ザイールからコンゴへ (1996-98) 

 予定されていたパパ・ウェンバの来日公演を1ヵ月後に控えた1998年8月3日、彼の故国コンゴ民主共和国(旧ザイール)で再び内戦が始まった。戦火は瞬く間に広がり、アンゴラ、ナミビア、ジンバブエ、さらにルワンダ、ウガンダ、ブルンジなどの周辺諸国を巻き込んで、中部アフリカの大規模な地域紛争に発展した。表立った戦闘は約1カ月半後に一旦鎮静したが、反政府勢力は新たな選択肢として、テロリズムへの道を模索しはじめている。

 当事者間の協議は言うに及ばず、非同盟諸国首脳会議でも決着を見ず、国連の調停も効をなさなかったこの紛争は一体何だったのか。前年に32年間も続いたモブツ独裁政権を倒し、解放者としてザイール国民に広く受け容れられた筈のローラン・カビラ大統領の政権に何があったのか。元来、穏健な民族が住んでいると思われていたこの地域で、何故このような大規模な紛争が起こったのか。

 1989年と1991年に私が旅行した当時は、ザイールは音楽に満ち溢れた平和な国だった。もちろん何もかもがうまく行っていたわけではない。特に二度目の旅行では、モブツ圧政の歪みがそこかしこに見られはじめていて、特に地方都市では不穏な動きにも多く接した。しかし、私の見た限り、1年以上も給料を貰っていないはずの兵士達でさえ、決して銃を人に向けることなくトラブルには説得で臨んでいたし、好戦的な人が多いと言われていた中西部カサイ州を旅したときでさえ、人々は非常に穏やかで、激昂して罵り合うことはあっても、暴力をこの目で見たことはなかった。

 そればかりか、彼等の多くは見ず知らずのこの異邦人に対して、彼等の言葉を話し、彼等の音楽を愛しているというただそれだけの理由で、困っているときや捕らわれているときに、身を挺して救いの手を差し伸べてくれるような、優しい心の持ち主だった。

 そして、日本人には到底想像できないような、幾多の困難や不条理の中でさえ、物事に拘泥せず、おおらかで明るく、豪快に生きていた。生活の中には音楽があり、それを育む伝統の中には相互扶助の精神が脈々と受け継がれていた。そんな彼等の住む国が、いま戦火に脅かされ、人々の間には疑心暗鬼と不安、憎悪と恐怖が支配している。

 アフリカのど真ん中でおきているこの紛争は、何故か日本ではあまり報道されることがない。しかし、インターネット上では、CNNやロイターなどが毎日多くの情報を発信している。このコーナーでは、私の愛する音楽の楽園、日本では紹介されることの少ないコンゴという国が、いまどのような状況にあるのか、外電を要約することによって、少しでも多くの人にわかって欲しいという意図で始めたものである。(1999年)

 コンゴ民主共和国略史と周辺要素

 1997年5月18日、ローラン・カビラ議長率いる「コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(ADFL)」は、32年間も独裁体制を敷いてきた故モブツ大統領を駆逐して、「コンゴ民主共和国」を樹立した。これによって、1971年に故モブツ大統領が命名した「ザイール」という国名と、その河の名前と、現地通貨の名前その他がこの世から消えた。

 しかし同時に、その大河を挟んだ北側の国、「コンゴ共和国」と同じ名を冠することになり、呼び方に厄介な混乱が生じることにもなった。日本の新聞は「コンゴ(旧ザイール)」などと表記し、外電は、Congo (Former Zaire)あるいは、Congo (Democratic)などと表記して区別している。

 当の旧ザイール側の新コンゴ人は、自分たちこそは「コンゴレーズ」であるといい、北側の民を、その首都の名「ブラザヴィル」にちなんで「ブラザヴィロワ」と呼んでいる。ザイール時代は北側の民を「コンゴレーズ」と呼び、自分たちを「ザイロワ」と呼んでいたのにである。ちなみに、ブラザヴィル側の人間が旧ザイールの国民をどう呼んでいるかは、残念ながらわからない。

 ここでは、そのプライドの高い新コンゴ人に敬意を表して、彼等のことを「コンゴ人」、その国を首都の名「キンシャサ」にちなんで「コンゴ(キン)」と呼び、対岸を「コンゴ(ブラザ)」と呼んで区別することにする。

 さて、キンシャサのコンゴ人が「コンゴレーズ」を自称しはじめたということと、それまでの「コンゴ人」を「コンゴレーズ」と呼ばなくなったことは、彼等にとって「コンゴ」という名称がいかに大切であるかをよく表わすもので、対岸を含めたこの地域のことを考える際の重要なファクターであると私は考えている。

 というのは、彼等の感じる「コンゴ」というものが、現在は都合4つの国に分割されていて、望ましい形でのひとつの国家をなしておらず、世界中の民族紛争と同じように、ここでもひとつの独裁体制が崩れると同時に、本来の「コンゴ」に回帰しようとする志向性が現われたと思えるからである。

 現在の国境線は西欧列強の植民地政策の産物であって、本来の民族分布や勢力図を示すものではない。「コンゴ人」の土地がかつての宗主国、フランス、ベルギー、ポルトガルによって分割され、宗主国に都合の良いその他の部分とつなぎ合わされて、現在の「ガボン」、「コンゴ(ブラザ)」、「コンゴ(キン)」、「アンゴラ」の元になっているからである。

 非常に大雑把に歴史を概観すれば、西欧列強がここらあたりで陣取りゲームをおっぱじめる以前、このコンゴ河を中心にした一帯に、民族としてのコンゴ人による「コンゴ王国」が存在し、その領土は両コンゴの一部とガボン南部、さらにアンゴラの北部にもわたっていた。ちなみに、現「コンゴ(キン)」領内では、キンシャサと「バ・コンゴ州」がそれにあたる。

 是非とも中部アフリカの詳細な地図を手にこれを読んでいただきたい。キンシャサからコンゴ河を河口に行くに従って、コンゴ(キン)の領土は狭くなり、「ムアンダ」という町を挟んだわずか40キロほどの海岸線で大西洋に接するのみとなる。

 その両側はなんとアンゴラ領で、北側は「カビンダ州」という飛び地になっている。その州都「カビンダ」の北に「カ・コンゴ」という町がある。また、コンゴ河をキンに戻る途中に「マタディ」という大きな町があるが、その南東側のアンゴラ領内に「ンバンザ・コンゴ」という町があって、これらの土地がアンゴラ領内であるにも関わらず、「コンゴ」と馴染みの深いものであることがみてとれる。

 この「ンバンザ・コンゴ」こそ、14世紀より続いた「コンゴ王国」の首都であり、この町を中心にしてコンゴ領に国境を接するアンゴラの属州の名前は、なんと「コンゴ州」という。

 いまでもこの南北コンゴの一部とガボン南部、さらにアンゴラ北部一帯には、「コンゴ語」を話す「コンゴ人」が多く住んでいて、民族的にも経済的にも非常に結びつきが強い。要は、この「コンゴ」を自称する民族が、大西洋岸のコンゴ河口付近の4カ国に一大勢力として存在するということである。

 同じ事は、遥か東方のGreat Lakes Regionと呼ばれる一帯で、1994年に起こったルワンダ民族紛争にもあてはまる。Great Lakes Regionとは、「ウガンダ」・「ルワンダ」・「ブルンジ」を中心とし、「ミトゥンバ山脈」沿いに縦に並んだ「ヴィクトリア湖」・その西北の「アルバート湖」・「エドワード湖」・「キヴ湖」・そしてタンザニアとの国境を形成する「タンガニーカ湖」とその周辺地域の高地の総称である。

 この付近は「アフリカのスイス」と呼ばれるほどに風光明媚な場所で、なかでも「キヴ湖」周辺の「ゴマ」・「ブカヴ」という町はことのほか美しい。また、その北側には有名な「ヴィルンガ国立公園」があり、その中に「ルウェンゾリ」という「キリマンジャロ」に次ぐ5109メートルの、アフリカ第二の高さの火山が聳え立っている。またこれらの湖は、遥か北方の地中海を目指して流れる「白ナイル」の源流であり、アフリカ随一の肥沃なジャングル、気の遠くなるほど広大な「コンゴ盆地」の東の果てでもある。

 またまた非常に大雑把に概観すれば、この一帯は15世紀以来、先住民族の「フツ族」と、北方から侵入した「ツチ族」の争乱の場だった。1994年の内戦は、その最も新しいひとつの現象に過ぎないが、それでも公表されているだけで、百万人を超えるとんでもない数の人間が殺された。

 ここでも、コンゴ河口と同じように、「フツ人」と「ツチ人」が、「ウガンダ」・「ルワンダ」・「ブルンジ」・「コンゴ(キン)」などの国土に混じり合って住んでいて、特に軍事的に優勢な「ツチ人」が一大勢力として存在する。今回の一連の紛争では、「コンゴ(キン)」領内に古くから住むツチ系「バニャムレンゲ人」の果たした役割が大きい。このように領土の東部辺境には、「ツチ」という、「コンゴ」にとって異種の強大な勢力が存在する。

 また、「コンゴ盆地」の南、「東カサイ州」・「西カサイ州」・「カタンガ州(ザイール時代は「シャバ州」)」はこれまたアフリカ随一の鉱山地帯で、なかでも「カタンガ州」は、2001年1月17日に暗殺された「コンゴ(キン)」大統領ローラン・カビラ氏の故郷でもあり、彼は一連のクーデターでキンシャサを陥落させるまで、ほぼ一貫して州都「ルブンバシ」に拠っていた。

 カタンガからは、ダイヤモンド・コバルト・銅などの鉱物資源が豊富に産出され、この地域をめぐる利権争いは後を絶たない。故モブツ大統領も、故カビラ大統領も、この資源を私物化したり密輸したりすることによって、私腹を肥やしたのである。

 また「カタンガ州」には、「ルバ人」という非常に独立心の強い大きな民族が住んでいて、独立直後のこの地域で大規模な分離独立運動が起こり、アメリカに支援されたモブツ軍によって平定されたことがある。

 この「コンゴ動乱」は、首都レオポルドビル(現キンシャサ)で発生したベルギー人将校に対するコンゴ人兵士の反乱に対して、ベルギーが白人保護を名目に軍事介入したのが始まりとされているが、要するに豊富な鉱物資源にまつわる欧米の利権確保と温存を狙った介入の動きのひとつである。

 カタンガ州の鉱物資源はそれほどまでに膨大であり、これが広く国民のために利用されていれば、コンゴという国は非常に豊かになっていたことは間違いない。充分に独立してやっていけるだけの豊富な資源がありながら、それを私物化し、経済を破綻させ国民を窮乏に陥れておいて、その救済のために送られた各国の援助金まで着服し、たまりにたまった故モブツ大統領の不正蓄財は、総額およそ50億ドル。1ドル120円としても6000億円。気の遠くなるような数字である。

 ルバ人というのは非常に由緒ある民族である。歴史を15世紀にまで遡ると、この一帯からザンビア北部辺境までを含めた地域には「ルバ帝国」という強大な帝国があり、やはり豊富な鉱物資源、特に鋳鉄で栄えていた。ルバ人の起源は非常に古く、5世紀にはこの地域に現われて鉄器文化で栄えていたという。民族的には「ハム人」に属し、興味深いことに北方系の「ツチ人」と系譜を同じくする。「チルバ語」という独自の言語を持ち、鉄に代表される古くからの文化や伝統を持った誇り高い民族である。これも「コンゴ」からみれば、非常に異質な無視できない強大な勢力といえる。

 さて、「コンゴ盆地」の北には、旧ザイールの故モブツ大統領の生地、コンゴ河中流の「エクアテール州」リサラがある。この付近は世界でも最も深いジャングルのひとつで、「コンゴ(ブラザ)」や「ガボン」にかけての広い地域に、森の民「ピグミー」が住んでいる。

 また、現在の「コンゴ(キン)」の国語である「リンガラ語」は、この地域で話されていた部族語を中心に、コンゴ河流域諸民族の諸言語が主に交易の便に利するために合成されたものといわれ、いまでもエクアテール州の州都「ンバンダカ」出身者は、若い者でも非常に厳密なリンガラ語を話す。

 「ザイール」というかつての国名は、「全てを飲み込む混沌とした河」というほどの意味であり、これはエクアテール州地方の深いジャングルと湿地に由来するものである。これは草原地帯の「バ・コンゴ州」とは全く異なる自然環境であり、その音楽、文化、伝統も、いわゆる「コンゴ」とは一風趣を異にしている。

 この地方は、古くから河を利用した交易活動が盛んで、特にベルギーの植民地開拓によって大型船の航行が盛んになるにつれて発展した。特にザイール時代末期に経済が破綻してからは、彼等の交易活動にキンシャサの経済が依存していた側面がある。

 故モブツ大統領のザイール化政策やリンガラ語の普及は、当時は「真実への回帰」といわれていたのだが、コンゴ側からみれば本当にそうだったのかどうかはわからない。「ザイール」的なものとは、中国の歴史における北方民族のように、「コンゴ」にとっては何か北方の高地、森の民、大河を活動の舞台にした交易の民としての、異質な勢力のひとつと考えられる。

 このように、コンゴ盆地の東と南北には、それぞれ性格の異なる勢力が存在する。もちろん「コンゴ(キン)」領内には二百を超える部族が存在するから、大まかにみただけでもこの4つにはおさまらない。

 特にコンゴ盆地中南部の「東カサイ州」、「西カサイ州」に17世紀に王国が栄えた「クバ人」は芸術の民として知られ、その彫像や仮面、独特の音楽は、西洋人が「アフリカ」をイメージする典型ともなっている。

 またその北側のコンゴ盆地のど真ん中、「バンドゥンドゥ州」には、「沼の民」といわれる「マイ・ンドンベ人」が住んでいる。その第二の都市「キクウィット」は、1995年に「エボラ出血熱」の感染爆発によって世界を震撼させ、「国際社会」によって危うく原爆で吹き飛ばされるところだった。

 この地方も芸術の盛んな穏やかな民族が住んでいて、特にその音楽は、豊かで彫りの深い構成と詩を持ち、腰がとろけるほどに魅力的である。現在のコンゴを代表する腕の良いミュージシャンや歌手は、その多くがこの地方の出身者または血縁者といっても過言ではない。

 さて、現在の国境線に基づいて周辺諸国に目を移してみると、これも地図を参照してもらいたいのだが、キンシャサの対岸は「コンゴ(ブラザ)」で、正式名称は「コンゴ共和国」である。この国は、故モブツ大統領と関係がよかったために、次のカビラ政権とはあまり仲がよくなかった。ちなみに「コンゴ(キン)」は「コンゴ民主共和国」で、今回の政変劇は「民主化」であるということになっている。その北西が「ガボン」で、その首都「リブレヴィル」では両者の交渉が行なわれたことがある。

 南へ目を転じるとアンゴラがあり、その首都は「ルアンダ(Luanda)」、大統領は軍出身の「ドス・サントス」という。かつてポルトガル領だったため、いまでもポルトガル語が公用され、同じ言語を持つブラジルとの結びつきが強い。ほとんど知られていないが、ここには世にもはかなく美しい音楽が存在し、それを発掘し研究する動きが最近になってみられるようになった。

 東西冷戦の構図からいうと、この国の政権は東側に属し、それと対立する反政府勢力として「UNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)」があり、故モブツ大統領はこれを支援していた。従って政変後のカビラ大統領はドス・サントスと近く、逆にUNITAを封じ込める形勢に出ている。

 これに連帯する国々として、アンゴラの南の「ナミビア(ヌジョマ大統領)」・カタンガの南の「ザンビア(チルバ大統領)」・そのまた南の「ジンバブエ(ムガベ大統領)」がある。しかし、冷戦構造が崩壊したいま、これらの国にイデオロギー的な色分けをしても意味がない。

 これとは別のつながりとして、東方の3国、すなわち「ウガンダ(ムセベニ大統領)」・「ルワンダ(ビジムング大統領・カガメ副大統領)」・「ブルンジ」があり、これらは1996年までに全てツチ族による支配が確立している。カビラ大統領はこの3国とは民族の起源としてもつながりがあるほか、その南のタンザニアを含めた4カ国とは鉱物資源の密輸で大いにつながりがある。

 北をみるとそこには「スーダン」があり、ここはテロリストの養成地としては万全である。しかしその西の「中央アフリカ」と、遥か南の「南アフリカ」は、今回の紛争では中立の立場をとり、特に南アのマンデラ大統領は、何とか自分がピース・メーカーになろうと躍起になっている。今回の一連の紛争は、このような舞台設定の上に起こった。

 モブツ政権崩壊のあらまし

 では、故モブツ大統領の治世末期はいかなるものであったか。私が1989年に首都キンシャサを旅した頃は、市民は激しいインフレを嘆きつつも平和に暮らしていた。街には音楽が溢れ、「マトンゲ」と呼ばれる下町は不夜城と化し、週末には至る所でコンセールが開かれ、朝までどろどろのどんちゃん騒ぎが繰り広げられていた。未明にへべれけに酔っぱらってひとり夜道を歩いていても、危険な目には遭わなかった。

 当時のザイール唯一の港湾都市マタディも同様で、街には物が溢れ、軍事施設周辺やすぐ下流のアンゴラとの国境、インガダムの周辺も平穏だった。この頃は、毎日決まった時刻に街中でモブツ大統領を称えるファンファーレが鳴り響き、街を歩く者は外国人も含めてその間、国旗に向かって敬礼しなければならなかった。

 しかし、2年後に再び当地を訪れた際には、状況は一変していた。経済の破綻は目を見張るものがあり、特に地方への交通は困難を究め、ザイール河を往来する交易船は大部分が故障、奥地の鉄道にいたっては何カ月も連絡がないといったありさまだった。

 私は一般市民だけでなく、政府軍の兵士からも腐敗した政治とモブツ批判を何度もきいた。キンシャサ市内でも学生による暴動が頻発し、特に都心の荒廃はすさまじかった。廃墟と化した娯楽施設や、掠奪された商店がいくつも手つかずで残っていた。その年は湾岸戦争の頃だったと記憶するが、それからザイール国内の政情不安の深刻さが頻繁に伝えられるようになり、何度も暴動や反乱が起こっては鎮圧されるということを繰り返していた。

 しかし、この頃から既に大統領の健康不安説はささやかれていた。キンシャサの都心にある大統領府に大統領自身が姿を現わすことはほとんどなく、東部国境のキブ湖畔の別荘に、また北部国境のジャングルの宮殿にいて療養しているという噂が街を飛び交っていた。

 モブツ大統領失脚の最大の要因は、要するに民心を忘れ、国益のほとんどを私物化したことにある。どんなやつにも文句を言わせないために、モブツ大統領は国内に「革命人民運動(MPR)」による一党独裁体制を敷き、国内の不穏分子を粛正した。

 対外的には、東西冷戦の構造を利用して、アフリカに於ける反共の砦を以て自任し、その見返りに西側諸国からの支援金を一手に引き受けて、そのほとんどを着服した。西側諸国もまた、支援がザイール国民には何の役にも立たないとわかっていながら、巨額な支援を続ける結果となった。

 大統領の不正蓄財は総額およそ50億ドル。西欧諸国・西アフリカ・モロッコ・ブラジルなどに、豪華別荘や古城・豪邸・隠し銀行口座がある。国内では、中央アフリカとの北部国境付近のグバドリテという高原に、失脚間際に逃げ込んだ自家用飛行場つきの「ジャングルのヴェルサイユ」という広大な宮殿があり、往年の生活は栄華を極めた。他にもキブ湖畔・生地リサラ、そして私も見たことがあるが、キンシャサから近郊の「マルク」という行楽地へ行く途中に、草原の中に広大な中国風の別荘がある。

 事態が急変したのは、1996年8月に大統領が前立腺癌を患ってスイスの病院に入院したことが伝えられてからである。折からの不安定要因であった東部国境付近の「フツ人」と「ツチ人」の民族紛争は、遂にザイール領内のツチ系最大勢力「バニャムレンゲ人」の大蜂起に発展した。10月にはそれに乗じてローラン・カビラ「人民革命党」議長が在野の3勢力を結集して「コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(ADFL)」を結成、ツチ人の軍事力を背景に西に向かって進撃を始めることになる。

 さて、話を先に進める前に1994年に起こったルワンダの内戦について簡単に見ておく必要がある。15世紀以来、Great Lakes Regionと呼ばれるザイール東部辺境一帯では、先住民族の「フツ人」と北方から侵入した「ツチ人」の争乱が永らく絶えなかった。内戦当時の形勢は、該当する3カ国のうち、ウガンダのみがツチ人主導の国家で、ルワンダとブルンジはフツ人の国家だった。もちろん領内に両者が混住し、小規模な紛争があったことはいうまでもない。

 紛争は、ルワンダで多数派のフツ人政権が少数派のツチ人百万人を虐殺したことに始まる。当然ツチ国家ウガンダはツチ人保護を口実に介入し、報復を畏れたフツ人二百万人以上が西側のザイールや南のタンザニア領内に逃れた。

 初めは、難民化したフツ人はザイール領内でキャンプを張り、国際人道機関の救援活動の対象となった。伝染病が蔓延し、数万人が死亡した。ゴマに日本の自衛隊が派遣されたのもこの頃である。多国籍軍の抑止力を背景に、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を中心とした救援活動が続いたが、キャンプ内には施しをすべき弱者のなかに、そうでない者も混じっていた。

 大量のフツ人が難民キャンプを張った場所は、アフリカのスイスと呼ばれる風光明媚な場所であり、同時にここはザイール領内に古くから原住するツチ系の「バニャムレンゲ人」の居住地だった。モブツ時代には、彼等は市民権すら与えられず迫害を受けていた。この両者の間に、当然のように紛争が始まった。

 また、ゴマの西北には「マシシの丘」というのがあって、ここはフツ系ザイール人である「インタラムウェ人」と「マイマイ人」の居住地である。彼等はツチ人の報復におびえるフツ人の難民キャンプに潜入し、武装して潜伏するようになる。当初は傍観していたザイール政府軍も、主にフツ人側に立って戦闘に参加するようになった。

 こうして紛争はザイール領内に広がり、停戦を前提に派遣されていた国連関係者はこの地をあとにした。その結果、本当の弱者である難民がさらに万単位で死んでいった。この勢力争いの中で、ウガンダの支援を受けたツチ系バニャムレンゲ人が優勢になり、1996年8月の一斉蜂起につながる。この動きに、政府転覆の機会をうかがっていたカビラ議長が連携するのである。

 また、難民問題に触発されたブルンジでも、同年7月に軍のクーデターでツチ人主導の政権が生まれ、Great Lakes Regionの3国は、そろってツチ人の国家となった。しかも、カビラ大統領の当初の意図に反して、政変後の「コンゴ(キン)」の東半分をも占拠する形勢となっている。

 ウガンダのムセベニ大統領はロイター通信に対して、ウガンダ・ルワンダ・ブルンジのツチ人勢力が連合し、東コンゴのバニャムレンゲ人を含めたエリアでの、広大なツチ帝国の構想に関心を持っていると1998年9月に語っている。これが現実になるとすれば、5百年も続いたツチ人の民族分布図が大きく塗り替えられることになる。故カビラ大統領も、とんだ相手に援助を頼んだものだ。

 モブツ政権崩壊の立役者となったこのローラン・カビラ氏とはいかなる人物か。生まれたのはカタンガ州だが、1941年生まれという説と1943年生まれという説がある。コンゴ独立直後の「コンゴ動乱」では、カタンガ州の分離独立に反対して闘った。しかしその当時のカサヴブ大統領が失脚し、モブツ大統領が政権を握ってからの30有余年、反モブツのゲリラ運動をしていたとされている。

 ゲリラ活動はだいたい「アカ」と決まっているのだが、彼もご多分に漏れずマルクス主義者を自任していた。1960年から80年にかけて、中国やソ連から支援を受けてザイール東部で小規模な反乱を組織していたらしい。

 しかし、その活動を支えたのは、生地カタンガ州の豊富な鉱物資源を横流しし、タンザニアやウガンダなどに密輸して得た資金だったといわれている。その密輸ビジネスの過程で、当時ゲリラだったウガンダのムセベニ現大統領や、潜伏中だったルワンダのカガメ現副大統領、アンゴラのドス・サントス大統領などとの親交を深めたらしい。主に活動の拠点にしていたのは、エジプトやタンザニアなど当時の左翼政権国で、本国で反乱を組織している最中も前線に現われることはなく、これらの国で指揮を執っていたという。

 読売新聞1997年5月7日と朝日新聞5月22日に、キューバの革命家チェ・ゲバラがコンゴ動乱に参加した際のカビラ批判が紹介されている。それによると、カビラには革命家としての資質は全くなく、「タンザニア、エジプトなどの豪華ホテルでウイスキーをあおりながら声明を起草するだけ」とか、「酒飲み、浪費、食べ過ぎ、怠慢・・・戦意など全くない。ソ連と中国が送ってくるから、武器だけは持っている。」とか、「お山の大将になりたがる割に指導力はなく、すぐタンザニアに行ってしまう。」などと、けちょんけちょんに非難されている。また、朝日新聞の同じ記事には、山中でのゲリラ活動についても実はタンザニアやウガンダでスポーツ・カーを乗り回していた、などという証言も紹介されている。彼は密輸ビジネスの過程で、マルクス主義と「訣別した」らしい。

 実際、彼が故モブツ大統領を駆逐する反乱や、その翌年の東部ツチ族の反政府運動鎮圧の過程の報道を見ていても、それがよくわかる。例えば、ADFL軍のキンシャサ入城に際して、遥か南方の拠点、シャバ州ルブンバシで声明を発表し、それから3日後に軍服すら着ずにキンシャサに現われる、などなどである。

 ADFLのクーデターは民主化運動であるとされている。多くの「ザイール人」達は、彼を解放者として迎え入れたし、そう思えばこそ協力もしたはずである。国際社会も当初は好意的に見ていた。

 しかし、実際の彼はモブツと同じく国の資源を横領し、それによって得た富で民族紛争を利用して、軍事的に首都を乗っ取った独裁者であるといえないだろうか。そうだとすれば、そうして出来上がった国家も、所詮モブツ体制と変わらぬ盗賊国家である。私はそう思う。

 それはさておき、カビラ氏が1967年に結成率したゲリラ組織は「人民革命党」という左派民族主義組織で、主にルバ人がその構成員である。1996年のバニャムレンゲ人の蜂起に連携した反政府組織には、このほかにザイール東部のツチ人組織「人民民主連合」・南キブを拠点とするバシ人の「ザイール解放革命運動」・東カサイ州クバ人中心の「民主主義抵抗国民評議会」があった。これらは、当然MPR一党独裁体制下では非合法組織であったが、注意すべき点は、いずれも民族色が強く、しかも互いにあまり仲がよろしくないという点である。

 以上4組織がADFLを結成するわけだが、何故カビラ氏が議長になったか。これには諸説あるが、カビラ氏がツチ人ではなく、30年前にモブツに対して反旗を翻したことがあるという、「象徴的存在」としての役割が大きかったと思われる。これによってADFLは民族的な組織ではなく、純粋に民主的な団体であるという印象を内外に与えることが狙いだったのではないか。

 さらに、モブツ政権が危うくなったのを見て取った欧米の企業家相手に大型密輸商談を進めたために、資金を持っていたことも大きな要因であったに違いない。ADFLにとってはよき看板、カビラ議長にとっては己が天下を取る好機となったわけである。

 とにかくそうして発足したADFLは、明らかにツチ人の色が濃く、背後にはウガンダ・ルワンダ・ブルンジの影がちらちらする軍隊を率いて進撃を始める。キサンガニに住む友人が手紙をくれた。ザイールのどこにあんな立派な軍隊がいたのか、と。

 さて、以上の予備知識を以てこれより本題に入る。1996年10月に蜂起したADFL軍は、翌月にはキヴ州北部の主要都市「ゴマ」を制圧。翌年3月にはその北東にある「オ・ザイール州」の州都、ザイール第3の都市「キサンガニ」を制圧した。この際、10万人に及ぶ難民に飢餓と疫病が発生し、フランス政府が国連に人道援助を要請している。

 当時、故モブツ大統領は南仏で静養中だったが、この動きを甘く見ていたのか、本当に具合が悪かったのか、5月になるまで帰ってこなかった。この間にADFL軍は、キヴ州北部からオ・ザイール州にかけてのザイール東北部の約4分の1を制圧し、キブ州南部からシャバへ進撃しようとしていた。

 彼等は、蜂起後すぐに制圧したキヴ湖北岸のゴマを長い間拠点としているが、そもそもキヴ州の州都は湖の南岸の「ブカヴ」である。にもかかわらずゴマを拠点に選んだ理由は、そこがルワンダ国境で、国境をはさんだルワンダの都市「ギセニィ」に近く、そこからはルワンダの首都「キガリ」へ太い幹線道路が通っているからであろう。こうしたところにも、彼等がルワンダの支援を受けていることが見て取れる。

 4月には、ADFL軍は早々とキンシャサのラジオを通じて、在留外国人に安全のため国外退去を求めている。日本大使館も在留邦人に退去勧告をし、外国人の出国が始まる。この頃既にモブツ大統領は、米仏などかつての支援国からも見放され、退陣を求められていた。キンシャサを訪れたアメリカのリチャードソン国連特使は4/29、退陣を求めるクリントン大統領の書簡を渡したが、激論の末、翌日にはそれを受け容れる返書を手渡された。

 5月に入ると形勢は急進する。それまで快進撃を続けてきたADFL軍は、キンシャサの東200キロの街「ケンゲ」に迫り、ここで初めて政府軍の本格的な抵抗に遭う。しかし、この時既にADFL軍は、たった半年で国土の東側4分の3を制圧していた。「ケンゲ」は、キンシャサからキクウィットに向かう舗装されたハイウェイのほぼ中間にある。ここの攻防に十日前後が費やされ、その間に諸外国による様々な和平調停の動きがあった。

 5/4、南アのマンデラ大統領の仲裁で、コンゴ沖合に南ア艦船を停泊させ、そこでモブツとカビラの直接対話が実現した。双方の要求は以下の通りである。モブツ側は、どう考えても自分が続投するのは無理のようだから、なるべく早く民主的な大統領選挙を実施し、それに自分が出ないことによって権力を譲り渡すことを提案した。しかしカビラ議長は、即時無条件でADFLの暫定政権に権力を移譲することを主張し、この日の会談では折り合いがつかなかった。

 この日、東部ではルワンダ難民6千人の乗った6両編成の列車が、終点のキサンガニに着いてみたら、91人が圧死し、多数が重軽傷を負っているのが見つかった。6両に6千人詰めこまれてでも、ザイールを脱出しようとした彼等の心中は、いかばかりのものか。彼等はキサンガニからUNHCRが用意した航空機でルワンダに帰還する予定だった。

 この頃の東部辺境一帯では、ADFL軍による妨害のため、UNHCRの活動が頓挫している。ADFL軍の言い分は、フツ人難民キャンプ内に武装勢力がある限り、攻撃を加えるのは当然であって、彼等は保護の対象ではないというものである。

 武装勢力の存在は事実だったに違いない。インタラムウェやマイマイの兵士は何百年もバニャムレンゲと闘ってきたからである。しかしこうなっては、国連といえども、「弱者」を特定することができなくなり、ここが文民組織の限界で、それがまたゲリラの狙い目でもある。

 5/6、これに関連して、国連は4月に起こったルワンダ難民の大量行方不明事件の調査のため、要員をルワンダの首都キガリに到着させたが、ADFL軍は入国を拒否。国連側は、ADFL軍がザイール領内で少なくとも8万人のフツ系ルワンダ人を虐殺し、埋められた穴が40カ所以上あるとみている。

 さらに、「国境なき医師団」によると、ADFL軍は領内のルワンダ人の皆殺し作戦を進めていて、推定で19万人のフツ系ルワンダ人が行方不明になっているとし、死と恐怖に瀕した難民にさえ物資が届かず、援助団体の難民への接触を妨害しないよう重ねて警告した。

 一方、首都近郊のADFL軍は、南西側からも包み込むようにキンシャサに迫り、この日バ・ザイール州の主要都市「ンバンザ・ングング」を制圧した。さらにADFL軍はケンゲを制圧し、キンシャサまで60キロに迫ったと発表したが、政府軍はこれを否定。しかし、政府軍は各地で敗走し、住民を襲撃、掠奪に走った。ADFL軍は、一切の妥協を拒否して政府に最後通告を突きつけた。

 キンシャサでの市街戦の色が濃くなり、米、英、仏などは、自国民救出のための部隊を隣国の「コンゴ(ブラザ)」に待機。4/29にモブツ大統領と遭ったリチャードソン国連大使は、ルブンバシでカビラ議長と、ルワンダでカガメ副大統領と、さらにボツワナを歴訪中のウガンダのムセベニ大統領と相次いで会談し、調停努力を続けた。

 5/7-8、ガボンの首都「リブレヴィル」で、「中部アフリカ仏語諸国7カ国首脳会議」が、ザイール情勢協議のため開催され、モブツ大統領も出席したが、大統領は初日の記念撮影にも姿を見せなかった。翌日の本会議で、健康上の理由で次期大統領選挙には出馬しないことを確認し、本人の死亡などによって職務不能に陥った場合の後継者として、議会議長選出を国会に求める声明を発表した。

 この声明は、依然として大統領が自己の体制内で権力移行することにこだわっているものとして、ADFL側から拒否された。また、大統領は会議終了後亡命するのではないかとの憶測が流れたが、大統領側はこれを否定。事実、亡命はなかった。

 5/8、キンシャサの東20キロで激戦があり、住民200人、政府軍兵士100人、赤十字現地職員10人が死亡。約15万人が南方へ避難した。この戦闘でADFL軍は、数千人のUNITA兵が政府軍に荷担しているとしてUNITAを非難、何人かを捕虜にしていると語った。また、この戦闘で多数の中国兵が政府軍兵士として闘って死亡したと伝えられたが、中国側は、軍事専門家を派遣したことはあるが4月中に全員帰還したと述べ、これを否定した。

 5/10、モブツ大統領がガボンのリブレヴィルより帰国。キンシャサに戻った。この間にもADFL軍は、じわじわと各方面からキンシャサに迫り、強大な軍事力を背景にモブツ即時退陣要求を突きつけ続けた。この頃にはADFL軍は、各地で「解放」した市民を徴兵し、ルワンダに送り込んで軍事教練して前線に駆り立てていった。

 5/14、マンデラ大統領による2度目の仲介工作が、やはりコンゴ沖合の南ア艦船で行なわれる予定だったが、カビラ議長は、艦船がモブツと親交のある「コンゴ(ブラザ)」の「ポワント・ノワール」沖合にあるのを嫌い、公海に出てからでないと乗船しないと主張。マンデラ大統領がこれを拒否したため、会談は流れた。

 しかしカビラ議長抜きで行なわれた話し合いで、マンデラ大統領はモブツ大統領に、即時退陣、ADFL暫定政権への即時権力移譲、即時停戦、速やかな民主選挙の実施という4つの条件からなる仲裁案を提示、モブツ大統領はこれを持ち帰って検討し、5/19までに返答すると約束した。

 この日、キンシャサでは、キンシャサ市民が真の民主主義者と認めるチセゲティ氏が、商店、交通機関、物流の多岐にわたるゼネストを呼びかけた。チセゲティ氏は、「民主社会進歩同盟(UDPS)」という非民族的組織の指導者で、モブツ体制内でねばり強く民主化の道を探り続けた現実主義者だった。彼は、アンチ・モブツ勢力として基本的にADFLを支持していたが、ADFLへの全面的権力移譲には反対していた。

 5/15、カビラ議長はケープタウンにマンデラ大統領を訪ね、この席でマンデラ大統領はカビラ議長に、段階的な権力移行を受け容れるように説得した。カビラ議長もここで武力行使にこだわれば、国際的な非難を免れないと判断し、モブツ大統領が5/19に出すという回答を待つ旨を告げた。

 しかしADFL軍の進軍は続き、政府軍をほぼ退けて首都を包囲するまでになった。ゼネストを続けるキンシャサは厳戒態勢に入り、もはやモブツ大統領が白旗を振るか、街中が血に染まるかのぎりぎりの瀬戸際まで来ていた。

 5/16、キンシャサに戻ったモブツ大統領は突然北部のグバドリテにある宮殿に逃れ、国会議長として選出されたモンセングォ司教率いる内閣に権力は移譲され、今後モブツ大統領は一切国政に関与しない旨の発表があった。

 これによって事実上、モブツ大統領の失脚が確定したが、ADFLはあくまで自分たちへの即時権力移譲を求めて進軍を続けたため、国会は政府軍司令官であるリクリア将軍以下3人の将軍にADFL軍との交渉を一任し、流血の惨事を避けてADFL軍の無血入城への道を探ることになった。この間、モブツ派要人が家族ともども河を渡って次々とブラザヴィルへと逃れていった。

 5/17、ADFL軍は遂にキンシャサに入城した。散発的な発砲はあったものの、組織的な政府軍の抵抗はなく、軍隊は歓呼の声を以てキンシャサ市民に受け容れられた。ゴースト・タウンに活気が蘇り、カビラ議長はルブンバシから「コンゴ民主共和国」の樹立と、自らが国家元首に就任する旨を宣言した。政府軍は無抵抗で施設を明け渡し、この日、早くもタンザニアが新国家を承認した。

 カビラ議長は声明の中で、権力の掌握は旧政府軍との合意であり武装解除に合意していること、新政権は国際的合意を遵守すること、3日以内に暫定政府を発足させ、60日以内に暫定憲法成立のための議会を招集し、2年以内に民主選挙を実施することなどを明らかにして、新政権が民主的政権であることを内外にアピールした。その陰でリクリア将軍をはじめ、最後の交渉に当たっていた政府側要人は次々と逃亡し、一部は逮捕された。旧政府軍の大多数も逮捕監禁されたが、やがてADFL軍への登録が認められ、列をなして鞍替えした。

 5/18、モブツ元大統領はモロッコのラバトへ向けて出国した。アンゴラとルワンダが勝利を歓迎する声明を発表、ケニアも新政府を承認した。欧米諸国の多くや日本は、真の民主化が推進されることを条件に承認した。

 5/20、カビラ議長はキンシャサに入り、組閣作業に着手したが、首相ポストをめぐって新政府内部での調整が難航している。というのは、真の民主国家を目指すため、カビラ氏自身は元首の椅子に座らず、内外が民主主義者と認めるチセゲティ氏を首相にすえるほうがよいという、アメリカと南アの働きかけがあったが、政府部内、主にツチ人の勢力がこれに反対しているためである。

 一方、ADFLの情報担当者は、キンシャサに滞在する各国のマスコミに対し、取材許可証の発行手数料や、衛生電話の持ち込み料を徴収しはじめ、また現地通貨の換算レートを、1ドル14万ヌーヴォー・ザイールに固定するなど、暫定統治システムが動きはじめている。

 5/22、キサンガニで初めての大規模な反ADFLデモが発生したが、衝突はなかった。これは、明らかなツチ人の領内進出に危機感を抱いた住民のデモだった。

 5/23、カビラ議長は国営放送を通じて、自らを暫定大統領とし、首相と国防相等7閣僚を除く13閣僚の名簿を発表した。ADFL独占の非難をかわすため、UDPSをはじめ複数の在野勢力の要人を入閣させたものの、その中にチセゲティ氏の名前はなく、しかも主要ポストはADFLのツチ人で占められていた。後に、国防相は大統領が兼任すると発表された。

 チセゲティ氏はこれに猛反発、新政府を承認しない旨の声明を出した。これに対して新政府は、「我々が全土を解放したんだから我々が決定する」としてこれを無視した。これをきっかけに一挙にカビラ不信が広がり、キンシャサで数百人規模のアンチ・カビラ・デモが起こり、ADFL軍が威嚇発砲した。

 ADFL側としては、モブツ体制内の全ての勢力に根強い不信感があり、カビラ氏は「モブツのザイール」の完全払拭と、「ルムンバのコンゴ」への回帰を目指している。また政権内ツチ人勢力は、当然新コンゴの実権を握り、ツチ人の影響力が広く西に及ぶことを目指している。

 これに対してキンシャサの市民は、もうこれ以上独裁者に生活を蝕まれることにうんざりしているので、幅広い勢力と連合した穏健な民主主義国家を望んでいる。彼等は十分に国際感覚を身につけた都市生活者なので、民主主義がどんなものかをよく知っている。彼等には、今回の組閣をめぐる強引なドタバタが、結局相も変わらぬ部族縁故主義と独裁の延長であり、民主主義は単なる化けの皮だったことが見抜けたのである。

 このようにして、5月の終わりには政権内のツチ人がリンガラ語を解しないことから、彼等はルワンダ人だとの認識が広まり、反感が増大した。そして5月末に千人規模の反ADFLデモが起こり、その後各地で散発的にデモが起こったが、全て軍事的に鎮圧された。そんななかでカビラ暫定大統領は、5/29、キンシャサのスタジアムで正式に大統領に就任する旨の宣誓をし、同時に1999年4月に議会選挙を実施すると発表した。

 9/7、モブツ大統領モロッコで死去。66歳。

 1998年8月に始まったカビラ政権に対する反乱のあらまし

 1998年8月3日、コンゴの東部、ルワンダとの国境の町、キヴ州ゴマに本部をおく「コンゴ民主主義運動(CDC)」が、反政府を掲げて蜂起した。彼等の主張は、「カビラ政権は汚職と民族縁故主義にまみれ、民主化に失敗し、民族間の憎悪を増した」というものである。

 「コンゴの真の民主主義はCDCが造る」と主張するその指導者は「エルネスト・ワンバ教授」と呼ばれているが、彼もかつてのモブツ大統領の政敵で、現カビラ大統領とも対立していた。しかし、それ以外のことは、その人となりや考えの詳細については伝わってきていない。

 今回の反乱は、民主主義運動にしては非常に組織的で戦略的である。以下、初めに戦況を要約する。

 8/4、CDC軍はキヴ州の州都「ブカヴ」とその空港を占拠すると、そこから部隊を空輸し、8/8にはコンゴの西の端、大西洋岸に近い軍事拠点「キトナ」を制圧して西部戦線を形成、首都を挟撃する動きに出る。これには受け入れ先として、アンゴラの反政府勢力「UNITA」との連携があったとの憶測もある。

 8/5、東部戦線では、東北部「オ・コンゴ州」の州都、コンゴ第二の都市「キサンガニ」から、ルワンダ、ブルンジの東部国境沿いにかけて戦火が広がる。

 8/12、政府軍、東西両戦線にて反撃を開始。カビラ大統領は「反政府勢力にルワンダが関与している」と主張して、ルワンダを激しく非難。ルワンダはこれを否定し、以後、非難の応酬が始まる。

 8/13、カビラ大統領、全国民に反政府勢力に対する情容赦ない殺戮をラジオを通じて指示。キンシャサでは治安が急速に悪化し、ADFLとしてキンシャサに入ったツチ人その他、各地で合流したコンゴ系以外の民族、さらに外国人に対する密告、監禁、暴行、掠奪、殺戮が頻発する。

 8/14、西部戦線では、CDC軍がマタディ港を制圧したうえ、その上流にある「インガ・ダム」を占拠し、電力の供給を停止。キンシャサ、ブラザヴィル、その他周辺諸国で長期間の停電が始まる。

 8/15、在外公館が相次いで閉鎖され、外国人のブラザヴィルへの脱出が始まる。南アもコンゴ人以外のアフリカ人の救出活動を始める。キンシャサでは、カビラ大統領が西欧諸国もツチ人を支援しているとして非難、サポーターによる「No Americans, No French, No Tutsi」キャンペーン始まる。また、カビラ政権の外相だったカラハ氏がCDCに寝返る。

 8/16、カビラ大統領、シャバ州ルブンバシにて事態を周辺友好国と協議。

 8/17、キンシャサ、停電のなか食糧の配給制が始まる。

 8/19、政府軍、キトナを大規模に空爆。CDC軍、西部戦線でさらにキンシャサに肉迫し、約120キロ手前の都市「ンバンザ・ングング」へ侵攻。東部戦線ではキサンガニを制圧。一方、アンゴラ、ナミビア、ザンビア、ジンバブウェが、ルワンダとウガンダがコンゴを侵略しているのは明白として、介入を検討。ルワンダ、ウガンダは侵略を否定。

 8/20、CDC軍、早くもキンシャサに至り市街戦。カラハ氏、CDCは停戦の用意があると表明するが、カビラ大統領は、ルワンダ、ウガンダ軍がコンゴ領内にいる状態での交渉には応じられないとし、あくまでも両国の撤退を要求。両国は侵入を否定。一方、南アのマンデラ大統領が関係諸国による地域サミットを呼びかける。

 8/22、マンデラ大統領の呼びかけで、「南部アフリカ開発会議(SADC)」14ヵ国にコンゴを加えた首脳会議をプレトリアで8/24に予定するが、コンゴとジンバブウェはボイコットを表明。ちなみに、ルワンダとウガンダはSADCに含まれていない。

 8/23、アンゴラとジンバブウェ、カビラ政権に同盟して参戦。南部アフリカでも最精鋭とされるアンゴラ空軍がキトナ基地を奪還。東部戦線では、政府軍がキサンガニ奪還を伝えるが、CDCはこれを否定。

 8/24、SADC首脳会議、南アのプレトリアで実現するも、成果なし。

 8/25、政府同盟軍、マタディの奪還を伝えるが、CDCはこれを否定。両者の情報合戦が激化。カビラ大統領はルブンバシよりキンシャサに戻り、反政府軍に対して「弓や槍でもってでも」徹底抗戦するよう、ラジオで国民に呼びかける。「抗戦しないと、全国民がツチ族の奴隷になるぞ。」

 一方、アンゴラとジンバブウェの同盟軍は、西と南からキンシャサ周辺の反政府軍に迫り、戦闘で千人以上の死者が出る。CDCのカラハ氏は、ジンバブウェ軍の空爆により、ンバンザ・ングング周辺の村民の多数が死亡、またキサンガニにも戦闘機が飛来したと伝える。

 8/26キンシャサ東部で爆発音。市民多数が中心部へ逃れる。キンシャサはあちこちで廃墟となる。キンシャサ市内主要道路にはバリケードが築かれ、外出禁止令が出る。CDCワンバ教授、「キンシャサは間もなくCDCの支配下に入る。」とゴマで発表。この頃からCDCの動静が伝わりにくくなる。

 8/27、キンシャサの市街戦激化。政府軍は反乱容疑者を大衆の面前で殺戮。ラジオも煽動し、市民による密告、リンチ、拷問、虐殺、遺体からの掠奪などが相次ぐ。南部戦線では反政府勢力8千人が死亡または捕虜になる。

 8/28、コンゴ全土で交戦が激化。西部戦線ではジンバブウェとアンゴラの介入軍がキンシャサ東部のンジリ、マシナ地区でCDC軍と、東部戦線ではナミビアが介入し、ブルンジ軍と交戦。戦相が複雑化する。

 8/29、政府軍、キンシャサでの戦闘で反乱軍に勝利したと宣言。キンシャサ東部で大規模なツチ人家宅捜索が行なわれる。

 8/30、政府軍、キンシャサでの戦闘の終結を宣言。カビラ大統領がジンバブウェを表敬訪問。ジンバブウェのムガベ大統領は、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジの3国は平和と民主主義の必要を唱えながら、陰で戦争を続行しているとして3国を非難。CDCは戦闘終結を否定し、続行を強調。一方、政府同盟軍はインガダムを奪還、電力の復旧作業が始まる。

 国連安全保障理事会はこの日の公式会議で声明を発表し、紛争が続いているコンゴ民主共和国(旧ザイール)からの全ての外国軍の撤退と、停戦に向けた政治対話を始めるよう呼びかけた。国連がコンゴ紛争について公式な態度を示すのはこれが初めて。

 この声明はまた、コンゴの領土保全と紛争平和解決のためのあらゆる外交活動を支援する意向を示すとともに、国連やアフリカ統一機構(OAU)による同地域の平和と安全、発展のための国際会議を開くようあらためて呼びかけた。 また、死刑執行や拷問、民族的理由による市民の拘留、未成年兵の徴用、投降した兵士の殺害、ツチ人に対する差別的な宣伝行為、性暴力など、同紛争における人権侵害を非難した。

 8/31、政府軍、マタディを奪還、多数のUNITA兵士が捕えられる。カビラ大統領、西南戦線の勝利を宣言。CDCは、事実上西南戦線を抛棄し、東部を拠点に反撃の構えに転じる。

 9/1、キンシャサ市内の道路防塞、検問所は撤去され、市内は平静を取り戻す。

 9/2、「非同盟諸国首脳会議(113カ国)」が南アのダーバンで開かれるが、コンゴ危機については双方に対話を求めただけで終わる。この会議でカビラ大統領は、マンデラ大統領の挨拶も断わり、ルワンダとウガンダを激しく非難。ジンバブウェのムガベ大統領も、「会話も必要だが、介入も必要だった」として、カビラ大統領を支持。また、PLOのアラファト議長、キューバのカストロ議長もカビラ大統領に支持を表明。一方CDCは、「コンゴ民主連邦評議会(CFDC)」と名を変え、参加を希望したが認められなかったため、場外で報道陣にカビラ政権の野蛮性をアピール。

 東部戦線で8月の戦闘で政府軍によるツチ人大量虐殺があり、大量に埋められた穴があるとの目撃証言。

 9/3、「南部アフリカ開発会議(SADC)」が、コンゴ危機協議のため再び開催されたが、カビラ議長とそれに同盟したナミビアのヌジョマ大統領は欠席。ジンバブウェのムガベ大統領は、この席で改めてウガンダ、ルワンダ、ブルンジの3国の侵略行為を指摘、マンデラ大統領と、ともに出席していた国連のアナン事務総長もこれを認めた。これにより双方に撤退を呼びかけていた国際世論が、3国に撤退を求める論調に変化。キンシャサの停電が一部解消。

 9/7-8、ジンバブウェのヴィクトリア瀑布にて、周辺国で唯一中立を保っているザンビアのチルバ大統領の調停で、紛争当事国の和平会議が行なわれた。しかし、カビラ大統領が「我々が闘っているのは反政府勢力なのではなく、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジの3国である」として、CFDCを交渉相手として認めなかったため、直接対話は実現しなかった。

 CFDCの交渉団はホテルの一室に隔離され、チルバ大統領と会見しただけだった。先月の非同盟諸国首脳会議に続いて、再び対話の機会を閉ざされたため、「カビラが直接交渉しようとしない限り停戦は不可能」として、カラハ氏が戦闘の激化を指示した。

 一方、この日も東部戦線ではゴマとキサンガニの中間地点「ルブトゥ」と、南方のタンガニーカ湖畔の街「カレミィ」で戦闘があり、ツチ系市民を中心に少なくとも264人が死亡。この際の空爆で、ブカヴの西にある軍事拠点「キンドゥ」からとみられるアンゴラとジンバブウェの戦闘機が目撃されている。

 また、カビラ政権のコンゴロ司法相は、「ルワンダがコンゴ領内の自国の軍隊の存在を否定し続けるのなら、我々が収監しているルワンダ人兵士全員をその言葉通りにしてやる」と発表。

 9/10、ヴィクトリア瀑布での会議から戻ったカビラ大統領は、全国民に対してキンシャサでの抵抗と同じ闘争心でもって、ツチ人との戦いを徹底するよう指示。その一方で、各国の援助物資を受け容れるため空港を開放、その安全を保障した。

 9/11、OAU会議がエチオピアの首都アジスアベバで開催され、国連のアナン事務総長も出席したが、紛争各国は代理人を派遣しただけ。結局会議では介入国に撤退を求めただけで終了。当事者双方はこれを無視、コンゴ東部の攻防が激化する。

 しかしこの日、ウガンダのムセベニ大統領は、自国軍がコンゴ東部の複数の空港の制圧に関わっていることを初めて表明。ルワンダは相変わらず侵入を否定している。

 9/12、政府軍は西部の鉄道、道路、送電線、石油パイプラインの安全をほぼ確保。CDC側は東部をほぼ制圧し、西部に対してはゲリラ戦に方針を転換。紛争の長期化とテロリズムへの傾斜が始まる。

 国連難民事務所の発表。東部難民がタンガニーカ湖をわたって8月初旬の戦闘開始からの1カ月で約4600人、この数日は毎日200人程度。逃れてきた難民によると、CDCは夜間の家宅捜索と掠奪を繰り返し、容疑者の殺戮、成年男子の徴兵、拒否者の処刑が繰り返されている。

 9/13、キンシャサ再び停電。

 9/14、「南部アフリカ開発会議(SADC)」の会合がみたびモーリシャスで行なわれ、カビラ大統領も出席したが、カビラ大統領はあらゆる妥協を拒否し、あくまでウガンダ、ルワンダ、ブルンジ3国を非難したため、進展なし。

 ルワンダは繰り返し自国軍がコンゴ領内にいることを否定。しかし、多くの目撃証言によると、ゴマの街にはルワンダの路線バスが走っている。

 一方、東部では、ゴマ近郊の「マシシ高原」で、フツ系インタラムウェ人とマイマイ人による襲撃が発生。戦闘では重装備の火器、ロケット砲などが目撃され、単なる部族蜂起とは考えられない様相を呈していた。政府軍はマイマイ人が政府部内にいることを認めている。

 9/16、CFDCによると、タンザニアにいるブルンジのフツ人難民が、対岸のコンゴ領内にいるツチ人を皆殺しにしようとして、大挙してタンガニーカ湖を渡りはじめた。

 また、国連は、カビラ現大統領の反モブツキャンペーン中に、ADFLが大量のフツ人を虐殺したことは明白だという見解を明らかにした。

 9/17、ウガンダのムセベニ大統領はロイター通信に対して、「ウガンダ、ルワンダ、ブルンジのツチ人勢力が連合し、東コンゴのバニャムレンゲ族を含めたエリアでの、広大なツチ帝国の構想に関心を持っている。」と語った。

 CFDCは、スーダン軍が政府軍に同盟して東北部を侵略していると主張。両者はこれを否定。

 

 キンシャサの市民生活については、反乱が始まって1ヵ月後の8/24、キンシャサは平静を保っていたが、電力に加えてガソリンのパイプラインもカットされ、保存食を中心に物価が2〜3倍に上昇した。停電の影響は、給水設備、冷蔵設備、食品加工、物流の広きにわたって深刻化し、水道が使えないために、溜め水による伝染病の危機が広がる。経済活動の停止から銀行に現金が戻らず、一般市民は物々交換と自給自足でその日暮らし状態になる。キンシャサに程近い下流の「ゾンゴ」にある小規模な発電所で、都心部のみ電力の供給が復活するが、不安定な状態が続く。

 8/30、停電の続くキンシャサでは、ラジオなどの情報源すらなく、風評が飛び交い、市民は密告を畏れて集団行動をとっている。戦災孤児が多数発生して流浪し、夥しい死体から掠奪して生活の糧を得ている。政府軍は若者を中心に路上生活者を徴兵し、彼等も生活のために応じている。

 9/8、キンシャサの食糧と水の欠乏は深刻化、ユニセフによるとキンシャサには4日間の食糧と7日間の水の備蓄しかなく、水質の悪化による下痢が蔓延している。

 1996年10月にADFLが蜂起し、故モブツ大統領を駆逐して「コンゴ民主共和国」建国に至った戦いでは、ルワンダを中心に、ウガンダ、ブルンジのツチ人勢力が、カビラ議長率いるADFL軍を支援したと考えられている。今回の反乱は、この時同盟した筈の両者の間で繰り広げられた。これは真の民主主義運動なのか、またはそれに名を借りた民族紛争なのか。

 カビラ大統領は、ツチ人勢力がコンゴ国内に「コンゴ民主主義運動(CDC)」なるものをでっち上げ、それを隠れ蓑にコンゴに侵入しようとしているとみる。そのCDC(のちCFDC)は、「コンゴの真の民主主義はCDCが造る」、「カビラの独裁に対する全ての政治勢力の結集を目指し、あらゆる新しい形の、独裁を避ける政治勢力を歓迎する」と主張しているが、ワシントン、ブリュッセル、ナイロビのアフリカ識者は、彼等の主張は全くアテに出来ないと言っている。

 カビラ大統領が1997年5月に正式に大統領に就任した当時、国民はモブツの圧政に疲れ切っていたから、それを解放してくれるものとしてADFLを歓呼して迎え入れた。しかし開けてみると、出来た政権はツチ人主導による民族縁故主義にまみれており、民主主義の達成どころか、異民族による新たな独裁の影さえちらついていた。

 国民のツチ人への反感は高まり、カビラ大統領としてもツチ人の軍事力は必要だったが、こうも大っぴらに政権内や領土内ででかい顔をされるのは迷惑であった。今回の紛争のひとつの要因として、コンゴ国民の反ツチ人感情があげられる。

 カビラ大統領は終始一貫して、今回の反乱をウガンダ、ルワンダ、ブルンジの侵略行為だと決めつけ、友好国であるアンゴラ、ナミビア、ジンバブウェに軍事協力を仰ぎ、3国はそれに応じて介入した。当初、国際世論はその考え方に疑問を持っていたが、カビラ政権側が、ツチ人3国の侵略行為を示す動かぬ証拠を差し出すと、PLOのアラファト議長、キューバのカストロ議長をはじめ、南アのマンデラ大統領、国連のアナン事務総長など、紛争を知る国際世論の動きは、カビラ政権に同情的になった。それに勢いづくようにカビラ大統領は、「これは内戦ではなく侵略戦争だ」として、CDC(CFDC)を交渉相手とは認めず、あくまで「侵略国の撤退」を求める強硬な態度に出続けている。

 これに対して、ルワンダは一貫して侵略を否定している。しかしルワンダは、「コンゴが領内のフツ人難民に軍事訓練を施して、ツチ系ルワンダ人の襲撃に利用している」としてコンゴを非難している。「コンゴ領内で帰還を待っているルワンダ難民が攻撃されれば反撃する」として、軍事介入に微妙な含みを持たせた。これは明らかに、軍事介入を正当化するための布石である。

 また、ウガンダは当初侵略を否定していたが、9/11になって初めて、ウガンダ軍がコンゴ領内にいることを認めた。この頃から、ルワンダの戦車やバスなどが、コンゴ東部領内で次々に目撃され、ルワンダの反論にも疑問が投げかけられている。

 これに関連して国連は、「ルワンダとウガンダは、コンゴに逃げ込んだフツ人が再びルワンダとウガンダに侵入しようとするのを、カビラ政権が防ぎきれないことに対する不満があるのではないか」との見解を出している。

 つまり、1年前に彼等が共闘してモブツ大統領を駆逐した際、ツチ人の大勢力がカビラ議長を推す代わりに、カビラ議長が領内のフツ人を弾圧するという、一種の安全保障条約的な密約が交わされていたのではないかということである。

 先のルワンダの非難と読み合わせると、1年前の反乱で、ADFLが国連による難民虐殺の調査を拒否していることも、UNHCRの活動をADFL軍が妨害したことも、MSF(国境なき医師団)が報告したフツ人皆殺し作戦も、そして今回のルワンダの態度も全て説明がつく。ここに、今回の紛争のもうひとつの要因、すなわちツチ人自身のカビラ政権への不満、密約の不履行に対する不満がみられる。

 従って、この反乱を民主主義運動とみるには無理がある。しかも今回の反乱は、非常に組織的で迅速に展開された。蜂起からわずか2週間で、反乱軍は首都を脅かしている。1年前のADFLのキンシャサ入城が、蜂起から7カ月もかかったのにである。しかも、伝えられているところによると、その軍事力は強大で、戦闘による死者がけた違いに大きい。これが大衆の支持を受けた行動とは考えにくい。

 また、今回の反乱軍CDCの指導者とされるエルネスト・ワンバ氏の顔がほとんど見えてこない。蜂起当初に、キンシャサ市民なら誰でも感じていることを代弁した声明が出ただけで、彼の主義主張や路線などが全く伝わってこない。むしろ、カビラ政権から鞍替えしたカラハ氏の戦略的な主張の方が大きく、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジのツチ系3国の声の方がもっと大きい。

 これらからみても、カビラ大統領の言うように、この「反乱」は、ツチ系3国の侵略とみるのが自然なようである。だからといってカビラ大統領が全て正しいわけではなく、彼が新たな独裁者になりつつあることはほぼ間違いない。しかし、これが民族紛争だとすれば、事態は一層深刻である。

 Great Lakes Regionには広い範囲でツチ人とフツ人が暮らしていて、そのほぼ真ん中をコンゴの国境線が走っている。彼等は現在、その東側半分に3つの国を建てている格好である。彼等にとってみれば、自分たちの土地の西側半分をコンゴが占領していると見えるのかも知れない。

 「私はツチ人だが、私の故郷はコンゴだ。しかしその土地はウガンダ人の故郷でもある。」ウガンダとの国境の町ブニアからキサンガニに逃れたツチ人の少年のこの話は、彼等の心情をよく表わしている。

 しかし、ウガンダのムセベニ大統領がもらしたように、彼等の行動の影に巨大ツチ帝国の構想があるのなら、これは過激な民族主義の現われで、もし万一これが成立すれば、二百もの部族が混住するコンゴは大混乱に陥る。今までは、強力な独裁政治が敷かれることによって、辛うじて分裂を免れてきたという側面があるからである。

 今後少なくともツチ系3国がその主張を平和路線に転換しなければ、この反乱は間違いなくアフリカのど真ん中での大規模な地域紛争に発展する。1998年9月17日現在、CFDCはコンゴのほぼ東半分を制圧し、膠着状態となっている。戦争が長引けば、必ず当初の目的は薄れ、「戦争のための戦争」に陥る危険がある。しかも、CFDCは、テロリズムを示唆している。

 政府側に同盟している各国も、ただで軍事力を提供しているわけではなく、そこには必ず打算がある。特にアンゴラは、国内に強大な反政府勢力UNITAをかかえている。アンゴラがコンゴと同盟する限り、コンゴはUNITAに対する弾圧を連帯して求められているだろう。介入国が増えると、それだけ権利関係は複雑化する。その結果、再び国民が苦しむ。

 私の知る限り、平和な時代であっても、国民は決して幸福ではなかった。だからこれ以上、彼等を苦悩に陥れるのはやめて欲しいのである。呑気なようだが、私の愛したキンシャサの美しい音楽が、再び全土で大音響で鳴り響く日が再びやってきたら、私はもう一度それを聞きに行きたい。

 アフリカの中央部で、周辺国を少なくとも6カ国も巻き込んで泥沼化しているコンゴ危機は、9/17以降、しばらく鎮静化していたようにみえたが、10月に再燃。最も大きな和平合意の機会とみられていた11月下旬のパリでの会談でも実質的な進展がみられず、紛争は拡大し、さらに長期化と複雑化の様相をみせている。

 対立の構図と紛争当事者の主張は、以前と全く変わっていない。すなわち、首都「キンシャサ」の現コンゴ政府ローラン・カビラ大統領の主張は、いわゆる反政府勢力なるものは、実はその東側のツチ系3国家、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジの手先であって、一連の紛争は反政府活動ではなく、3国のコンゴへの侵略であるとするものである。従って、この紛争は内戦ではなく戦争であり、交渉すべき相手は「いわゆる反政府勢力」ではなくツチ系3国であって、停戦の前提は、まずこの3国がコンゴ領内から撤退することだと、一貫して主張している。

 これに対して、東部ルワンダ国境の町「ゴマ」に本拠をおく反政府勢力「コンゴの民主主義への大結集(RCD)」(かつてのCDC、のちCFDC)の指導者エルネスト・ワンバ教授は、カビラ大統領を新たなる独裁者と決めつけ、彼を倒し、自分たちが民主的な政権を樹立することが、コンゴの民主主義の実現につながると主張している。そして、停戦の条件は、「真の民主主義」について、カビラ大統領と直接語り合うことだとしている。しかし、その「真の民主主義」がどんなものかは明らかにされていない。

 両者の主張のどちらが正しいかはわからない。つまり、カビラ大統領の言うように、多くの報道は、RCDが現在占拠しているコンゴの東半分に明らかにツチ系3国の軍隊の存在が報告されていて、この3国は客観的にコンゴに侵入していることは間違いないと思われるからである。しかし、ワンバ氏の言うように、カビラ政権が民主的でなく、南部の鉱山地帯から得た不正蓄財で権力にのし上がったものであることもまた、多くの報道が指摘しているところである。カビラ大統領は、民主主義について明確な路線を打ち出していないが、かといってワンバ氏の行動も軍事的すぎて、民主主義とはかけ離れていると思わざるを得ない。つまり、両者の表向きの主張は単なる戦略的なものとしか考えられないのである。

 さて、カビラ大統領に同盟して介入している諸国は、アンゴラ、ナミビア、ジンバブウェと、最近になって、スーダン、チャド、リビアという国々が指摘されている。また、RCDを支援しているとみられているのは、上記ツチ系3国と、最近になって西側諸国、特にアメリカの影が噂されている。近隣国で中立を保っているのは、南隣のザンビアと北隣の中央アフリカである。東アフリカの大国であるケニアは、カビラ大統領に同調しているものの介入していない。タンザニアも中立だが、コンゴと接する西側のタンガニーカ湖畔一帯は、RCDと対立するフツ族の拠点になっているという情報もある。また、南アフリカは、ザンビアとともに懸命に仲介工作に乗り出しているが、今のところ実効は上がっていない。

 介入国のうち、カビラ政権と同盟している諸国は「隣国の危機を救うため」と称して、公然と武力行使を続けていて、介入が長引くにつれて国内が混乱している。主に戦闘に加わっているのは、ジンバブウェとアンゴラで、最近になって関係を指摘されたチャドは首都と北部国境、スーダンは、新規に採用された政府軍兵士に対して、そのゲリラ養成施設にて軍事教練を施し、リビアはゲリラ戦用の武器弾薬の供給を受け持っているとされている。また、これらの国々がロシアと関係が深いことから、ロシアから戦闘機や戦車を大量に購入しているという情報もある。彼等がそこまでするのは何故なのか。そこに「隣国の危機を救うため」などという以外の何かを感じざるを得ない。

 また、RCDを支援しているとされる3国のうち、ウガンダは早くからコンゴ領内の自国軍の存在を認めたが、ルワンダは最近になってようやくこれを認めた。しかし、それはあくまでコンゴ領内のフツ族反政府勢力が自国を脅かすのを防ぐためだとしていて、コンゴへの侵略行為は否定している。RCD側も同じ事を言っていて、彼等が「ツチ」の色を消そうとしているともみえる。しかし、アンゴラとジンバブウェという、南部アフリカで最強とされる軍事力にここまで対抗する力が、果たして彼等にあるのかという疑問から、裏に更に大きな黒幕として西側諸国の影が噂されている。かつてウガンダのムセベニ大統領がもらしたように、彼等は本当にアフリカ中部に巨大な「ツチ帝国」を建国しようなどと考えているのだろうか。

 このように、対立の構図はますます複雑化と広域化が強まっていて、互いに振り上げたこぶしを降ろそうとしない状態が3カ月以上続き、その間に莫大な死者と負傷者と難民が出ている。また、介入国の出費は膨大なものとなって国民の生活を圧迫し、アンゴラのUNITAのように、この地域内に20以上あるといわれる介入国内の反政府勢力が、それぞれの拠点で新たな紛争を起こしはじめている。紛争は、幾重にも重ねられた複雑な利害関係の中で、アフリカのかなりの部分を巻き込んだ全面戦争に陥る危険をはらんでいる。

 これに対処する仲介努力も、国連をはじめアフリカ内部の様々な組織を通じて何度も行われているが、カビラ大統領がRCDの存在を認めず、ツチ系3国が侵略の事実を否定しているという状態の中で、直接対話の機会が全く実現できていない。11/27に行なわれたパリでの「フランス語圏アフリカ諸国首脳会議」でも、停戦合意が実現したと世界中に報道されたが、それは国連とシラク大統領が言っただけで、当事者達は何の合意もできていないと考えているありさまである。

 そうした陰で両者の戦闘は続き、RCDはコンゴの東半分を完全に制圧、南部の炭鉱地域に触手を伸ばしている。これは統一という美名にかこつけて、ダイヤモンドや銅やコバルトといった、有り余る資源を私物化しようとする動きでなくてなんであろうか。結局、全ての勢力がこの地域を占有したいがために戦争していると考えられても仕方がないのではないかと思ってしまう。

 以上が、9/18から12/17の紛争の概況である。では、細かく見ていくことにする。

 10/3、RCD、南部の戦略拠点であり、錫の産地である「キンドゥ」に侵攻。ワンバ氏、「我々は今や国土の40%と1500万の人民を支配している」とし、南部カタンガ(シャバ)州、東西カサイ州の領有に向けて進軍しつつあると発表。これらの州はアフリカ有数の鉱山地帯。

 キンシャサでは、コンゴ赤十字が戦闘のため埋められた死体の発掘を始め、数百体を埋葬。

 10/10、キンドゥ発の民間航空機が撃墜される。どちらが撃ったかをめぐり両者が非難合戦。

 10/12、RCD、キンドゥの占拠を宣言。

 10/19、東京にて「アフリカ開発会議」が開かれ、コンゴの代表者出席するも、平和を求める抽象的な宣言を採択して終わる。

 10/23、ルワンダのカガメ副大統領、南アのプレトリアでマンデラ大統領と会談するも、進展なし。しかしこの頃から、カビラ大統領と考えを一にしていたマンデラ大統領の、RCD寄りの言動が聞かれはじめる。

 10/27、ジンバブウェの国会議長が、これ以上のコンゴ内戦への介入はやめるべきとムガベ大統領に進言。今回の介入は国会の議決を経ておらず、事前の外交努力もなかったことから、ジンバブウェでは国内で反戦の声が強まる。さらに、ガソリンや公共料金が介入以降どんどん引き上げられていることなどに国民の反発が強まっている。

 10/30、マンデラ氏が南アでウガンダのムセベニ大統領、ルワンダのカガメ副大統領、RCDのワンバ氏、ナミビアのヌジョマ大統領と会談。停戦への道を探る。この席で、ルワンダは初めて自国軍がコンゴ領内にいることを認めた。しかし、それはあくまでコンゴ領内のフツ人が自国を脅かすのを防ぐためだとしていて、侵略行為は否定。ワンバ氏は、あくまでカビラ大統領との直接対話を要求し、さもなくば戦闘を続行すると主張。RCD軍、カビラ大統領の拠点に近いカタンガ州「カミナ」に接近。

 戦闘の影響で、コンゴ領内のシロサイとマウンテン・ゴリラが多数死亡、危機に瀕している。

 11/2、アメリカのスーザン・ライス国務次官、紛争当事国を歴訪して仲介工作を始めるが、ジンバブウェのムガベ大統領は、同盟軍の撤退はRCDが占拠している東半分を平定してからだと主張し、仲介工作を拒否。

 11/4、西部の貿易港「マタディ」、軍事拠点「キトナ」のアンゴラ軍が、チャド軍と交替。アンゴラ国内で再び蜂起した反政府勢力「UNITA」への対処のため、彼等が撤退するのではとの憶測が流れたが、ジンバブウェのムガベ大統領は、「我々は同盟軍であり、撤退はあり得ない」としてこれを否定。

 11/5、南アのマンデラ大統領、アメリカのライス国務次官の仲介工作続く。

 11/7、コンゴのカトリック教会、これ以上の流血回避のためRCDとの対話に応じるよう、カビラ大統領に進言するも拒否される。

 キンシャサ市民が「真の民主主義者」と認めるチセケディ氏は、10月には体制内から追放され、事実上の自宅軟禁状態におかれていると伝えられる。

 ルワンダは、国連とアメリカの外交筋に対して、「軍事的に強大な隣国に対する自国の安全のために、その国の領内に自国軍をおいている」という声明を発表。アメリカのライス国務次官は、これまで自国軍の存在すら認めてこなかったルワンダの軟化と受けとめて、この声明を歓迎。説得の道を探り続ける。キンシャサ政府はこの声明を自明のこととして、あらためて3国の撤退を要求。

 11/9、RCDのワンバ氏、ルワンダの声明について、「カビラは我々の共通の敵だが、ルワンダとRCDとでは目的が違うので、共闘はしていない」として、支援を受けていることをあらためて否定。しかし、「彼等は確かにゴマにいるが、それは彼等の国の安全のためだ」として、ルワンダ軍がRCDと同じ場所にいることを認めた。

 ルワンダが主張する「自国を脅かす勢力」とは、コンゴ東部の森林、山岳地帯に古くから存在する多くの軍事勢力、中でもフツ系ルワンダ人「インタラムウェ」や、かつてのフツ人支配時代のルワンダ軍団体「ex-FAR」、コンゴの古くからの「マイマイ」兵などの軍事勢力をさしている。彼等は1994年のルワンダ内戦時、ツチ系ルワンダ人と穏健派フツ人80万人が虐殺された事件に、中心的役割を果たしたと考えられている。

 ワンバ氏は、まずこれらの「内敵」を排除しなければコンゴの平和をかち取ることは出来ず、平和のないところに民主主義の実現はないと主張している。「カビラ政権は、これらの『内敵』を支援して紛争を複雑化させているから、我々はそれに対して闘っているのだ。」カビラ政権が、難民化したフツ人や領内の戦災孤児を徴兵し、スーダンに送り込んで軍事教練を施した上で前線に送り出しているのは、多くの報道が指摘しているところである。

 11/10、コンゴ河中流の「エクアテール州」に、旧モブツ派による第二の反政府勢力が蜂起。これは、かつてのザイール切っての実力者ベンバ・サオロナ氏の息子、ジャン・ピエール・ベンバ・ゴンボ氏が率いていて、ルワンダとウガンダの支援が指摘されている。RCDは関連を否定。

 ゴンボ氏の反政府勢力、故モブツ大統領の生地「グバドリテ」にてカビラ大統領と同盟したチャド軍と戦い、チャド兵300人以上が死亡。戦闘は瞬く間に首都キンシャサ周辺に波及し、キンシャサの病院に多数のチャド負傷兵が運び込まれる。

 11/11、ジンバブウェ国内の反戦運動が、労働者による反政府暴動に発展し、全土に波及。「燃料、食品、生活必需品の高騰は、コンゴ内戦への加担が原因だ」と主張。試算によると、ジンバブウェの介入費用は一日あたり100万米ドルに達し、国内ではガソリンが70%も値上がりするなど、国民生活が圧迫されている。

 11/12、ルワンダのラジオによると、スーダンの反政府勢力がウガンダ軍と同盟して、コンゴ領内のチャド軍と戦い、双方にかなりの死者が出た模様。

 ワンバ氏の発表によると、RCDの一派が南部カタンガ州「コンゴロ」を占領し、カビラ大統領の拠点であり、銅とコバルトの産地である「ルブンバシ」に迫る。別の一派は深い森林を西進して東カサイ州の州都であり、ダイヤモンドの産地である「ンブジマイ」を目指すも、雨期で増水した川とジャングルの沼地に足を取られて難渋。

 11/16、コンゴのオコト外相、南アのンゾ外相とプレトリアで会談。中立を保つザンビアのチルバ大統領が調停の道を示しうる唯一の人物として合意しながらも、オコト外相は、ツチ系3国の撤退がない限り同盟軍の撤退もあり得ないとあらためて主張。ンゾ外相は、南アは平和維持軍の派遣を準備しているが、その前にまず両勢力の話し合いが重要として、セッティングの努力を続ける旨を表明。

 会談の後、ンゾ外相は、この紛争がアフリカ大陸全面戦争に発展する危険をはらんでいるとして、カビラ大統領と、彼に同盟するジンバブウェのムガベ大統領、彼等に理解を示す自国のマンデラ大統領が、紛争解決への障碍になっていると述べた。オコト外相はこの考えに強く反発し、南アがRCDを支援しているとして非難。

 コンゴのカビラ大統領、11/26からパリで始まる「フランス語圏アフリカ諸国首脳会議」の事前折衝のため、イタリア、ベルギー、フランスを訪問すべく渡欧。イタリアは、紛争当事国双方との関係が良好なことから、「互いの話を聞く用意がある」と表明。

 11/19、RCDの北東部戦線、コンゴ河上流の港湾都市「ブンバ」を制圧し、エクアテール州に迫る。北東部戦線では主にチャドとスーダンの軍がRCDと戦い、リビアが武器弾薬を支援しているとみられているが、RCDによると、政府同盟軍は闘わずしてほとんどが中央アフリカ共和国領内に逃げ込んだという。RCDは領土の半分を制圧したものとみられる。

 11/20、ボツワナの首都「ガボロン」で、南ア、国連、アフリカ統一機構(OAU)、南部アフリカ発展会議(SADC)と、紛争当事国を招いての会議が開かれるが、コンゴ政府は不参加。RCDはこの手の会議に初めて正式に招かれ、同じ主張を繰り返したが、会議で提出された調停案に基本合意したとされる。その内容は不明。しかし翌日になって突然態度を翻し、再びコンゴ政府との直接交渉を要求したばかりか、今後の全ての和平会議に正式メンバーとして招待するよう、また、カビラ大統領を反人権的殺人者と各国が認識するよう強く迫ったため、話し合いは物別れに終わった。

 アンゴラ領内で、反政府勢力UNITAが蜂起し、アンゴラ政府軍がその対応のため撤退を始める。代わりにチャドの増援部隊がコンゴ西部に進駐。

 11/22、コンゴに6千人の部隊を派兵しているジンバブウェは、国内の世論にも関わらずロシアよりミサイルなどの武器や戦闘機、戦車などを購入。総額は5400万米ドルにのぼるとみられる。

 11/24、国連安全保障理事会がコンゴの紛争が激化して大惨事につながると警告。ルワンダ、ブルンジ、アンゴラ領内には全部で20以上もの反政府勢力があり、それらがコンゴ内戦に紛れてそれぞれの敵である自国軍政府勢力や、それらと同盟する勢力とばらばらに交戦を始めている。その結果、膨大な一般市民が戦闘に巻き込まれて死亡し、負傷し、難民化していると指摘。もはや紛争はコンゴの国内問題ではなく、全アフリカ大陸を巻き込んだ大惨事に発展しつつあると警告。

 警告はさらに、たとえばカビラ政権は、周辺部のこういった交戦で難民化したフツ人などをスーダンのゲリラ施設に送り込んで教化し、ハルトゥームから送られてきた武器を持たせて前線へ駆り出していること、本来無関係であるはずのルワンダ政府とアンゴラのUNITAが、打倒カビラで連帯して行動していること、この戦争特需に、東欧、アジア諸国から双方の勢力に武器が輸出されていることなどを指摘。

 11/27、パリでの「第20回フランス語圏アフリカ諸国首脳会議」(49ヶ国)にて、紛争当事国政府首脳が一堂に会したが、カビラ大統領とツチ系3国首脳とは、個別に議長国フランスのシラク大統領と協議することになった。翌日、シラク大統領と国連のアナン事務総長は、コンゴ、ジンバブウェと、ウガンダ、ルワンダの間で即時停戦が合意され、12/17から西アフリカの「ブルキナ・ファソ」で始まる「アフリカ統一機構(OAU)」の会議で正式に調印されるだろうと発表した。

 しかし、当事者達の「合意」の解釈にはかなりのズレがある。コンゴのカビラ大統領は、「各勢力がより一層の親善回復へ進むことに合意したのであって、具体的には何も変わっていない。親善回復には侵略者の撤退が条件だ。」と語った。

 ウガンダのムセベニ大統領は、「互いの敵意を即時に捨てることと、出来るだけ早期の停戦に向けた決意について合意した。」と語り、ウガンダはコンゴと闘っているわけではないのだから、彼等と停戦するのではなく、他国に支援された反政府ゲリラとの停戦を望んでいるのであって、これは自国の安全保障の問題だということを強調した。

 ルワンダのビジムング大統領も、「現実的な停戦について協議したのではなく、努力して将来この地域に和平が実現されることを望むという意見に合意したまでだ。」と語っている。

 これらの大きなズレにも関わらず、彼等の全員が一致しているのは、ブルキナ・ファソで和平協定に調印するなどという話は、根も葉もないことだという点である。また、その他の参加各国の大半は、「会議は、物別れに終わらなかっただけでもましだった」という点で一致している。

 11/29、パリでの「合意」が報道されたが、RCDは「我々とは無関係」として戦闘を続行。「あれはどこか別の国の戦争のことであり、我々はカビラを倒すまで闘い続ける。」エクアテールの第二の反政府勢力も、ゴンボ氏が戦闘の続行を表明。

 パリで「合意」したとされるジンバブウェは、この日もコンゴ南東部を広範囲に空爆。ここ数日、一層激しさを増している。南東部の軍事拠点「カバロ」の街はほとんど廃墟と化し、住民のほとんどが難民化。

 12/4、カビラ大統領、突然ナミビアを訪問し、ヌジョマ大統領と協議。主張の一致を確認。

 12/8、ケニアのゴダナ大統領、名指しは避けたものの、西側諸国の勢力が、RCDとツチ系3国を支援しているとして非難。「我々はこれらの国々の経済力がどれほど強くて、またどれほど弱いかをよく知っている。外部の支援がなければ、RCDとツチ系3国が、アンゴラやジンバブウェ相手にこれほど長期間抗戦できるわけがない。コンゴの発展と民主主義は、軍事力では決して実現しない。」

 南部の軍事拠点「カレミィ」を防衛しているRCDの現地スポークスマンは、「ここのところ毎日のようにジンバブウェ軍の空爆があるが、彼等は陸では我々に勝てず、武器弾薬、戦車などを我々によく乗っ取られるものだから、今度は空から攻撃してくる。しかし、空爆は住民をおびえさせ、彼等の間に反カビラ感情を産み、結果的に我々を助けている。」これは、彼等が戦力を他国の支援によって得ているのではないとほのめかしているようにも聞こえる。

 12/15、コンゴのムワンザ駐ケニア大使曰く、「ツチ人はヒトラーのように、自分たちが中部や東部アフリカを支配できると夢見ているのではないか。アメリカはアフリカの安定のために彼等を支持しているようだが、コンゴの国民はそれほどバカじゃない。コンゴにははっきりとした反米感情が芽生えている。」

 ジンバブウェの国民の7割以上がコンゴ派兵に反対。しかしムガベ大統領は「隣国から侵略を受けている国を助けるのは当然」として、介入の続行を表明。

 12/17-18、ブルキナ・ファソで「アフリカ統一機構(OAU)」の会議始まったが、結局「調印」はなく、直接交渉も実現せず、新たな協議を12/27にザンビアのルサカで行なうことを決めただけで終わる。しかし参加者によると、カビラ大統領の姿勢が幾分軟化したようにも感じられたとのこと。この会議では、コンゴ危機の他に、エチオピアとエリとリアの紛争、ギニア・ビサウ、アンゴラ、シエラレオネ、ブルンジ、コモロの内戦など、アフリカ諸国の紛争について話し合われた。

 キンシャサの対岸の「ブラザヴィル」で反政府勢力による大規模な戦闘が始まり、難民1万人がコンゴ河を渡ってキンシャサへ。これは去年5カ月に亘って繰り広げられた、現政権サスヌゲソ大統領に対し、彼によって失脚したリスバ前大統領と同盟関係にあったコレラ氏率いる民兵組織「ニンジャ」が起こしたもの。去年の内戦では、アンゴラ政府軍が彼等を支援したが、サスヌゲソ派の民兵組織「コブラ」のクーデター後は現政権側に寝返っていた。今度は「ニンジャ」をアンゴラの「UNITA」が支援しており、ここでも互いの反対勢力の軍事力による転覆合戦が広がりをみせている。

 


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