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パリ・ブリュッセル−寒い国で聴く暑い国の音楽

 

パリ着

 

 パリのシャルル・ド・ゴール空港に着いたのは、一九九一年の二月三日の夜だった。同じ飛行機に乗ったのは、私とアニキとくまちゃんの3人である。パリには、私の古い女友達で、山ちゃんという写真家が住んでいたので、私は出発前に連絡を入れ、空港まで迎えに来てもらうことにしていた。何年ぶりか見当もつかないくらい長い間会っていなかったので、当然のことながら相手もよく老けていた。互いの再開を歓び合ったあと、我々はタクシーに乗ってクリシー広場へ向かった。

 ジョー・ノロのヴィクトリア時代の旧友に、カルトゥーシェという歌手がいるのだが、その嫁はんのゼノビさんという人が、我々のためにホテルをとってくれているはずだったからである。待ち合わせ場所であるクリシー広場に面したハンバーガー屋の「クイック」で待つ。ここは日本でいうマクドナルドみたいなものだ。ただ違っているのは、ビールが飲めることと、鶏の骨付きもも肉のフライとフリッツのセットがあって、これが安くて結構いける点だった。タクシーを降りてからというもの、憧れのパリにやって来たという実感を我々は捜し求めていた。というのも、華の都といわれているにも関わらず、街はすすけて汚いとしか思えなかったからである。おまけにパリはその日、ここ何年ぶりかの大寒波が襲いかかっていて、気温は氷点下一五度だった。さっさと暖かいところで休みたかった。「クイック」に現われたゼノビさんは、キンシャサで出会った多くの女のように貫禄があって、ダークな色調の分厚いコートに身を包んでいた。パリに住むアフリカの移民、そんな重苦しい雰囲気が立ちこめていた。ゼノビさんの案内で、「ルテス」というホテルに荷物を降ろす。安いが臭くて汚い。しかし眠れんことはない。ゼノビさんがザイールの家庭料理を用意しているというので、山ちゃんと一緒にほくほくとついて行くことになった。

 ゼノビさんの家は、クリシー広場から北西に五分ほど歩いたところにある。そこは、古いアパルトマンの中庭にある一層古いアパルトマンだった。そこで我々はビールをご馳走になり、何年ぶりかで本式のザイール料理を心ゆくまで味わった。山ちゃんはこれを食うのは初めてだったがとても気に入ったらしく、フランス語でゼノビさんと料理のしかたを話し合い、台所に釘付けになっていた。ゼノビさんとカルトゥーシェの間にはトリアーノというガキ、いや大変元気なお子さんがいて、彼は珍客に興奮したのか始終じゃれ狂い、我々が飯を食っていようと、満腹感に打ちひしがれてソファに力無くとろけていようと、お構いなしに我々の首にまとわりつき、足の間を転げまわった。特に東洋人の直毛が珍しいらしいのか何本も抜きたがるので、そろそろ生え際が懸念されていたアニキの怒りを買うことになった。ゼノビさんは、トリアーノが粗相をするたびにフランス語で叱りつけていた。トリアーノはパリで生まれ育っているため、フランス語しかわからない。両親のリンガラ語も理解できなくはないらしいが、リンガラ語を聞いてもフランス語で答えるという状態だった。リンガラ語を使えないフランス国籍のザイール人と、リンガラ語で喋ることの出来る音楽好きな日本人が、ザイールから移民してきたミュージシャンの自宅で、その嫁さんの手料理を食っているのである。さてその肝心の旦那だが、カルトゥーシェは当時ヤバい橋を渡らされてブタ箱に入っていた。そして約三ヵ月後に私が帰路パリに立ち寄ったときにも釈放されていなかった。ここらはパリの中でも治安が悪いとされる移民の街、その中でもおそらく最も多くの問題を抱える集団のど真ん中にいることを私は痛感した。

 次の日から我々はキンシャサへ飛べる安いエア・チケットを捜すかたわら、パリにいるザイール人ミュージシャンと連絡を取り合うべく動きはじめた。いち早く連絡がついたのは、ビバの看板歌手の一人のスティノだった。彼は当時、クリシーから北の方に行ったパリ郊外のサン・ドニに住んでいた。驚いたことに、ルンバ・ライの二番手歌手だったグロリアがともに暮らしているという。彼等はザイール国内でも、同じ部族の出身なので、結束が堅かったのである。

 その日はビバの新譜のレコーディングがあったので彼の家には行かず、そのスタジオで待ち合わせることにした。「ディアン・ミュージック」という、ザイール人がよく使うスタジオで彼等はレコーディングしていた。パパ・ウェンバをはじめ、スティノ、レディ、ファファ、それにスイス国籍のアンゴラ人コーラス・グループの「アンコ・スターズ」が参加していた。既にバック・トラックの録音は済んでいるらしく、歌手の歌入れが行なわれていた。ミキシング・ルームには、ビバの歌手でもありエンジニア、プロデューサーとしても名高いファタキと、大西先生が神と崇める名ギタリストのボンゴ・ウェンデがいた。

 レコーディングは難航を極めていた。ビバのなかでも最古参に位置するグラン・シャンテールであるファファ・デ・モロカイと、いかに定評があるとはいえ、ずっとヨーロッパでやってきた若手グループにすぎないアンコ・スターズの間で、事態が紛糾していたのである。キンシャサたたき上げの頑固おやじであるファファは、歌い回しという点については絶大なる自信を持っていたのだが、そのまるでザイールの因習にまみれた演歌のようにな、こぶしを回して朗々と歌い上げる歌い方と、常にヨーロッパの空気に触れ、その中でアフリカ人である自分たちのアイデンティティを築き上げ、新しい音楽シーンをリードしたいという若者のドライな歌い方とでは、所詮意見の合うはずがなかった。歌い回しとコーラスの入れ方について、ワン・フレーズごとに対立が起こり、録音は遅々として進まなかった。我々が到着してから二時間も経とうかという頃になってもただの一曲も完成せず、彼等はいがみ合ったまま互いに主張を譲らなかったため、とても音楽どころの空気ではなくなっていた。しびれを切らしたスティノが我々を促してそこを出た。それを見て取ったウェンバも、「ファファは言いだしたらワシにも手が付けられんのだ。せっかく来てくれたのに見苦しいところを見しちまってすまんな。」とばつの悪そうな顔をする始末だった。

 翌日、我々三人はあらためてスティノの家に行くことにした。メトロでパリ門まで行き、そこからところ番地を尋ねて歩いた。キンシャサもそうだが、通りの名前と番号だけで住所を探し当てられるこのシステムは、慣れるとなかなか便利なものである。程なく彼の家は見つかり、スティノ、その嫁さんのメー・ジェー、弟のヴェロー、そしてグロリアが出迎えてくれた。グロリアは、当初パスポートやビザの問題が噂されていたが、ウェンバが正式に彼をビバのメンバーに迎え入れて身元引受人となったため、その不安は解消される方向にあった。場は明るい雰囲気に包まれていた。我々は振る舞われたビールを陽気に飲み、メー・ジェーの出してくれた手料理を心ゆくまで味わった。そして、昨日の顛末を含め、ビバ関係のミュージシャン談義に花を咲かせ、久しぶりにザイール人ミュージシャンとのそれらしい会話を楽しんだ。

 翌日、私は別行動をとることにした。パリに着いて四日目にして、ようやく私は煤けたアラブ人街を抜け出し、華のパリを味わいに出たのである。山ちゃんに案内を頼み、カルチェ・ラタンに出てエア・チケット探しをすることにした。そこは学生街なので、格安チケットの代理店が目白押しだったが、残念なことにキンシャサ行きはほとんどなく、あってもバカ高い正規料金か一ヶ月程度のFIXだった。アニキやくまちゃんはともかく、私は今回も三ヶ月程度ザイールに滞在するつもりだったので、何としてもオープン・チケットが必要だったのである。その後、パリ市内でも航空券が安いと言われている界隈を漁ってみたが成果はなかったので、パリでの調達をあきらめ、ブリュッセルで再トライすることに方針を変えた。

 そのあと、冬の憂鬱なセーヌ川の黄昏をじっくりと味わい、二人で食事をした。夕方になって我々はアニキとくまちゃんと合流し、週末に予定されているコフィ・オロミデのコンセールに向けた彼等のレペを見に行った。スタジオは、メニル・モンタンという、これまた移民の多い地区にあった。そこにはルシアナ、ファタキ、マイカという、当時のビバを支える主だったミュージシャンが掛け持ちで参加していた。レペはレコードで聴いていたオロミデの音の通り、お洒落でクールな雰囲気に溢れたものだった。

 私はそこで、アブロというドラマーが、クローズド・リム・ショットで、シンプルでタイトなリズムを打ち出しているのを見た。また、アルマンドというコンガ奏者が実に音数の少ないタッチで絶妙なスピード感をつむぎ出しているのを見た。レペはいつ見ても得るものが多い。オロミデはじっと部屋の隅で曲の仕上がりを聴いていたが、ひと段落つくと、ごく小さな声でわずかな指示を与え、我々と握手をかわしたあと、マイクを取って自分で歌を入れはじめた。演奏はどこをとっても申し分なさそうだった。コンセールまであと三日だから当然のことだろう。こんなに完璧な仕上がりをこんなに間近に見られるのは、まさにレペ以外にはあり得ない。キンシャサで見るのとは違う、また、ガキの集まりのようなルンバ・ライとはまるで違う、プロの仕上がり具合はさすがだった。誰も多くは語らず、きちっと始まってやるべきことはやり、きちっと終わる。何ともてきぱきしたものだった。とにかく我々は、オロミデのエレガンスをこうして生で感じとり、そのかわりザイール人らしくない物わかりのよさに拍子抜けしてそこを出た。山ちゃんは、長年住んだパリにいきなりやって来て、結構ディープなところをうろつき回る我々を大変面白がった。のみならずザイール人達のバンドのレペにはいたく感動したらしく、また日程が合えば連れていってくれと言いだす始末だった。

 

パリに住むザイール人

 

 さて、パリでの滞在目的は、ヨーロッパに出て来たザイール人ミュージシャンと接触を図ることと、キンシャサ行きのエア・チケットを手に入れることだったが、数日間のうちに、早くもビバの連中とオロミデにあいまみえることが出来た。残るは、ヨーロッパにいるはずだと噂されているものの、どこにいるのかわからないウェンゲ・ムジカの動向をつかむことだった。ある夜われわれは、情報を得るべくクリシーから程近い「ジャッキー・バー」へ行った。そこは雪のちらつく外の寒さとは裏腹に、むせかえるばかりのザイール人たちの熱気と体臭で充満していた。のみならず外の静かすぎるヨーロッパの街角の空気を蹴散らかすかのような、早口のリンガラ語が飛び交っていた。気おされながらも入って行ったわれわれは、はじめ奇異の目で見られていたが、やがてオロミデのレペを見に来ていたファンのひとりが気づいて、彼がその集団の中に呼んでくれた。ビールで乾杯し、ザイール直送のピーナッツを味わったあと、彼等の質問責めが始まった。

 たいていは、何しにここへ来たのか、これからどこへ行くのかという、例によって例のごとくのものだったが、彼等がコチコチのファナティークでなかったのがわれわれにとっては幸いだった。また、オロミデの周りの人脈とウェンゲとは関係がよかったことも幸いしていた。そこでわれわれはウェンゲの最新情報を得た。それによると彼等は現在ツアー中で、フランス国内での公演は全て終了し、近くブリュッセルでコンセールが行なわれる。さらに近隣諸国やイギリスをまわった後、近くザイールへ凱旋ツアーをやるということだった。パリのチケット捜しがうまく行かずにうずうずしていたわれわれは、これでブリュッセル行きの具体的な日程を固めることが出来た。さらに訊いてみると、パリでキンシャサ行きのチケットを手に入れようなんていうのは、お門違いもいいとこだというのである。ザイールとの間を行き来するには、ブリュッセルかジュネーブ発が最も安くて実用的だという。「なに心配することはない、行ってみればわかる。アーケード中にキンシャサ行きの広告が出てるから。」彼等は口をそろえて力説した。パリ中をうろつきまわってキンシャサ行きのチケットが見つからず、旅行代理店の奴等から冷たい目で見られていたわれわれは、その話をすぐには信用できなかったが、もうチケットの件でこれ以上パリに滞在していても金を使うばかりだったので、どっちにしても他の可能性に賭けなければならなくなっていた。

 さて、ブリュッセル行きは決まったのだが、それまでにもうひとつしておきたいことがあった。それは、去年パパ・ウェンバのインターナショナル・バンドが来日したときに仲良くなった、あの驚異のドラマー、ボフィ・バネンゴラに会うことと、ようやく実現したビバの歌手スティノとメージェーの正式な結婚式への参列である。ボフィの家はパリ市の南のはずれの新興住宅街にあった。そこは古い街並みを取り壊して、日本でもよく見られるマンションが立ち並んでいる界隈だった。ところ番地を書いたメモを片手に訊ねていくと、そんなマンションの窓のひとつから、エディー・マーフィーを少し丸くしたような顔のボフィがにこやかに手を振っているのが見えた。ボフィは、かなり早くからヨーロッパに出て来たミュージシャンのひとりである。黒いキャップをかぶり、グレーのパーカーにスリムなジーンズといういでたちは、当時のザイール人ファッションからすれば、非常にアメリカナイズされていた。のみならず彼はインテリだった。マンションのフラットに通されたわれわれは、その一室を埋め尽くした膨大な器材の山に目を見張った。彼は結婚していたが、当時インターナショナル・バンドのキーボード奏者だった白人のフィリップ・マレーと共同生活をしていた。フィリップも部屋にいて仕事の真っ最中だった。フランス語の出来ないわれわれは、来日時も彼とは多くを話せなかったが、お互いの顔は覚えていたので、彼は仕事に区切りをつけて応接間にやってきた。

 私とボフィはドラム談義に花を咲かせ、彼は自分のドラミングの録画されたビデオをかけながら、奏法についての詳しい解説をしてくれた。アニキとくまちゃんはフィリップと英語で話し合っていた。やがてボフィは手料理をご馳走してやると言って台所に立ち、われわれはフィリップと英語でいろんな国のいろんな音楽についての話で盛り上がりはじめた。すると今度はフィリップがスタジオ・ルームに来いと言って、あの器材の詰まった部屋へわれわれを導いた。そこで彼は、今やっているCM用の音楽の仕事の成りゆきを見せ、さらにそこにシステム・アップされた様々な音源のデモを聴かせてくれた。打ち込みというものについて徐々に関心を深めていたわれわれは、日本のスタジオ・ミュージシャンの作業とはひと味違う、多彩でより深い音のニュアンスの可能性に気がついた。そういう話になるとボフィも黙っていられないのか、台所から大声で快活に会話に参加した。そしてひとしきりのデモンストレーションが終わった頃、ちょうどよくボフィの料理もできあがった。「男手でなにも出来んですまんな。」と彼は言ったが、どうして、豪華な食卓にわれわれは目を見張ったものである。ビールで乾杯し、われわれは初めて男手によるザイール料理を食った。フィリップもザイール人風に手でフフをちぎり、それで肉や野菜の煮物を包んで貪り食っていた。メニューは鶏のトマト・シチューにポンドゥという、ごくオーソドックスなものだった。その料理を心ゆくまで味わい、随分長居してしまったので別れを告げようとすると、ボフィは、キンシャサへ着いたら家族に渡してほしいものがあると言って、小さな包みを私に託した。そして住所を受け取り再会を約して、われわれは満ち足りた気分でそこを出た。

 一方、スティノとメージェーは早くから付き合い、歌にもなっていたが、生活の基盤が安定しなかったため、正式な結婚を先延ばしにしていた。われわれの滞在中に偶然彼等の結婚式があったのは、われわれがザイール人の一面を知る上でまたとないチャンスだった。どんなものかと期待に胸を弾ませつつ、われわれは正装してサン・ドニにあるスティノの家へ行った。ところが彼等は普段着のまま応接間でテレビを見ていた。グロリアも全くふだんと変わった様子がなく、さらに家族以外友人も親戚もいなかったので、本当に今日これから結婚式なのかと彼等に問いただしたものである。 彼等がまちがいなく今日は結婚式だというので、われわれはそこでビールを飲みながら数時間あまりテレビを見て過ごした。成すすべもなく時間が流れるのでそろそろ帰ろうかと思いはじめた頃、ザイール人たちの間で人気のあるカメラマンのジョエルが息せき切ってかけ込んできた。

 スティノとメージェーは立ち上がって別室に着替えに行き、さらに続けざまに客が来はじめた。程なくふたりがスーツやドレスに着替えて出てくると、みんな慌ただしくばたばたと部屋を出ていくのでわれわれも後を追った。要するに我々が早く来すぎただけのようである。下に降りると昨日会ったフィリップが車で来て、われわれに乗れと合図した。彼等は友達だったのである。一行は何台かの車に分乗し、近くのサン・ドニ教会へ向かった。なにか儀式のようなものが執り行なわれるものと期待していたわれわれは、その教会の役所のような受付窓口の前の長椅子に座って、ふたりが婚姻届を提出するのを後ろから見ていた。書類はすぐに受理され、神父が簡単な祝福をし、振り返ったふたりに周りのみんなが大声で祝福をした。それで全てだった。ものの五分ほどである。

 そして一行は再び車に分乗してマンションに戻り、女たちはパーティーの料理を作りはじめ、男たちはテレビの前に集まって車座になった。われわれは、そのあまりの質素さに感動した。二時間ほどしてようやく料理が出来、みんなで食べはじめたとき、パリにいてもザイール人はザイール人だとつくづく思った。パーティーは夕方近くに終わり、われわれはその足でオロミデのコンセールに行った。このハシゴには気を遣う必要はなかった。オロミデのバンドの歌手として、ビバの歌手のファタキや、ギタリストのマイカが参加していたからである。オロミデのコンセールへ行く途中、山ちゃんと合流した。ザイール人たちのコンセールは、ヨーロッパでもキンシャサと同様に夜通し行なわれる。違っている点は、キンシャサでは青天井の会場が多く、客はゆったりとテーブルでビールでも飲みながら、気が向けばステージ前のダンス・フロアにくり出すのに対し、ここでは会場自体が狭くて、コンセールの頻度も少ないためか、客の密度が高くて全員が常にステージに向かって立っていることである。

 実際、会場内は真っ黒なザイール人たちですし詰めになる。それだけでも緊張感が漲るのに、のんびりしたキンシャサでの生活と違って、ここは誰もが日頃の鬱憤を晴らしに来るようで、会場には一層ただならぬ緊迫が感じられる。彼女はパリに来て何年も経つが、これほど黒い場は初めてらしく、非常に新鮮だったようである。言うまでもなく、トイレは本来の目的には使用されないので注意を要する。特に山ちゃんとくまちゃんがそこへ行くときは、近くにいた信用出来そうなザイール人のおねえちゃんに護衛を頼んだほどだった。そんな面倒を除けば、コンセールはごきげんだった。オロミデのあのお洒落でクールな音世界が静かに始まると、ヨーロッパに暮らすザイール人たちの求める音世界が肌で感じられた。そして、アルバムでは省略されている、徐々に高まってセベンに移行するカダンスや、曲の初めの静かな部分とはアンバランスなくらい激しく長いセベンに、暑いキンシャサでの情感とはまた違う、寒い世界で聴く暑い国の音楽の魅力に触れた。それは、一種の独特な色合いの熱さだった。コンセールは夜半から夜明けまで延々と続き、われわれはその音に酔いしれて踊り狂った。客の豪快な反応も含めて、日本では到底味わえない醍醐味である。この祖国の音楽を支持するファンとの一体感というのは、レペでは感じ得ないものである。ましてや、祖国を遠く離れた者の集まる場にあっては、なおさらのことだった。明け方に狂乱の宴は終わり、われわれは外に出て白みはじめた朝の空気の中を、ブーローニュの森を散歩し、東にシルエットとなって浮かび上がった凱旋門を眺めながら、それぞれの帰途についた。

 

ブリュッセル

 

 翌日、われわれはブリュッセルに向けて発った。パリ北駅からアムステルダム行きの国際列車に乗り、その途中でブリュッセル・ミディ行きに乗り換えるのである。かつて鉄道少年だった私は、国際列車の高いステップやコンパートメント形式になった客室に興奮し、列車が重々しく動きはじめる感触に有頂天になった。外は雪だった。パリに来てからずっとそうだったが、重苦しい憂鬱な曇天が空を覆っていた。列車が郊外に出るにつれ、窓の外は一層深い雪に包まれていった。森の中を走り、時折現われる煉瓦づくりの山小屋風の建物のある風景に、私は自分が今ヨーロッパの真ん中にいることを実感した。もともとヨーロッパ系のプログレが好きだった私にとっては、特別の感慨があったのである。私はその幻想的な風景の中に浸り込み、我を忘れた。

 その点、アニキとくまちゃんはかんかんに怒っていた。ヨーロッパに対する想い入れなどこれっぽっちも持ち合わせていないふたりは、これからアフリカへ行こうというのに、何故こんな陰気くさい列車の中で雪に閉ざされなければならないのかと憤慨し、外の風景や列車の中の様々な設備にはしゃいでいる私を子供扱いした。数時間でそんな列車の旅が終わり、ミディ行きの支線に乗り換えたわれわれは、明らかにゲルマン色の濃い別の国に来たことを感じた。私はかつて聴き狂っていたドイツ・ロックを生んだ世界に近づいてきたことを肌で感じて、ますます有頂天になり、彼等はさらに陰気くさくなった街角を見てうんざりしてしまった。われわれはミディ駅前で古びたタクシーを拾い、初老の紳士風の運転手に、パリで聞いてきた安チケット屋の集まる界隈で、安ホテルを探してくれるようにと頼んだ。勝手の分からない雪に覆われた街角を行きつ戻りつしたあと、われわれはとあるホテルに落ち着くことになった。

 ホテルで荷物を解いたわれわれは、すぐさまチケット探しと付近の探索に出かけた。そこは「ナミュール門」のすぐそばだった。街並みはパリとそう変わらないものの、カフェは、パリのようにテラスを備えたものではなく、日本の喫茶店と同じ造りになっていた。程なく日本の商店街風のアーケードに出、そこでわれわれは雪から解放された。とりあえず一息ついたので、旅行代理店を探そうと歩き出すと、われわれは明らかな独特の臭いを感じた。それは紛れもないザイール風の焼き肉、「カムンデレ」の明らかな匂いだった、それに、心なしか聞き慣れたルンバの音の断片も感じられる。そのアーケードはなんと、ザイール人たちが「プチ・マトンゲ」と呼び慣わしている、ブリュッセルでも最もザイール人密度の高い通りだった。音の出所は、ザイールもののヨーロッパ盤のレコードで目にする、「ムジカ・ノーヴァ」というエディシオンだった。われわれはそれまでの寒さも忘れて、私などはさっきまでのヨーロッパ的な感傷も忘れて、当然の事ながらアニキとクマちゃんは、水を得た魚のようにすたすたと、そのレコード屋に入って行った。案の定、そこはザイール人たちで埋め尽くされており、訳知り顔で入って行ったわれわれは、当然好奇の対象となった。われわれは陳列されたレコードを物色し、目新しいものがないのを見て取ると、そこで旅行代理店の所在を訊いた。

 店を出てアーケードの端が見えるあたりまで歩くと、まわりに旅行代理店が何軒も現われてきた。ガラスのウィンドウに「キンシャサ行きなんぼなんぼ」とか、「安いよ安いよ」と書かれた店があちこちに見られ、「ジャッキー・バー」での話が本当であることを確認した。パリであんなに無駄な努力をしたものだから、それを見てとても嬉しくなり、雰囲気の良さそうなある店に入っていった。そこは「イズベル」という店だった。われわれはそこでチケットの相場とキンシャサの情報を仕入れた。応対に出たギーというザイール人は、われわれの服装やヘア・スタイルを見て、われわれが何を求めているのかを即座に見て取り、訊きもしないことまで教えてくれた。これだ。こうでなくちゃいかん。当時ブリュッセル・キンシャサ間は、エール・ザイール、サベナ・ベルギー、スイス・エアの三社が運行していた。彼は値段の安いスイス・エアを勧め、キンシャサは現在安定していて、何の心配もないことを教えてくれた。

 私の一度目の旅行の際に、様々な人に真顔でキンシャサ行きを思いとどまるようにと忠告されたのとは大違いである。彼は自分の母国に関心を持つこの外国人を快く受け容れ、商売の枠を越えて、われわれを安心させるために時間を割いてくれた。時はまさに湾岸戦争のまっただ中だったからである。われわれは日本を発つとき、チケットを買った旅行代理店から、キャンセル料など要らないから旅行を見合わせるようにと強く忠告され、パリでは、非難を恐れるあまり自宅に引きこもって一歩も外へ出ようとしない不可解な日本人の様子が報道されていただけに、ここへ来てやっとわれわれの旅を正当に評価してくれる者が現われて、実に心強い思いがしたものである。さて、念のためにさらに数軒の店で価格調査をした。しかし、どこも値段は似たり寄ったりだったので、せっかくわれわれを勇気づけてくれたギーの好意に敬意を表して、われわれは彼からチケットを買うことにした。チケットに出発日を記入しようとした彼は、ふとペンを止めて、ビバのコンセールが近くパリであることを知っているかとわれわれに訊いた。われわれは知らなかった。「じゃあ出発はそのあとだな。」と勝手にフライトまで決めてしまった。さて、その後われわれはアーケードをぶらついて近くのザイール人が群がっているバーで酒を飲み、裏通りにあったザイールメシ屋で飯を食い、満腹感に打ちひしがれてホテルに戻った。

 ウェンゲのコンセールは、ブリュッセル市内を流れる運河のほとりにある巨大な倉庫を改造したクラブで行なわれた。ここではパリよりも興行に対する規制が厳しいらしく、コンセールはポスターに書いてあるとおり、八時には始まり夜半には終わるとの情報を得ていたので、われわれは夕方には身支度を整え腹ごしらえを済ませた。その情報を与えてくれたのは、プチ・マトンゲのバーで知り合った若者で、われわれがかつてキンシャサに行ったことがあると言うと、彼はブリュッセルの特殊性を教えてくれた。「ここはパリとも違って、おとなしくしていないとヤバい所なんだ。」と彼は言った。それでも彼等がここにいるのは、パリへ行く書類上の条件、つまりビザ関係が揃わないためだった。ヨーロッパで暮らす彼等の不自由がよくわかる。彼等はそのコミュニティの結束を頼りに、じわじわと段階を踏んで華の都パリを目指すのである。ビザがなくても世界中のかなりの国々を自由に行き来できるわれわれ日本人とはわけが違う。

 さて、彼の言う通りウェンゲのコンセールは定刻に始まった。今や彼等は上り調子だった。私はかつて二年前にキンシャサで彼等を見ていたが、その後に発売された彼等のデビュー盤は、その荒削りな音が随分整理されておとなしいものになっていた。しかし、コンセールは別の意味でエキセントリックだった。フロントを固めた八人もの歌手たちの織りなす分厚いコーラスと、ダンスやアニマシォンと綿密に対応している見事なアレンジは、そしてそれが実に生き生きと絡み合っている様は、まるで猿の社会のようにボスがいてその下で機嫌をうかがいながらミュージシャンが控えているという構図の、旧来のオルケストルとはノリが違っていた。四時間あまりのステージだったが十何人というミュージシャンが一丸となっているその音の塊をわれわれは思いっきり感じとった。さらにこれからキンシャサへ行く日本人ということでステージにあげられ、道中の安全を祈願されるというおまけつきだった。われわれは十分楽しんでそこを出た。夜半のブリュッセルは一層寒く、暗くて陰気くさかった。翌日われわれは、ビバのコンセールに立ち会うべく、再びパリに向けて出発した。

 

パリ、再び

 

 さて、再びパリに戻ったわれわれを待っていたのは、大阪でそれぞれレコード屋を経営しているアライ氏とクロズミ女史だった。彼等の目的は、当時設立されたばかりの彼等のレーベル「グラン・サムライ」の第一弾のアルバムを制作することだった。 この輝かしい企画に白羽の矢を立てられたのは、かつては「アンチ・ショック」の歌手であり、その後自らのグループ、「ショック・ムジカ」を率いていたジョー・ノロという男である。彼は私が初めてキンシャサへ行ったときに、ヴィクトリアのコンセールの会場に服を売りに来た、あの片足の悪い男だった。胡散臭い奴には違いないのだが、切々と歌い上げられる彼の歌には、何とも知れぬ男臭い哀愁が漂っていて、われわれは男ながらその魅力にとりつかれたものである。グラン・サムライの企画は、彼のその持ち味を、大がかりなオルケストルという形式ではなく、せいぜいギター一本程度の伴奏にのせて、じっくり味わおうというものだった。このアイディアは、かつてアライ氏が出していた機関誌の付録に「ヴィック・キット」として、カセットでわずかながら世に出たことがある。それが実に素晴らしい出来だったので、その世界をきっちりした作品に高めるのが今回の彼等の渡航の目的だった。

 かつて泊まっていたホテルが満室だったので、われわれは別のホテルに宿を取った。それは、クリシー広場から少し西北にある三叉路を左に折れたあたりにある、アラブ人の経営する鄙びたホテルだった。そこはバスつきで二千円ほどと安く、フロントの兄ちゃんも愛想が良かったのでわれわれはそこに泊まることに決めたのである。そのホテルは「サヴォイ」といった。その後、このホテルの快適さは、われわれを通じて同じ目的でここを訪れる日本人の間に語り継がれ、のちのちまでわれわれの愛用するところとなる。私は屋根裏部屋を取り、アニキとくまちゃんは一階下のツインを取った。私の部屋は当然ながら天井が斜めになっていて、窓は屋根の斜面に突き出る形になっていた。この窓からの眺めには趣があった。する事のない日、私はよく飽きもせずに界隈を埋め尽くしたアパルトマンの軒の連なりを眺めながらラジオを聴いていたものである。ラジオといえば、パリでのFM放送は実に充実している。FMの周波数帯いっぱいに無数のラジオ局があり、クラシックや民俗音楽、ロック、ジャズ、シャンソンなど、ジャンルごとに専門の局があるのだ。私がよく聴いていたのは、「トロピックFM」、「アフリカ・ヌメロ・アン」、「ラディオ・ラティーナ」の三局だった。これらはそれぞれ、カリブやアフリカのダンス・ミュージック一般、アフリカ専門、ラテン専門の局である。フランス語のDJに乗って聞こえてくるこれらの音は、レコードを聴くのとはまた違う空気感をもって私の耳に届いた。私はかつてキンシャサでもしたように、何本も放送をテープに録音して持ち帰った。居心地のよさを聞きつけて、翌日にはアライ氏夫婦もこのホテルに移ってきた。

 そうこうしているうちに「カーリー・ショッケール」のベースのトミヨリ氏とギターの大西先生が到着した。同じ飛行機で、千葉の市川にある「ヨカ・ショック」のベースのダイスケと歌手のイシさんも到着し、彼等も全員サヴォイに泊まることになる。おかげでアラブ人街にあるこのちっぽけな安ホテルには、総勢九人もの日本人が集まることになった。トミヨリ氏と大西先生の渡仏の目的は、パリでウェンゲやオロミデという、ルンバ・ザイロワーズの新しい動きに直に接することであり、ダイスケとイシさんは、ヴィクトリアに入り込んでそのマナーを学ぶためにキンシャサへ飛ぶことだった。こうして人数が増えてくると、逆に私は単独で行動することが多くなった。キンシャサ行きのチケットは手に入ったし、これからどっぷりザイールを味わうことになるのだから、ここでしばらくパリを味わっておきたいというのが本音だったのである。

 この考えにはトミヨリ氏が同調した。彼は、音楽的遍歴という点ではアメリカン・ブラック・ミュージックの王道を突き進んできた人だが、文学的遍歴という点ではセリーヌの愛読者だったので、われわれはふたりでよくモンマルトル付近を散策したり、サクレクール寺院を探検したりした。ある時は煤けたアラブ人街を抜け出してサン・マルタン運河やセーヌ川のほとりを散歩し、ブレッソンの写真に出てくる風景の中を缶ビールを片手にぶらついた。フランス人の労働者が屯ろする立ち飲みの酒場で夜を過ごし、煤けた場末のヨーロッパを心ゆくまで味わった。またある時はホテルの裏手から北に広がるアラブ人街の安メシ屋めぐりをした。なかでもホテルのすぐ裏通りにあったパキスタン料理店は最高だった。かつてカラチのエアポート・ホテルで食い倒れたのと同じ事を、私は再びやらかした。 そこはカルトでフルコースをとっても二千円そこそこという安値でありながら、ワインに始まって、前菜に各種サモサ、スープ、魚のカレー、肉のカレー、サブジ、タンドールと来て、デザートにコーヒーまで付くという充実ぶりだった。おまけにチャパティは食べ放題だったので、私は本当に動けなくなるまで食い、そのまま部屋に帰って寝てしまうことも多かった。あとパリでうまかったのは、アラブ人のサンドイッチ屋の奥でやっているクスクスだった。これもほんの五百円ばかりの金で腹一杯に出来るところが、貧乏なわれわれにはありがたかった。しかし何もけちっていたばかりではない。時には山ちゃんに案内してもらって、うまいという評判のフランス料理店へも行った。しかし、一万円以上するコースを頼んだのに、出て来たものがどう見ても雑巾のような肉の鍋敷きや、揚げた大量のじゃがいもだったので、私は失望を禁じ得なかった。

 その間に他の連中は、それぞれの目的に向かって行動していた。アニキとくまちゃんと大西先生は、ビバのレペに入り浸るようになった。特に先生はリード・ギタリストのボンゴ・ウェンデと意気投合した。われわれはそれを見て大笑いした。なぜなら彼等は、弾くギター・フレーズはおろか、性格や癖や体格まで瓜ふたつだったからである。約束事にルーズな点や、酒飲みであるところまでよく似ていた。アライ氏夫婦はジョー・ノロのレコーディングのためのリハーサルを開始し、ダイスケとイシさんはヨーロッパにいるヴィクトリア関係者から情報を収集していた。そうこうしているうちにビバのコンセールの日になり、われわれ日本人は大挙して見に行った。山ちゃんやパリ在住の我々の連れの連れまで含め、参加者は総勢二十人近くにのぼった。天井の低い会場は例によってザイール人たちで埋め尽くされていた。しかし、オロミデ、ウェンゲと聞いてきた耳にとっては、ビバの音はどうしても古くさいものに聞こえた。やはりビバは所詮、ウェンバ親方の日の丸バンドだった。それでもわれわれは長い間聴き親しんできた往年の名曲に酔い、明け方まで踊った。コンセールでの選曲に古いものが多いことが気がかりではあったが、それは彼等が過去の栄光にすがりはじめていることの現われだと薄々感じさせられた。 こうしておもしろおかしいパリでの日々は終わりを迎え、私とアニキとくまちゃんは、翌日一足先にブリュッセルへと出発した。

 


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