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マライのマカンボ

 

マライの相談

 

 さて、初めから気になっていたのだが、本来このバンドをオーガナイズしている筈のマライは、レペに来る日と来ない日があり、来ても終わりかけに様子を見に来るといった程度だったので、ある日フィストンにそのわけを訊いてみた。 彼も詳しくは知らなかったのだが、なんでもアルバム制作に必要な、レコード会社やプロダクションとの根回しに、日々奔走しているとのことだった。しかし、今や形を整えていないのは、マライの二曲の新曲だけという状態だったので、彼にもっと早く来てもらいたいというのが、メンバーの思いだった。 例によってエドゥシャとシモロは事態の成りゆきを静観していた。しかし、私は彼等の慎重さとは裏腹に短気に行動してしまった。ある日遅くに現われたマライに、私は「まだ形になっていないのはお前の二曲だけだから、もっと早くレペに来てくれ。」と言った。彼はじっと考え込んだ末、「今は話せないから、明日俺のホテルに来てくれないか。」と私に言った。

 翌日、フィストンとともにマライのホテルを訪れた。部屋には見事に太った大きな女がいた。彼女の名はザキ・デ・ザキという。彼女のことを歌った歌が、来日記念盤「トサンブワ」に収められている。彼女はここでのマライの隠し女のようだった。なぜなら、彼にはスイス人のリタ・サングァという、立派な正妻がいるからである。そんなことはどうでもいいのだが、彼はザキに席を外すように言うと、フィストンと私に話しはじめた。 彼の相談事は大体次のようなものだった。彼はヨーロッパから十分な金を持ってキンシャサに帰ってきたのだが、バンドを再建するにあたって機材も新調せねばならず、その調達やレペ場への払い、メンバーの食事やトランスポール、さらにバンド再建を援助してくれるレコード会社やプロデューサーへの根回しに、ほとんどの金を使い果たしてしまったというのである。

 彼はヨーロッパで大きなワゴンを買って、船便でザイールに送っていた。それで交通事情の悪いキンシャサでトランスポールのビジネスを始めて、バンド運営の足しにしようと考えていたのである。その車はザイール河をさらに下った港湾都市のマタディの港にすでに到着しているのだという。ここ数日レペに出られなかったのは、その車を陸揚げし、登録するのに必要な金を借りる算段をしていたためだと打ち明けた。その後、マライは実に言いにくそうに、私に切り出した。「バンドの運営の方は何とか考えるから、車を引き出す費用だけでも貸してもらえないだろうか。」というのである。「そう来ると思った。で、いくらぐらいいるのか。」と訊くと、大体日本円で十万円程度だった。今度は私が考え込む番になった。それを出したからといって帰れなくなるような事態にはならないが、もしもの時にとっておく予備の金がなくなってしまうことになる。

 彼は、「もしレコーディングできた暁には、そのマスター・テープと、日本でそれを発売する権利も与えよう。」と言った。しかしそれは断わった。これは彼等の音楽だし、私はあくまで勉強に来た立場だからだ。それに、せっかく楽しい気持ちで彼等の音楽に参加しているのに、余分な雑念に邪魔されたくはなかったからである。金を貸すことは、明らかに私を困難に導くことだろう。しかし、バンドが金に困っていることも事実なので、彼等の活動そのものがしぼんでしまっては、もとも子もなくなってしまう。結局私は承諾した。自ら困難に巻き込まれる道を選んでしまったのである。マライは大変喜んだ。すぐにでもマタディへ旅立とうと言った。「えっ、俺も行くのか。」まあいい、せっかく広いアフリカに来たんだから、そう真面目くさって陰気くさい師匠や、ガキと変わらんバンドに毎日付き合わんでも、罰は当たるまい。ちょっとした観光旅行と考えて、マタディ行きも承諾した。

 

キンシャサからマタディへ

 

 かくして私は、マライが買った車を陸揚げする手伝いをするために、イチャーリ先生の修行やルンバ・ライのレペという、私の本分を放ったらかしにして、マライとその隠し女のザキ・デ・ザキ、マライの兄のリンゴの四人で、遥か西方のバ・ザイール州マタディまで行くことになった。むろんイチャーリ先生は怒った。「お前のやらねばならんことはここにちゃんとあるはずだ、マライのことはマライにやらせておけ。」ごもっともな意見だったが、実のところ私の正直な気持ちは、キンシャサに来て早くも一ヶ月が過ぎたというのに、マルクへ行ったのを除くと、私は毎日ディアカンダとイチャーリ先生の家と、ルンバ・ライのレペ場の間をぐるぐる回っていたのである。この広いアフリカ大陸はおろか、ザイール共和国の国内でさえ全くと言っていいほど観光していなかったので、少しでも田舎を見ておきたかった。フィストンは、自分が一緒に行って少しでもマライとその関係者と、私の間の橋渡しをしたいらしかった。いくらなんでも一対三では、もしもの時に私が不利になりはしまいかと心配してくれたのである。しかし、彼はルンバ・ライのシェフ・ド・オルケストル、すなわちバック・ミュージシャンの長だったので、逆にマライから、留守中のミュージシャンの管理を厳命されてしまった。エドゥシャとシモロは表向き無関心を装っていた。しかし、いよいよ明日出発という段になって、彼等は口をそろえて、「決定的な面倒に巻き込まれるようなことにはならないだろう」と、予言じみたことを言った。この旅は、マライの話があまりにもあやふやだったために、どのぐらいの期間になるのか全く予測できない旅だった。出発の日、ズジさんは、多分向こうでの滞在は長引くだろうから、持って行く必要のない荷物はディアカンダの事務所に預けて行けるように、オーナーに掛け合ってくれた。その頃にはすでに私もオーナーと仲良くなっていたので、彼は快くそれを引き受けてくれた。こうして私は安心して身軽にマタディへの旅に出たのである。

 街はずれのバス・ターミナルで、バ・ザイール方面行きのバスを捜した。キンシャサ−マタディ間はSNCZという国鉄と、SOTRAZという国営のバスが運行していたが、鉄道は週に三本しか便がなかったし、国営バスは高かったので、危なっかしいとは思ったが、民間の安いバスを捜した。バス・ターミナルは人であふれかえっていた。これも交通事情の悪いザイールの側面だった。のみならず、雑然とした人混みのどこへ行けば望むバスの切符が買えるのか、案内所のような気の利いたものはなかったので、いちいち人に訊かなければならなかった。それでも私は、初めて見るバス・ターミナルのまわりに立っている露天商や、冷たいものを売りに来るガキ、靴磨きなどの賑やかな光景に、のんきに浮かれていた。雑踏のなかを昼過ぎまでうろついたあげく、リンゴが最も安い切符を捜してきた。それはSOTRAZの半額近い料金だった。ますます私は危なっかしいと感じたが、その予感は見事に的中した。

 そのバスはぼろぼろのマイクロ・バスだった。それがとても長距離の旅行に耐えうるものとは思えなかった。しかし、彼等は私の心配をよそにそれに乗り込んだ。気楽な観光旅行と決め込んでいた私は何とも複雑な心境で彼等に従ったのだが、車内に入ってますますうんざりしてしまった。中は、ほぼすでに満席で、当然クーラーなどないから蒸し風呂のような暑さだった。のみならず強烈な体臭でむせかえるようだった。わがままも言ってられないので通路を奥へ進んだ。すると、四人組と見て何人かの男が席を譲り、我々にひとまとまりに座れるように計らってくれた。そんな中でも彼等は親切だったのである。ちなみにそのバスはすでに発車時刻をとうに過ぎていた。客のいらだちも募っていた矢先だった。運転手らしき男が乗り込んできたのを機に、乗客達は一斉にブーイングを発しはじめた。「早く車を出せ。」しかし男はそれに答えず、金の勘定を始め、それが終わるとまたどこかへ消えてしまった。

 車内は暑さもさることながら、乗客のいらいらも相当なもんだった。それでもさらに何人もの客がバスに乗り込んできた。すでに席はいっぱいで、通路に立っている人もいたから、そのたびにブーイングが出た。バス会社の者とおぼしき男がさらに乗客を連れてきて、我々に向かって、二人掛けの座席に三人座れと大声で怒鳴った。当然我々は怒り、一体何人乗せれば気が済むんだと詰め寄った。あとから来た乗客が我々の椅子の間にでっかい尻を押し込んできた。さらに午後の強い陽射しに照りつけられて、車内の温度と湿度はもはや耐えられる限界を超えていた。外の新鮮な空気を吸うために出ようにも出られない状態だった。乗客の怒りはまさに沸騰していた。それを聞いてバス会社の男は、分厚いテント地のシートをバスにすっぽりとかぶせてしまった。直射日光を避けようとする配慮らしかったが、その結果、開けた窓から時折入っていた風も入らなくなり、車内の空気は一層耐え難いものになった。もう乗客は怒る元気もなくしていた。それを見て、とても信じられないことだが、バス会社はバケツに何杯もの水をシートの上からバスにぶっかけて、さらに乗客を詰め込んだ。こうして最終的に二人掛けの座席には三人ずつ、通路には二列に客が立つかたちで、なんとバスは夜の九時過ぎにようやく出発した。今夜中にはマタディに着き、明日の早朝から役所まわりをしようと思っていた我々は、ハナから計画を狂わされた。

 バスはよろよろと動きはじめた。しかし明らかに重すぎて、座っていてもタイヤの苦しげなためいきが聞こえるようだった。案の定、動きはじめて一〇分も経たないうちに、タイヤはパンクした。運転手が乗客全員に降りるように命じた。もう言いなりになるよりほかはなかった。いやいや我々はバスを降り、何十分もの手際の悪い修理作業を見守った。やっと作業が完了したが、それからが大変だった。とてももとの順番にバスに戻ることなど不可能な状態だったので、乗客全員が我勝ちに入口や窓に殺到したからである。この時のザキのパワーはすごかった。マライは、「まあ見ていろ。」と喧噪を傍観していた。ザキが窓から手を振ったので、我々は徐ろに腰を上げ、人混みをかき分けて座席に向かった。ザキは両手両足を使って四人分の座席を死守していた。当然このえげつない場所の取り方に文句を言うおばはんやおっさんが彼女に詰め寄っていたが、彼女は今思い出しても恐ろしい形相で、彼等を黙らせてしまった。我々は、「ちょいとごめんよ」ってな感じでその座席に落ち着き、次の瞬間、別の尻が我々の間にぎゅっと入り込んできた。すったもんだの末、再びバスは動き出した。その後もバスはパンクとエンストを果てしなく繰り返し、そのたびに諍いを繰り返した挙げ句、結局マタディについたのは、なんと翌日の夕方だった。

 いかなる状況でも、疲れ果てれば人間は眠ることが出来ると実感したのはこんな時だ。私も窮屈でがたがたに揺れまくる車内で昼過ぎまで寝ていた。しかも我々の上に覆い被さっていたのは、ザキに勝るとも劣らない、立派な体格の女だったが、彼女も頭をのけぞらせて、いぎたなく眠りこけていた。何というか、これは囚人か何かの集団護送のようなもんだな、などと私はやっぱりのんきなことを考えていた。しかし、せっかく観光旅行をしたいと思っていたのに、走っていたのはほとんど夜で、夜が明けても、顔のまわりはザイール人達の肉体で埋め尽くされていたから、結局バスが止まるまで、満足に外を見ることは出来なかった。キンシャサのターミナルでそのバス会社の人間に聞いた話とは大違い、時間帯もむちゃくちゃなら、所要時間も優に三倍という、まったく阿漕な商売に我々は付き合わされたことになった。観光旅行の代わりに、ものすごいものを見てしまったマタディへの旅だった。

 さて、目的地に到着して、ほぼ一日ぶりに外に出て体を伸ばした私は、まわりの風景に唖然とした。なんと、ごみごみして砂埃ばかりが目立つキンシャサとは大違い、マタディは実に美しい街だったからである。我々が走ってきた街道筋は、マタディの街を見下ろす丘の上を通っていて、街は斜面に沿ってザイール河に広がるかたちで開けていた。河の向こう岸は美しい草原の丘になっていて延々と彼方まで続いている。街は坂道が多く、石畳の細い道や曲がりくねった路地が入り組んでいて、明らかにヨーロッパ人が建てた街という印象だった。おそらくここは植民地時代にはヨーロッパ人たちが奥地に入る足がかりとし、あげくの果てには奴隷を新大陸に送り出した港にあたっていたものと想像された。街の中心には「メトロポール」という立派なホテルがあり、その近くに教会があった。さらに西のほう、すなわち川下の方には港が広がっていた。マタディはザイール唯一の外洋に通じる貿易港である。その港は街から眺めると、特に夕方には美しい風景だった。しかしザイールでは、港湾施設は撮影禁止だったので、この美しい港も写真を撮ることができなかった。

 さて、我々は街道に程近い斜面に建っていたこぎれいなホテルに落ち着くことにした。荷物をほどいて早速港に降りて行き、陸揚げされた貨物の並ぶ倉庫をいくつかめぐったあと、我々は手際よくマライが買った車を探し当てた。それは紺色のフォードの大型のワン・ボックス・ワゴンだった。物は確認できたので、その送り状の番号を控えて我々は通関へ行った。しかしその事務所は、まだしまう時刻でもない筈なのに堅くシャッターが閉じられていた。通りかかった港湾労働者に訊いても、さっぱり要領を得なかった。小一時間ほど待ったあと、仕方なく我々はホテルに引き返した。

 翌日からマライとザキは通関手続きなどにかけずり回ることになったが、私は物見遊山を決め込んだ。せっかくの美しい街なんだから、見て歩かない手はない。「ここではわしはパトロンなんだぞ、粗相のないように接待しろ。」リンゴに案内役を頼み、マライには約束の金を渡した。「これで文句はないはずだ。」そして、私はリンゴと二人で美しいマタディの街を見物しはじめた。まず港のまわりから始めて、教会やメトロポール近辺を散策した。坂の多いヨーロッパ風の街並みをぶらつき、そこらの屋台で飯を食ったりした。その日は雨上がりだったので、石畳の道が程良く濡れていて、雰囲気は抜群だった。のみならず午前中は霧まで出ていた。私はそんな異国情緒あふれる空気を満喫していた。街には、貿易港にふさわしく外国人が多く見られた。どれも貨物船の乗組員とおぼしきセーラー服や作業着姿だったが、地元のザイール人達が外国人を見慣れているせいか、私に対して視線が集中するということもなく、明らかにキンシャサとは違った開放的な雰囲気が感じられた。ここでもキンシャサでよく見られる、小さな机ひとつの小間物売りがたくさんいた。そのうちの一軒の店先で、私は懐かしい日本のチキン・ラーメンのぼろぼろの袋を見つけて喜んだ。それは明らかに期限切れで、どこかの船の船員が落としていった物に違いなかった。むろん袋は傷だらけで、外から触っても中身が湿気ているのが感じとられた。なつかしさのあまりそれを買ってもよかったのだが、売り手の子供が値段を言えなかったので、つい買わずに通り過ぎてしまった。

 そのあと街をさかのぼり街道を越えて、その向こう側に広がるシテの方に行ってみた。街道を少し東へ進むと、急に目の前が開け、正面の赤土の山の斜面に張り付くようにたくさんの家が建っている。それも美しい風景だった。シテが一望に見渡せるその場所に一軒のライブ・バーがあったので、「暑気払いに何か飲もう。」と、二人で入って行くことにした。ザイールの街は、都市機能を持つ「ヴィル」の部分と、住宅街の「シテ」の部分が、はっきり分かれていることが多い。マタディでも、おそらくはまずヨーロッパ人たちによって港が作られ、周囲の住民がかり出されて今のシテに住まわされたのではないか、そんな成りゆきが想像できる街づくりだった。マタディは電気のある街である。そのバーでは、明晩、地元のバンドがコンセールを開くということだった。それをチェックして一服したあと、我々はシテの中に入って行った。シテは山頂までまっすぐにのびる一本のメイン・ストリートがあり、その左右にキンシャサと変わらぬ土壁づくりの質素な家が建ち並んでいた。そのストリートの真下に立ったとたん、私はヴィルのヨーロッパ的な幻想からさめて、ザイールにいる現実を取り戻した。すえたフフの匂い、肉が焼かれ、トマトや椰子油の煮立つ生活の匂いが充満していたからである。我々は坂道を登っていった。山頂に大きな公会堂があって、とりあえずそこまでゆっくりと登ったあと、街をジグザグに降りてくることにした。降りはじめて、最初に持ったこの街の印象をより一層強くした。ここは明らかに港湾労働者の街だった。途中で、うまそうな焼き肉のにおいに誘われて、二人で安メシ屋に入って行った。料理の内容はキンシャサとそうは変わらなかったが、やはり何か植民地時代の隔離された黒人居住区という空気があたりを支配していた。

 丸一日マタディを満喫したあと、ホテルに帰ると、マライとザキが憮然として部屋にいた。話を聞いてみると、事務の不手際と職務の怠慢から、目の前の車を引っぱり出すのにとても数日では埒が明きそうにないというのだ。ホテル代もかさむので、明日のコンセールを見たあと、私とリンゴは一足先にキンシャサに戻ることになった。 その夜我々は四人で連れだって、マタディにいるマライの友人の家を尋ねた。そこはヴィル側のはずれにある結構立派な一軒家だった。察するところ、ここではシテ側が下町で、高級住宅街はヴィルのはずれに広がっているようだった。マライの友人は、小さな貿易会社を経営していた。彼の取引は、主に小麦粉と茶の輸出で、相手先はアメリカとブラジルだということだった。ということは、ここから南米へ向けて航路があるということだ。さらに詳しく訊いてみると、ごく稀ではあるが、客船もやってくるらしい。それはロマンチックな話だった。大西洋を越えて、アフリカから南米へ船で旅をする。是非とも一生のうちで一回ぐらいは、そんな贅沢をしてみたいものだ。そこでは奥さんがイタリア風の料理を作って我々をもてなしてくれた。スパゲティなんて、実に久しぶりだった。そこで心ゆくまで喰い、きれいな応接間に移って夜中まで酒を飲んだ。この調子で行けば、この旅行もまんざらなものではない。

 翌日、私とリンゴはミニ・バスに乗ってさらに下流の方へ行ってみた。私が日本人と見て、ホテルの主人が、是非ともすぐ下流にある「素晴らしい橋」を見てこいと、しつこくすすめたからである。主人の話によると、「素晴らしい橋」は、それまでキンシャサからマタディまでしか連絡していなかった街道を、大西洋岸の街ムァンダまで延ばすことに貢献した橋だという。キンシャサとマタディの間は、街道はザイール河の左岸を走っているのだが、ここから下流は、左岸がアンゴラ領になるので、対岸に渡って街道が通されている。昔は河を渡るのに小さな渡し船が通っていたが、この付近は崖も切り立っていて流れも速く、永らく交通の難所だった。そこへ橋を架けたのは、なんと日本人の技術者達だということで、それで主人は盛んに見に行くことをすすめたのである。ムァンダまで行く途中の街、ボマまで街道は舗装されているので、そこまではタクシー・ビスが走っていた。乗客は我々を含めて五人だけだったので、窓の外の牧歌的な風景を見ながら風に吹かれて、念願の観光旅行らしい雰囲気にやっとありつくことが出来た。運ちゃんや乗客の話を聞いても、その橋を日本人が架けたということはよく知っていて、それは大変な評判だった。さらに、バ・ザイール州の主要な街に水道を引いたのも日本人だということだった。

 そんなことを話しながら、我々は「素晴らしい橋」に着いた。やはり公共施設のためか、橋は軍隊が管理していて、そこには検問所があった。我々は全員が降ろされてパスポート・チェックを受けなければならなかった。しかし、それは形式的なもので、係官も実に親切だった。全員のチェックが終わると、係官自ら観光ガイドのように、橋を案内してくれたほどである。その橋は、確かに切り立った川岸のかなり高い部分をつないでいた。日本では特に珍しくはない、アーチ型の鉄橋だった。アーチ部分と橋本体に太いワイヤーが張られていて、それを張るのに色々な苦労があったと、その係官は、さも自分がその建設作業に携わったかのように解説した。急ぐ用事のないタクシー・ビスの乗客や運ちゃんも、車を放ったらかしにしてぞろぞろと我々についてきて、その橋をつぶさに見て回った。あるおばちゃんは、三日に一度は通るのに、そんな苦労はちっとも知らなかったと感心していた。そんな和やかな雰囲気で「素晴らしい橋」を見物したのだが、写真の撮影だけは禁止された。たまたま運良く通りかかったマタディ行きのバスに乗って我々は昼過ぎに帰ってきた。街で食事をし、あたりを少し散策したあと、夜になるのを待って四人で例のライブ・バーへ行った。そこでは既に地元の若手バンドが演奏していた。しかし演奏がぱっとしなかったので、小一時間で帰ってきてしまった。しかし、その店の雰囲気は気に入った。翌朝、私とリンゴはキンシャサへ帰ることになった。帰りのバスもだいたい行きと似たようなもんだった。私はこうして一旦キンシャサに戻り、ルンバ・ライのレペの進行状況を把握したあと、遣いのために帰ってきたザキに促されて、数日後にリンゴと三人で再びマタディへ赴いた。今度は事務処理を待つばかりのホテル缶詰状態の退屈な三日間だったが、その甲斐あって、どうにかフォードのワゴンを引き出すことが出来た。

 

マタディからキンシャサへ

 

 マライの車が出たのは夜だった。4人とも疲れ切っていたが、かといって今からホテルをとるのも何なので、その夜は大きなその車の中で寝ることにした。翌朝、我々は朝早く出発した。 私は既にキンシャサ、マタディ間を一往復半したのだが、どれも夜行だったので、バ・ザイールの風景をつぶさに見られるのははじめての機会だった。しかもそれは、まとまってアフリカの田舎にふれられる初めての機会でもあった。バ・ザイール州の風景は、赤い土と、果てしなく続く草原と、潅木に覆われた低い山の連続だった。時折思い出したように現われる集落は、どれも赤土で塗り固めらり煉瓦積みになった壁と、藁や棕櫚で編まれた屋根を持っていた。集落は、たいてい街道に面した部分に広場を持っていて、多くの場合そこに風の通る藁葺きの東屋があった。そしてやはり多くの場合、広場では大鍋に料理が煮炊きされていて、街道を往来する車の運転者相手に食事の提供をしていた。日本でいうドライブ・インみたいなものである。なかには、街道沿いの土地を開いて駐車場を設けたり、看板をあげて車を呼び込む商売上手な村もあった。我々は、そんな村に一度停まって休憩した。料理を作る女達の陽気な笑い声や、はじめて日本人を見たのか、遠巻きに走り回るガキどもの歓声、さらにその足許を列をなしてつっこんでくる鶏の鳴き声、街道とはいっても、走ってくる車は実にまばらだったので、私は赤土と林の中にしみ入る、そんな村の音を聞きながら、静かなザイールの田舎のひとときを味わった。

 街道沿いにはいくつかの町も開けていた。最も大きなものは、キンシャサとマタディの間のほぼ中間にある「ンバンザ・ングング」という町で、確かこれはコンゴ語で「大きな山」という意味だった。我々はそこで残りの行程のために給油と食事をし、さらに道を進んだ。道路は舗装されていたが、例によってあまり手入れが行き届いていないので、所々に大きな穴があいている。目のいいマライは、常に時速一〇〇キロを超えるスピードでぶっ飛ばしているのに、遠くからその穴を見つけては止まる寸前にまで減速し、がったん、がったんという感じでそれらをやり過ごした。山にとりつくカーブでは陰から急に対向車が現われて、すんでの所でかわすという場面が何度もあった。私はそのたびに縮み上っていたが、彼等は「車はそうやって避けるもんだ」とでもいうように、涼しい顔をしていた。

 こんなこともあった。ある峠を降りかけたとき、道路を丸太で塞いでいる若者のグループがあった。マライは窓を開けて、「どうしてそんなことをするのか。」と抗議したが、彼等はまるで当然のような顔をして金を要求した。それはあまりにも穏やかで静かなやりとりだったため、彼等が悪事を働いているとはとても思えないほどだった。また、ある村をさしかかったとき、猛スピードで迫り来る我々の車の前にひとりの少女が立ちはだかった。マライは急ブレーキを踏み、車はタイヤをきしませて危うく横転しそうになりながら、道路脇の盛り土に乗り上げるかたちで停まった。車が停まると、村にいた少女達が一斉に棒を持って押し寄せてきた。私はザイールのアマゾネス軍団に滅ぼされるのではないかと思って身がすくむ思いだったが、マライやリンゴはやれやれ、またかという表情をし、忌々しそうに舌打ちした。何かと思ったら、その少女達が持っていたのは、実はサトウキビだったのである。彼女たちはそんなやり方で、村で取れるサトウキビを道行く車に売りつけていた。ザキは喜んでそれを何本も買おうとしたが、マライが怒って、「お前はそんなもんばっかり喰うから太るんだ。」と言って喧嘩になってしまった。マライは憤慨するザキを無視して車を出そうとした。しかし少女のひとりがまんまと窓から手を突っ込んでサイド・ドアを開けることに成功した。彼女はリンゴがそれを閉めようとするのにも、車が走りはじめているのにも構わず、そのわずかな隙間から身を押し込んできた。マライはやれやれという感じで車を停め、その少女が持っていたサトウキビを買ってやった。しかしそのあと収拾がつかなくなった。まだ買ってもらっていないほかの少女達が、我も我もと車のあちこちにかじりつき、何人かがフロント・ガラスにまで張り付いた。マライはついに我慢できなくなって、運転席のドアにしがみついていた少女をたたき落として外に出た。彼は、そのボクシングで鍛えた強靭な肉体で次々と少女達をつまみ上げては引きはがし、まとめて村にたたき返してしまった。そんな風にして、田舎を満喫しながら、我々はキンシャサに戻ってきた。

 

グラン・ポストの国際電話

 

 キンシャサに来てひと月以上が経ったので、実家に国際電話でも入れてみようかという気になった。どこで電話できるのかと、たまたま尋ねてきたシンバ君に訊いてみると、グラン・ポストに行けば、時間はかかるものの国際電話が可能だとわかった。彼について来てもらってグラン・ポストに入って行った。二階の桟敷状になった一角が窓口だった。窓口はすいていたが、係の太ったおばはんは、後ろの席の仲間との話に夢中になっていて、何度声をかけても振り向いてくれなかった。ついにしびれを切らしてシンバ君が怒鳴った。彼女はそれに振り向いて、明らかに憮然とした表情で何の用だと我々に訊いた。電話の申し込みをする窓口で、何の用だもないもんだが、私は怒りを抑えて、「国際電話の申し込みをしたいんだが。」と申し出た。すると彼女は、一枚のザラ紙を私の鼻先に突きつけながら、さっきの仲間との話に戻ってしまった。

 私は用紙を見て、理解できないフランス語の部分はシンバ君の助けを借りながら、その用紙を埋めた。再び窓口に持って行くと、その女はまだ話しに夢中だった。私が用紙とそこに記載されていた料金を手渡すと、彼女は振り返りもせずに、その用紙を脇に積まれた膨大な紙切れの山の上に置いた。私は唖然とした。もしかしたら、その山がまだ未処理の書類の山かも知れないと思ったからである。私が長い間唖然としていると、彼女は振り返って、「まだ何か用があるの。」と怒ったように聞いた。「いや、そうではない。」「じゃあ、名前を呼ぶからそれまで待ってて。」我々は窓口の前に置いてあったソファに腰掛けて待つことにした。

 見ると、明らかに疲れ切った表情で、桟敷の手すりに沿って並べられたソファに腰掛けている人がたくさんいる。我々は待った。しかし、窓口の女は依然として話に夢中で、書類の山には、一切手が触れられなかった。かれこれ小一時間も待った頃、シンバ君が再びキレて窓口に詰め寄った。「しゃべってないで仕事をしろ。いつになったら電話する気だ。」楽しい会話を妨害された女は、再びむっとして、私の書類を突っ返した。今度は我々は同時にキレた。「金も払ったのに突っ返すとは何事だ。」女はふてぶてしい表情で、今度は手をもむ仕草をした。これは賄賂をよこせという合図である。シンバ君は怒ったが、私はこれ以上時間を無駄にしたくなかったので、いくらか女の手に握らせた。女は後ろを向いて電話をかけはじめた。つながったと見えて桟敷の奥にあるたくさん並んだ電話ボックスを指さした。私は指定された番号のボックスに入って受話器を取ったが、激しい雑音の向こうに聞こえたのは、懐かしい日本語のテープによるアナウンスだった。「アナタガオカケニナッタデンワバンゴウハ、ゲンザイツカワレテオリマセン。」私は受話器を掛けなおして再び窓口へ行った。「番号が違うぞ。」「そんなはずはない、かからなかったのは、貴方が書いたこの番号が間違っているからだ。」「そんなわけがあるもんか、自分の家だぞ。」と長い押し問答の末、結局彼女は二度とかけ直そうとはせず、払った料金も渡した袖の下も返してくれず、丸損状態のまま昼休みに入り、窓口はぴしゃりと閉ざされてしまった。これであと三時間ここは開かないのだ。我々は憮然としてそこを出た。ソファに座って自分の番を待っていた人も、大きく背伸びをして、力無く立ち上がって出て行った。

 もう二度とポストで国際電話などかける気がしないと言っていたら、シンバ君がある日、ジャックというポストに勤めている友人に話をつけて、確実に国際電話をかけられるように取り計らってくれた。そのかわり正規の料金と、それ以上の彼に対する賄賂が必要だった。こちらも乗りかかった舟だし、シンバ君がせっかく手配してくれたことでもあったので、高いとは思ったが、それで電話することにした。日本との時差を計って、都合のよい時間をジャックに伝えたあと、再び我々はポストに入って行った。今度はものの五分とかからずに私は母と話をしていた。母は心配していたが、なんとピリピリとトミヨリ氏に宛てた手紙がもう着いていたので、彼等から私の無事を聞いていた。しかし声を聞いて安心したようだった。仕事のことや家賃を前納しているアパートのことをよろしくと頼んで電話を切った。

 その後、ジャックとは何度か会う機会があった。彼はディアカンダの南の方へ五分ほど歩いたところに住んでいたので、ときどきホテルを尋ねてきたからである。彼は四〇歳を超えた、頭の薄くなりかけたいいおっちゃんだった。大阪弁をしゃべらしたら似合いそうな、気のいい性格をしていた。彼の家はここらでは十分立派なものだった。入口には大きな鉄の門があって、広場の中の家主だった。中に入るとたくさんのガキどもや鶏が走り回っていて、例によってコの字型に並んだ貸間に人があふれていた。彼の家は二階建てで、私は応接間に置かれた立派なテレビやビデオ、オーディオ・セットに目を見張ったものである。彼は金持ちだったが全くそれを鼻にかけた雰囲気がなく、実に気さくで楽しい男だった。何故か我々はとても気が合い、彼の家でテレビを見ながらげらげらと笑い転げた。レペや修行に息が詰まりそうになると、私はよく彼の家を訪れた。そしてビールを飲み、嫁さんが作ってくれた食事で腹を満たした。

 

ロコレを手に入れる

 

 マタディからの戻りしな、沿道の様々な民芸品を見て、少し気が早いとは思ったが、そろそろみやげ物を見ておこうと思いはじめた。みやげ物屋で最も大きなものは、駅前のマルシェ・ディヴォワールである。そこへはアリやフィストンと行くことが多かった。もちろん本物の象牙の取引は国際的に禁止されているのだが、いくらでも売りつけに来る若者があった。そこは駅前広場いっぱいに広がったテント村みたいなもので、木彫り、石彫り、わら細工、革細工などの人形や仮面、置物、アクセサリーから、楽器、絵画、家具までが展示されていた。

 そこは大変なにぎわいだったが、私を日本人と見てか、手に手にあらゆる物を持った若者が売り込みにやってきた。ディアカンダに押し寄せる、似たような売り込みには慣れていたので、だいたいの相場は知っていたが、彼等は実に豪快なふっかけ方をしてきた。相場の何十倍もの高値から値段交渉が始まるのである。むろん彼等の言い値は完全に無視し、一度目は場内をぐるぐると歩き回ったあげく何ひとつ買わなかった。私は急ぎの旅ではないので、何度でもここへ来たり、もっとほかの店をつぶさに見てやるつもりだったからである。その判断は正解だった。二度目に訪れたとき、私を覚えている奴が、珍しいものが入ったよと案内してくれたし、その後帰国するまでに何度も通ったので、次から次と気前良くいろんな案内をしてくれる奴から、結局考えていたより安い値段で、仮面や彫刻を買うことが出来たからである。とにかくそこでは、一種の頭の体操みたいに、あってないような値段の駆け引きに没頭することが出来た。おかげで、フランス語の数字の発音が随分と流暢になった。

 買い物というと、もう一つ大事なものがあった。それは出来るだけ品質の良いロコレを買うことである。私は初め、それはみやげ物屋にあるだろうと思っていた。アリやフィストンもそう考えていた。しかし、その後色々なみやげ物屋でロコレを探したのだが、どこへ行ってもそんなものは売られていなかった。イチャーリ先生に聞いても、自分はザイール一のロコレの名手でありながら、それを手に入れる方法を知らなかった。「そんなもんはバンドのパトロンが考えることだ。」と言って涼しい顔をしていた。しかし、「お前がロコレを手に入れたい気持ちは良くわかる。」と言って、ある木こりを紹介してくれた。私はちょっと違うんじゃないかとも思ったが、せっかくの先生の紹介なので、無碍にすることもできず、その木こりがホテルを尋ねてくるのを待った。木こりはいま山から出てきたばかりという菜っ葉服でホテルに現われた。のみならずいくつかの試作品を携えていた。しかし、彼は明らかにそれを民芸品か何かと勘違いしていて、彼の作ったロコレは全く満足な音がしなかった。さらに楽器として使うには小さすぎ、美しい彫刻まで施されていたので、とてもそれをたたく気にはなれなかった。訛りの激しい彼のリンガラ語におぼれそうになりながらついてゆき、ようやく私がミュージシャンだということを彼に納得させたのだが、結局私の作って欲しいものをどうにも理解させることが出来ずに、話は物別れになってしまった。しかし彼は気のよい田舎の人らしく、ただのひとつも買ってくれとは言わずに引き上げようとしたから、私は彼の持ってきたもののうち、最も立派なものを彼の言い値で買った。それはマルシェ・ディヴォワールのちゃちな人形の何十分の一という値段だった。そして彼とともに近くのバーでビールを飲み、十分なトランスポールを渡して彼と別れた。歯の抜けた口で、顔をくしゃくしゃにして笑うその表情が、とても印象的だった。

 ロコレの問題にケリをつけてくれたのはフィストンだった。彼はヴィルの川沿いの方に、ある楽器づくりの名手を捜し当てた。私が行くと言うと、彼は、「日本人が行くと足許を見られるから、まず自分が交渉して感触を確かめてくる。」と言った。そこで私はだいたいの寸法と、音程の希望を書いて彼に渡し、返事を待つことにした。フィストンは二、三個のロコレを持って帰ってきた。それらは明らかに使い古された、もう割れかけたものだったが、それを雛形にこれから私用に新しく作ってくれるらしいのである。値段的には数百円から千円程度のものだった。それでもここの金銭感覚では高いのだ。アリなどは、「たかか木の塊じゃないか、なんでそんな値段になるんだ。」と言って憤慨した。しかし私はとりあえず本物が欲しかったし、これを手に入れるのが旅の目的のひとつでもあったから、値段などはどうでもよかった。そうして私は、材質と大きさを指定して、何個かのロコレを作ってくれるように注文した。数日後に届けられたロコレは三種類だった。ロコレには、白い木のものと赤い木のものと黒い木のものがあった。白いものは音がまろやかで低く、静かな演奏に向いていた。赤いものと黒いものは材質が堅く、金属的な高い音がしたので、激しい演奏に向いていた。

 それを持って翌日イチャーリ先生の許へ行くと、彼は嬉しそうにそれを撫でたあと、「この黒い木のものは大変よくできている。わしもひとつ作らせたいから、金を払ってくれんか。」とまた私の腰が砕けそうなことを言った。彼は久々にいいロコレに触ることが出来て大変喜び、ラジカセに往年の自分の演奏のテープを入れて、大音響の中で熱のこもった模範演奏を披露した。それは素晴らしい音だった。金属的でありながら金属のような耳をつんざく不快さはなく、あくまで木の暖かみが感じられた。次に私がたたいてみたのだが、最初の一発で、音の太さ、深み、キレのどれをとっても、とてもじゃないが師匠の足許にも及ばぬことが明らかになった。 同じ楽器の同じ場所を同じような強さでたたいているはずなのにである。まだまだ修行が足りないことがはっきりしたので、みやげ物探しにうつつを抜かすのは後回しにして、本分に戻ることにした。

 

私のマカンボ

 

 さて、すっかり忘れていたのだが、私のビザの有効期限はあとひと月を切っていた。そのことを私はアリに相談した。彼は、「そんなことは問題ない。イミグラシオンへ行って、ちょっと金でもつかませてやれば、すぐに延長手続きが出来る。」と自信たっぷりに言った。私はそれを信用した。そしてそれきりこのことを忘れてしまった。次にそれを思い出させてくれたのはマライだった。「お前のビザの期限はいつまでだったかな?。」ようやくレペに腰を落ちつけるようになった彼は、少し不安げな顔で私に訊いた。私はパスポートを見せた。既にその頃には期限まで三週間あまりだったが、私は、「アリが延長手続きは簡単だと言っていた。」とマライに告げると、彼は、「とんでもない、明日すぐにイミグラシオンに行こう。」と言いだした。私は勝手が分からないので、途方に暮れて彼の言う通りにした。

 翌日、ブーレヴァール沿いにあるイミグラシオンへ行った。イミグラシオン、つまり入国管理局のことを、ザイールでは「アニー」と呼んでいる。それはAgence Nationale d'Immigrationの略で、ザイール国内の主要な都市にあって、外国人の動きを常にチェックしている。さて、我々はとりあえず受付へ行って、滞在期間の延長を申し出た。例によって所定の用紙に書き込むように求められ、我々は書き込んだ。それを提出する際に、マライは初めからそっと係官に金を握らせた。実に要領を得たものだった。その書類は、脇に積まれた書類の山へは行かずに、直接彼の後ろに座っている厳めしい顔をした男のところへ持って行かれた。しかし今度は、その男が、それを自分の机の脇に積まれた書類の山の上に置いた。それをじっと見ていたマライは、係りの者が帰ってくると、彼に耳打ちし、さらに金を握らせた。彼はそれを厳めしい顔の男のところに持って行ったが、その男は書類をじっと見たあと、手に負えないという風な顔をしてその書類を係りの男に返してしまった。

 戻ってきた係りの者が言うには、「ビザの有効期限を延長するためには、何か正当な理由が必要だ。」ということだった。観光ビザは、一旦発給されると延長は難しく、一度国外へ出て、新たにビザを取り直した方が早いということだった。「わかった、じゃあ申請を取り下げるからさっきの金を返せ。」という話になったが、彼等は返さなかった。「これがANIの正当な判断であり、お前らはその判断を受け取ったのだから、サービスは済んだはずだ。」というのがその理由だった。マライはさらに食い下がろうとしたが、私は、「それよりせっかく国外に出るのなら、河向こうのコンゴへ行ってみたい。」と言った。じゃあ一挙両得だから、とにかくそうしようということになって、我々は事情を調べに、コンゴのブラザヴィルへ行くフェリー乗り場の事務所へ行ってみることにした。

 ブーレヴァールからさらに川岸の方へ行った一角に船着き場があって、そこには遥か上流のオ・ザイール州キサンガニや、中流のエクアテール州ンバンダカ、ザイール河の支流カサイ河沿岸の西カサイ州イレボなどからやって来るフェリー・ボートの終着点となっていた。そしてそこは対岸のコンゴ共和国の首都ブラザヴィルへの出口でもあった。ザイール人達はコンゴへの一日だけの出国ならば、パスポートやビザは要らず、「レッセ・パッセ」と呼ばれる簡単な書類だけでよかったが、外国人はそうはいかず、コンゴ大使館による正式なビザが必要だった。「しかし・・・、」と係官は私のザイールのビザを見ながらつけ加えた。「お前のビザは今のところ、ここから出ていけば二度と戻れないようになっている。ここからコンゴへ渡るビザでさえすぐ発給される望みは少ないのに、そのあと向こうへ渡って、さらにザイールへ帰ってくるビザを取り直すのに何日かかるかわからんし、最悪の場合にっちもさっちも行かなくなるぞ。」と助言された。

 つまり、私のビザに書かれていた、あの「UN VOYAGE」が引っかかったのである。ビザの種類について何もわかっていない自分のバカさ加減にいやになった。私は確かにコンゴの観光も念頭に置いてはいたが、ルンバ・ライとの音楽活動が佳境に入った今、そんな冒険はしたくなかった。それに、アフリカに於ける事務の不手際と職務の怠慢には、マタディでの一件といい、国際電話といい、それまでに嫌というほど思い知らされていたので、ますます実現できそうには思われず、結局この道は捨てることにした。行っても無駄だろうとは思ったが、大使館へ行って相談してみた。大使は、私がビザの細かい種類について何も知らないことにあきれ、「もう期限が迫っているのだから、黙って出国した方が身のためだ。」と言った。「ビザの延長が成功したなんて、今まで聞いたことがない。手続きにはパスポートそのものを預けてしまう必要があるから、事務処理の非能率からそれがいつまでも留保されて、預けたまま滞在期限でも切れようものなら、それこそ大変な面倒に巻き込まれるぞ。そうなれば私が出て行ったところで力になれるかどうかわからんし、最悪の場合強制退去を求められることになる。頼むから面倒は起こさんでくれ。」と言った。その話は真に迫ったものだった。単なる無知が、海外ではとんでもないトラブルを、また対処の仕方によっては迷惑を引き起こしてしまうものである。

 私はズジさんにも相談した。彼は初めて私に本気で怒りを露にした。「何故オレに相談してくれなかったんだ。」ああ、私はズジさんに悪いことをしてしまった。彼との信義こそ、かけがえのないものだったからである。とにかく別の可能性を探ることになった。マライのアイディアは正攻法だった。要するに、観光旅行中にルンバ・ライとの出会いがあり、意気投合の末、音楽活動をともにすることになったから、ひと月だけビザを延長しようというのである。結局この方法で私はビザを延長した。根回しとしては、ザイールのいわば音楽著作権協会にあたる「SONECA」の事務所へ行って、正式に私がルンバ・ライのメンバーとなる旨の証明をとり、SONECAの会員であるルンバ・ライが、正式に私を招聘するという形を取ったのである。だから私は、日本人でありながらSONECAの会員である。こうして、SONECAから書類を取り寄せるのに二日、ゾーン・デ・カサヴブの区役所ではんこをもらうのにさらに一日、それを持ってイミグラシオンへ行き、預けた私のパスポートに延長のはんこが押されるのにさらに二日かかった。やきもきしたがこうしてビザは延長され、私は五月の半ばまでここに滞在できることになった。

 

ザイールに踏みとどまる

 

 ところが喜んだのもつかの間、別の問題が浮上してきた。再びジャックに頼んで日本に国際電話をかけ、実家にいる母に、ビザの期限が延長できたので、帰国予定が遅くなると伝えようとしたのだが、その電話口で母は、「仕事先の元締めが、四月から新しい仕事を回すから必ず帰ってくるように、さもないともう次からの仕事はないものと思えと言っている。」と伝えてきた。私は今回の旅行をするために、短期間で金を貯める必要があったから、身分の保障のない請負仕事をしてきた。その際にその元締めに大変世話になったいきさつがある。それは仕事を望む会社と委託契約をして、いわば嘱託社員のようなかたちで仕事をする仕事人のようなものだったが、そういう、ひとを斡旋する業界では、クライアントの意向というものは絶対的なもので、それに反することはその業界では生きていけないことを意味している。

 久しぶりにカレンダーを見た。その日は三月の二〇日だった。私は随分と迷った。今から帰れば帰れんことはない。様々なコンセールや著名なミュージシャンとの、ありきたりなふれあいだけなら諦めることもできた。それだけなら私にとっては仕事の方が大切だったからである。しかし、今はルンバ・ライとの夢の共演とレコーディングが控えている。さてどちらをとるか。正直言って、私は今回の旅が、こんなに幸運に恵まれるものとは予想していなかった。それに、キンシャサがこんなに面白いところだとも予想していなかった。ピリピリなど、キンシャサに行ったことのある人から話を聞いてはいたが、ただでさえみやげ話は大げさになりがちなのに、私の連れときたら金魚を鯛ほどに言う奴等だから、どれだけ差し引けば信用に足るものになるのかわからなかったからである。しかし、来てみて今更のように思い知った。彼等の言ったことは正しかった。いや、それ以上だった。ここはザイールで、全てがゆっくりと流れ、決して走ったりはしない。いま私はその中にどっぷりと浸かっている。

 ルンバ・ライとのアルバム制作と、それにまつわって予定されているライブ・ツアーやテレビ出演など、いまここでやらなければ一生出来ないことが目の前にずらりと並んでいる。そしてそれらは突如として現われたものではなく、まさにザイールの、この悠々たる時の流れの偶然と必然に乗って、私の前に浮かび上がってきたものである。悩みながら私はディアカンダまで戻り、隣のゾーンにあるサン・ピエール教会へ行った。 何故教会へ行く気になったのかは覚えていない。しかし私はレペを放り出してそこへ行った。その日は月曜日だったが、教会では午後のミサの真っ最中だった。「神は貴方にチャンスを与え、必ずや貴方をよい方向に導くであろう」という歌が繰り返し歌われていた。それはザイール製のゴスペルだった。手拍子とオルガンと「ンブンダ」とよばれるアフリカン・コンガ、たったそれだけの伴奏と、講堂を埋め尽くした百人は優に超える信者の大合唱は、私のくよくよした心を吹っ飛ばしてくれた。それほどにその合唱は分厚く、ザイールの主食フフのように粘りがあって、迫力とグルーヴに満ちたものだった。延々三時間におよぶ、説教と合唱の繰り返しの中に私は最後までいた。そして全てが終わり、信者がひとり残らず出て行ったのに、私は祭壇の近くに座っていた。牧師と協会関係者が、集められた喜捨の勘定をしていた。

 私は立ち上がってまぶしい太陽の照りつける外に出た。依然として、外は教会の中の荘厳な空気をものともせず、がさつで埃っぽく、物の腐ったにおいで充満していた。その中に出たとき、私はこの悠長な時間、同じところをぐるぐると回っているように見えながら、実は螺旋階段のように少しずつ進んでいる悠長な時間の流れを体で感じた。その時間のなかで、くる日もくる日も、一日の大半をかけて煮炊きをし、木の臼に長い棒をつっこんでフフをかき回し、ピリピリを突く女達の生活のことを考えた。泥水のような赤い水を大きな金盥にためて、ちっともきれいにならないとこぼしながらリプタを石に打ちつけて洗うその生活のことを思った。エネルギーに満ちた強い陽射しが金色に輝きながら斜めから差し込んで、彼女たちの褐色の肌からほとばしる汗がきらめいていた。私はその光景にたまらないいとおしさを感じて、まわりの人々が怪訝な顔で通り過ぎるのも構わず、こらえきれなくなって笑い出した。「わかった。お前らに最後までつきおうたる。今更じたばたしても始まらん。」こんなにゆったりとした時間の流れのなかにいるのに、日程のことで気をもんだり、地球の裏側の仕事の段取りを考えたりするのは、全くふさわしくないことだ。ディアカンダに帰ると、私は母に手紙を書いた。電話で、ここから出した友人達への手紙が、全て着いていることを確認していたので、この手紙もそう日にちをかけずに着くであろうと思ったからである。

 私は、「帰国の予定を早める気はない、仕事は誰かがうまく尻を拭いてくれるだろう。」と書いた。「私は今までにたくさんの尻を拭いてきたんだから、たまには拭いてもらっても罰はあたるまい。」と書いた。借りていたアパートの家賃も、足りなければ払っといてくれと書いた。私はこの時、今までの日本人の私、几帳面で責任感の強い自分をかなぐり捨て、やりたいことだけを考えようと決心した。別に帰国したら逮捕されるわけでもあるまい。帰国してしばらく仕事がなかったからといっても、男ひとり生きていくのに、そう苦労は要らないはずだ。母は、私のこの手紙を文字どおりに解釈した。なぜならその後私が帰国するまで、大使館宛にも手紙が来なかったからである。母は、一旦言い出したらてこでも動かない私の性格を子供のときから身を以て思い知っていたので、私が手紙に書いたとおりのことを相手に伝え、元締めはうまく尻を拭いてくれた。私が、リンガラ語で寝言を言いはじめているのに気がついたのは、ちょうどこの頃からのことである。

 

ルンバ・ライ、マトンゲへ

 

 さて、元締めの意に反してキンシャサに残ると決心したのはいいが、現実は厳しかった。ルンバ・ライの活動の一助になればという思いで、私はマライになけなしの金を貸したわけだが、今度はそれを間違いなく回収する心配をしなければならなかったからである。色々な事件や問題が持ち上がった。事件や問題のことを、リンガラ語で「リカンボ」といい、たいていは複数形「マカンボ」を使う。よく歌や会話の中に、彼等は「マカンボ・ミンギ」という言い回しが出てくるが、ここでの生活は全くその通りで、私はのんきな海外旅行者だが、彼等の実生活は大変マカンボが多い。

 今日のマカンボは、フィストンの子供が大変重い病気にかかって入院した。彼はルンバ・ライ以外の仕事を持っていなかったから、その費用を払うことが出来ず、ルンバ・ライはただレペをやっているだけなので、つまり彼は無職無収入である。彼の嫁さんは、もうこんな貧乏な生活はイヤだと言って実家に帰ってしまい、その家族がかんかんに怒って子供も引き取ってしまった。かくして彼は離縁されることになったのである。さらにズジさんの親友が急死して、彼の家が一週間の喪に服した。 ルンバ・ライの前のロコリステのイェンゴは、古い歌を多く知り、華僑とのつながりも深い変わり者のザイール人で、何故か惹かれるものがあり、その頃ときどき彼に会いに行っていたのだが、彼の子供のひとりがSIDA(英語で言うところのAIDS)に罹っていることが判明し、彼は嫁さんと十五人の子供とともに、借りていた家を追い出されてしまった。

 そんななかでもルンバ・ライのレペは毎日続き、フィストンも休まずやって来た。マライが自分の歌を真剣に完成させる努力をしたおかげで、どうにか新曲の全てがミュージシャンの手に任されるところまで進展した。それを機にマライはレペ場を、交通の不便なマテテから、マトンゲの「カディオカ」という小さなバーに移すことにした。そこはそれまで別のバンドがレペ場として昼間使っていたが、場所代を払えなくなったので空いたという噂を、私がアリから聞いたためである。当時ルンバ・ライのメンバーは、マテテにいる者が三人と、あとはマトンゲ周辺に二人、リングァラにフィストン、ビンザにグロリア、さらに遥か空港の方からやって来る者が五人などと、キンシャサ市内のほぼ全域に散らばっていた。彼等に毎日支払うトランスポールだけでも大変な額だったし、今や我々には車があるので、特にマテテにこだわる必要はなかった。それにマトンゲに本拠地を移せば、ここは音楽の中心地だから、関係者へのプレゼンテーションがやりやすくなるという利点もあった。その日車を運転してきたのはマライではなく、彼のトランスポールのビジネスを助けるために雇われた、プロのドライバーだった。彼はそれから毎日、レペの時間の前後にミュージシャンの送り迎えをし、ほかの時間でタクシー・ビスの営業をすることになる。

 この車の都合とカディオカの支払条件のために、レペは昼の三時から夜の七時までに制限された。私はアリを通じてヴェヴェの人脈にもコネが出来かけていたから、そろそろ具体的なプロモーションに出ようとしていた。いかにルンバ・ライがかつてのビバの名歌手、マライ・マライのバンドであり、日本盤で二枚のアルバムが発売されていて、それがザイールでセンセーションを巻き起こしていたといえども、それはあくまで過去の話であり、音楽業界の関係者にとっては新生ルンバ・ライの実力は未知数だったからである。 そこで私はとりあえずデモ・テープを作って彼等のもとに売り込んでみることを提案した。マライは過去の栄光に惑わされていたのでこの意見には消極的だった。「俺が誰だかわかっとんのか、ビバ・ラ・ムジカのマライ・マライだぞ。」私は彼を無視してエドゥシャとシモロの助けを借りてミュージシャンを説き伏せ、アリに頼んでヴェヴェからエンジニアを呼び寄せて、仕上がりかかっていた三曲の録音にまんまと成功した。もちろんスタジオ録りではなく、カディオカでのワンポイント一発録りだった。そのカセットを持って、私はヴェヴェの事務所を訪れ、およそ一ヶ月後には全ての新曲が完成するだろうなどと、何の根拠もないことを言ってスタジオの日程を仮押さえしてしまった。

 これは確かに先走った行動だったが、しかしメンバー達にはよい刺激になった。それまでどちらかというと、たっぷり時間があるためにダラダラとしたレペに陥りがちだったが、これを機にメンバーに緊張感が出来たからである。「もうお遊びはおしまいだ。我々は食っていかなきゃいかんのだ。」本来ならばマライが言うべきことを私がいち早く口にした。毎日あるとはいえ、レペの時間も今までとは違って短くなったし、もうバンドには金がないのだ。「今から売る準備をしないと先がないぞ。」と私はマライに説いた。「これだから日本人は嫌なんだ。」彼は言った。彼は実にのんきというか、無頓着な性格だった。そういう苦労を知らないものと思われた。彼の言うことは、アルバムが売れてから先のことばかりだった。ツアーの話もテレビ出演の話も、私から言わせればまだまだ夢物語だった。動かない彼を無視して、私は「テレ・ザイール」という、国営テレビの取材をとりつけた。これはフィストンの助力によるところが大きい。新しく動きはじめた若手のバンドというふれこみだった。撮影クルーは三日後にやって来て、熱のこもったレペの場面をいくつか録画して帰って行った。しかし編集段階になって、様々な打ち合わせと裏取引をしたにも関わらず、番組内での採用は没になってしまった。まあいい。こうしてこの頃から、私は半ばルンバ・ライのマネージャー的な存在になっていった。ミュージシャンの中のどこを見回しても、そういう営業活動の出来そうな奴はいなかったからである。それに、レペの場所が近くなったことと、レペの時間が短縮されたことで、自由に動ける時間が増えたのである。イチャーリ先生には、私のこの行動をよく理解してもらって、もし急な用事でレッスンに行けなくなるようなことがあっても、決して怒らないで欲しいとお願いした。事実、そんなことが何度かあったが、そのたびにそう近くはない彼の家まで伝令に走ってくれたのは、ディアカンダの裏に住んでいたほんの小さな子供だった。彼等のおかげで、私は師匠を欺かずに済んだ。こうしてあっという間に四月を迎え、私は自分の肌の色が黄色いのも忘れて、方々かけずり回ることになる。拙かった私のリンガラ語がなんとか誰にでも通じるようになってきたのは、この頃からである。

 

さらに強化されたレペ

 

 ある日、マライがヨーロッパで購入したバンド用の機材が送られてきた。ベース・アンプが一台とギター・アンプが二台、ドラム・セットと、簡単な一六チャンネルミキサー付のボーカル・アンプとスピーカー一対だった。全て中古だったが、それでもここではおいそれと手に入らないものばかりだった。それまでのルンバ・ライの機材といったら、電源を入れただけでうなりだすギター・アンプが一台と、スタッカートという、変わった形の自分では立てなくなったドラム・セットだけだった。ボーカル・アンプはなかったので、レペは常に肉声だった。しかし地声の大きい彼等のこと、それで特に支障があったわけではない。全く、何度も実感させられるが、音楽が盛んではない日本に楽器や機材が有り余っていて、こんなにパワフルな濃い奴等のいるところにそれがないのだ。これだけとってみても、いかに矛盾の多い世界かがわかる。

 車から機材を降ろしながら、私はマライに「シンバルとかスタンドはどこだ。」と訊いた。彼は頭をかきながら「すまんすまん」と言った。彼は、本体は買ってきたものの、足まわりを忘れてきたのである。おかげでエドゥシャは、シンバルの代わりに真鍮の鍋蓋をたたく羽目になった。また、マライはまたはケーブルの手配も忘れたので、音響屋出身の私がケーブルの調達のために、ライブハウスめぐりをする羽目になった。しかしとりあえずギタリストにもベーシストにも、一台ずつアンプが行き渡るようになったので、音の分離がよくなり、聞き易くなった。ボーカルにもアンプが通されることによって、歌手達はがなり立てずに済むようになった。それだけでも、演奏が止まって喧嘩になる回数が目に見えて減った。いよいよみんな真剣になってきた。

 その頃には、古い曲を練習することによって、ウォーミング・アップしたり感覚を取り戻したりする必要はなくなっていたので、新曲の練習だけに集中していた。新曲は、既に全曲の歌い込みが完成し、セベンのアレンジを残すのみとなった。我々は自由な発想を手に入れるために、レペの二時間ほど前にカディオカ近くの空き地に集まり、コード進行だけを決めた即興演奏のトレーニングを毎日やった。また、イチャーリ先生も毎日のようにレペに来るようになり、どうせならここでレッスンしようということになった。もうリズム・パターンや奏法など、一対一で教えてもらうことはなくなったし、バンド・アレンジの中でどういう奏法を使うかということが問題だったからである。私がひとパートをたたき終わるごとに、師匠が耳許で、「さっきのはこうたたくべきだった。」などと怒鳴りながら、御自ら実演して下さった。これは役に立った。師匠は、こうたたくべきだと言うだけでなく、何故そうしなくてはいけないかの解説入りだったからである。「いいか、歌手の歌い方をよく聴いてみろ、あれはやさしく女に語りかけているんだ、だから、ロコレとはいえ、このように撫でるようにたたかなくちゃいかん。」「いいか、ここは『カ・ダンスと』呼ばれるニュアンスの部分だから、まんべんなく音を入れるよりも、むしろ音を抜いてスピード感を増した方がいい。」等々。こうして、たった二音だけのこの単純な楽器を操るマナーを、私は実地に学んでいった。

 こういう毎日のことを文章で表わすのは難しいことである。というのは、歌が形をなしてからは、演奏の微妙なニュアンスや、誰がどんなフレーズを弾き、さらに誰がそこにどう絡むのかという、きわめて音楽的な実践の連続だったからである。様々なアイディアが出され、その多くは煙のように消えていった。しかし、次から次へと、彼等の手から新しいフレーズが泉のようにわき上がるのを、私はこの目で見た。エドゥシャやシモロが、それに合わせてどういうリズムの織り方をするのかを、腰の奥で感じた。彼等は実に明確な判断基準を持っていたようである。ソリストのフレーズがいかに素晴らしくても、それを支えるハーモニーやリズムのかねあいがうまく行かなければ、そのフレーズそのものが没になった。リズム・セクションとアコンパニュマンがいかに太いグルーヴをつむぎ出していようと、その上でソリストが十分なフレーズを思いつかなければ、やはり没となった。没となる前には、決まって激しい議論の応酬が続いたが、没となったもののどこがどう悪いのか、私には実のところさっぱりわからなかった。

 当時の録音で、今手許に残っているのは、地震の後救い出された、砂まみれのたった一本のテープのみである。それを聴くと、ある曲では、後に「ミランダ」というタイトルで日本で発売されたアルバムに登場する、練り上げられたフレーズの原型を聴くことが出来る。また別の曲では、レペで没になった懐かしいフレーズを、フィストンが考え考え弾いているのを聴くことが出来る。それを聴くと、あのカディオカの暑苦しい部屋の中で、襲いかかる蚊と闘いながらロコレをたたいていた毎日を、むっとする匂いとともにありありと思い出すことが出来る。全く何もない状態から、六曲の新曲が様々な試行錯誤の末、徐々に形を作っていく現場に私は毎日居合わせていた。ミュージシャンとして、プレーヤーとして、これ以上の幸せがほかにあるだろうか。恐ろしいほどの贅沢な毎日だった。

 こうして四月も半ばを過ぎ、マライはより一層の強化を狙って、合宿練習を計画した。一方私は、ザイール最大手のレコード会社ヴェヴェからの、ルンバ・ライの新譜のリリースに向けて、一筋縄では行かないお偉方連中相手にお百度を踏んでいた。レペの進行状況を伝え、「なんならすぐそこだから、見に来てくれてもいい。」と申し出た。しかし前にも書いたように、当時の主流は、コフィ・オロミデのような、ぐっと洗練された新しいスタイルのルンバだった。彼等が望んでいたのも明らかにその路線に則ったもので、なんとしてもヨーロッパでシーンを築きつつある、お洒落なライフ・スタイルに合った音を、一つの夢としてザイールに提供できるものでなくてはならなかったのである。そういう点からみると、ルンバ・ライの目指す方向は、明らかにベタすぎた。ヴェヴェのお偉方の考えが時代の流れに沿ったものだとすると、我々のやろうとしていることは、明らかに時代に逆行していた。我々の演奏は、あまりにも武骨で、お世辞にも上品とはいえなかったし、部族音楽の匂いが至る所にぷんぷんと残っていた。むしろそれを強調する傾向にあった。「お前は日本人だから、そんなものを珍しがって喜んどるんだ。」とお偉方に何度も言われ、「そうか、ただそれだけのことなのか。」と落ち込んだことも何度かあった。こうして仮押さえしていたスタジオが、彼等によって一方的にキャンセルされてしまい、ヴェヴェからのリリースが絶望的になったので、私はカサヴブ通り沿いにある、中小のプロダクションを回りはじめた。その中には、あの名盤「ベロティ」をリリースした「ドン・ダス・レコード」もある。私は、日本では主に、売れにくい新製品をいかに売るかという販促企画を立て、それを実践することをもって職業としていたのだが、何故ザイールに来てまで営業手腕を発揮しなければならないのかと何度も自問した。自分の「性」がつくづく嫌になった。しかし、好き好んで買って出たことだけに、誰にも弱音を吐くことは出来なかった。結局、私の持参したテープに興味を示したのは、ショック・スターズの歌手達のソロ・アルバムを数多く手がけた「ビゼル・プロダクション」だった。

 


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