言うなや、一万ザイールにしとけって。」と言いかけた私の鼻先に突きつけられたのは、真っ黒な銃口だった。

 座席から身を乗り出した彼等の目は笑っていなかった。のみならず血走っていた。気のせいか、どこか狂気じみていた。私は言葉を失なった。目の前で撃鉄が起こされた。あとは引き金を引くばかりである。さっきまで快活にしゃべっていた人間と同一人物だとはとても思えなかった。私は無言で、言われるままの金額を差し出した。彼等は黙ってそれを受け取り、中身をあらためると、静かに車を出した。

 それからは、車の中は沈黙が支配した。私は彼等を刺激したくはなかったが、猛烈に不機嫌だった。ディアカンダにたどり着いたときには、もう暗くなりかけていた。疲れ果て、命さえあれば、あとはどうにでも好きにしてくれという感じだった。

 このような目にあったのだが、これまでのことを客観的に、何が起こったのか書いてみよう。取調室に連行されたのは、要するに私が金持ちそうな格好をしていたので、官憲が目を付けたのである。私はまさに格好のカモだった。

 ビザの問題は、いうまでもなくいちゃもんである。要するに彼等は金を要求していただけである。私はそのいちゃもんに逐一まじめに答えていたのだ。

 機内預けの荷物を受け取ったときと、黄土色の制服が押し寄せたときのもめ事にけりが付いたのは、要するに私を案内していた若いのと、ポーターの青いつなぎの男たちと、黄土色の制服がみんなぐるだったという事だ。もめたのはそれぞれの分け前についてと、私がもっと金を出すのではないかと憶測していたのである。

 私は現金を持っていなかったので、そのツケはタクシー組に回され、彼等が最後の回収の役目を引き受けたのである。ちなみに三万ザイールとは、相場の実に三〇倍というふっかけ方だった。

 要するに私は、自分の荷物を運び出すために、普通なら全くいらぬ金を、当時の日本円で大体一万五千円ほど使ったことになる。

 私は子どもの頃から、何に腹が立つといって、使わなくてもよかったものに金を使ってしまったことにほど、腹の立つことはないくらいだったから、あとになってそれがわかったときには、もう発狂寸前だった。「そうか、お前らそのつもりやったら、こっちもその気でつき合うたる。」

 

HOTEL DIAKANDA

 

 ホテル・ディアカンダを宿泊先に選んだのは、我々がよく出入りしていた例の大阪のレコード屋のアライ氏に勧められたからである。そのホテルの建っているところは、キンシャサの中でも下町にあたる、音楽の中心地「マトンゲ地区」のすぐ近所だった。

 そこのレセプションに、ズジさんという人がいた。私はアライ氏から、ズジさんに宛てた手紙と写真を預かってきていた。タクシーがディアカンダの前に横付けになると、中に日本人がいるのを見て、車の周りは黒山の人だかりとなった。もううんざりだったが、私はそれから三ヶ月、この人だかりと格闘しなければならなくなる。

 荷物をドン、ドン、ドンと三つ降ろして、入口を眺めていると、そのズジさんという人が出てきた。ズジさんはその後、私だけでなく、この地を訪れるほとんど全ての日本人の頼れる現地人ということになる。

 彼は、若いのを促して重い荷物を運ばせた。彼は終始、非常ににこやかだったが、私はひどい目にあったところだったので、警戒を解いていなかった。むろん、完璧に不機嫌だった。しかしこれはあとになって、彼に悪いことをしたと反省させられることになる。彼は、方々に顔の利く、常識をわきまえた立派な大人だった。その笑顔にも全く他意はなかったからである。

 私がアライ氏からの預かりものを渡して、リンガラ語で「アライ氏の友人だ。しばらく滞在させて欲しい。」と申し出ると、すべてのみこんだという風に、カウンターの奥に消えた。

 彼は必要な書類を持ってくると、パスポートから手際よく必要事項を書き取り、大きな板のついた鍵をばんと握手のついでに私の手に握らせた。そして、また若いのを促して荷物を持たせ、自分が先に立って私を部屋へ案内した。

 部屋は清潔で広かった。入ったすぐ左手にシャワーと洗面台があり、部屋の中央に大きなベッドが二台置いてある。その向こう側に大きな観音開きのガラス戸があり、その向こうはベランダになっていた。明るいキンシャサの光が部屋に満ちあふれ、風がカーテンを揺らしていた。

 その中に入っても、疲れ切っていた私は終始無言だった。それを察してズジさんは、「飯を作ってやるから、しばらく寝てろ。」と言った。私は力無くベッドに横になると、今日起こったことを思い出し、今ここに寝ている自分を省みて、つくづく大変なところに来てしまったと考えた。

 ここまで来る間に、様々な人たちが、私を真剣に止めにかかったが、あれは嘘じゃなかった。カメルーン航空のオフィスの若いのが、グッド・ラックと言った意味をやっと理解した。しかしどうして前に来たことのある私の友人たちは、こんな大変なことを忠告してくれなかったのだろうと、彼等を恨んだ。それとも、気丈なはずなのに、こんな目に遭うとは、私は特別にどんくさい人間だったのかと、自己嫌悪にも陥った。

 寝てろとは言われたものの、とりあえず安全な空間にそのまま身を投げ出したものだから、体は疲れ切っているのに頭ばかりが冴えて、靴も脱がずに色々な考えを持ち出してきては打ち消していた。

 様々な想念と情景が、ビールの泡のように現われては消えしているうちに、ドアをノックする者があった。私は再び緊張し、誰だ、と身を壁に寄せて訊いた。それはズジさんだった。彼は安心しろと言って、私が被ったことを理解しているかのように、てきぱきとそこらを片づけはじめた。

 「窓も開けずにこんなくそ暑い部屋で何をじっとしてたんだ。さっさとそんなものものしい服は脱いでしまえ。これがシャワー、これがクローゼット、ドアを開ける前に『誰だ』と言ったのは、初めてにしては上出来じゃないか。いいか、わしは日本のことは知らんが、ここは危ない所だ。十分に気をつけろ。飯が出来てるから、着替えて降りてこい。」それだけを一気に言い残すと、また例の笑顔を残して彼は出て行った。

 その笑顔で私は彼を信じる気になった。シャワーを手早く浴び、着替えを済ませて一階に降りた。レセプションの裏手がレストランになっていた。ズジさんは、例の笑顔で私を招き入れ、おごりだと言ってビールの栓を抜いた。

 私がまごついているにも関わらず、彼はさっさと二つのグラスにビールを満たすと、日本人なら中学生並みの、ひどいカタカナ発音の英語で、「ウエルカム・トゥ・ザイール、ウェルカム・トゥ・キンシャサ、ウェルカム・トゥ・マトンゲ、ウェルカム・トゥ・ディアカンダ。」と言って、そのたびにがちゃんがちゃんと、まるでグラスが割れそうな勢いで私のグラスにそれをぶちあて、ズジさんはそれを一気に飲み干した。

 おかげで二人とも肘までビールでびしょぬれになった。なんだか泣けてきた。そして空になったコップに新たにビールを注ぎ、なんとコースターをその上に置いた。私が目を見張っていると、ズジさんは笑いながら、「もちろんこれはコップの下に敷くものだが、ここでは蝿が多いので、コップにかぶせて蝿が入らないようにするんだ。」と言った。私は思わず大声で笑い出し、ズジさんも一緒に笑った。そして徐々にではあるが、気分がほぐれていった。

 あとになって気がついたことだが、一連の彼の必死のパフォーマンスは、しょげ返って入ってきた私を少しでも勇気づけようとした彼の暖かい心遣いだった。彼と付き合ううちにわかったことだが、彼は本来あんな演技をするような性格ではなく、どちらかというと、物静かな方だった。しかしその後も、ここぞというところでは、彼はそのエンターテイナーぶりを発揮し、私をはじめ、その後ここを訪れた数々の日本人を救うことになる。彼はとても信頼の置ける人物だった。

 さて、食事とはフランス風のステーキとフリッツの定食のようなものだった。「いきなりザイール料理も何だろう、このレストランは高いから、明日になれば出歩いて、そこらの安メシ屋でザイールの料理を腹一杯食うがいい。明日になれば、今日のいやなことも忘れて、楽しい日々が始まるだろう。明日になれば、お前を迎えに若い奴等が誰か彼か来るだろう。」ズジさんが明日になれば、明日になればと言うのを、私は何のことかわからずに聞き流していた。

 ビールによって、水分とアルコールが補給されたおかげで、だんだん私の気分は良くなっていった。しかし、そこでいい気分で酔っぱらっているうちに、ディアカンダに日本人が来たという噂がキンシャサの下町中を飛び交い、夜が明ける頃には、音楽に関わる者で誰一人知らぬものがなくなるほど広まっていようとは、夢にも思わなかった。

 とにかく、最悪の一日だったが、締めくくりはズジさんのおかげで、何とか気分のいいものになった。以上が、キンシャサに着いた日、一九八九年二月一五日の出来事のあらましである。

 

アリ登場、口コミネットワークに感動

 

 翌朝、まだぐっすり寝入っているというのにドアをたたく者があった。例によって、「誰だ」と壁越しに声をかけると、ドアの向こうからたどたどしい日本語が聞こえた。「ワタシノナマエハ、ありサンデス、ニホンジン、ミナ、トモダチ。」

 昨日ズジさんが話していた、「明日になれば」の第一弾がやってきたのだ。それ以来私は毎日のように、誰が教えたのか、たどたどしい日本語を話すザイール人達の訪問を受けることになる。アリという名前はピリピリから聞いていた。壁越しにしばらくやりとりしたあと、まだ起きたところだから下で待っててくれと頼んで、シャワーを浴びた。

 通りに面した一階のテラスで、長いパンとバナナとコカ、つまりコーラだが、そんな朝飯を食いながら、私はアリの話を聞いた。彼は、かいつまんでザイールの音楽シーンの近況を教えてくれた。現在キンシャサで活動しているバンドはあれとこれと、でも有名なあのバンドは、今ミュージシャン不足で「チョットヨワイデス。」とか、一攫千金を狙ってヨーロッパへ旅立った歌手が、向こうでドジを踏んで強制送還されてきたとか、さすがにいろんな事をよく知っていた。

 なかでも私の注意を引いたのは、かつて日本盤で二枚のアルバムが発売された「ルンバ・ライ」というバンドのドン、かつての「ビバ・ラ・ムジカ」の主要な歌手の一人だったマライ・マライが、ヨーロッパからキンシャサに新しいアルバムを制作するべく帰ってきているという情報だった。

 当時、すでにザイールの音楽シーンの主流は、ヨーロッパに移って久しかったので、出てくる新しい音は、必然的に我々が感動した、いかにもアフリカを感じさせるようなものではなく、裕福になった彼等のライフスタイルを反映して、ずいぶんとモダンでシックなものになっていた。

 従って我々はすでにそのころにはもう、ザイール現地でのかつての盛り上がりはないものと見ていたのだが、そんな中で発表されたルンバ・ライのアルバムは、かつて我々が感動したあのビバ・ラ・ムジカの破天荒なまでのイキの良さを感じさせるものだった。そのルンバ・ライが、今ここで新しく動きはじめるというのは、願ってもないチャンスだった。

 「ところで、」と私はアリに訊ねた。「何故お前は俺がきのう着いたことを知ったのだ?。」私は未だ自分から行動を起こしていなかったし、昨日の今日で、何故彼が私の到着を知ったのか、全くわからなかったからである。

 「日本人についての、特に音楽が目的でやって来る人間についての情報は、すぐに俺の耳にはいるようになっている。」彼は当時、大麻の吸いすぎで肺病を患い、しかも金がなかったために病院からたたき出された矢先だったが、入院している間に、借りていた彼の部屋が荒らされ、おまけに家賃滞納でそこを追い出されて路頭に迷っていた。当然仕事などはしていないので収入もなく、する事もないので知り合いのところを転々としていたのである。

 日本でそういう状況を考えると、実に悲惨に思われるが、ここではむしろそれが当たり前で、仕事を持っているという事は、それだけで実に立派なステイタスだった。

 ともあれ、彼は昨夜はどこぞの女の家にしけ込んでいて、風に乗ってやってきた私の噂を偶然つかんだらしいのである。彼はいわば、そこらの音楽好きなごろつき連中の、ちょっとしたボス格の存在だった。情報は彼の元に集まり、彼から発信されていったのである。

 彼は、「だからもう既に、今話題にのぼった数々のミュージシャン達はお前の到着を知っているはずだし、程なく彼等はここを訪れることになるだろう。」と言った。

 何というシステム、何という手際の良さ、これを素晴らしいと言わずして何であろうか。彼の言うことを信じればの話だが、現地へ行ってどうやってミュージシャンとあたりをつけてゆけばよいかばかり気にしていた私は、なんと到着の次の日には、ザイールを代表する主だったミュージシャンと連絡を取りうる場にいて、しかも彼等の方からこっちへやって来るというのだ。これには驚かされた。

 ここキンシャサは、下町の方でも電気水道はほぼ完備していたが、電話というものが全くと言っていいほど普及していなかったので、こうした情報は、まさに口コミだけで何キロも瞬時にして伝わるようになっていたのである。

 このシステムには、音楽の好きな小さなガキどもの果たしている役割が大きかった。そんなガキどものうち、パパ・ウェンバにあこがれ、自分も音楽関係の人脈に関わりたいと思うガキどもは、ありのようなボス格の人物を中心とする人脈のネットワークに身を置いていたようである。

 そしてそんなネットワークは、キンシャサ中の至る所に張り巡らされていて、アリのような若者がごまんといて、さらにその上部組織のようなものがあって・・・と、果てしないネットワークのピラミッドが形成されているのである。

 だから、ここではガキの言うことが最も信頼できた。ただ、その情報の真相をつかむのには、アリなど事情に精通した若者の判断が必要だった。

 さて、アリは「今日これから、アンチ・ショックのレペがあるから行かないか。」と私を誘った。「アンチ・ショック」というのは、かつて「ショック・スターズ」という有名なバンドの歌手だったボジ・ボジアナという人が、そこを脱退して作ったバンドの名前で、「レペ」というのはレペティシオンの略、つまり「練習」のことである。

 私はまだ荷物も解いていなかったので、ちょっと時間をくれと彼に伝えた。彼は、じゃあ夕方にまた来ると言って去って行った。

 ズジさんは、大人である分だけ常識的だった。「アリは退院したてだから、あまり近づいて話すな。感染するぞ。」と私に忠告した。「それにああいう音楽バカのガキどもは、あまり信用しすぎない方がよい、大事なことは俺に相談しろ。」とも言った。

 後日、私はとある重大な問題でアリやマライには相談したものの、ズジさんに話さなかったために、大変な面倒に巻き込まれることになるが、それはこの言葉を軽んじてしまった結果だった。

 

マトンゲの喧噪

 

 その後アリが迎えに来るまでに、さらに何人かの来訪者があった。その中に、ズジさんの知り合いで、かつてはディアカンダで働いていたものの、今は失業してしまったシンバ君というのがいた。

 彼は音楽関係には疎くて、どちらかというと常識人の部類だった。彼はその後、音楽以外の実生活上のことで、私をときどき助けてくれることになる。

 荷物の整理を終わると、私はシンバ君とともに都心へ出ることにした。ディアカンダから外に出て、たくさんの黒い顔が、目だけでなく首ごとこちらを注視する中を、表通りまで歩いて行った。

 ホテル周辺は静かだったのだが、表通りまででたとたん、ぶっとんでしまった。そこはキンシャサ随一のレコード屋街だったのだ。

 通りを疾走する車の音にも負けないぐらい、ありとあらゆる店の前に野ざらしにされた何とも頼りないスピーカーから、割れんばかり、いや、とっくに割れた音が、通り一面に垂れ流されていた。どのレコード屋も造りは粗末で間口は狭いが、そのやけくそな音だけは誰にも負けたくないかのようだった。

 それを聞いたとたんに私は目が覚めた。きのうのごたごたも、これから起こるかも知れないごたごたも、この一撃で吹っ飛んでしまった。何をしにここまで来たのかを、そのときになってやっとはっきりと思い出した。

 車の巻き上げる猛烈なすなぼこり。顔に当たって痛いほどの強烈な陽射しと熱風。その中でがなり立てる怒涛のようなリンガラ・ポップス。これだ。こういう場を一目見たくてはるばるやって来たことを、その時はっきりと思いだした。今私はその中を歩いている。急に有頂天になった。

 通りを右に折れて、その地区の中心地まで進んだ。ものすごい人だった。のみならず彼等はほとんど全員、こちらを注視している。しかも、こちらの動きにあわせて首ごと我々を追いかけてきた。

 彼等の、人をまっすぐに見据えるこの目は、まさに黒山の人だかりとなって、何列にも何段にも重なって行く先々に現われて私の行く手を阻んだ。この目は、日本人の私にとっては神経に応えた。癇にも癪にも障った。これに慣れるまでには長い月日と、多くの事件が必要だった。とにかく我々は、そんな人混みの中を、都心へ出るための車を探しはじめた。

 キンシャサという都市はザイール川の下流に面していて、隣国コンゴの首都ブラザビルと相対する形で建っている都市である。面積は非常に広いのだが、都心はそのうちの川沿いの一角に限られ、そこを中心に、扇形状に「シテ」と呼ばれる住宅街が延々と広がっている。

 住宅街といっても、そのほとんどは下町といってよく、多くは碁盤の目に区画整理された通りに面して、土や煉瓦で作った簡単な家が、それこそ気の遠くなるほど建ち並んでいる。

 市全体は、大きくいくつかの区(ゾーン)に分かれていて、そのうちのひとつに「ゾーン・デ・カラム」というのがあり、その中心地「ヴィクトワール広場」を中心に「カルチェ・マトンゲ」がある。この「マトンゲ」というのが、古くからのキンシャサの音楽シーンの中心地で、広場を中心に、大小無数のライブ・ハウス、バー、レコード屋などが軒を連ねている。

 「ヴィクトワール広場」は、キンシャサ第二の中心地とでも呼べるくらい賑やかなところで、「カサ・ヴブ」と「ヴィクトワール」という、二つの大きな通りの交差点になっている。

 厳密にいうと、ほぼ南北に走っているカサヴブ通りの東側が「ゾーン・デ・カラム」、西側が「ゾーン・デ・カサヴブ」である。ホテル・ディアカンダは、そのカサヴブ通りからひとつ西、ヴィクトワール通りから北へ五本目の筋にある。我々はディアカンダを出て、カサヴブ通りを少し南下し、ヴィクトワール広場までやってきたのである。

 さて、町の様子だが、シテはどこもかしこも泥だらけで悪臭が漂っている。舗装されている通りは主だったものだけで、一般の生活道路は全く未舗装、さらに水はけが悪いのか、至る所に大きな水たまりがある。そこへ大きな木が倒れていたり、打ち捨てられた車が車体だけを残してさび付いていたりで、車はもちろんのこと、人も通りをまっすぐには歩けない。

 

都心へ移動する

 

 交通機関はというと、大体大まかに行き先の決まった乗合タクシーとミニ・バスとなる。乗合タクシーはそのほとんどが、古いカローラかファミリアで、それにでっかいザイール人を、前に運転手を入れて三人、後ろにひどいときは五人は乗ってゆらゆらと悪路を行く。

 車によっては、座席の真下に広い地面の臨めるものも多く、乗るときと水たまりを通過するときに、運転手が注意してくれるのだが、たいていは手遅れか、黒い肉にぎゅうぎゅうにはさまれて、なすすべもなく地面にくずおれたり泥水をかぶってしまうことになる。

 ミニ・バスは「タクシー・ビス」と呼ばれているが、その多くはワーゲンのワンボックス・バンで、荷室には進行方向に対して垂直に固定された木製の長椅子が三本あり、それに客が尻をほんの一部ずつ交互に置いていって一本の椅子になんとか七人、三本で二十一人、座った客の足と足の間に身をかがめて立つ形で一列に四人、三本の椅子の間に四列立つからそれで一六人、無理に割り込む奴や窓にぶら下がる奴等を入れて、一台の車にざっと四〇人近くを乗せ、さらに切符売りの兄ちゃんがドアの外にしがみついた状態で、実に危なっかしく走る。

 どちらも割れたスピーカーにリンガラをこれでもかと言うほどの大音響でかけて、重い重量に悲鳴を上げるエンジンも構わずにひた走る。

 それを見て唖然とした私は、ピリピリの言うことを信じたばっかりに、立派なスーツとぴかぴかの靴に荷物の大半を占領されてしまったことをつくづく後悔した。

 どちらに乗るにしても、その出発点で大体満員にしてから発車するから、途中で乗せてもらうのはまず不可能である。つまり、そうした交通機関の出発点か到着点に居を定めないと、毎日がえらいことになる。

 車の行き先は、ヴィクトワールの場合、その交差点のどの角にいるかによって大体決まっている。それがわからなくても、たいてい切符売りの兄ちゃんが、大声で行き先を叫んでいるから、行き先の名前の言い方に慣れればすぐにわかるようになる。

 例えば、我々はいま都心へ出ようとしているのだが、そこの大きな通り「六月三〇日通り」のことを彼等は「ブーレヴァール」と呼びならわしているので、「ブーレヴァール」と叫んでいる兄ちゃんの車に乗れば、都心へ出られる。

 その手前に大きな市場「グラン・マルシェ」があるが、彼等はそれをリンガラ語で「ザンドゥ」と呼びならわしている。ザンドゥ行きは非常に多いので、探すのには苦労はない。

 また、その後ズジさんの家や、ルンバ・ライのレペなどに行くときによく使ったゾーン・デ・マテテ行きは、目的地のバス停に小さな市場があるものだから、兄ちゃんは「マテテ・ウェンゼ」と叫んでいる。

 「ウェンゼ」も「ザンドゥ」と同じ意味だが、言葉を変えるのは語呂合わせの意味もあるが、ヴィクトワールの混雑は大変なものなので、行き先を叫ぶ兄ちゃんも数限りなくいるから、客が誤って聞き違えないようにとの配慮だということだった。

 ヴィクトワールの喧噪を見たとき、正直言って恐怖を感じた。あまりに無秩序だったからである。また、とにかく人が多いこととすなぼこり、それに誰もが人を押しのけても前へ出ようとして殺到する。

 特にタクシー・ビスに乗り込むときは、乱闘とも思えるような瞬間がある。車が列をなして並んでいるわけではなく、突然ガソリン・スタンドから現われたり、客のつかない車が、いきなり行き先を変えることがあるからである。

 ドアの外で、実際につかみ合いの喧嘩になっているのを見たし、服を破られて、周りの人に当たり散らしながら、肩を怒らせて歩き回る人を何人も見た。日本人にとってみれば、群をなす黒人達の様子は恐怖を禁じ得ないものだが、その後何度も私は、そうした場面は、実は彼等の社会のシステムの行き届かない面が、混乱となって現われているだけなのだと、理解するようになった。それどころか、一般市民はとても気だてがよくて、親切でやさしかった。これは三ヶ月をここで暮らした者としての実感である。

 かくしてそんな喧噪の中を我々はタクシー・ビスの一台に乗った。座席は既に満杯で、立って入るしかなかったのだが、天井の低さのため、やむなく中腰になった私を見て、座っていた一人の男が席を譲ろうとしてくれた。

 明らかに慣れていないのがわかったからであろう。それに対してリンガラ語で礼を言った私に、車中の乗客が驚いた。こんな肌の色の日本人が、慣れない仕草で乗り込んできて、いきなりリンガラ語で受け答えをはじめたのだから当然だった。

 矢継ぎ早に質問が飛んできた。何故ここへ来た、ここはどうだ、いいところか、暑いだろう、この有り様はどうだ、我々はいつもこんな目をして移動してるんだよ、日本はどんなところだ、涼しいところか、じゃあな。

 乗り込んでみると、当初の荒々しさは鎮静し、彼等は移動の困難が毎日の悩みの種だと、私にこぼした。要するにこの混乱は危険なものではなく、単に交通機関の不備によることで、彼等の大半は、私に席を譲ろうとしてくれたほど心の優しい人々だった。

 こんな調子で、とにかくブーレヴァールまで出た。我々はそこで降りたが、車は大通りを左折して西へ走り、「一一月二四日通り」というのを南下して、元のヴィクトワールに戻るのである。

 さて、車を降りた我々の行き先は、在ザイール日本大使館だった。一応、政情不安の国とされていたし、電話もない地区に滞在することにしたので、大使に入国の事実だけでも伝えて置いた方がよいと思ったからである。

 さらに大使館は、郵便事情の悪いこの国では、安全に手紙を受け取る私書箱のような役割も持っている。祖国からの手紙や小包は大使館気付けで発送され、それらはまとめて中央郵便局からここに持ち込まれる。ここに滞在する者は定期的にそれらをチェックしに来るのである。現に、私は今回の滞在期間中に、何度か日本にいる友人たちからの手紙をここで受け取った。

 私は大使と面談した。大使は、私の滞在目的と泊まっているホテルの地区を聞くと、「とんでもない、すぐにそこを出て、安全な都心に移りなさい。」と勧告した。私は特にマトンゲ界隈が危険だとは感じていなかったのでその旨を伝えると、彼は「君は何もわかっちゃいない。悪いことは言わんから言う通りにしろ。」と真顔で言った。全く、日本を出てから真顔で忠告されることのなんと多くなったことか。私はそれほど大それた非常識なことをしてるのだろうか。

 日本語が分からないので隣でじっとしているシンバ君を見ても、そう危険とは考えにくかったし、都心に出てしまっては、かえってあの音楽の中心地から遠ざかってしまい、日々の移動に難儀するだろうと思って、「安全には十分に気をつけるから、一応あそこにいることだけでも知って置いて下さい。」と伝えた。大使は、「何が起こっても知らんぞ。」と、横を向いてしまった。帰りに大使館の一階にあるシティ・バンクでチェックを両替し、再び混雑するタクシー・ビスに乗ってホテルまで戻った。

 

「アンチ・ショック」のレペ

 

 さて、夕方になってアリが迎えに来たので、我々は連れだってアンチ・ショックのレペ場へ行った。シンバ君はアリとは仲が良くないらしく、そのまま家へ帰ると言った。

 そのとき彼は私に、「帰るための交通費をくれ。」と言った。「えっ?」私は耳を疑った。確かに、彼が来てくれたおかげでタクシー・ビスの乗り方もわかったし、都心やその他町の様子も少し分かった。しかし、特に来てくれとこちらから頼んだ覚えはなく、勝手に来ておいて家に帰るための交通費を要求するなんて、私にはすぐには理解できなかった。

 しかし彼があまりにも当然のような、堂々とした態度で要求してきたものだから、さっき乗ったタクシー・ビスの片道の金額を彼に渡した。すると彼は、「家は遠いからこれじゃ足りない。」と言った。ちょっと頭にきたが、少しでも出してしまった以上、出さないわけにも行かなくなり、彼の言い値を渡した。

 これはザイール人の慣習だった。私は、日本人である自分の、ここに置ける立場をまだよく理解していなかったのだ。つまり私は、いかに日本で貧乏暮らしをしているとはいえ、好むと好まざるとに関わらず、きのうからはここの賓客であり、彼等もうらやむほど、この国の有名人をホテルに呼びつけるほどの、重要人物になってしまっていたのである。

 そんな金持ちが交通費も出せないのはおかしい、というのが彼等のものの見方だった。何がおかしいんだ、と初めは納得のいく説明を求めたものである。しかしそれは、持てるものが持たざるものに施しをするのは当然という、ここでの価値観、彼等は「システム・ザイロワ」と言うが、そういう習わしだったのである。

 交通費のことを、彼等は「トランスポール」と言うが、こうして私は毎日のように入れ替わり立ち替わり現われては、頼んでもいないことをしてくれたあと、トランスポールを要求して帰る奴等の攻撃にさらされることになる。ともかく、そのことをぶつくさとぶちまけながら、私はアリと何人かの彼の友人とで、アンチ・ショックのレペを見に行った。

 ヴィクトワール広場から、ヴィクトワール通り沿いに東へ二〇分ほど歩いた「イル・デ・カンボジ」というところがレペの会場だった。そこは、夜はコンセールにも使われるバーのひとつだった。その周りには、中から聞こえてくる音に合わせて踊り狂っているガキどもが大勢いた。会場の出入口を固めていたボディ・ガードにアリが話を付けると、我々はすんなりと中に通された。

 レペと言っても、我々の普通考えるスタジオ練習ではなく、結構広いステージに、整然と歌手やミュージシャンが並んで、本番さながらに歌、ダンス、演奏を披露していた。のみならず、歌もダンスも、きちっとアレンジされた進行で、観客がいないことと、アレンジの詰めのために演奏がたびたび止まることを除けば、本番となんら変わるところがないように思われた。会場の周りでガキが踊り狂っていたのも頷けた。彼等にとっては、コンセールの入場料などどっちみち払えないので、レペだろうと本番だろうと、音さえ聞こえていれば同じ事だったからである。

 ステージ前のフロア部分には、いかにもお偉方という感じの、格幅のよいおじさん達が何人もでーんと足を広げて鎮座していた。我々は彼等の後ろに座ろうとしたのだが、なんと次の瞬間、彼等は笑顔で私に握手を求め、席を、というか、おそらくは彼等専用に持ってこられた立派な椅子を我々若造に明け渡し、自分たちはその後ろのパイプ椅子を自ら運んで、それぞれ座った。

 これには驚かされた。しかしその後、何度となくこのような超VIP扱いを方々で受けることになる。レペを見ている間中、後ろが気になって、耳のくすぐったい思いをしたものである。

 アンチ・ショックのドンであるボジ・ボジアナは、ステージの下手からじっとミュージシャン全員の動きを睨み付けていたが、一段落ついたと見えて、ステージに手を挙げて休憩を命ずると、笑顔でまっすぐに我々のところへやって来た。

 正直に白状してしまうと、私はアンチ・ショックにはさほど入れあげてはおらず、ごく数枚のレコードを持っているだけだった。というのも、アンチ・ショックの演奏は、たいていテンポが速く、私としては、ルンバの豊かさに欠けると感じていたためだった。

 しかし、ナマで見ると、このスピード感にはたまらないものがあった。そのことについては、ボジに率直に素晴らしいと答えたが、その他の音についていろいろとボジに訊ねられたときは、何ともいい加減な返事でお茶を濁してしまった。

 しばらくの休憩のあと、彼等はもう一ラウンド練習した。やっぱりナマはすごい。来た甲斐がある。練習が終わって、ミュージシャンがステージから降りてきた。バーの厨房から、料理を入れた大鍋がいくつも運ばれ、ビールやコカが振る舞われた。我々も、さっき席を譲ってくれたおじさん連中とともに鍋を囲んだ。

 あとからそのおじさん連中の素性を聞かされて、私は思わずブルってしまった。なんと、彼等はザイール随一の大手レコード会社の重役であるヴェルキースとデノワデ及びその配下の人たちで、彼等はその時企画されていたアンチ・ショックの新しいレコードに使われる曲の仕上がり具合を見に来ていたのだった。

 世界広しといえども、一国の基幹産業のトップに位置する人たちに席を譲らせたうえ、その前でふんぞり返った日本人もほかにはあるまい。

 レペのあとで食事が出たのは、バンドには常にパトロンがいて、練習のたびごとにミュージシャンに食事を出し、トランスポールを渡すのが習わしとされているためだった。

 パトロンがいない場合は、バンドのリーダーがその責任を負うこともある。この有り難いしきたりのおかげで、金のないミュージシャンも食いっぱぐれることだけは免れられるようになっていたのである。これも、システム・ザイロワのひとつだった。

AntiChocのBoziBoziana(右)

 

バンギで飛ぶ

 

 そして、そのあとどこのバンドでも、たいてい食事のあとのお楽しみがついていた。隆盛を極めた頃のビバ・ラ・ムジカのレペでは、女まではべらせたそうだが、そんなことはごく稀で、たいがいミュージシャンが喜ぶお楽しみとは、リンガラ語で言うところの「バンギ」、すなわちハッパのケムリだった。

 この国でも、あまりストレートにそれを指し示すのははばかられるとあって、彼等はバンギのことを、なんと日本語で「タイマ」と呼んでいた。そのため、逆に私の方が「イタミサン、タイマスイマセンカ。」と、昼日中から大っぴらにやられるもんだから、何ともあたりがはばかられた。

 かくして、今夜のレペでも、そのお楽しみの時間がやってきた。とても信じてはもらえないかも知れないが、私はそれをやるのは初めてだった。それは回しのみだったので、ごく二口程度しかやらなかったが、実に豊かな、艶のあるふくよかな煙だった。その味わいだけでも十分だったが、当然そのあとがあった。

 それはゆっくりとやってきた。初めは頭のてっぺんに水のような冷たさを感じた。雨かなと思って上を見上げたが、目に映ったものは満点の星空だった。気のせいかとも思ったが、その冷たさはだんだん目のあたりまで下がってきた。

 ちょうどそのときは、さっきのレペのテープをみんなで聴いているところだった。彼等は、ここのギターのフレーズがどうのこうのとか、このリズムの展開は安直すぎるとか、そんなことを話し合っているらしかった。私はテープの音にじっと耳を傾け、その世界に浸っていた。

 だんだん、自分が意識を集中している音と、そうでない音の差が歴然としはじめ、自分の追いかけている音が、まるで蛇のように目の前をのたうち、シンバルの音は星のように光りきらめき、ギターのフレーズは宙を舞っていくのが見えるようになった。

 そしてバラバラになったそれらの音は、再びひとつの流れの中に溶けあい、流れは白い霧に包まれて、自分が意識を集中している音色を中心に音が再構成されていった。

 彼等の話し声と会話の内容、ぼんやり見ている遠くの水銀灯の緑色の光、ギターの音やコーラスのハーモニーが、回り舞台のように入れ替わり現われて、目の前いっぱいに繰り広げられる。

 そのうち意識は宙を飛ぶような感覚にまで高められて、とてもそこからは注視できない遠くの物事まで、その姿をつぶさに観察できるようになる。

 そんな、極端に覚醒した時間が過ぎると、今度は一気に目の前にあったものの連関が失なわれ、暗黒の中に瓦解していく恐怖を味わうことになる。

 まるで走馬燈のようにそれまで見てきたものが、私を置いて走り去って行き、何を見ても自分から遠ざかって行き、追っても届かないほどの切なさを身にしみて覚えることになる。

 私が座っていた椅子から崩れ落ちたのは、そんなバッド・トリップが始まった直後だった。アリが私を抱え上げ、何人かの男たちの笑い声が聞こえ、誰かが走り去っていく足音を朦朧とした意識の中で聞いた。

 別室で休んでいたボジが心配そうな顔をして駆けつけ、何人かに指示して私を木製の長椅子に寝かせた。ボジはちょうどそのとき、たまたま来ていたマライと一緒に別室でビールを飲んでいたが、マライも出てきて、車で私を送ろうということになった。

 アリとその友人が、私の頭と足を持ってマライの車まで運び、もう一人が私の荷物を持ってその後を追った。マライは終始、世話の焼けるという顔をしながら、「大丈夫だから安心しろ。」と言って車を出した。

 ディアカンダに着くと、ズジさんがやはりすべてをのみこんだ顔で私の部屋の鍵を開け、すべてを心地よいようにしつらえてくれた。

 それまでの間、あとからアリに聞いた話では、私は空をじっと見据えたまま、星がきれいとか、月が逃げていくとか、南十字星はどこかななどと言いながら、さっき聞き覚えたばかりのアンチ・ショックの歌を歌っていたという。

 当の私は、そんなことは覚えていようはずがなく、運ばれていることにも、自分の部屋に一人取り残されたことにも気づかずに、あのギターのフレーズの安直な展開は我慢がならないとか、俺ならドラムをこう叩いてやるとか偉そうなことをほざいていたという。

 目を醒ましたのは、次の日の昼過ぎだった。痛む頭と猛烈な空腹感をかかえて一階に降り、ズジさんからことの顛末を聞いて、私は恥ずかしさのあまり卒倒しそうになった。

 一国の基幹産業の重役達に席を譲らせただけでなく、この国の人気スター二人にホテルの部屋まで運ばせたとあっては、もうどんな面を下げても彼等の許へは出て行けないに違いない。全く、穴があったら入りたいとはこのことだった。

 ズジさんは、「心配するな、よくあることだ。もっと大それた事をやった日本人もいるんだから。」と言った。「そんなことより何か食え、あれは消耗がきついから食わんともたんぞ。」

 何ともいろんな事があったが、これがキンシャサでの二日目のていたらくだった。ちなみに、もっと大それた事をやった奴とは、みんなが口を揃えて言うには、何を隠そう、大阪がザイールに誇る、かの有名な泥酔のエンターテイナー、プロフェッサー・ピリピリその人だった。

 

マライに正式に会う・ヴェヴェ訪問記

 

 さて、このようにしてキンシャサでの日々が始まった。しかし、初めは私はみんなの笑いものだった。私が突然このホテルに到着したのを、翌朝にはキンシャサ中の誰もが知っていたように、昨夜の出来事も主だったミュージシャン連中の中で知らない者はなかったからである。

 かくして私は、迷惑をかけた人々にわびて回ることから始めなくてはならなかった。アリがやって来たので、まずはきのうのレペの主人であるボジ・ボジアナを訪ねるべく、おそるおそるイル・デ・カンボジに向かった。

 案の定、そこらをごろついているガキどもに冷やかされることしきりだったが、ともかく、アンチ・ショックのメンバーからボジの連絡先をつかむことが出来た。

 アリは、大それた事をする日本人の扱いには随分と慣れているらしく、私がどうしても直接会ってわびたいというのに、ここに言付けを残しておけばそれで十分だと言った。「それ以上やるとみくびられることになるぞ。」

 とりあえずその場はアリの助言に従うことにして、次はマライを訪ねてマテテ地区へ行った。

 マライの実家は美容室を経営していて、ちょっと奥まった通りの一角にサロン・ルンバ・ライという店を構えていた。家はそこからちょっとした野原を越えていった先の、日本でいう民家風の一軒家だった。そこに彼の父母と兄が住んでいたが、マライは近くのホテルに部屋を取っているとのことで、ところ番地を聞いてそこを尋ねていくことにした。

 行く先々でガキどもに道を訊こうとしても、彼等は「見ろ見ろ、あれだ、あの日本人だ。きのう大麻にやられて運ばれやがった奴だ。」と言って遠巻きにして笑いながら走っていく。私は屈辱に耐えた。アリも初めはそんな奴等に怒っていたが、そのうち自分も昨日の顛末を思い出して、こらえきれなくなって吹き出す始末だった。

 炎天下をかなり探し歩いた末、ホテルを探し当てることが出来た。マライは部屋にいた。私は昨日の非礼をわび、好意に感謝し、遅ればせながら初めての握手を交わした。

 彼は紳士的だった。暑いので上半身は裸だったが、ここではそんなことは特に非礼にはあたらない。彼はボクシングをやっていたという事で、非常に分厚い胸板と、たくましく盛り上がった二の腕を持っていた。のみならず小さいフット・ボール状の、形の良い頭をしていた。その均整のとれたスタイルは、かつてのビッグ・スターを彷彿とさせるものがあった。

 「で、なにしにキンシャサまで来たんだ?。」私は動機を述べた。彼は、「もしパーカッション類を勉強したいのなら、新生ルンバ・ライのレペに来い。きっとためになるだろう。」と正式に誘ってくれた。レペは二週間後ぐらいから始めるとのことで、その前にメンバーを遣いによこすと約束してくれた。

 私はその約束だけで天にも昇る気持ちだった。考えてもみて欲しい。ただの一介の音楽バカがキンシャサに来て、現地の新進気鋭のグループとともに活動できるのだ。「これは一生の思い出になるだろう。」私は感動を素直に表現した。これで私は、大きな目的に向かって、確かな一歩を踏み出すことになった。

 彼は我々の邂逅の記念にと言って、ルンバ・ライ名義で発表されたファースト・シングル、彼のスイス人の妻のことを歌った「リタ・サングァ」という曲のドーナツ盤に直筆でサインしてプレゼントしてくれた。

 それは、日本でも持っている人間は片手で足りるほどの、幻の名盤だった。私は再び天にも昇る気持ちで喜び、丁寧に礼を述べて、そのスターの部屋を出た。外は相変わらず暑かったが、さっきまでの羞恥心でいっぱいの心持ちが晴れて、やっとこの町で自分が動く土俵を見つけた気分になっていた。

 ホテルに帰ると、通りは黒山の人だかりだった。昨日の噂を聞きつけて、珍しい日本人を一目見ようと集まってきた野次馬と、久々の日本人音楽関係者の来訪で遣いをよこしてきた、大手レコード会社の人間と、それに取り入って一発世に出ようとする、まだ無名のシンガー・ソングライターの卵達が集まってきたのだ。

 ズジさんは非番でいなかったが、交代で来ていたパンブーさんが応対していた。重々しい雰囲気のレコード会社の人が進み出て、正式に「このほど新しく完成したスタジオの見学に来て頂きたい」と招待された。

 「今から一緒に行こう。」彼等は私の返事も待たずにすたすたと歩き出した。アリも「行こう行こう」と言うので、私もその後を追った。

 すると、ソングライターの卵達も、何の関係もない野次馬達も、ぞろぞろとそのあとに続いた。スタジオは、ディアカンダからヴィクトワールを越えてひとつ裏の通りに入ったところだったので、歩いて五分とはかからなかったのだが、その間、まるで大名行列のようにぞろぞろと人々がついて来て、さらにそれを見ていたガキどもが列に加わり、する事のない若者がシャワーを浴びながら塀越しに声をかけ、あたりは大変な騒ぎになってしまった。

 スタジオは「ヴェヴェ」といった。これは「エディシオン・ヴェヴェ・アンテルナシオナル」、略して「EVVI」の傘下にあるスタジオで、当時、既にザイールの主だった新生のアーティストのほとんどと契約していたが、数年前からのビッグ・ネームの相次ぐヨーロッパへの流出で、ネタ不足は否めないようだった。

 その日も、あるソロ・ボーカリストのレコーディングが行なわれていたが、新しいシステムを導入したとされるそのスタジオにはドラム・セットはおろか、パーカッション類もなく、バックの演奏のほとんどがコンピューターによってプログラムされているような状態だった。

 私はアリに訊いた。「一体どうなっとるんだ、これは?。」アリも私の言いたいことがわかるらしかった。しかし、音楽シーンの流れからいえば、ここザイールといえども世界を席巻するデジタル化の波を免れるわけにはいかない。

 彼等はそれを受け入れていた。しかし、それは受け入れるかどうかを選択できるという事ではなく、アコースティック楽器が巷から姿を消していくという事に他ならなかった。

 レコーディングをしようと思えば、プログラムの出来るエンジニアを雇うか、苦労して辛気くさい打ち込みをやらなければならない。

 その日のレコーディングも、楽器の音入れは目の前で歌っているボーカリストの友人のギタリストが、すべて多重録音でやったという事だ。「どうだ、素晴らしいだろう」エンジニアは誇らしげに語りかけてきたが、私は正直言って楽しめなかった。

 録音が終わってミュージシャンやエンジニアといろいろ話したあと、ヴェヴェの偉いさんがやってきて、みんなで食事に行くことになった。数台のベンツに分乗し、とある丘の向こうのちょっとした別荘風の大きな家に招かれた。

 ザイール川の臨める白いベランダ風のテラスで、フランス風にアレンジされたザイール料理を、ナイフとフォークを使って食べた。アリは終始無口だった。明らかに彼はこんな場所には来るタイプの人間ではなかったからである。しかし、私という日本人を案内する責任感のあまり、どうにかじっと耐えていた。

 私はその頃には、なんとか自分に対して問いを向けられたときだけ、彼等のリンガラ語についていくことが出来るようになっていた。しかしこんなパーティーの席で、酒の酔いも手伝って、ただでさえ早口のリンガラ語が、まるで機関銃のように上空を飛び交い始めると、とても歯が立たなかった。

 二時間ほどが過ぎて夕方近くになると、重役連中が帰ろうとしはじめた。私はアリと相談してなんとかそこを出るチャンスを見計らっていた。助け船を出してくれたのは、さっきスタジオでミキサー卓の前に座っていたエンジニアだった。

 彼はエンジニアにふさわしく、律儀で職人気質の性格と見受けられた。しかもその目は、よく気が利く機転のよさを表わしていた。彼は、私にスタジオのプログラム化されたシステムを自慢しようとしたとき、私が複雑な表情をしたのに気がついていた。そして、その後もずっと楽しめないでいる我々二人を見逃さなかったのだ。

 彼は重役連中の運転手の一人でもあったので、一緒に来ていた助手を乗せることで車の席を満たし、そこを出ることにした。

 ザイールに来て初めてみたこの細やかな心遣いに、私はすっかり感動してしまった。スタジオの前で再会を約して別れたのだが、なぜか彼は程なくそこを馘になってしまい、名前も聞かず、二度と会う機会もなかった。私も日本で音響の仕事をしていたので、彼とはいい友達になれそうだっただけに、かえすがえすも残念である。

 

ホテルを変えて南京虫にやられる

 

 さて、堅苦しい場から解放された我々二人は、余った時間でそこらをぶらついてみることにした。スタジオ・ヴェヴェの前の通りをカサヴブ方面に行くと、かつてルンバ・ライがコンセールに使っていた「カルテ・ブランシュ」というバーがあったが、そこは今は営業していなかった。

 しかし、そこは地元の悪ガキが集まって作られたバンド、「ケンチャン・ムジカ」のレペ場となっていた。「ケンチャン」とは、まさに日本語の「健ちゃん」などというあだ名のことである。通りがかりにそこの歌手の一人に会ったので、来週行なわれる彼等のレペとコンセールに行く約束をした。

 さらに行くと、「MVM」という安メシ屋があった。さっき食ったばかりなのでそのときは入らなかったのだが、その後私は毎日のようにそこで飯を食うことになる。

 カサヴブに出ると、右に折れて「ヴェヴェ・センテール」という、さっきの大手レコード会社のビルがあった。そこの一階はコンセールもできるホールになっていて、上階はレコード・ショップやブティック、さらに事務所が並んでいた。

 カサヴブ通り沿いに、西側をレコード屋や中小のレコード会社のオフィスを冷やかしたりしながら、音楽誌のディスコ・ヒット社の事務所まで歩いて行った。そこで通りを渡り、反対側をヴィクトワール広場までぶらぶらと戻ってきた。

 その間我々が話し合っていたことのうちのひとつに、空港からここまでのあの一件があった。アリは、「空港はとにかく外国人や金持ちの出入りが多いので、何とか労せずして金をせしめてやろうとする奴等で満ちあふれている、あれはザイールの恥だ、でもあそこさえ通ってしまえば中はいいところだ。」と言った。私がふんだくられた金額を聞いても、アリは舌打ちして、「そんなもんだろう」という顔をしながら、「あわれなやつらめ」とつぶやいた。

 さらに話題にのぼったのはディアカンダの宿泊料だった。当時の現地通貨で三千ザイールだったが、日本円では大体六百円といったところだった。これにアリが疑念を差し挟んだ。高いというのである。

 「ヴィ・ザ・ヴィ」という、かつてビバ・ラ・ムジカがコンセールの拠点としていたライブ・バーの前を通り過ぎ、試しにその脇に建っていた「ラ・クレッシュ」というホテルに値段を訊いてみた。そこは広場に面していたし、外国人向けの派手なビア・ホールもあったから、ディアカンダよりも高かった。

 ヴィクトワール通りをわたって、「ホテル・マトンゲ」でさらに訊いてみた。そこはディアカンダと同じだった。さらに、スピード写真の「キン・ラックス」、マトンゲのブティック街、市場などをぶらついたあと、「ヤキ」といういかにも安そうなホテルで値段を訊いた。そこはディアカンダの半額だったが、日本人は泊めないと言われた。

 アリは怒ってそれはどういう意味だと詰め寄ったが、レセプシオンの者の話によると、何でも三年ほど前に、ある日本人のカメラマンが、界隈の市場や汚れた場所を無遠慮に撮りまくったあげく、通報を受けて駆けつけた兵士に連行され、機材その他一切を没収されてしまったからだということだった。

 その日本人が泊まっていたのがヤキで、兵士によって家宅捜索の名目で建物の内部を掠奪されたというのが、日本人を泊めないことにした理由だった。

 アリはその事件を知っていた。彼の話によると、そのカメラマンは日本の世間を驚かせる作品を撮るために、きわどい被写体を求めてかなりえぐいこともやっていたらしい。確かに近所での評判は最悪だった。とにかく、泊められないというのなら仕方がないので、ほかをあたることにした。

 レコード屋街で耳をつんざくリンガラ・ポップスに陶酔しながらカサヴブ通りを北上し、何軒かのホテルをあたったが、どこもいっぱいだった。最終的にディアカンダから程近いあるホテルに落ち着くことに決めて、ディアカンダまで戻ってきた。

 泊まり勤務のために出勤してきたズジさんに、ホテルを変えることを申し出ると、彼は一瞬顔を曇らせたが、「ひとつだけ言っておく、ディアカンダには泥棒はいない。それでも出ていくのなら止めはしないよ。帰って来たくなったらいつでも帰ってくるがいい。」と言った。

 何だか彼を欺いているような気がしたが、アリが「行こう」というので、荷物をまとめて出ていくことにした。

 しかし変えた先のホテルは最悪だった。値段はディアカンダの三分の一だったが、あらかじめ押さえておいたましな部屋はほかの人間に渡されてしまい、私にあてがわれたのは、窓のない、むっとするほど湿気た、汗とカビと殺虫剤のにおいでむせかえりそうな部屋だった。

 ベッドは上から押さえただけで長年蓄積された汗がにじみでるかと思われるほど湿気ていた。アリは怒って随分とホテルの人間とやり合ってくれたがどうにもならなかった。仕方なく近くのバーへ飲みに行った。すぐにあそこで寝るなんて、とても考えられなかったからである。

 帰って来てシャワーを浴び、うとうとと何時間か眠った頃だった、背中がかゆくなって目が覚めた。なんと、じめついたベッドのスポンジからシーツを通してはっきりとわかるほどの南京虫の群が、背中じゅうを埋め尽くしていた。びっくりして飛び起き、全身で悲鳴を上げるかゆみに転げ回りそうになりながら、シャワーにかけ込んだ。石鹸を使って隅々までくまなく洗ったが、それでもまだ要所要所がひりひりしていた。

 ともかく服を着てレセプシオンに降りた。しかし一階には誰もおらず、玄関は鍵がかかったままで、あたりは真っ暗だった。声を出しても誰も来ないし、仕方がないので再び自分の部屋に戻り、椅子に座って、まんじりともせずに朝を待った。

 翌朝、あたりが動きはじめると、即座に荷物をまとめてそこを出た。まだ薄暗かったが、泊まり勤務のズジさんにわびないわけにはいかないので、彼が帰る前にディアカンダに戻りたかったからである。

 泥棒には出会わなかったものの、体中に虫刺されの赤いむくみを作って、苦しげな顔で立っていた私を、彼は例の笑顔で迎え入れてくれた。

 「だから言わんこっちゃない、アリの言うことなんか、全部真に受けちゃいかん。このホテルは確かに高いがそれなりのことはある。天井は高くて湿気はないし、従業員は家族みたいなもんだから気軽に話が出来るし、第一安全だ。よくわかっただろ。さあ、昨日はお前が払って行ったんだから、部屋は空いている。もう一度寝直すがいい。誰が来ても通さんから安心しろ。」というわけで、私は再びディアカンダに舞い戻り、その日は昼過ぎまで寝ていた。

 


homepage> congo> 旅行記> 前ページへ | ページトップへ | 次ページへ