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キンシャサ、再び

 

キンシャサ着

 

 ビバのパリ・コンセールを終えて、ブリュッセルへ向かうために北駅でホームを目指していると、ばったりオロミデに会った。「おお、どこへ行くんだ」と声をかけてきた彼に、われわれは「キンシャサ」と答えた。「そうか、オレもあとで行く、向こうで会おう」と言って別れた。この偶然は、何故か我々に幸先のよい予感のようなものを感じさせた。さて、私とアニキとくまちゃんの三人がブリュッセルから飛行機に乗ったのは、二月二十六日のことである。飛行機はブリュッセルからスイスのジュネーブ行きで、そこでカメルーンのヤウンデ行きに乗り換えた。その飛行機の途中の寄港地がキンシャサというわけである。そのスイス・エアの飛行機は実にゴージャスで快適だった。いわゆるメジャー・キャリアと呼ばれる航空会社のものに乗るのは初めてだったから、そのサービスの良さとゆっくりくつろげる雰囲気に感激した。なかでも、客室中央にあるスクリーンで、映画の合間に映し出される飛行機の現在位置表示は面白かった。ユーラシア大陸とアフリカ大陸が大きく映し出されたスクリーンの上を、ほんのわずかずつ進んでいく飛行機の影、さらに現在の飛行速度や高度、風向きなど、かなり細かいデータが表示されていた。それは見ているだけで空の旅を満喫するに足るものだった。むろん、この世のものとは思えないほど目の覚めるような、透き通った白い肌のスチュワーデスのおねえちゃんもことのほか美しく、まさしく架空の恋に落ちてしまいそうだった。

 八時間ほどのフライトの末、飛行機は降下しはじめた。くまちゃんは初めてのアフリカなのでとてもはしゃいでいた。私は、前回の顛末を思い出して気を引き締めていた。大きなバウンドとともに飛行機が着陸し、もうもうと巻きあがるすなけむりの向こうに、あの悪夢の要塞のような空港の建物が強い陽射しに照らされてそそり立っていた。われわれは手荷物を取って通路を進んだ。今回はちらほらとここで降りる客があった。まぶしい光の溢れ出す出口からタラップを降りた。われわれの進路の両側を兵士が囲んでいるのも前回と変わらなかった。しかし、今回は全員何事もなく建物に入って行った。乱雑に置かれたテーブル、ごった返すザイール人、入国審査も何もあったものではない。これこそザイールだ。 何本もの手が伸びてきて服をつかみ、眼鏡など金目の物を奪おうとする。われわれはひとかたまりになり、カバンを抱きかかえ、ポケットを手で押さえながら進んだ。もみくちゃにされて押し出された次の部屋は機内預けの荷物の運ばれてくる部屋だった。ここからは前に見ているので先刻ご承知だ。二年前と同じくコンベヤーなどというものはなく、荷物は飛行機の下から手押し車に乗せられて運ばれてくるはずだった。滑走路の方を見ると、果たしてまだ積み込みの最中だった。周りから何かとうるさくつきまとうザイール人たちを無視して、われわれは悠然とタバコを吸いはじめた。もう混乱に惑わされるわれわれではなかった。荷車が大きなガラス戸の前に横付けされる瞬間を見計らって、われわれは最前列に陣取った。多くの声がわれわれを非難したが無視した。われわれはなるべく堂々と行動したが、それでも避けて通れぬ関所が前方に待ちかまえていた。それはまさにすべての利権を掌握する越えがたい関所だった。すべての人波は、そのでっぷりと太った三人の役人の前で止まらなければならないようにしつらえられている。その時初めて、われわれは一番近くにいた若者を雇った。こういうときのために、十ドル札をバラバラにしてポケットに忍ばせていたのである。若者は狡賢そうな目で、すべてのみこんだという意志表示をした。われわれは揃って三人の役人の前に荷物を並べ、リンガラ語で訊かれたことに答えた。いくつかの問答のあと、型どおりのパスポート・チェックを終え、握手したその手に十ドル札を二枚握らせた。それを確認した若者は、「ズワ」と叫び、われわれは手際よく荷物をまとめてそこを出た。「ズワ」とは「つかめ」という意味である。長居は無用だった。若者と我々は小走りに出口を目指し、ややこしい奴等の来る前にタクシーを捕まえた。荷物を積みながらわれわれはさらに十ドルずつ若者に持たせた。タクシーは、一路、あの懐かしいマトンゲへ向けて走りはじめた。これが、キンシャサのンジリ空港の正しい通過のしかたである。

 およそ三十分後、われわれは懐かしの「ホテル・ディアカンダ」の前に立っていた。騒ぎを聞きつけて出て来たのは、他ならぬズジさんだった。私とアニキは、ズジさんと代わる代わる抱き合って再会を歓び、再びキンシャサでの楽しい日々が始まることになった。われわれは荷物をほどくと、即座に勝手知ったる街を「レストランMVM」に向かって歩きはじめた。今度は噂が広まるよりもわれわれの行動の方が早かった。どぶ板を踏んでその安メシ屋に入り、目を円くして見ているおやじの隣で、次々と慣れた口調で料理を注文し、ビールを酌み交わすこの日本人グループの急襲に、案の定、店は黒山の人だかりになった。そこで、ああキンシャサだと、アニキとともに感慨を新たにし、懐かしい「プリミス・ビール」を味わい、すえた臭いのするフフにポンドゥを包んでほおばった。われわれはそこで心ゆくまで飲み食いしたあと、黄昏時のキンシャサのレコード屋街を冷やかしながらディアカンダへ戻った。戻ってみるとズジさんが喜色満面で、休む間もなくビール攻撃を仕掛けてきた。われわれは受けて立ち、前回の旅行から帰国したあとのことや、今回の旅行の道中のことなどを夜が更けるまで話し合った。

 ズジさんの話によると、今キンシャサで活動しているバンドは、「ヴィクトリア」、「アンチ・ショック」、「ザイコ」それに「O.K.JAZZ」くらいだという。二年前はコンセールは概ね土曜日しかなかったが、今では木、金、土曜の夜に行なわれるようになってきたと言っていた。「それでも少ない方だ、十年前なら毎晩だった。キンシャサも大したことなくなってきたな。」と彼は残念がった。しかし我々にとってはこれでも濃い世界である。ズジさんは、程なくオロミデとウェンゲが凱旋ツアーをやるということを知らなかった。われわれは彼等に直接会って話を聞いていたから、その情報を提供した。彼は興奮した。「えらいことになったぞ、」通りを歩いてる奴等にふれまわった。「オロミデとウェンゲが戻ってくるらしい。」このふたつのバンドは、もはやキンシャサではウェンバを押し退けて人気を二分していたのである。この情報は、今度は逆にわれわれが発信し、キンシャサ中に行き渡ることになる。

 ところで、と我々は最も気になっていることを切り出した。「物価の方はどうなっている?」ズジさんは肩をすくめ、「今、はやりのダンスを知っとるか、『ビロコニョンソ・サン』というんだ。」「ビロコニョンソ」とは、「すべてのもの」、「サン」はフランス語の「百」で、彼の説明によると、そのあとに「ミル」、つまり「千」が省略されているというのである。つまり、何もかもが十万ザイールもする、ゼロが多すぎてわからん、という意味だ。もはやザイールのインフレも末期的だった。ディアカンダの泊まりが二年前の約六倍、ビールやコカなども五倍程度に跳ね上がっている。とはいっても、ザイールに対するドルのレートはそれを遥かに上回る比率で上昇していたから、実質的には三分の二近くに下落していたのだが。ザイールを持っていなかったわれわれは彼に両替を頼んだ。現地通貨のことなど全く心配していなかったのである。すべては周りのザイール人たちがやってくれることを知っているからだ。「ああ、わかったよ、明日用意しよう、今日の払いは貸しておく。」くまちゃんは、地球の裏側でまるで連れ同士のように金を貸し借りするわれわれに目を見張っていた。

 

ディアカンダの新顔

 

 翌日、私は前回なにくれとなく面倒をみてくれたアリを探しに出た。しかし、二年前、私が彼のために借りてやった部屋はとっくに人手に渡っていた。かつてのアリの知り合いやヴェヴェ周辺の音楽関係者にも会ったが、彼の行方を知る者はいなかった。彼の情報を最初にもたらしてくれたのは、散髪屋のフレディだった。「奴はアンゴラへ商売に出かけて、紛争に巻き込まれて死んじまったよ。」と彼は言った。さらにカルテ・ブランシュの近くを通りかかったとき、声をかけてきた「ケンチャン・ムジカ」の歌手は、アリはハッパのやりすぎで肺をやられて死んだと言った。またある者は故郷へ帰ったと言い、別の男は大金を得てナイロビに高飛びし、そこからヨーロッパへ脱出するつもりだと言った。要するにここにはいないことだけは確かなようである。ホテルに戻ってズジさんに訊いてみても、ここ一年ほど会ってないなという頼りない返事だった。まあ仕方がない。三ヶ月もここにいれば、縁があれば会いに来るだろう。そのかわり、ディアカンダ周辺に出入りしているなかに新顔がいくつかあった。彼等はほぼ時を同じくしてわれわれの前に現われ、「音楽のことは俺に任せろ、案内してやるから」と口をそろえて申し出た。彼等はホテルに近い者から順に、すぐとなりに住んでいるトムスと、その親友のアントワーヌ、そしてモロカイに出入りしているゴダールである。この三人は、ほぼ歳格好が等しく、いずれも二十歳を超えたか超えないかぐらいだった。そのうちトムスの家が最も裕福で、彼はよく新品の靴やシャツを見せびらかしていた。

 アントワーヌは、実は私は彼に最も信頼を寄せているのだが、彼はその目つきと人相で、今まで数え切れないほどの損をしてきたに違いないと思われるほど不器量だった。その眼窩は深く落ちくぼんで、ごく普通に人を見るときでさえ、相手を睨み付けているかのような印象を与え、いつでもけんか腰かと思われるほど表情に緊張感があった。おまけに声は野太く、口下手なので喋り方もぶっきらぼうだった。さらに悪いことに、竹を割ったような性格で曲がったことを嫌い、怒りだしたら瞬間湯沸かし器だった。しかし、笑うときは真っ白な歯を剥き出しにして、それは面白そうに腹を抱えて笑うのだ。そしてとても細やかでやさしい気持ちの持ち主で、こっちがあきれるぐらい欲というものがなかった。多くのザイールの方々には失礼だが、彼は代償を要求されずに気持ちだけでつき合える数少ないザイール人のひとりである。そんなわけで、私は今回のキンシャサ滞在中のかなりの部分を、彼とともに過ごすことになった。ゴダールは三人の中でただひとりのミュージシャンだった。彼のグループは「アズノワ・セレクシォン」といい、主に彼の故郷であるバ・ザイール州地方の音楽をベースにしながら、典型的なルンバよりも、より土着的な音楽を目指していた。

 さて、私は続いてかつてのルンバ・ライのメンバーを捜しはじめた。まずはフィストンを訪ねて、彼の住むゾーン・デ・リングァラへ歩いて行った。街並みは二年前とほとんど変わっていない。私が初めてロコレを見た小さな森の集落も、その木陰で昼寝をしているおっさんの足の組み方まで同じだった。鶏を追いかけて走り回っていたガキのひとりが私に気づいて声をかけてきた。さらに何人かの若者が出て来た。たった一回会っただけなのに、その集落の人はだいたい私のことを覚えているらしい。何人かの若者と立ち話したあと、私はフィストンの家への道を急いだ。

 リングァラに入ると、かつて見慣れていたフィストンの家付近は取り壊され、街外れに新しい煉瓦の平屋建てが軒を連ねていた。通りで洗濯をしているおばちゃんやフフをかき回しているおばちゃんに家を訊ね、奥まった長屋のひとつに彼の家を見つけた。彼は留守だったが、家族が私を覚えていた。なかでも相変わらず酒臭い息をして出て来たおやじは、「おお、よう来たよう来た、まあ飲め」と言って、自分で作ったという何の酒かわからないどぶろくを持ち出してきた。そこで数時間ほど彼の帰りを待ちながら木陰でおやじと話し込んでいたが、日の傾く頃になってもフィストンは帰ってこなかったので、伝言を残してその日はホテルに帰った。見慣れた風景、聞き慣れた言葉、ぎらつく太陽、止まった時間が私を迎えてくれた。二年ぶりのキンシャサはどこも変わった様子も、日本で懸念された危険な空気もなかった。後日伝言を聞いて私を訪ねてきたフィストンは、例のフランクフルトのように巨大な唇をにんまりさせて、子鹿のようなはにかみの入り混じった笑顔でやって来た。彼も少しも変わっていなかった。相変わらず貧乏で、音楽について小難しい理屈ばかり並べ立てていた。彼は既にルンバ・ライに見切りをつけ、今は泥臭いミュージシャン稼業を辞めて、教会に帰依するギタリストになっていた。「オガミサマガ、ワタシヲオタスケシテクレマース。」

 翌日、私は生活用品の買い出しのために都心へ出ることにした。私は相変わらず多くの連れがやって来る午後を有効に使うために、朝早くから起きて行動した。その日は私が起き出すより早く、シンバ君がやってきた。ズジさんが伝令を遣って彼を呼んだらしいのである。彼はことのほか私との再会に感動したらしく、本当に涙まで流して喜んだ。そして、二年前にしたのと同じように、都心へ連れだって出た。タクシー・ビスも、ぼこぼこの道路も、ぬかるみの市場も、すなぼこりの六月三〇日通りも同じだった。まずは大使館への挨拶。大使は替わっていたが、忠告は二年前と同じだった。日本人までが同じ反応をするのを見て私は面白がった。キンシャサは日本人をもザイール化するのだ。そして階下へ降りて両替しようとした。しかしここは二年前と大きく違っていた。とてつもないインフレのために闇市が横行し、銀行に金が集まらなくなって、現金の払い出しが困難を究めていたのである。私は一〇〇ドル替えようとして、係りのおばちゃんにやめたほうが良いと言われた。何故かと訊くと、おばちゃんはよっこらしょとかがみ込んで、しでひもで何重にもくくられた、一辺が六〇センチはあろうかと思われる、どでかい立方体に束ねられた札束をどかんとカウンターに置いた。「これを持って帰りたいと言うの?」私は呆気にとられ、今の公定レートを訊いた。一〇〇ドルが、約三五万ザイール。しかも最高額紙幣の一万ザイール札が市場に出回らないために、銀行は小額紙幣をスコップでかき集める始末だった。「これを数えるのに一日かかるのよ。」それを聞いてわれわれは外へ出た。

 仕方なく、少し回り道をして都心を見物することにした。表通りは二年前と大差なかったが、裏通りはかなり荒れていた。明らかに火災があって窓ガラスの消失した黒いビルが何軒もあった。なかには倒壊したまま放置され、人々がその瓦礫を踏み越えて歩いている場面にも出くわした。それは日本には詳しく報道されなかった部族紛争による市街戦の名残だった。界隈の店の多くがシャッターをおろしたままでゴースト・タウンのようになり、その付近には不穏な空気が漂っていた。そんなところを見る限り、大使の忠告は事実だった。しかし他の地区は、特に私の滞在していたマトンゲ周辺はそんな不穏な空気は微塵も感じられず、人々は平和に暮らしているように見えた。また、実際トラブルにも遭わなかった。しかし用心に越したことはない。日本人の常識をはるかに越える事態が、集団的に瞬時に発生することは、彼等の気性を知る者にとっては容易に想像がついたからである。さて、そんな街を歩いてわれわれは市場に出た。そこは二年前と変わらぬ活気に満ちていた。どうやら、都心と、市場から下町にかけてとは、世界が違うようである。そこで私は例によって両切りタバコのザイール・レジェールを買い求め、洗濯物を干すロープや電池、シャワーを浴びるときに使うたらいや食器などを買った。必需品の現地調達は、そこで新しい生活を始めるのだという気持ちの切り替えになって、いつやっても楽しいものだった。そうして沢山の荷物をかかえて、込み合うタクシー・ビスに乗り、ホテルに戻ったのは昼過ぎだった。アニキとくまちゃんが起きていたので、シンバ君と四人で飯を食いに出た。

 

アライ氏他のメンバー到着

 

 このようにして、平和なキンシャサでの生活がゆっくりと始まっていった。トムスとアントワーヌは毎日のようにやって来ては、われわれをレペやコンセールに連れ出した。一週間がたつかたたないかの頃、パリからブリュッセルを経由して、アライ氏とダイスケとイシさんが到着した。彼等は、「ザイールへ行くんだから、なにがなんでもエール・ザイールに乗る」と言って、料金が高いのを承知で初志を貫徹した。機内の様子はスイス・エアとは比べものにならないほど賑やかなものだったらしい。なんでも非常用の酸素マスクの垂れ下がったままの座席まであったという。彼等の到着によって、ディアカンダは一気に活気づいた。日本人が六人も泊まることになったからである。六人の日本人のキンシャサでの行動は各人各様だった。アニキは実はキンシャサはこれで三回目で、今回は特に目的を設けずにここの空気を味わいに来た。思えばそれは最も贅沢な旅の姿である。くまちゃんは初めての訪問だったが、パーカッションが好きなので、二年前に私が弟子入りしたイチャーリ先生に教えを乞おうとしていた。アライ氏はパリでジョー・ノロの録音を終え、その企画の総まとめのために、キンシャサに残っている筈の彼の古い曲のテープを買い取ることなど、主に仕事のために来ていた。市川のヨカ・ショックのふたりは、ヴィクトリアにくっついてダイスケはベースを、イシは歌を習うことによって、彼等のクール・エレガンスのマナーを実地に身につけようとしていた。私は今回の旅行では、奥地への音楽の旅を計画していた。このように、六人が六人ともほぼバラバラの目的を持っていたので、起きる時間も違えば、出ていく先も違っていた。しかし、このことは結果的に周囲のザイール人たちに非常な混乱をもたらすことになる。

 というのは、彼等は日本人がやって来たら自分たちが案内役をかって出ることをもって誇りと考えていたのだが、われわれ日本人がザイールの音楽をよく知らなかった頃には、日本人は何を見ても珍しがるので、かりに何人かが訪れたとしても、だいたいひとまとめにして案内することができた。二年前に私が滞在したときも、私はたったひとりだったから、誰がその日私を案内するかをめぐって小競り合いがあったくらいである。しかし、その後われわれは耳が肥え、ここへ来る目的も趣味趣向も多様化していった。今回はそんななかでも最もうるさい日本人が一気に六人もやってきたので、その多様でわがままな要求を個別に満たさなければならなくなったのである。付近のザイール人関係者による大人数の日本人案内部隊がズジさんのもとに組織され、彼等は朝早くからディアカンダの下に陣取って、日本人が起きてくるのを待った。当然、日本人にも相手の好き嫌いがあったので、人事は難航を極めたようである。また、日本人に取り入って一花咲かせてやろうという、不埒な考えの輩を排除しておかないと心象が悪くなってしまうというので、彼等は細心の注意を払ったようである。しかしアリのいない今、方々に顔が利いてしかも心のさもしくない人間を集めるのは大変なことだったに違いない。それは、日によってわれわれにつき従うメンバーが、微妙に入れ替わったりしたことを見ても容易に察しがついた。

 ともあれ、われわれは行動を始めた。たいていひとりの日本人に二、三人のザイール人がついた。私の場合、フィストン、アントワーヌ、シンバという具合である。しかしこの三人の場合、お互いがあまり仲良くなかったので、揃ってお出ましとは行かなかった。だからかえって私が朝起きて階下に降りて行ったとき、偶然顔を並べた彼等の誰に声をかけてよいものか気を遣ったものである。もちろんこの事態は我々が望んだことではない。われわれは既に単独で行動できるほどにこの街には習熟していたから、出ていこうと思えば、勝手に歩いてゆけばよかったのである。何日かたってわれわれの方が気を遣うのに疲れてきた頃、われわれは勝手に行きたいところに向かってすたすたと歩き出すことにした。そうすると後ろの方で、誰が誰を案内するかをめぐって小競り合いが起こっているのが聞こえた。何ブロックか先に行くと、そのうちの数人が追いすがってくるのを相手にするという状態だった。彼等が毎日だいたい決まったところで追いつくものだから、そこで小さな店を開いているおやじに、「今日は揃ってどこへお出ましかね」などと冷やかされたものである。これはシステム・ザイロワであり、われわれが否応なしに従わなければならないしきたりだった。

 私はフィストンやアントワーヌとともに、まず質の良いロコレを探しに出かけた。前回持ち帰ったものは、湿気の多い日本の気候と、練習やライブで激しくぶったたいたことでとっくに破損してしまっていた。帰りにばたばたしなくていいように、必要なものの第一位にあげたのである。私は焦らずゆっくり、彼等のシステムを利用して最良のものを手に入れようとした。と同時に、様々なパーカッションと、奥地の部族についての情報を、同時に収集しはじめた。アニキはまるで熱海の温泉にでも来たかのように、ゆったりとあたりの空気を楽しんでいた。くまちゃんはイチャーリ先生に連絡を取るべく、マテテに住むズジさんやその他の人に声をかけはじめた。彼女はまだリンガラ語が不自由だったので、アニキの助けが必要だったが、われわれはまずザイール人に彼女の名前をどう紹介しようかと考えあぐねていた。というのは、彼女の名字はスワヒリ語で女性のあそこを、さらに名前のほうはリンガラ語であの行為を連想させるものだったからである。仕方がないので今まで通りくまちゃんと呼ぶことにしたが、案の定スワヒリ語のわかる東部出身のザイール人などは、その名前が出るたびににやついたものである。

 ダイスケとイシは、来たときと同じく初志を貫徹して、すぐにヴィクトリアの首領であるエメネヤ・ケステールの家に入り浸るようになった。ゾーン・デ・バンダルにあるエメネヤの家に初めて行ったとき、私もついて行ったのだが、ダイスケは家に着くなり腹痛を起こしてトイレをかりた。出て来たとき彼は、「日本人多しといえども、ザイール人のトップ・スターの家でたて続けにうんこをした奴は他にはあるめえ。」と豪語した。彼はかつて、ウェンバの家でもうんこをしたことがあるらしい。私は尊敬するドラマーのパチョ・スターやジュジュ・シェに会えるかと期待したが、別のドラマーしかいなかったので、私とヴィクトリアとの関係はそれ以上進展しなかった。

 さて、最もわれわれをはらはらさせたのは、アライ氏の仕事である。彼は着いたその日にエディシォン・ヴェヴェに赴き、私が二年前にアンチ・ショックのレペの場で席を譲らせたあの重役たちと商談を始めていた。しかし遊びならともかく、一国の基幹産業を牛耳るほどの大物に、青臭い日本人が対等に渡り合えるものとはわれわれにはとても思えなかった。レコードの買い付けの件はどうにかなったようだが、ジョー・ノロの古いテープを手に入れることは難航した。それに、かりにテープが手に入っても、それが本物かどうかを確かめるのはほぼ不可能だった。それが録音された当時のキンシャサのレコーディングシステムは、半インチか一インチのオープン・リールだったが、今のキンシャサでその設備を持っているスタジオを捜すことは絶望的だったからである。案の定、彼は手こずっていた。しかし三週間ほどの短い彼の滞在期間中に、何とかモノを手に入れた。しかしやはりそのテープのかかる器材のあるスタジオが借りられなかったので、それが本物かどうかは日本に帰るまでついにわからなかった。その音は、グラン・サムライ・レーベルの企画第一弾のジョー・ノロのアルバムで聴くことが出来る。このようにして、われわれは思い思いにこの街を歩きはじめ、案内をかって出たザイール人たちは何くれとなく面倒を見てくれた。煩わしさはあったが、おかげで役に立つ情報も得られた。それに彼等が一緒に歩いていただけで、目には見えないがわれわれの安全がより強固なものになっていたのは確かである。それを私は、奥地の旅を続ける過程で思い知らされることになる。

 

没落したルンバ・ライのその後

 

 

 われわれにつきまとったのは、もちろんわれわれに有利な人ばかりではなかった。ある日、かつてのルンバ・ライのメンバーがその後どうしているのか知りたくなって、フィストンの案内で、そろってリメテ地区で行なわれたコンセールに出かけたことがある。ルンバ・ライは、あの輝かしい来日コンサートを終えたあと、華々しく故郷に錦を飾るはずだったが、興行で得た収入をすべてマライに持ち逃げされたまま無一文で帰郷したために、内紛が起こってそのまま分裂してしまった。ときどきキンシャサから発せられるフィストンの手紙の、切々と訴えかけるような文面から、その帰郷は華々しい凱旋どころか、期待に胸を膨らませて待っていた彼等の関係者たちから、さんざんにこき下ろされたことがうかがい知れたものである。フィストンはそのショックと失望のあまり俗世の音楽の道を捨て、すべて世にはびこるものは、いずれ水の泡のように消えてしまうものだという無常の境地の諦観を得て、今では心静かに神を崇める身となっていた。彼は古巣のルンバ・ライのメンバーと連絡を取るのを嫌がったが、われわれがどうしても会わせろと、いじめにも近い要求をつきつけたので、しぶしぶ案内を引き受けた。

 果たしてルンバ・ライは人知れず存在していた。行ってみると、キンシャサの街はずれのマテテの、さらにはずれにあるあの懐かしいサロン・ルンバ・ライの店の前に、二年前に幾多の困難を克服して引きずり出した、あのばかでかいフォードのステーション・ワゴンが鎮座しているのが見えた。その裏から野原を越えて山手にのびる一本の細いあぜ道を伝っていくと、日本の民家のような、あの懐かしいサングァ家の土壁の家屋が今も存在していた。そこには、やはりマライの両親と兄のリンゴが住んでいた。その夜、マテテからさらに歩いて一時間ばかりの、リメテにあるうらわびしいバーで、われわれは栄華の残りカスのような、没落したルンバ・ライの成れの果ての姿を見た。来日したメンバーのうち、グループにとどまっていたのはたったふたり、あとはほんのがきんちょだった。聞くまでもなく演奏はぼろぼろで、さらにわれわれを失望させたことには、学芸会じゃあるまいし今までの古い曲をご大層にお稽古する始末だった。全く演奏に心というものが感じられず、われわれうるさがたの日本人は、ステージの真ん前に陣取ってブーイングをまき散らした。ドラマーなどは、私が聞いていてもいらいらするような演奏だった。われわれが「新しい曲はないのか」とリクエストすると、彼等は凍り付いてしまった。業を煮やしたわれわれは嫌がるフィストンを無理強いして、全員でそのステージを乗っ取り、アルバム「ミランダ」に収められている曲を何曲か心を込めて演奏した。夜半を過ぎても客がまばらだったため、われわれはすっかり興ざめしてそこを出たのだが、もはやその辺鄙な場所を通るタクシーなどなく、真っ暗な道を二時間以上もかけて歩いてマトンゲまで戻ってきた。

 フィストンは、「だからイヤだと言ったのです。」と日本語で言った。しかし、ことはそれだけでは済まなかった。翌朝起きてみると、階下に昨夜の残りカスのうち三人がたむろしていたからである。彼等はそれから毎日来るようになった。「ワタシタチ、オカネ、アリマセン、タベル、アリマセン、フクモ、アリマセン、ニホンジン、ミナトモダチ、ワカル?」そう言って彼等は一日中われわれをつけ回した。その傍若無人さは、いかに大人のズジさんをもってしてもとどまるところを知らなかった。まさに、来日公演初日の渋谷状態そのままだった。われわれはいい加減頭にきて、そのうちのひとりを路地の奥に連れ込んで取り囲み、六人がかりで日本語によるあらん限りの罵声を浴びせかけて脅した。「ええかげんにせんかいこら。お前らなに考えてけつかんねん?。いつまでも月夜の晩ばっかりとちゃうぞ、おら。下手に出とったらええ気んなりやがって、こら、なんか言うてみい。」とぜいろくが切り出すと、「なんか言ってみろっつってんだよ、耳聞こえねえのかこの野郎、なんだって?、聞こえねえよ、もっとはっきり言わねえかよ。口きけねえのかよ、このバカ。」とべらんめえが後を継いだ。そいつは若い頃にはタブー・レイのバンドで演奏していたこともあるほどの人物だった。私は情けなかった。何を言われているのかわからない彼は、それでもわれわれが本気で怒っているのを感じとって這々の体で逃げていった。

 しかし、次の日また次の日も彼等はやって来た。かわいそうにフィストンはもう足を洗ったというのに、昔のよしみから彼等になんとか関係をつけろと脅される始末だった。こうなってしまえば、もはやミュージシャンでも何でもなく、単なるごろつきだった。カスの三人は全員がかなり遠いところから来ていたので、われわれは申し合わせて彼等がここにたどり着く前に外出することに決めた。そして、われわれの間だけで、彼等にミンミン、ブンブン、ドジョウと名前を付けて、彼等のことを噂し合った。これは、いかに不埒な奴と言えども、ザイール人たちに知られてしまっては、後々悪いと思ったからである。しかし、勘のいいトムスやアントワーヌはすぐにそれを見抜いて、「ニホンジン、ニゲル」と言ってキッキッと笑い出した。ルンバ・ライの残党すべてが没落したわけではない。パリにいたグロリアのように、既に足場を固めつつある者もいた。しかし、来日公演の後半で体調を崩した歌手のデスゥカとダンサーのミランダは既に他界していた。私がよく付き合っていた歌手のバテクルは大学に通ってアメリカへの国費留学を目指していた。女の股間を濡らすかすれ声のディッキー・レ・ロワは、ショック・スターズに移っていた。日本盤で出たルンバ・ライの一枚目と二枚目のアルバムで、実にきらびやかなギターの音色を披露していたデンガスは、自分のバンド「ストゥカス・マンゲンダ」を率いていた。フィストンをサポートしてリズム・ギターの特異な才能を発揮していたワジェリは、商売のためにアンゴラへ行っていた。私が最も仲の良かったエドゥシャは、日本を目指して既にナイロビに出国していた。シモロは、国立民俗音楽楽団の正規メンバーに選ばれ、西アフリカのツアーから戻ったところだった。彼はさらにオロミデのキンシャサでのバンド、「カルチェ・ラタン」のドラマーとしても活躍していた。かつての残党はルンバ・ライに見切りをつけて、自分で自分の可能性を探って動いていた。残っているミンミン、ブンブン、ドジョウの三人は、彼等と比べるとまさにカスだった。この三人の粗相はリンゴの知るところとなり、彼等はたちどころに謹慎処分を言い渡されて出てこなくなった。われわれの周りのザイール人たちが、ニゲルとか、サケルという新しい日本語を覚えたのはこの頃である。

 

奥地への旅の計画

 

 さて、私は奥地への旅の計画を立てはじめた。パリで買ってきたミシュランの地図を広げて、ザイール人たちにどこへ行けば面白い音楽が聴けるだろうかと訊くと、彼等は口をそろえて自分の生まれ故郷の自慢話を始めた。バ・ザイールの出身者はキントゥエニの三拍子ほど腰にくるリズムはないと言い張り、バンドゥンドゥの人間は、あのエメネヤやリジョの歌を聴け、あれこそがわれわれの心だと自慢した。さらにカサイ州の男は、なにを隠そう、ムトゥアシこそがザイールを代表する伝統音楽だと言い張り、何を言うか、スウェデ・スウェデの近頃の台頭をみてみろ、キンシャサじゅうあれ一色じゃないかと、赤道州出身の若者が反論した。要するにどこへ行っても等しく音楽だけはありそうだった。カサイ州の奥地にはかねてから魅力を感じていたし、赤道州に古リンガラ語の起源を求め、ロコレのルーツを探るのも悪くはないと思った。赤道州の首都のンバンダカという都市は、ザイール河の中流にあったので、キンシャサから川を遡行して行くよりも、上流から降りてくる方が効率的だと考えた。ただそれだけの単純な理由から、私はまずカサイ州を目指し、東部の高原を北上したあと、キサンガニからザイール河を下るというコースを考えた。果たしてそれが滞在期間中に実現できるかどうか気にはなったが、英語版のガイドブックによると、キンシャサの東、バンドゥンドゥ州の首都キクウィットから東に入ったイレボという町を発して、西カサイ州の首都カナンガを経て南方のシャバ州ルブンバシにかけて走っている鉄道は、週に三本の列車があるとされていた。さらにルブンバシの手前で分岐して、タンガニーカ湖へ向けて走っている別の路線も同じくらいの頻度で走っているとされていた。その終点キンドゥからキサンガニまでは悪路を行く覚悟が要りそうだった。キサンガニからンバンダカを経てキンシャサに戻るザイール河下りのコースは、月に三便となっていたし、これについては何人かの日本人からも情報を得ていた。ヤバくなったら飛行機で飛ぶと大雑把に考えて、とりあえずこの欲張りな旅程の実現を目指して情報を集めることにした。

 キンシャサとキクウィットの間は、道路が舗装されていて、毎日バスが運行されている。そこから鉄道の起点イレボまでは、ヒッチハイクしか手段がないことが明らかになった。イレボから先の鉄道の運行状況を訊くために、キンシャサとマタディを結んでいる鉄道の駅へ行ってみた。ともにSNCZ(ザイール国鉄)が経営していたので、そのぐらいわかるだろうと思ったら、駅員の誰に訊いても、さらに都心にあるSNCZの事務所へ行っても、さらに通りに並んだ旅行代理店に訊いてもさっぱり要領を得なかった。ここで初めの「?」マークが点灯した。イレボからカナンガを経て分岐点カミナへ出、そこで乗り換えてキンドゥへ至る鉄道の旅の日程がたたなかったのである。しかしガイドブックによれば、それらはともに二、三日の行程であるとされていた。だから乗ってしまえばある程度読みがはかれるだろう。もし万一のことがあればタンザニアへ出て、再入国すればよい。キンドゥからキサンガニまでもヒッチハイクしか手がなさそうだった。そしてキサンガニからの河下りは、キンシャサに到着するフェリーの船着き場での話によると、大小さまざまの会社の運営するフェリーが多数運行しているので心配は要らないという話だった。つまり確実だったのは、旅程の最初と最後の部分だけで、奥地の鉄道はおろか、キクウィットから先でさえ、何がどうなっているのか誰も知らないのである。これは、ザイールという国が、観光客を受け容れるような体制が整っていないことをよく表わしている。旅行代理店とはいっても、把握しているのはキクウィットからキンシャサを経てマタディの間ぐらい、それも幹線道路や大きな川が流れている流域部だけに限られていた。私の計画は、まさに奥地への探検旅行になりそうだった。

 フィストンをつれて情報収集のために町をうろついていたちょうどその頃、ディアカンダに白人のバック・パッカーが流れて来た。彼等はカナダ人とニュジーランド人のふたり組で、ケニアからウガンダを経て陸路キサンガニに入り、そこからカヌーに乗ってキンシャサまで下って来たという、それはまさにザイールを通過してひどい目に遭う定番コースだった。彼等の情報はホットだった。それによると、ザイール国境を越えてからキサンガニまでの陸路は、想像を絶するナイトメアだったという。彼等はトラックの荷台に乗ってそこを通過したのだが、赤い泥と蚊に苛まれ、度重なるスタックや食料と飲料の不足、なお悪いことに燃料が底をついたためにわずか数百キロの距離をひと月近くかけて移動したというのだ。さらに、キサンガニでカヌーを買ってザイール河に漕ぎだしたのはいいが、雨期で水量の増加した河は思いのほか流れが速く、方々でフェリーが座礁してそのまま放棄され、その周りにはいくつもの腐乱した死体が浮いていて、夜ともなると、むき出されたその目が哀れっぽい眼差しで彼等を呼び寄せたというのだ。「河にはフェリーが頻繁に行き来していると聞いていたが」と私が疑問を投げかけると、「とんでもない、遡ってくる船は一隻も見なかった」と彼らは口をそろえて言った。どうなっているのかわからないので、すべての情報と彼等の話をありのままにズジさんに話して判断を仰いだ。ズジさんも即座には判断できなかったが、情報収集に努めてくれた。そして得た結論はただ一言、「行って来い。」それだけだった。

 で、どんな情報を得たのかと訊いても、結局訊く人すべてが相矛盾することを答えるので、行って確かめないとわからないという、何とも心細いものだった。但し、ひとりでは危なすぎるから、誰かザイール人を同行させろと言った。それについては既にフィストンと話が付いていた。彼はかねてから日本へ行くことを目指しており、そのためにナイロビへ行くことを志していたから、行程の半分の伴侶はそれで決まりだったのである。かなり暗い気持ちながらも、私は旅の決意を固めた。出発は、アニキとくまちゃんがキンシャサを離れる四月の頭と決めた。

 

旅立ちまでの日々

 

 私はその前に、是非とも大西洋を見ておきたいと思っていたので、それまでの日程を使ってマタディから先の、海岸の町ムァンダへ行くことにした。アニキとくまちゃんにそのことを話すと、彼等も行きたいと言うのでその小旅行は小手調べの形で実現することになる。マタディまでは前回の旅で二回往復しているから、勝手知ったるひとの国だった。しかし地図を広げてみると、そこから先の道は未舗装の頼りない線が延びている。私はそこでヒッチハイクとはどんなものかを試してみるつもりだった。そして出来ることなら、マタディまでの往路か復路かのどちらかに、鉄道の旅を組み込みたかった。ガイドブックによると、豪華装備の特急列車が運行されていると書かれてあったからである。この国での豪華というものに興味があったのだが、その夢はたちどころに打ち砕かれてしまった。ズジさんに、そんなものは生まれてこのかた見たことも聞いたこともないと言われたからである。その線路はマテテの街なかを横切っていたが、週に三本、それも鈴なりの人を乗せて、ぼろぼろの客車がゆらゆら動いているだけだ、やめた方がいいと諭されてしまった。しかし、たとえ普通列車であっても、一度鉄道に乗ってみたいというこの鉄道少年の夢は、最後まで捨てられなかった。

 ムァンダへ行く小旅行の期間を一週間と定めて、それまでの日にちをレペやコンセール三昧に明け暮れることにした。残された時間は一〇日あまりである。その頃、くまちゃんはイチャーリ先生と連絡がついて、日々練習に打ち込んでいた。もっともそれは、私が受けたあの腰の特訓のような厳しいものではなく、先生はかつての厳しい態度はどこへやら、いつもだらしなく鼻を伸ばしてやって来た。若い日本人の女の子に手取り足取りできると想像しただけで、このスケベおやじは射精しそうになっていた。練習場所はわれわれがキングストンと呼んでいる、バンギの吸い場のある家の中庭だった。そこはあまりにも金のない奴等は入ることが出来なかったので、鬱陶しい輩から逃れるのにはうってつけの場所だった。私は基本的にそれをやらないのでそこで金を使うことはなかったが、そこの住人たちは事情をよく知っていたので、特に私には目をつぶってくれた。私はその好意に応えて、彼等に珍しい日本のおみやげを配った。女たちが料理や洗濯をしながら私と話し込んでいると、よくアニキとくまちゃんが夢の続きを見ようとして、ダイスケとイシがレペの前に気合いを入れようとして、またアライ氏が交渉に疲れて入ってきたものだった。彼等は数時間をそこで過ごし、ある者は目をぎらつかせて飯を食いに行き、またあるものは目をとろんとさせて部屋へ帰っていった。

 またそこの連中は、よくわれわれを食事に招待してくれた。ザイールの様々な地方から出て来た様々な部族の人たちが寄り集まって暮らしていたので、彼等とともに中庭で大鍋を囲んでいると、珍しい郷土料理が次から次へと運ばれてきた。なかには見ただけではわからなかったが、話を聞いて食う気がしなくなった食べ物もある。その代表は、かぶと虫の幼虫のシチューだった。彼等はそれをキノコの一種だと言ってわれわれに食わせようとした。はじめにそれをほおばったのはくまちゃんだった。ずるっとした触感にちょっとヤバいと思ったらしいが、彼女はわれわれの見ている前でそれを呑み込んだ。ある女が笑い出した。「それ、ビンゾよ。」「ビンゾ?」もちろんわれわれはなんのことかわからなかった。きょとんとしていると、彼女は台所からビニール袋を持ってきて、中のものを見せた。「わっ」と声をあげたが後の祭りだった。大きな袋いっぱいに、象牙色をしたどでかい幼虫が何十匹もうごめいていたのである。われわれはとたんに食欲を失なった。くまちゃんに至っては真っ青になって言葉も出なかった。自分が食ってしまったものを思い出しては、笑ってみたり顔を覆ってみたりしていたが、もう手遅れだった。それを見て女たちはいつまでも豪快に笑い転げていた。その後、クマちゃんは何度もあれを思いだすのだが、見てくれの割には、結構うまかったと述懐している。ズジさんもまた、いつものようによくわれわれを料理に招待したり、部屋に家から料理を届けてくれたりした。また、毎度のことだが、よく土地の名士などがやってきて食事に招待された。

 われわれはまた、ヴィクトリアのレペに顔を出したり、アンチ・ショックやショック・スターズのレペにもよく行った。さらにゴダールの率いるアズノワ・セレクシォンや、ケンチャン・ムジカなどという、無名のバンドのレペも見に行った。そうした地元のガキバンドの演奏は、お世辞にもうまいとは言えなかったが、それでも元気さと土臭さは、われわれが十分楽しめるものだった。かつてビバの歌手として鳴らしていたセレ・レ・ロワという人物が、ヴィ・ザ・ヴィで日中レペをしていた。私は彼等が大変気に入って録音をとった。さらにシモロの案内でカルチェ・ラタンのレペも見ることが出来た。場所はオロミデの実家だった。当時まだあまりやる者がなかったが、彼等は女性ダンサーを前面に押し出した、よくアレンジされたスペクタクル・ショウの構想を練っていた。セクシーなレオタード姿の若い女性ダンサーの腰のめまぐるしい回転に、われわれの股間も熱くなったものである。

 当時、キンシャサのバンドの趨勢は、男臭さを以て良しとする傾向にあった。ヴィクトリアなどはその最たるものである。女性がステージに立つことはあっても、あくまで脇役かコーラス程度だった。アンチ・ショックや、かつてのルンバ・ライがそうである。その点カルチェ・ラタンは、そうした女性ダンサーのショウを含め、様々なアトラクションで女性を積極的に登用していた。こうした様々な実験が出来るのは、その首領コフィ・オロミデが、ヨーロッパで稼いだ金のかなりを、カルチェ・ラタンのために送金しているからだと言われていた。そんなことは実に珍しいことである。というのは、たいてい金を持った者はそれを手放そうとしない、というか、利益を独占するためにバンドのトップを目指すからである。全ての利権はトップ以下、フロントの主要メンバーにだけ割り振られ、バック・ミュージシャンには回ってこない。だから、いいアレンジやいい演奏など、よほどの経済力のあるグループでないと実現できない。聴きこめばわかるのだが、われわれが当初いい演奏だと思いこんだものも、彼等にとってはおっつけ仕事以外の何者でもなかったのである。結局、それはわれわれにとって物珍しかっただけのことだった。

 カルチェ・ラタンは、その肝心の演奏も実に洗練されていた。それでいてヨーロッパぶっているところもなくて、あくの強さがしっかり保たれていた。勢い一発の演奏でもなく、ボスの顔色をうかがいながらのおっかなびっくりの演奏でもなく、それは互いによく調和のとれた、モダンなアレンジが実現していた。彼等はそれをデモクラシーだと言った。当時はこの言葉がミュージシャンたちだけでなく、人々の口から盛んに聞かれるようになっていた。折しも、今は亡きモブツ大統領は既にキンシャサを離れ、東部のキブ湖畔の保養地に引っ込んで久しかった。二年前は街角でモブツの悪口を言うなど御法度だったが、この頃になると誰もが大っぴらに体制批判をした。われわれにとっては古くさい言葉だが、彼等の社会システムのなかには民主主義の伝統は薄かったのである。ともあれ彼等は音楽を実践する場で、それを実現しているとでも言いたげだった。具体的には、要するにアレンジについて、活発な意見を交わし合うということだった。事実、カルチェ・ラタンの演奏は、そういう意味で活発で若々しく、試行錯誤の連続だった。ただ、演奏のレベルがとてつもなく高いので、われわれが見ていても感動しすぎてついていけないぐらい高尚なもめ方をしていた。シモロはその中で重責を担っていた。彼の演奏表現は、ルンバ・ライ時代の野太い青臭いものから、実に繊細なものへと幅を広げていた。彼の落ち着いた性格と、ツーカーで通じる勘の良さが、その試行錯誤のなかで、見事なリズム・アレンジを具体化していた。私はますます彼が好きになった。彼から奏法について学ぶことが最も多かった。ちょうどその頃、オロミデがパリから帰ってきてレペに参加するようになった。パリ北駅での約束が果たされたのである。

 こうしたレペのハシゴとともに、コンセールのハシゴもよくやった。その頃われわれに近づいてきた、ある目つきの悪い若者がいた。名をジンバブエといい、ダンサーとして独立することを目指していた。われわれは、初め彼を警戒したが、そのうち私が彼とつきあいだした。しかしアントワーヌはそれを快しとしなかった。このふたりは個性の強い分、敵愾心も盛んだった。しかし彼等はそれを表には出さなかった。それで、私もそれには気づかないふりをしていた。ザイコ・ランガ・ランガ・ンコロ・ンボカのコンセールのあった日に、私はジンバブエとふたりでそのコンセールを見に行った。当時の私は、キンシャサではおっさん臭いとされていたグループのコンセールをより好むようになっていたが、アントワーヌはじめとりまき連中や他の日本人は、やはりヴィクトリアやアンチ・ショックなどのロック系のバンドのコンセールを好んでいたので、その日は私には連れがなかったのである。保守的なのはわかっていたが、演奏表現の幅が若手のバンドとは比べものにならないほど豊かだった。われわれはしばらく客席で演奏を聴いていたが、ジンバブエはグループの首領ニョカ・ロンゴに話をつけて私とふたりでステージにあがった。そこでわれわれはルンバ・ライ時代のダンス「ンドゥエケレ」をふたりで踊り、観客の大歓声を浴びて結構な額のマタビシをもらった。その帰り道、まだ暗い夜道を彼は出来るだけ明るい表通りを選びながら、私をホテルまで送った。安全のためである。それでも途中、ふたりの兵士がわれわれを呼び止め、外国人である私にパスポートの提示を求めた。さらに言いがかりをつけてきたので、ジンバブエは私がミュージシャンであり、かつてのルンバ・ライのメンバーだったことなどを話し、私が二年前にマライにもらった正式なメンバー証を見せ、さらに彼が兵士の親分格の男に金を握らせたことでなんとか事なきを得た。

 そのあとわれわれはバーで一杯引っかけ、そこで彼の多くの友人を紹介され、再び表通りを伝ってホテルまで戻った。その間も何人かのごろつきがわれわれにまとわりついてきたが、彼は巧みにそれを退けた。私は別れ際に、ステージで得たマタビシを全部彼に握らせようとしたが、彼は受け取らなかった。私は、「これはお前がチャンスをくれて得た金なのだから、俺の気持ちとして受け取ってほしい。」と言ったが、彼は朝食の足しにでもしろと言って受け取らなかった。しかし、兵士に渡したマタビシは私が原因だったわけだし、彼もここから帰るのにトランスポールが必要だろうから、私はパンとコカの分を差し引いて、「これだけあれば飯は足りるから残りを取れ。」と言ったら、やっと受け取った。彼はそのまま早朝の市場の仕事があるはずだったので、手ぶらで返すには忍びなかったのである。それにトランスポールだなんだと言うと、彼の性格のことだから、ムキになって受け取らないだろうと思って、自分の朝飯をだしにしたのである。これで私は彼を信用するようになった。ジンバブエの交友関係は、ディアカンダ周辺にいる連中とは別の人脈にあった。ズジさんは彼を煙たがった。彼の友達はよりアクが強かったからである。しかし彼のおかげで二年前に広場で出会ったカサイの人の音楽に通じるミュージシャンの一派にまみえることが出来た。ただ、一度ギグに立ち会ったきりで私はバ・ザイールへの旅に出発することになったので、関係は進展しなかった。それでも、カサイの音楽が探求に値するものという実感を強くしたので決して無駄ではなかった。そのほかにも多くのコンセールをハシゴした。アンチ・ショック、ショック・スターズ、ヴィクトリア、さらに中小の地元バンド、そして最後にひとりで行ったOKジャズ。やはり現地で聴く生演奏の迫力は、実に豊かで力強いものである。

 

バ・ザイールの旅 前編

 

 アライ氏が仕事を全部片づけてパリへ発った三月二五日の夕方、私とアニキとくまちゃんとフィストンの四人で、バ・ザイール州への小旅行を始めた。二年前と同じくズジさんの好意で、旅行に不要なわれわれの荷物はディアカンダの倉庫に保管してもらうことになったので、身軽ないでたちで西へ向かう夜行バスの集まるターミナルに出かけた。そこの喧噪と混乱は二年前と少しも変わらなかった。前回、料金の安さに徹して苦しい経験をしたので、そんなマイクロバスを避けて、まともな車を目で見て確認してから切符を買うことにした。マンジ・バスと書かれたボマ行きの車が立派に見えたので、その運転手から切符売り場を聞き、四人分の切符を買った。ボマとは、マタディを越えてさらに西の、舗装道路の終点の町である。出発は夕方の四時だと伝えられていたが、私は信用していなかった。しかし万一のことがあってはいけないので、その広場の近辺で時間を潰すことにした。

 われわれは広場に隣接した市場をくまなく冷やかしてまわった。そこはキンシャサの西の玄関口だったので、主に西部の物産を売る店や、西へ帰郷する人のためのキンシャサみやげなども売られていた。われわれはそこにあった露天食堂で腹ごしらえをし、流しのミュージシャンや大道芸人たちのパフォーマンスを楽しみ、非常食のためにクワンガと缶詰とミネラル・ウォーターを買い込んだ。案の定、とっぷりと日が暮れてもマンジ・バスは停まったままだった。ときどきバスの中を覗いては、席の埋まり具合を確認し、六時頃われわれは乗り込んだ。この時初めてわかったことだが、フィストンはキンシャサを出たことがなかったらしい。従って長距離バスになど乗ったこともなかった。その点私は慣れたものだった。出発は夜半だという見通しを三人に伝えると、彼等は結構な料金を払っているのに何事か、と怒りだした。周りの乗客は笑っていた。蒸し風呂のマイクロバスの中で日中から暑さに耐えていた二年前の状況に比べたらこんなものはものの数ではない。三人の驚きはさらに進んだ。座席が満杯になったのにバスは動こうとしなかったばかりか、さらに人が乗ってきたからである。これも私にとっては都合四回目の光景だった。われわれの座席の背もたれにも人が入り込み、さらに通路まで人で埋まった。さすがと思わせたのは、座れない人のために木箱が配られたことである。このサービスは料金の差だと解釈しておいた。

 バスは私の予想より早く、八時に出発した。見かけは大きくて立派だったが、動き出すと客の積みすぎのためか、ゆらゆらと実に頼りなかった。市街地を抜けて真っ暗な草原を真っ直ぐに走る街道に出ると、バスは一〇〇キロ近くまで加速していった。運転手が操作を誤れば、明らかに横転するであろうと思われた。しかも室内灯がないので、町を出ると真の闇が車内に充満した。そんな不安を紛らわせるかのように、車が速度を上げていくと、後ろの女性が教会で歌う歌を歌いはじめた。それはザイール人なら誰でも知っている歌らしく、ひとりで始まった歌は、瞬く間にバス中を巻き込んでの大合唱になった。フィストンは神を崇める身にあったが、どうやら宗派が違うらしく、目をつぶってじっとうつむいていた。私の隣に座っていた男が、私に対してまるで子供会のフォーク・コンサートのように、手拍子をたたきながらワンフレーズごとに次の歌詞を早口で耳打ちし、一緒に歌うように促した。歌詞の内容は単純なものだった。要するにみんな仲良くして神のもとで幸せに暮らそうというものだった。そのうち歌は盛り上がってゆき、歌いはじめた女性が即興でつけた歌詞をあとの全員が繰り返すというコール・アンド・レスポンスに発展していった。誰が指揮しているわけでもないのに、自然にハーモニーの分担が決まってゆき、リズムの掛け合いまで始まった。おそらく、自分の声域に合ったパートを各自が自覚していて、いつでも全体のなかでの自分のパートを担えるようになっているのだろう。やがて先行するソロは、その周りの人たちや、我と思わん人の手に歌い継がれてゆき、その場その場での即興の歌つなぎが始まった。ある者は慈悲深い神への無償の愛を、ある者は忘却の海に去ってしまった相手への終わりのない片想いを、またある者は現政権への容赦ない批判を歌にこめた。合唱は夜が更けるまで続いた。もちろん全員が見事なソロをとったわけではない。途中で言葉に詰まって照れ隠しに笑い出す女性もいた。カラオケ宴会のように、順番が我々に回ってきたときには、三人とも肝を潰してしまった。そのアフリカらしいゴスペル調の黒い合唱のうねりは、その場に居合わせた者でないとわからないほどに臨場感溢れる素晴らしいものだった。しかも、猛スピードで荒野を疾走する、すし詰めの夜行長距離バスの車内である。そんな合唱が揺れる車内の騒音と寝汚いいびきのなかに溶け込みはじめた頃、黒い山影の向こうにおぼろげなナトリウム灯のオレンジ色の光の放射が見えてきた。乗客のひとりが歓声を上げ、それはようやく眠りに落ちた人をもたたき起こしての大歓声に変わった。

 「マタディだ。」口笛が響きわたり、再び合唱が始まった。事ある毎に大袈裟な奴等である。バスは夜中の三時頃マタディに着いた。実に早い。それまでは暗黒のなかをひた走っていたが、やっと電気の通じた町に出たのである。そこで幾らか客が降りたが、われわれの肩にはまだずっしりと巨大なザイール人の男が乗っかっていた。しかも彼は猛烈な振動と車内の大騒ぎをものともせずに莫睡していた。おまけに寝返りまで打つので、その頃には彼の体は半分われわれの間の床にまで落ちてきていた。バスはそこを即座に発ち、さらに西へと道を急いだ。ボマに着いたのは明け方だった。そこでは続きの交通手段を考えなければならないはずだったが、そこはよくしたもので、ターミナルの近くに客待ちのトラックが何台も停まっていた。ここからはダートの旅である。

 ボマを見物しようかと思ったが、今トラックを捕まえないと、みんな出払ってしまって交通手段がなくなるというので、われわれはそのうちの空いた一台に乗ることにした。やはりここは田舎だけあって、われわれを物珍しそうにじろじろ見る連中が多かったが、せっかくこっちが話しかけようと思っても、こわがって走り去る奴も多かった。四人にとって初めてのトラックの旅は、好天に恵まれて快適なものとなった。われわれはほぼ一睡もしていなかったにも関わらず、トラックの荷台に幌をかける骨組みにつかまって、爽やかなバ・ザイールの風をいっぱいに吸い込んだ。風景は相変わらず見渡す限りの草原と低い山々の単調な連なりで、時折思い出したように赤い土壁の家の集まった集落が現われては消えた。トラックはそうしたところを通り過ぎるときは必ずクラクションを鳴らしながら速度を落とし、ある時は荷物を、またあるときは客を積んだ。同時に村人たちが集まってきて乗客に手作りの料理や酒、民芸品などを売った。トラックに三人も見慣れぬ肌の人間がいるので、どの村でも車が止まるとすぐに大騒ぎになった。

 トラックは昼過ぎに大西洋を臨む町ムァンダに到着した。そのターミナルは、町の中心の市場の脇だった。さすがに辺境の町らしく、まるで古い西部劇のセットのように、つちけむりを上げる通りにペンキの色もどぎつい木造のコテージ風の建物が並んでいた。市場ではボマを上回るあからさまな好奇の視線をわれわれは浴びた。キンシャサでも「アラタ」、「ピリピリ」と声をかけられることは昔と変わらなかったが、われわれが爆笑したのは、そのふたつの名前をくっつけて、「アラピリ」と声をかけられたことである。遠くに来たなという感じを強くした。さて、その日はさすがに疲れたので、この町に何台もないタクシーの運ちゃんに、どこか海岸沿いにくつろげそうなホテルはないかと訊いてみた。車内で昼寝をしていたおっさんは、眠そうな目をこすりながらも、「おあつらえ向きのがありやすぜセニョール。」などと言って愛想良く走り出した。その車で面白かったのは、ブレーキを踏むと後ろで曲が流れることである。それは日本でごみ収集車などによく使われている、ごく簡単な電子メロディで、確か「エリーゼのために」かなにかだったと記憶している。ともかく車は教会や銀行や大きな白人の家の建ち並ぶ一角を通り過ぎて海岸に出た。ムァンダの町そのものは海岸から一段あがった高台にあって、われわれは一カ所海に向かって降りられる道を伝って崖の下に出た。そこには明らかにリゾート・ホテルを思わせるログハウスがあって、運ちゃんはここならどうだいと言った。われわれは礼を言ってタクシーを降り、念のために部屋が空いているのを確かめるまで待っていてもらった。

 案ずることなく客はわれわれだけだった。しかし、料金は高かった。一人当たりディアカンダの三倍だった。明らかに白人向けの設備を整えた静かな保養施設だったからである。われわれは四部屋がひとつになっているロッジを借りて荷物を解いた。私は、その部屋のテラスに籐椅子を持ち出して、波の音を聞きながら昼寝を決め込んだ。アニキは持ってきたラジカセに古いルンバのテープをかけて聴きはじめた。強い陽射しに波の音、棕櫚葺きの屋根に椰子の木、部屋から流れるトロピカル・ルンバ、顔に当たる潮風、あまりにも出来すぎた南国の時間だった。ただ玉に瑕だったのは、ここがザイール河口に近いせいか、海の色までが赤茶けていたことである。天気は快晴だったが、空の色もくすんで見えた。私は寝てしまった。気がついたのは、うまそうな料理の匂いを感じたからである。部屋を見てみると、既にビール瓶が林立し、豪華な料理が持ってこられたところだった。「ちぇっ、目をさましやがった。」と彼らはつぶやき、私は猛烈な空腹感から、それらをむさぼりはじめた。さすがに海沿いだけあって、魚の煮込みがうまかった。さらに山羊のシチューと野菜の煮込みが二皿ほど出され、とうもろこしの粉で作った、一風変わった黄色いフフがたんまり出た。給仕しに来た男は、右手を使って器用に料理を平らげるわれわれが気に入ったのか、わざわざ近くの木に登って、マンゴーの実をいくつも取ってきては、デザートとして出してくれた。さらに、キンシャサでも味わえないほどのうまいコーヒーまで入れてくれた。われわれは心ゆくまで飲み食いし、しばらく休憩したあと、腹ごなしに海岸を散歩することにした。

 われわれはこんなこともあろうかと思って水着も持ってきていたが、さすがに気味が悪いので、赤い色の海に入ることは見合わせた。そのかわり、阿諛追従の輩のいない時間の止まったような静かな午後のひとときを、大きな木の日影に寝そべって、遠くで行なわれている地引き網の風景を眺めたり、近くを通りかかった学校帰りの子供たちと遊んだりして過ごした。そうして、ばかでかい太陽が大西洋に沈んでいくのを見届けてから部屋に戻り、再び酒を飲みはじめた。広いテラスに籐椅子を出して古いルンバを聞きながら何もせずに何時間もぼーっとしていた。そうするとやがて腹が減ってきたので、ホテルのレストランに食事をしに行った。

 さて、十分に贅沢な空気を味わったので、次の日の朝ホテルのカフェで食事をしたあと、荷物をまとめて歩いて町への道を上りはじめた。教会や学校の敷地を見物し、ぶらぶらと街なかへ近づいて風景の移り変わりを楽しんだ。街の感じは、建物がゆったり建てられていることと、幾分造りがコロニアル風にできているな点を除けば、キンシャサと大して変わらなかった。小さな町の割と賑やかな一角にあったマヴィンガという安ホテルに部屋を取り、荷物を置いてさらに市内散策に出た。しかし、市内を隅々まで歩いたが、行きしなに見たものの他に目新しいものはなかった。途中で昨日の「エリーゼのために」に何度も鉢合わせしたほどである。そのたびに運ちゃんは、客を乗せているのにわざわざ車を止めて、「どうだい、あのホテルは良かっただろ」などと声をかけてきた。

 われわれは藁で囲われた棕櫚葺きのレストランに入って昼飯を食うことにした。そこで飯を食っていると、日本人がいるという噂を聞きつけたのか、いろんな奴等がやってきた。木彫りを持ってくる奴、象牙を携えている奴、タバコや豆を売りにくる奴なんかがいた。そのなかに俺はシンガー・ソングライターだという青年がいたので、フィストンが面白がって、「じゃあお前の作った曲を一曲やってみろ」ということになった。彼が歌いだしたのはビバの古い曲で、彼はそれでわれわれを騙しおおせると思ったらしい。われわれがその曲名をあて、さらに歌の続きまで歌ってしまったので彼は色をなくした。われわれの前でよりによってビバの曲をやるとは、間抜けもいいとこである。彼は必死に弁解し、「わかった、それじゃあ、俺の民族の古い歌をやる」と言ったのでやらせてみると、今度は確かに民族色の強い別のビバの曲を歌いだした。われわれはたちどころに曲名を言い当て、続きを歌った。われわれは腹を抱えて笑い転げてしまった。若者はますます色をなくし、「い、いまのは確かにビバの曲だが、もとはと言えば俺の村の民謡だ」などと言い張った。じゃあお前の村はどこにある、と訊くとここから先のどうのこうのと言いはじめたので、われわれは手でそれを遮り、いまの曲はスティノが作った曲だ、彼の出身はバンドゥンドゥだからここから正反対の方角じゃないかと迫った。彼に弁解の余地がなくなったので、観光客相手に少しばかり金をせしめてやろうという彼の目論見は打ち砕かれてしまった。相手が悪すぎたようである。

 気がつくと周りは何が起こったのかと思って集まってきた人で黒山の人だかりになっていた。われわれの全部がいい見せ物になっていた。フィストンは彼の名誉を挽回してやるために、彼が持っていたギターを手にとって、バ・ザイールの典型的なメロディを弾きはじめ、彼に即興で歌うようにと指示した。私がテーブルをキーでたたき、くまちゃんは手の付け根でバスドラムを模した。アニキはスキャットでハモりを入れ、にわかづくりの即興演奏が始まった。若者は初めはぎこちなかったが、そのうち打ち解けてきたのか、手にこぶしまでつくって歌いだした。三拍子の重い感じのあるリズムだったが、十分もしないうちに曲の流れに表情が出て来た。さらに続けていくうちにカ・ダンスの雰囲気となり、フィストンが即興でソロを取りはじめ、われわれもそれに呼応して演奏を盛り上げていった。そしてフィストンが若者につなぐと、彼は、見事にいま想いを寄せている女への切ない男心を歌い上げ、曲はセベンに入っていった。そうして首尾良く彼は取りまいた人々に拍手を浴びることになり、われわれは寄せられたマタビシをすべて彼に渡した。彼は自分の歌で幾らか稼げたのである。そんなことをしているうちにすっかり日が暮れてしまったので、われわれはホテルに帰ってくつろぐことにした。あたりの店はもう既に看板だった。おかげでその日は晩飯を食いそびれてしまった。

 

バ・ザイールの旅 後編

 

 さて、翌日眠い目をこすりながら、われわれは東へ戻る交通手段を捜しはじめた。市場の脇のターミナルには、なんと赤と白の色鮮やかな中型のバスが停まっていた。未舗装でありながらここまでやって来るとは天晴れな根性だなどとアニキと言い合いながら、運転手に発車予定時刻を訊いた。「いま出る」と彼は言ったがそれが客を確保しておきたいための方便であることは明らかだった。「ふーん」と言いながらじゃあ昼だな、と運転手にめくばせしたら肯定も否定もしなかったので、また来るよと言ってそこを去った。「オート・エキスプレス・キンシャサ」そのかっこいい名前にわれわれは好感を持った。運転手の話によると、それはキンシャサとムァンダをダイレクトに結んでいる唯一のバス路線だということだった。それはいいとして、まあバスが出るのは昼過ぎだから、ということで、それまでの間、昨日挫折した市内探索の続きをやることにした。

 昨日と違って街には結構車が走っていた。それはこの町の唯一の産業である油田施設へ労働者を運ぶためのものだった。市場の付近を歩いていると大きな低いうなりをあげている施設があった。それは大きな発電機で、これで街中に電気を送っているらしい。市場の前の通りはカサヴブ通りといって、同じ名前の通りは、ザイールの町という町にある。カサヴブとは、ザイール(旧コンゴ民主共和国)独立後の初代大統領の名前である。市場の中は狭く入り組んだ通路になっていて、そう広くはないが生活必需品はなんでも揃うようである。物価は工業製品はキンシャサより高い。運賃がのせられているためである。従ってタバコも飲み物も高い。そのかわり野菜や果物はキンシャサの半値ぐらいで、より立派なものが買えた。さらにメシ屋では魚料理が安くてうまい。意外なことに、安メシ屋でさえコーヒーや紅茶にパンとオムレツという、朝食のコンプレがあった。そんな風に市場を冷やかしながら歩いて行くと、市場のはずれにマンジ・バスのオフィスが見えた。これはわれわれがボマまで利用したバス会社の名前である。市場を出て海の方へ一〇〇メートルも行くと町はとぎれた。そこにガソリン・スタンドがあって、その先は道が砂に埋もれて、世界も果てしない砂の彼方に消えてゆくように見えた。その遥か向こうは海に落ちる崖であった。

 こうして午前中を市内散策に費やし、だいたい見終えたと思ったので、腹ごしらえを済ませてさっきのオート・エキスプレスの停まっていたところへ戻ってみた。やっぱりまだいた。でも客が結構入っていたので、今度は本当に出発しそうだった。われわれはマタディまでの切符を買おうとしたが、運転手は、これはキンシャサ行きだからキンシャサまでの切符しか売れないと言いだした。「キンシャサ発着で、キンシャサから途中の町までの料金は設定されているが、ムァンダから乗って途中で降りたり、途中から乗って途中で降りるのは、運賃が設定されていないから切符はキンシャサまで買ってもらわねばならん。」などと屁理屈まで付けてきた。こうなったら交渉しかない。こういうときに相手の顔を潰さずにこちらの要求を出来るだけ反映させるのが、この国でうまくやっていくコツである。われわれは地図を広げてキンシャサまでの距離とマタディまでの距離を割り出し、通しの運賃から比例配分して、若干のイロをつけた金額を彼に提示した。彼は渋ったので、われわれは立席でも構わないと譲歩した。マタディまでは三時間ほどの道のりだったからである。とりあえず空いてる席には座るが、新たに乗客を拾った場合はその客に場所を譲るということにして、こちらの言い値で彼は了解した。

 乗ってしまえばこっちのものである。案の定、乗客たちは、せっかくはるばる外国からお見えになったお客様を立たせておいたんでは申し訳がないってんで、われわれのために座席を作ってくれた。バスは出発した。しかし、その直後われわれの座席の真下からもくもくと真っ黒な煙が立ちのぼった。われわれはせき込み、運転手に向かって抗議したがことごとく無視された。窓はすべて開いていたが、発生する煙の量がただならぬものとなり、周りの人々もせき込みはじめたので、乗客の少なからぬ人数が車を停めろと要求した。しかし、返事のかわりに差し出されたのは、何個かの小さなスポンジだった。これでどうしろというんだ、早く停めろとさらに声を上げていると、車の底でどーんと大きな音がして急停車した。やれやれ、最悪の事態になってしまった。もはやそこは大草原のど真ん中である。乗客は全員降りるようにと要求され、われわれはみんな降りた。何が起こったのかを知るために車の周りを回りはじめて、車体の底の荷物室が大破しているのがわかった。やはりダートに車高の低いバスは無理だったのである。バスの荷物室には、乗客のものではない貨物がかなり積み込まれていた。

 運転手はわれわれに向かって全員でまずその貨物を車内に運び入れろと命令した。これには当然誰もが怒った。客をなんだと思ってるんだというのである。その辺の常識はわれわれと一緒だった。そこでみんなで申し合わせてそっぽを向くことに決めた。仕方がないので運転手は自分で貨物のすべてを通路に積み込み、さらに大破した荷室の扉を針金で縛って、小一時間ほどでわれわれに乗れと指図した。われわれはぶつぶつ言いながら乗り込んだのだが、通路に荷物が山と積まれる形になったことと、そこに座らされていた客の居場所がなくなったことを抗議した。客の一部は荷物の上にへばりついて行かざるを得なくなったが、運転手は抗議に一切耳を貸さずに車を出し、左右に揺れて荷物が散乱するのも構わず、車体が地面をこするのも無視して、猛スピードで車を走らせた。不思議なことに、今度は煙は出なかった。

 走りはじめてものの十分としないうちに、今度は車の後輪が砂に埋まった。やってくれる。そこは乾いた砂地で、雨期には泥沼と化すであろうと思われるほど、深く道がえぐられていた。再び全員が降ろされ、さらに荷物が運び出された。はじめにジャッキ・アップが試みられたが、ジャッキそのものが見る間に砂に埋没した。次に屈強な男たちの手によって車を押し出そうと試みたが、車は何度もそのくぼみの中をゆきつ戻りつし、あがけばあがくほど車輪は埋まっていくばかりだった。われわれは手分けして頑丈な板や丸太を探しにゆき、それらを持ち寄って足場としたが、地面が柔らかすぎて、車輪を回せば回しただけ深く砂を掘り返すだけだった。とうとうこれ以上やるとバスが倒れそうになったので、自力脱出を諦めて救援を待つことにした。こういうときに損なのは子供である。ある子供が一番近い村に救けを求めに行けと言われた。目上の者の言うことには絶対服従の国だから、彼は言われるままにもと来た道を引き返し、ひとつ前の集落目指してひとりでとぼとぼと歩いて行った。運転手は飛び上がって、「走れ」と罵倒したが、彼は振り返り振り返り恨めしそうに歩いて行った。

 われわれは炎天下で待つことになった。一時間以上たった頃、韓国人が乗ったジープが西からやって来た。少年はそれには乗っていなかったし、そんなジープでこのバスを救い出せるわけがなかったので、彼等には次の村に救援を求める伝令を頼んだ。それからまた一時間ほどして、東から四輪駆動の大型トラックがやってきた。われわれは拍手と歓声をもってそれを迎え、バスを救い出してくれるようにと運転手に頼んだ。男は何の要求もせずに、てきぱきと車をつなぎ、バックで一気に引っ張った。その強力なパワーによって、われわれのバスはあっと言う間に蟻地獄から引きずり出され、再びわれわれは歓声を上げた。われわれは救われた思いでバスに乗り込み出発した。かわいそうな少年のことを思いだした者はひとりもいなかった。「今度落としたらぶっ殺すぞ」と屈強な男たちは運転手を取り囲み、彼は怯えながら運転させられる羽目になった。登り坂にさしかかったとき、前方がやけに白くなった。のみならず焦げ臭い臭いまでした。前方でぱあんと言う音がして、エンジンがからからという音を立てて停まった。 そこが峠を登りきったところだったのが幸いだった。車を止めようとした運転手を男が殴りつけた。「坂を降りてからにしろ。」運転手はおそるおそる峠を惰性で降りはじめた。運良く坂の途中の村の前でバスは停まった。

 この運転手に任せていたら、いつになったら目的地へ着けるのかわからないので、車に心得のある者がエンジンの冷えるのを待って、フロント・グリルをはずしてその危なっかしい中身と格闘することになった。もうその頃には周りのザイール人も怒っていた。われわれは再び為すすべもなく村の広場へ出ていった。もう夕方に近かったが、修理は難航しているようだった。われわれ日本人が呼ばれた。「日本は自動車産業でもっているんだろう、ならば車の一台や二台直せんわけはあるまい。」というのである。その車はボルボだった。われわれに出来るはずがないと説得しはじめたのと、乗客のひとりが、運転手がいないと血相を変えて駆けつけてきたのはほぼ同時だった。 村人の話によると、彼は通りかかったトラックに飛び乗って東へ逃げてしまったらしい。村人は彼が運転手だったとは知らなかったし、乗客がその後ろ姿を見たときには、既にトラックは走り去った後だった。われわれは爆発してしまった。正規の料金を払った上にいくらも行かないうちに置き去りにされてしまったのである。もうどうにもならなかった。夕闇が迫ってきた。星が瞬きはじめた。月が昇り、寒さが身に迫ってきた。

 村人たちはわれわれのために、不十分ながら料理を出してくれた。広場に焚き火が焚かれ、にわかな宴席がもうけられた。それはわれわれの怒りをやわらげた。われわれは、全員がじっと押し黙って、街道の延びる先の地平線の暗黒を睨み付けていた。する事がないので、いくつもの星座を探し当て、流れ星を何個か観測した頃、西の地平線にわずかな光を感じた。全員が歓声を上げて立ち上がった。それは明らかにヘッド・ライトの光だった。それは飛び跳ねながらゆっくりと近づいてきた。光が見えてからおよそ一〇分後に、ようやく車は到着した。それは小型トラックで、タイヤを満載してボマへ戻る途中だった。運転手はわずかの金額でわれわれ全員をボマまで送り届けることを了解してくれた。われわれは荷台に飛び乗り、村人たちに慌ただしく礼を述べて再び走りはじめた。ボマには夜半過ぎに着いた。われわれ四人はそこでホテルを探したが、あとの乗客は、いままさにキンシャサへ出発しようとしていたバスに乗り込んで東へと急いだ。ボマでありついたホテルは、湿気ていて不潔だった。しかし、一日だけの滞在なのでなんとか我慢した。翌朝早く起きてわれわれは街に出た。ボマの街は、山の斜面に土造りの家が立ち並ぶ川沿いの宿場街といった感じだった。しかし労働者が多いらしく、非常にがさつな印象を受けた。われわれはそこで一日を過ごそうかとも思ったが、午前中に町をあらかた見尽くしてしまったので、午後に出るマタディ行きのタクシー・ビスに乗って出発した。マタディには夕刻に到着し、新しいプチ・ホテルに泊まって久しぶりに安らかな夜を過ごした。

 翌朝、マタディの街の散策に出たが、私は二年ぶりのその石造りのヨーロッパ風の街並みに懐かしさを感じていた。列車で帰ろうというプランは、次の便が一週間も先になるとのことなので仕方なく諦めることにした。その日は一日、緑と石畳と煉瓦の建物に包まれた、霧深い港町の風情を楽しんだ。見慣れた坂道の、しゃれたレストランや雑貨屋を冷やかしたり、露天で韓国製のカップ・ラーメンを見つけて食べたりした。二年前に私が泊まったホテルも、その料理人も健在だったが、ここは旅行者や船乗りの多い街なので、一介の日本人である私を覚えている者はなかった。四人で港の反対側のシテに登って行ったり、その麓のライブ・バーでビールを飲んだりして夜まで過ごした。そしてその夜に発つSOTRAZという国営バスに乗ってキンシャサへ帰ってきた。このバスには全くトラブルもなく、座席もゆとりがあって快適だった。こうして、小手調べの意味も込めたバ・ザイールの旅は、滞りながらも終わることになる。

 

「ナケイ・ナイロビ」

 

 われわれがバ・ザイールを旅行している間にヴィクトリアが渡欧することになったので、ダイスケとイシは彼等にくっついてわれわれと入れ違いにキンシャサをあとにしていた。しかし、彼等の出発にはひと悶着あったらしい。それは、空港ですべての手続きを終えて出発を待っていると、急遽飛行機の故障が知らされ、フライトが丸一日延期された。ザイール人は問題なく家に帰って行ったが、すべての外国人は空港内に留め置かれることになった。手続き上は既に出国スタンプが押されていたからである。普通なら空港内のホテルに泊めてもらえるはずだが、何故か全員待合室に監禁された。その間外出は許されず、食事もままならなかったという。彼等は抗議したが、その声はがらんどうのロビーにむなしく響いただけだった。翌日なんとか出国できたものの、一日待っていた間に乗客が増えてしまい、何かの手違いで切符が重複して発券されたらしく、積み残しを出す騒ぎとなった。この国では、特に移動や事務処理をめぐってはらはらさせられることが多い。かなりのゆとりを持って動かないと、取り返しのつかないことになってしまう。

 すっかり忘れていたが、ウェンゲの凱旋コンセールがキンシャサで最も大きな公会堂である「パレ・ドゥ・ペゥプレ」で行なわれることを知ったのは、キンシャサに戻ってすぐのことだった。もはやどこを捜してもチケットは手に入らなかった。そのコンセールは、後日ズジさんの家でテレビで見たが、大盛況だったようである。しかし、このウェンゲの成功については賛否両論だった。ミュージシャンに限らず保守的な人たちは、うるさいだけの音楽だと批判していた。また、ビバのファンのやっかみから暴力沙汰に発展することがよくあった。しかし、ウェンゲは若い者を中心に、いまやキンシャサでは押しも押されもせぬ人気グループになっていた。その魅力についてアニキは次のように語っている。

 「ビバに象徴されるように、いまや特定の首領を頭に据えたボス猿社会的な人間関係によるグループでは、まともなアレンジは出来ない。必ずそのボスの出番を作らなければならないし、すべてのアレンジはそのために犠牲にされるからである。ボスにセンスがあればいいが、往々にして音楽的なセンスの皆無に等しいアホとケムリばかりがサル山に登りたがり、逆にセンスある者は政治力を欠いているのが実状なので、たいていはとても信じられないような愚劣な阿諛追従がまかり通ってしまう。これがウェンゲ以前のザイール音楽シーンの実態だった。順風満帆のうちは勢いでなんとかなっていたが、いまのように様々なスタイルが確立されて多様化の時代にはいると、ストレートなだけでは音楽の新鮮さは極端に失なわれていく。パパ・ウェンバでさえ、彼が打ち破ろうとしたのは、因習的なザイールの社会慣習そのものなのに、いまや彼自身が、ある意味ではそのピラミッドの頂点に立ってしまっている。若い者がこの鎖を断ち切りたいと考えるのは当然で、ウェンゲは理屈に頼らず真に音楽的なアレンジを施すことによってそれを具体化している。アニマシォンがその根幹を為しているが、それに呼応するダンスや、ギターのワン・フレーズまで緻密なアレンジが施され、しかもそれが管理されたものではなく、演奏のあるべきかたちに対する飽くなき欲求に支えられているのが何よりの証拠だ。これこそが、ウェンゲの尽きせぬ魅力である。」

 こうした流れは、われわれが股間を熱くしたオロミデのカルチェ・ラタンの演奏や、その頃発表されたリジョ・クェンパの実験的なテープ、さらにサフロの発案によるヴィクトリアのファンク・ビートにもよく現われていた。これも彼等はデモクラシーと呼んでいた。ブリュッセルで見たとはいうものの、やはりこの暑いキンシャサにいながら彼等の演奏に接するチャンスをみすみす逃したのは、かえすがえすも残念だった。

 しかし、代わりにキンシャサの若者たちの間で新しくブームとなった別の音楽の流れの方は、なんとか首尾良くつかむことが出来た。それは、「スウェデ・スウェデ」という、ザイール河中流にある赤道州のモンゴ人の伝統音楽に端を発する、極めてラップ的な音楽である。赤道州の州都は「ンバンダカ」といい、そこはザイール河による交易の中継地点にあたっている。リンガラ語はその流域諸民族の通商に便宜を図る目的で自然発生的に生まれてきたものといわれ、そこでは今も非常に厳格な活用を持つ古いリンガラ語が話されているという。私はかねてからスウェデ・スウェデという名前は知っていたが、その演奏を見たことはなかった。われわれはヴィクトワール広場に掲げられた一枚の垂れ幕から、「ボケツ・プレミェ」というグループのギグの場所と日程を知ることが出来た。

 その当日、われわれはゾーン・デ・キンシャサにある場末のバーに彼等の演奏を見に行った。それは言いようのないほど危険な雰囲気だった。抜き差しならぬ緊張感があった。マトンゲ周辺のとりまき連中とは、ひと味もふた味も違っていた。グループも観衆も非常に若かった。下手すれば一〇台半ばそこそこかも知れない。服装もマトンゲに集まる奴等とは違って、一様にぼろぼろだった。しかし、そんな服をなんとかアレンジして独特のルードっぽさを出していた。いつも感心させられるのは、彼等はだっぷりした服を着こなすのが実にうまいことである。それはラップ・ファッションにも通じるものがあった。また、いまのいわゆるリンガラ・ポップスのセベンの部分のクラーベのリズムは、古くはこの地域に伝わっていた八分の六拍子のリズム形式にその源を発しているとされている。そしてビバが初期のその演奏の中で復活させたロコレというスリット・ドラムもこの地域を起源とし、いまも多くのルンバの中で演奏されているロコレの奏法のほとんどすべてが、この地域で古くから伝わっていたものだとされている。いわば赤道州は、北部ザイールの文化や、リンガラ語、そしてリンガラ・ポップスにとっての故郷みたいなものなのである。そうした土着的な伝統音楽が、何故いまになってキンシャサの若者の心をつかんでいるのか、なんとしても見ておきたかったし、私の奥地への旅の目的のひとつもそこにあったのである。

 ギグの演奏は、そうした私の予備知識や疑問をたたき潰すに余りあるものだった。編成はドラムとロコレと木琴とハーモニカと歌だった。それらは延々と同じフレーズやハーモニーが演奏され、歌による一連のテーマのあとに、明らかに体制を批判する時事の話題が取り込まれてゆき、問題を明確化したあとでそのキーワードがそのままアニマシォンになる。そのかけ声がまた延々と繰り返されていくうちに演奏が熱くなり、観客も繰り返されるフレーズに茫然自失して踊り狂いながらセベンに突入するという構成だった。リズムは多くの場合八分の六拍子で、なかには十六ビートのものもあるが、それらもかなり八分の六拍子を意識した感覚だった。一曲が裕に一時間近くあった。曲といっても歌曲の形を取っているわけではなく、明らかに同じコード進行、同じメロディの上に、違ったテーマの歌詞がのせられていた。それはアジテーションでもあり、シュプレヒコールとも取れた。明らかに政治的意図を持った、いわばザイールのラップだった。あまりにも濃いそのステージは、次第に収拾のつかない興奮状態に発展してゆき、われわれは身の危険を感じてそこから逃げなければならなかったほどである。

 ザイールの内部の社会的な状況は、マトンゲの平和とは裏腹に緊張の方向に流れていた。そのうちのある動きはスウェデ・スウェデやムトゥアシという伝統音楽を甦らせ、そこに政治的なメッセージ性を持たせることによって、過激に自己主張する傾向になって現われていた。それとは反対に教会音楽の台頭という現象も起きていた。二年前にはこんなに顕著には現われていなかったが、今ではあらゆるレコード屋で売り上げの上位にランクされ、ラジオでも頻繁に流されていた。しかも、新しくリリースされるカセットは、どれも一層穏やかで幻想的な雰囲気をより色濃く打ち出していて、気味の悪いくらいのしつこさを持って耳にまとわりついた。教会のミサで歌われる音楽は、心を落ちつけ、甘味な平和のシロップのようなイメージを持ってすべてを塗りたくる性格を持っているが、それは二年前には教会の内部でしか聞かれなかったし、そうしたカセットがマトンゲのレコード屋の店頭に並ぶことなど考えられなかった。こうしたふたつの音楽の流れは、社会や経済の不安定が引き起こす心理的な不安を、どちらかの極に傾けることによって安定を保とうとする流れのようである。やはり政情不安は確実に忍び寄ってきているようだった。

 そんなことを考えているうちにアニキとくまちゃんの帰国の日が迫ってきた。フィストンは、私との奥地への旅に備えて申請していた各種の書類を回収しはじめた。それは、ケニアに着くまでの通過国のビザと、ザイール国内を合法的に旅行するための許可証などだった。われわれには考えにくいことだが、ザイール人たちには国内を旅行することさえ支障があるらしい。書類がすべて揃ったのは、アニキとくまちゃんが出発する前日、四月二日のことである。私とフィストンは、旅に必要と思われる物を買い込み、アニキとくまちゃんはみやげ物を物色しはじめた。その夜、ズジさんがわれわれを自宅に招待してくれた。私とアニキとくまちゃん、この三人がそろう最後の晩餐だった。もう何度味わったかわからないクリスティーヌの手料理を、動けなくなるまで腹に詰め込みながら、私は明日から日本人が私ひとりになることに一抹の寂しさを感じていた。

 翌日、ふたりはキンシャサを発った。ディアカンダは、またも私の荷物を引き受けると申し出てくれた。何もかも世話になりっぱなしである。そして私はフィストンの家へ行き、その夜は彼の家族とともに食事をした。フィストンのおやじは、やはり酒臭い息をまき散らしながら、「息子の将来を切り開いてくれる者として、お前に心から感謝の意を表する。」などと改まったことを言った。「その証にお前にこれを贈る、これは息子から話を聞いた日から毎日徹夜して作ったものだ。これをお前にやる。」それは実に見事な手作りの木琴だった。その木琴はうらにひょうたんのついた、彼の故郷であるバンドゥンドゥ地方マイ・ンドンベに古くから伝わる音階を持った、非常に伝統的なスタイルの白木の木琴だった。私は感謝を言葉にすることが出来なかった。

 日本人にはわかりにくいことだが、ザイール人たちは、自国の経済がたちゆかないことをよく理解しているので、この国を抜け出して、もっと豊かな国で暮らしたいと本音では思っている。しかし現実に出て行くだけの金もなく、国の制度としてもザイール人の国外への渡航は厳しく制限され、諸外国もザイール人の入国に際しては厳しい制限を加えているから、一般庶民にとっては国外に出るなど、雲の上にでも昇るようなものなのである。おやじは、「息子の将来を切り開いてくれる者」などと言ったが、別に私はフィストンの身元保証人になって日本で受け容れるつもりはない。ただ、奥地への旅の伴侶として私をエスコートするかわりに、その代償としてケニアに到着するまでにかかるであろう旅費その他の面倒を見ようというだけのことである。しかしザイール人にとっては、ナイロビへ無事たどり着けるというだけでも、先進国行きの切符の半分を手に入れたようなものだった。ナイロビは、そうした脱出の機会が頻繁に転がり込む「チャンスの都市」なのである。「ナケイ・ナイロビ」という古い歌がある。女性が歌う歌なのだが、「私ナイロビへ行くわ。」というその歌は、長年愛し合った男を捨てて自分の将来を賭けて出ていこうとする女の心の内を歌ったものである。女だてらにと世間から後ろ指を刺されながら、家族や親戚からも罵られ、愛する女を失なう引き裂かれた相手の男の胸の内もすべて呑み込んだ上で、さらにいくつもの困難を越えなければならない危険きわまりない長い道中も覚悟の上で、「それでも私ナイロビへ行くわ。」と切なく歌うその歌は、その古い時代から今も少しも変わらない体制批判を隠喩に込めて歌ったものである。この歌こそ、野心溢れる若者の心をよく代弁している。「ナケイ・ナイロビ」という言葉は、文字どおりの意味を越えて特別な感慨をザイール人たちに与えるのである。そうした可能性の転がっている都市に息子を連れ出すきっかけを与えてくれたという思いが父にはあった。私はおやじの心をよく理解し、そのかさばる楽器を喜んで受け取り、そこで出された酒や食事を残らず平らげた。

 

出発の日

 

 出発の日、私は朝からフィストンとともに東へ向かうバスのターミナルへ予約を取りに行った。SITAZという大きなバス会社の路線がもっとも安全で確実だという情報を得たので、その日の夜行バスの座席を取り、戻ってきて荷物をまとめ、フィストンを待った。彼は、彼の属する教会の主がわれわれをターミナルまで送ってくれると言っていた。彼の属している宗派は、ザイールでは「キンバンギスト」と呼ばれている一派だった。それはプロテスタントの一種らしいが、なんでもエイズが癒るというので絶大な人気を博するようになった新興の宗派である。教会の主は、フィストンを連れて二時にはここへ私を迎えに来ると言っていたが、その時刻を過ぎても彼等は現われなかった。のみならず西の空が真っ黒に変わり、遠くに雷鳴まで聞こえはじめた。赤い砂嵐のカーテンがすぐそこまで迫り、たちまちのうちにスコールの前の湿気た熱風が吹きはじめた。

 私は荷物を窓の反対側に移し、急いで部屋の窓やベランダを塞ぎ、テーブルや家具でそれらを固定した。瞬く間にバケツをひっくり返したような、粒のない滝のような豪雨がやってきて、轟音と突風と悲鳴と混乱がまわりに渦巻いた。見る間に眼下の通りは川となり、それも窓を洗う激しい水しぶきの向こうに消えていった。窓側のありとあらゆる隙間から水が部屋に流れ込み、突風のために窓枠が悲鳴を上げた。私は家具を押さえながら、びしょぬれのベッドを反対側に押しやるのに必死になった。スコールの時はいつもこうである。約一時間の激しい格闘のあと、ようやく空が明るくなり、あたりも静けさを取り戻した。そしてさっきまでの騒ぎがまるで嘘のように空が晴れわたり、入道雲の行ってしまった南東の空に虹までかかるおまけつきだった。

 バス会社の男は六時にはターミナルに来いと言っていたのだが、既に四時に近かった。しかしあたりの地面は今や人っ子ひとり歩けないほどの泥沼状態である。キンシャサもここのような下町は極端に水はけが悪い。水没して放棄される車は後を絶たない。迎えが来たのは五時だった。私は憮然としていた。とにかく出発しようということで、われわれは車に乗って走り出した。しかし、なんと車はターミナルとは反対の方へ曲がって行った。私はどうしたのかと訊いた。彼等の話によると、これから教会へ行ってミサをやるというのだ。「正気かお前らは、あと一時間もないんだぞ。おまけに道路はこのざまだ。真っ直ぐ行っても、すんなりターミナルに着けるかどうかわからんぞ。」私は訴えたがふたりは分別臭い顔をゆるめようともせずにひたすら教会への道を走った。三十分後にわれわれは教会に着き、私は憮然とした表情でそこへ入った。

 教会の建物は煉瓦の壁にトタン屋根をつけた粗末なものだったが、広さは裕に三百人は入れる。中は猛烈な熱気で眼鏡も曇るほどだった。ミサは始まったばかりだった。雨で遅れたというのだ。バスの発車も都合よく遅れてくれることを私はキンマンギストの神に祈った。演台の上ではふたりの説教師がマイクを片手にがなり立てていた。ひとりがフランス語でひとこと言うと、間髪を入れずに隣の男がそれをリンガラ語に訳した。するとまた間髪入れずに信者たちが大声でそれを繰り返す。それはまさに洗脳の常套手段だった。「エイズは治る」、「エイズを治す」、「神は愛なり」ひとしきりそんなアジテーションが終わると厳かな合唱が始まった。それが終わると今度は太鼓の伴奏入りの激しいゴスペルの演唱になった。

 私はうんざりしていた。もうとっくに七時をまわってあたりは真っ暗だったからである。フィストンは何を言っても「ダイジョウブ」の一点張りだった。こいつがこんな石頭だとは思わなかった。道中が思いやられる。途中で性格が豹変するのではないかと心配になった。歌が終わると今度は何かしら儀式めいたものが始まった。粗末な服を着たやせた男女が何人も演台に上がり、二枚の紙を胸のところにあてて、観衆にそれを示していた。フィストンが「ハジマリマシタ。」と言った。何が始まったのかというと、なんでもいま上がっている人たちはエイズが治った人たちなんだそうである。二枚の紙を示しているのはその証拠で、一枚目がHIVが陽性、二枚目が陰性を示す検査結果の証明書だという。説教者はひとりひとりの証明書に書かれた日付と検査結果を読み上げ、拍手をもって信者を祝福していた。「ココデハ、マイニチ、ナンジュウニンモノ、エイズノヒトガ、ナオッテイマス。」私はもう感心する気にもならなかった。「なにもこんなときに見せなくてもいいだろう、お前らはどうしていつも間際になって訳のわからんことをやらかすんだ。」と心の中でぼやいた。それが終わると、今度はわれわれふたりが呼び出された。フィストンはこの時を待っていたのである。教会の主が私を紹介し、フィストンをナイロビまで導いてくれる者として私に祝福を与えた。マイクを向けられた私は、相変わらず憮然としていたが、仕方がないのでリンガラ語で質問に答えた。いくつかの問答のあと、われわれは拍手で送り出された。

 教会の主はすぐにわれわれを車に乗せて、バス・ターミナルへの道を急いだ。もう八時になりかかっていた。市内の通りはまだ水が引いていなかった。交差点がいくつも通れない状態になっていて、迂回路を捜してマトンゲ周辺をぐるぐると走り回った。紆余曲折の末ターミナルに着いたのは、かれこれ九時前だった。私はバスを捜した。気が気ではなかった。旅立ちの出鼻をくじかれるほど嫌なことはない。果たしてバスは待っていた。しかし、それは今まさに出発しようとしていた。運転手はわれわれを見切ろうと決意しかけた矢先だったのである。われわれはバスに駆け込んだ。フィストンと教会の主は慌ただしく別れを惜しんだ。私は憮然としてそっぽを向いた。座席について初めて私はフィストンを怒鳴りつけた。神を崇めるのはいいが、時間を計算してからにしてくれ。彼は平謝りに謝った。バスは闇の中へ進み出し、こうして奥地への旅が始まった。

 


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