キンシャサ・ロックの萌芽...Zaiko Langa Langa・Isifi Lokole/ Yoka Lokole/ Isifi・Makina Loka
Les Penetres de l'orchestre Zaiko Langa Langa 1969-1970 (CD, Ngoyarto NG017)
Michelis Fe (Nyoka Longo) 1973 |
Zaiko Langa Langa: Hits Inoubliables, Vol. 8; 1eres enregistrements 1970-1974 (CD, Les Editions Plus de Paris EPP18)
Michael (Evoloko Jocker) 1973 |
さて「キンシャサ・ロックの萌芽」を語り進めるにあたって、「Stukasがとにかくすごい」とは言ってしまったものの、なんぼなんでも、1969年結成の、この「Zaiko Langa Langa」を避けて通るわけにはいかない。というのは、「ルンバ・ロック」という言葉を生み出した「Viva la Musica」のリーダーPapa Wembaにとって、プロとして加入した初めてのグループだからであるし、それまで基本的にはキューバ音楽の模倣の域を出なかったコンゴ・ザイール音楽を、"Cavacha"という全く新しいダンス形式によって、明確に次のスタイルへと解放した張本人だからであるし、彼等こそが世界的には「Soukous」と呼ばれ、我々が「リンガラ・ポップス」と呼んでいるところの、汎アフリカ的な音楽形式の母体を作ったからであるし、このグループからは紆余曲折を経て、ザイール音楽を世界に知らしめるほとんどのグループが派生することになるからである。その代表格が「Viva la Musica」であり、そこから「Victoria Eleison」・「Veritable Victoria Principal」をはじめ、Koffi Olomideのいくつかのグループ・「Rumba Ray」・「La Nouvelle Generation」・・・ひいては「Wenge Musica」など、また別の流れでは、Evoloko Jockerの「Langa Langa Stars」・「Choc Stars」・「Anti Choc」、「指の魔術師」の異名を取ったManuaku Wakuの「Grand Zaiko Wawa」などが、1970年代末期から1980年代中頃にかけて誕生し、「ワールド・ミュージック」シーンに於けるザイール音楽の層の厚さ存在を世界に知らしめることになった。以上の観点からして、Papa Wemba・Evoloko Jocker・Mavuela Somo・Bozi Bozianaの在籍していた極初期の「Zaiko Langa Langa」、すなわち1969年から1974年までの彼等の音は、「キンシャサ・ロックの萌芽」の母体を作ったグループとして、極めて重要である。
Zaiko Langa Langa オフィシャル・ホームページ http://www.zaikolangalanga.com/
2007年現在、Zaiko Langa Langaというグループは、コンゴ民主共和国ーザイール共和国ーコンゴ民主共和国の長きに亘って、インターナショナルなシーンに名前の挙がったグループとしては、現在も活動を続けている最も古いグループである。結成は1969年。名前の由来は、Zaikoは「Zaire ya Ba(n)koko (祖先たちのザイール)」の略であって、国の名前がコンゴに変わってもグループの名前は変わらなかった。「Langa Langa」とは、「酔っぱらって酔っぱらってどうしようもない」ほどの意味である。その他詳しいメンバーの移動、ディスコグラフィー、ダンスの名前などは、上のオフィシャル・ホームページに全て公開されているので、データはそこで確認してもらうとして、ここでは「キンシャサ・ロックの萌芽」という視点からみた見解と若干の注釈のみを書き記すことにする。
上の2枚のCDは、Zaiko Langa Langaの最初期の録音を集めたものである。先ずは表記について説明する。曲名の表記については、CDの表記とオフィシャル・ホームページのものとで相違するものについては、{ }内に付け加えた。作曲者名については、Stukasの場合と同じように、後年になって広く知られた名前で統一してある。例えば、Shungu WembadioがPapa Wembaと名乗ったのは、Zaiko Langa Langaを脱退してISIFIを結成したあとの1975年のことなので、ここでPapa Wembaとクレジットすることは間違いであるが、当時の彼等は様々な名前を使い分けており、表記を統一しておかないと混乱を極める。また曲の出来た時期やダンス名については、信頼出来る複数の情報源からも異論があるので、ここではオフィシャル・ホームページのデータを採用することにした。曲の後につけた年代はオフィシャル・ホームページに拠ったものである。
Papa Wembaから訊いたところによると、Zaiko Langa Langaは結成の当初から、いわゆる上流階級だけでなく、広くポップに支持されるバンドであろうとした。それは当時は非常に新しい感性だった。演奏の仕方も歌い方も、初めから従来のルンバ・リンガラの枠にとらわれずに、欧米から流入してくる様々な音楽に感化され、それを自分たちなりに咀嚼したスタイルで演奏していたという。Jules Presleyという当時の彼の芸名がすべてを物語っている。1973年、彼等は新しいダンス "Cavacha" を考案して大ヒットになった。それは当時のザイール国内だけでなく、広くアフリカ中を席巻し、キューバ風の音楽から「解放」された新しい感覚でアフリカ人たちを熱狂させた。それまでのコンゴ・ザイール音楽は、歌を聞かせるものが中心で、間奏にギター・ソロやホーン・アンサンブルなどで、短いダンス・パートが差し挟まれているだけのものが多かった。当然、リズムはキューバ風のクラーベのゆったりとしたテンポを基本としており、「Francoの(T.P.) O.K. Jazz」やその周辺のグループがコンゴ風にアレンジしたものも、リンガラ語で歌われてはいるが、節回しはほとんど拍と同時の「ベタ付け」であり、寧ろ歌う内容に重きが置かれていた。演奏面でも、基本的にはキューバの「ソン」のニュアンスをやや8ビート化したもので、ダンス・パートで曲調が高揚するとしても、ほとんどの場合演奏のボルテージが上がるだけで、演奏形式を変えてしまうほどの展開はあまり聞かれなかった。
「Cavacha」は、ダンスだけでなく、バックの演奏もそれまでとは全く異なるものになった。リズムの刻みは明確な16ビートとなり、ギターやベースのカッティングも、それに合わせて倍になった。つまり様式化されたのである。私はドラマーなので、どうしてもドラムに耳が行くのであるが、「Cavacha」以前のドラム奏法は、おしなべて右手でハイハットを刻んで左手でスネアを入れている。普通のジャズや8ビートと同じスタンスである。しかし「Cavacha」以降のドラミングは、明らかに両手でハイハットやスネアを連打している。それも、マーチやサンバのように、右手が主で左手が従属的に音を添えるのではなく、両手が全く対等に交互に出て、その中でクラーベの位置にアクセントが入れられる。この奏法は、ハイチの「Kompas」以外には、他のどんな音楽にも現れたことはなく、ダブル・ストロークなどを駆使した「右手ドラム」では絶対に出し得ないスピード感が得られる。それが「リンガラ・ポップス」の、あの楽天的な開放感とパワーを表現する非常に重要な要素であり、それ故にアフリカ全土で受け入れられ、大陸を席巻する要因となるほどに、アフリカ人たちの心をつかんだのだと私は考えている。
さて上の2枚のCDは、その「Cavacha」前夜のZaiko Langa Langaの音源集とされているが、実際には1973年以降の録音のほとんどは「Cavacha」である。しかし、この「Cavacha」そのものがロックだった訳ではない。むしろここに現れている音のほとんどは、一糸乱れぬコーラス・アンサンブルを主体とした、美しい夢のような、はっきりと売れ線を狙ったダンス・ミュージックである。この時期、流行に乗って「L'orchestre Cavacha」というグループまで出ているが、その音楽がアップ・テンポのカラッとしたトロピカル・ルンバであった事からもわかるように、「Cavacha」は単なる演奏形式であって、その新しいリズム感とスピード感が、その後のロック世代の若者たちに大いに浸透して、彼等の音楽の演奏形式の器となり、その基礎をZaiko Langa Langaが作ったということである。しかし、それは今までにない全く新しい感性のアフリカン・ポップスだった。
上の2枚には、その時期の演奏が記録されているのであるが、ロックっぽさを求めると少しアテが外れる。Zaiko Langa Langaは、基本的には今も昔もポップ・バンドであり、それは、すなわちAfrican Jazzや(T.P.) O.K. Jazzが演奏していた、熟年ハイソサイエティ向けのサロン・ミュージック (語弊はあるが、少なくとも当時の若者の視点からはそう見えたに違いない) に対して、若者たちや下層~中産階級向けのポップ・ミュージックを提供しようという要請に応えたものであり、それは欧米のポップスの流行を契機に必然的に起こったというに過ぎない。つまり、それまでキンシャサにはこのようなポップ・バンドがなかったという事である。その当時は、キンシャサでもまだ若者が自由に恋愛したり発言したり、音楽を聴きに酒場へ行く事のはばかられる世の中だった。そのような因習をぶち破ろうとする内外の要請に応える動きのひとつとして、StukasやZaikoのようなバンドの誕生があり、Papa Wembaなどはそれに共同参画していた、と見るのがほぼ正しい見方であると思われる。
Les Eveilleurs de l'orchstre Zaiko Langa Langa, Vol. 1 1973-75(CD, Ngoyarto NG013) Semeki Mondo (Evoloko Jocker) 1974 |
Les Eveilleurs de l'orchstre Zaiko Langa Langa, Vol. 2 1973-75(CD, Ngoyarto NG014) Mwana Wabi (Bimi Ombale) 1974 |
上に続く時期の録音であるが、ここでははっきりとロックを意識した曲が選ばれている。Papa Wemba・Evoloko Jocker・Mavuela Somo・Bozi Bozianaなどが在籍した初期黄金時代、その後の大分裂直前の音である (厳密には「Mizou」のみ分裂後) 。1974年、上記4人の歌手は、脱退してIsifi Lokoleを結成するも長続きせず、Papa WembaはYoka LokoleをへてViva la Musicaを、またEvoloko JockerはLanga Langa Starsを結成する。それが一連のキンシャサ・ロック・シーンのビッグ・バンの始まりとなった。一方、Zaiko Langa LangaはNyoka Longoを中心に、上品なザイール・コンゴ風リンガラ・ポップスの新しいスタンダードを築き上げて行くのである。その大分裂前夜の様々な葛藤やエネルギーの鬱積が、この2枚のCDに凝縮されていると言って良い。キンシャサ・ロック・シーンの新陳代謝のエネルギーは、絶え間ない個性のぶつかり合いによる、人的な離合集散の賜物である。特に、複数の異なる個性が弾けて分裂する直前の録音を狙って聴くと、緊張感のある面白い演奏に出会う確率が高く、分裂後にお山の大将になったグループの録音は、初期のものは個性が充分発揮されて良いが、次第にマンネリズムに陥る。そういう意味で、ロックをZaiko Langa Langaに求めるならば、この2枚を推薦する。
「Kin Nostalgie」http://www.geocities.jp/earthworks1972/lingala/kinnostalgie.htm
さて、ここにひとつのホームページを紹介しておきたい。主催しておられる方は、「リンガラ・ポップス」をロック的な視点から紹介しておられる上に、コレクションが充実しており、徹底的な調査がなされていて信頼性が高い。トップから入って「Discography」を開き、たとえば「Zaiko Langa Langa - 1」をクリックすると、上に言及した初期Zaiko Langa Langaの他の多くの音源がデータ付きで紹介されている。
Isifi Lokole/ Yoka Lokole: Manifestation 1974/76 |
AC-10023: Isifi Lokole
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「Zaiko Langa Langa」の当時の若手歌手Papa Wemba、Bozi Boziana、Mavuela Somo、Evoloko Jockerの4人が、Nyoka Longoの旗のもとに築かれていた一糸乱れぬコーラス・アンサンブルを打ち破って、明確にロックを意識して結成されたのが、「Isifi Lokole」・「Yoka Lokole」・「Isifi」と連なる3つのグループである。ちなみに「Isifi」とは、「Institut de savoir d'ideologie pour la formation des idles(アイドル養成のためのイデオロギー研究所)」の略。ここに紹介するレコードは、その3つのグループのシングルから4曲ずつをまとめて紹介した3枚組のLP。Blues Interactionsから発売された、日本盤のみのLPである。関係者のご努力とご英断に心から敬意を表したい。まだ中古で出回っているのを見かけるので是非入手される事をお奨めする。まさにキンシャサにロックが生まれようとする産みの苦しみと、夜明けの太陽の燃えるような演奏である。「lokole」とは、コンゴ川中流赤道州に伝わる木製のスリット・ドラムで、彼等はこれを効果的に使う事によりリズムの激しさを強調し、多分に伝統音楽を取り入れる事でアクを強めた。様々なリズム、様々なフレーズがめまぐるしく現れては消え、シャウト奏法も多用されて演奏は極めてアグレッシブである。展開は重く、ギターは歪みを効かせて高らかに響き渡る。荒削りで不安定であるが、勢いのよさに於いては天下一品。略歴を紹介すると、上記の4人が「Zaiko Langa Langa」を辞して「Isifi Lokole」を結成したのが1974年。このバンドはEvolokoが主導権を握っており、紆余曲折があって、ほどなくEvoloko以外の3人が脱退して1975年に「Yoka Lokole」を結成した。Evolokoはバンド名を「Isifi 」・「Lokole Isifi 」・「Isifi Munier」・「Isifi Melodia」などと変えたが、結局「Zaiko Langa Langa」に戻り、1981年「Langa Langa Stars」を結成する。一方、「Yoka Lokole」を主導したのはPapa Wembaだったが、彼は1976年に脱退してザイール・コンゴを代表するバンド「Viva la Musica」を結成する。個々のバンドの詳細は、以下のCDの項で述べる。キンシャサ・ロック・シーンの火付け役となった一連の動きを聞きたければ、レコード・プレイヤーを買ってでもこのLPを聞くべきである。その上で、更に興味があれば、以下のCDを購入されるが良い。
La Naissance de L'orchestre Isifi Lokole, Vol. 1; 1975 (CD, Ngoyarto NG088) Amazone (Papa Wemba) |
その「Isifi Lokole」が誕生した当時の音源を集めたもので、収録された6曲のうち上のLPとは3曲が重複する。「Vol. 1」とあるが、発売元のNgoyartoが倒産したため、続編は出ていない。ジャケット写真は右からPapa Wemba・Evoloko Jocker、左は多分リード・ギターのChora Mukokoと思われる。「Isifi Lokole」のサウンドを特長づける、というか、「キンシャサ・ロック」の夜明けを明確に特長づけるサウンドのひとつに、私はChoraのギターを挙げたい。その音色は極めてきらびやかで激しく、ピッキングは明らかなロックである。「リンガラ・ポップス」を聞きはじめた我々は、先ずは「Viva la Musica: Beloti (LP, AC10017)」を聞いてぶっ飛び、続いて発売された上掲「Stukas (LP, AC10018)」を聞いて痙攣し、ほどなく発売された上掲「Isifi Lokole/ Yoka Lokole (LP, AC10023-25)」を聞いて、もはや人生が取り返しのつかない方向へ動き出してしまった事を感じたものだが、言葉もリズムも良くわからない我々に最も鮮烈な印象として残ったのが、リンガラ・ポップス特有のリード・ギターであった。しかも、Vivaを聞いておぼろげに戦慄し、Stukasを聞いてスイッチが切り替わり、そしてこのChoraのギターでとどめを刺されたといってよい。彼のギターは他に類を見ない。曲ごとの詳細なデータはないが、このCDでは、おそらく全曲彼がリードを弾いている。確かに歌も良いし、内容としていろいろ書きたい事はあるけれども、「Isifi Lokole」・「Yoka Lokole」を特長づけた立役者の一人として、ギタリストのChora Mukokoの果たした役割は、果てしなく大きいことを指摘しておきたい。
Maillot Jaune Presente Yoka Lokole dans Matembele Bangi (CD, Maillot Jaune MJ088) Soko Dikondo (Chora Mukoko) |
その「Yoka Lokole」の音源集であるが、結論から言うと、これはあまりお奨め出来ない。収録曲5曲のうち3曲が上のLPと重複し、その3曲のうちの1曲「Mavuela sala keba」は上のLPの 「Maloba ya Bakoko (bis)」と同一、これは3枚組LP収録の(bis)でない方の「Maloba ya Bakoko」の方が、ずっと良い演奏なのでお奨め出来ないし、他の「Matembele Bangi」・「Kulu Pembe」の2曲は上のLP収録とは別バージョンであるが演奏が良くない。さらに、最後のEvoloko Jockerの「Sambole」は、1976年に「Isifi」名義で発売された (Molende 15) もので「Yoka Lokole」ではない。今のところ、この曲をCDで聞けるのはこれのみであるので微妙なところだが、「Yoka Lokole」としては、上のLPを所有している人は「Soko Dikondo」1曲のためにこのCDを買う事になる。正しく「Yoka Lokole」を鑑賞したい人は、何が何でも上の3枚組LPを購入すべきである。Choraのギターの冴え渡り方、Wemba・Bozi・Mavuela、そして1976年にZaikoから移籍したMbuta Mashakadoの阿吽の呼吸がぴたりと決まっている。
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Best of Yoka Lokole avec Ba-Fania All Stars (CD, Gillette d'or GO1040) Maloba ya Bakoko {bis} (Mavuela Somo)
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アルバム・タイトルにギクッとするが、これは大嘘です。まず、Mohammed AliとGeorge Foremannが、キンシャサでボクシングの世界ヘビー級タイトル・マッチを戦った、いわゆる「キンシャサの奇跡」は1974年10月30日の出来事である。その前夜祭として大々的に開催されたブラック・ミュージック・フェスティバルに「Fania Allstars」が参加して、聴衆に向けて「Que! Viva la Musica!」と叫んだことが、若きPapa Wemba (Shungu Wembadio)をして、自らのグループ名を決めるきっかけになったと、複数の歴史書にはある。しかし「Yoka Lokole」の結成は、上に書いたように1975年であり、1974年時点では未だ存在していない。でも実は「Isifi Lokole」内に既にその母体があって、隠密裏に「Fania Allstars」とセッションしたという事実も、どんな歴史書にも書かれていない (あたりまえか) 。しかし、客席にいたPapa Wembaが「一緒に演りたかったな・・・」と思っただろうことは想像できるので、ファンとしては、ついこのタイトルにギクッとしてしまうのである。さて、内容は要するに全曲通常の「Yoka Lokole」であり、別に「Fania Allstars」なんてなんの関係もない。しかも、収録されているテイクは、上のジェット機のCDと4曲が重複、しかも悪い方の {autre version} であって、それらは上の3LPに遠く及ばない。あとはシングルのみで出ていたもので、演奏は非常に良いが、音がちょっと残念。CD化されていなかった4曲を世に出したことは大きいが、クレジットも資料も付けてないし、仕事としては相変わらず。CDレーベル面に、はっきりと「SONECA (コンゴの音楽著作権協会のような組織) 」とあり、出典にも「Editions Mavuela」とあってもっともらしく見えるのだが・・・しかしこんなタイトル、Fania Allstars怒りまっせ・・・見つけたら即買い!! (どっちやねん?)
Vadio Mambenga & Le Groupe la Mutshasa, Various des artistes; Vol. 1: Tambula Malembe (CD, Ngoyarto NG077) Tambula Malembe (Vadio Mambenga) |
Evoloko Jockerが体制を立て直して「Isifi」を再スタートさせた時に起用された重要人物の一人として、私はこのVadio Mambengaを挙げたい。彼は下半身不随の車いすのシンガー・ソングライターであって、その華麗な美声と華やかな楽曲は、当時のザイールのスターたちを黙らせ、聞き入らせるのに充分だったという。EvolokoのIsifiは、バンド名から「Lokole」が消えている事からもわかるように、Papa Wembaが主導する激しいロック路線よりも、もう少し歌に重きを置いた「聞かせる」音楽へと舵を切ったように思われる。極初期のシングルでは、なんと片面1曲ずつの5分程度のフィエスタ・スタイルの歌曲が遺されている。上のLPでも3枚目に収録されている彼等の楽曲は、ロックっぽさよりも、寧ろ洗練された楽曲の良さ、理知的技巧的な構成力の高さが感じられる。ロックにばかり目を向けていた私は、この3枚目の印象がもひとつだったものだが、その後のEvolokoの個性、そしてこのVadioの存在を知るに及んで考えを改め、「リンガラ・ポップス」の深い懐に改めてのめり込んで行ったのであった。さてこのCDであるが、Vadio Mambengaの活動を世に遺しておくために編まれたものであって、厳密に「Isifi」の音源集というわけではない。しかし、収録された9曲のうち5曲は「Isifi」名義または「ほとんどIsifi」であって、例えば彼の代表曲「Tambula Malembe (ゆっくり歩こう)」は、1975年に発売された原盤 (Babeti 01) のクレジットでは「L'orchestre Folklore Ngombe Ebotu」、リード・ギターはChora Mukoko、ちなみに作曲者名は「Vadio Malenga」となっている (曲によっては「Vadio Mabenga」と表記されているものもある) 。「Folklore」とあるように、彼は当時のザイール各地の伝統音楽を広く収集し、それを素材に様々な名曲を作った事で知られている。ひとつのグループに長くとどまるよりも、その個性的な楽曲と美声と車いすでザイール音楽界を渡り歩き、「Isifi」関連・極初期の「Viva la Musica」・「Minzoto Wella Wella」などに参加したり曲を提供したりしている。CDのタイトルに「Vol. 1」とあるが、発売元のNgoyartoが倒産したため、残念ながら続編は出ていない。一方、Evolokoの「Isifi」は、リード・ギターにPopolipo、リズム・ギターにAda Mwangisaを迎え、より完成度の高い音楽を目ざしそれなりに成功したようだがほどなく挫折、Evolokoは古巣の「Zaiko Langa Langa」に戻っている。彼が独立するのは1981年の「Langa Langa Stars」結成のときであった。
以上が、ほぼ「キンシャサ・ロック」が誕生する契機を作った中心の動きとみて良いであろう。このあと、「Zaiko Langa Langa」の創立に関わったメンバーを中心に離合集散を繰り返し、ザイールのポップス・シーンは急激に膨張するのである。脱退や離合集散というと、人間関係的にも険悪なものを想像しがちだが、必ずしもそうとは言えず、古巣に撚りを戻したり、袂を分かった先に客演したり、また渡り鳥のようにあちこちに草蛙を脱ぐ例も多かった。これらの一連の動きは、対立の構図というよりは、体内から膨張して必然的に分裂したもので、分裂したもの同士も、比較的緩やかに交流があったものと思われる。また、財を成したものが音楽業界でパトロンになる事も多く、いわばカネにあかせて作られたバンドが出た事も膨張に拍車をかけた。Verckeysの「L'orchestre Veve」や彼の別名を冠した「Le Kiam」、Ben Nyamaboの「Choc Stars」などはその好例である。また無名のミュージシャンが曲を売って食いつなぐ事は当たり前であり、クレジットされている名前が、実際の作曲者と異なる事も非常に多い。このような場合、その曲を演奏する権利は作曲者に残される事が多く、放浪の末に客演した先で持ち歌を録音している事がある。我々日本人が音楽を捉える時には、どうしても芸術として純粋に考えたり、また「バンド」というと友達感覚で捉えがちであるが、キンシャサでは音楽は生きていく手段であって、不節操にも見えるこのような離合集散劇は、音楽性のせめぎ合いの結果の場合もあるが、多くは経済的原因からであった。キンシャサでのミュージシャンの置かれた状況を知るに及び、以下のような現実が背景にあると思われる。すなわち、レコードを出してもミュージシャンに利益は還元されない。ヨーロッパのエディションに至ってはなおさらである。コンサートをしてもリーダーが全て着服する。サポート・メンバーは、葉っぱと酒と食事が与えられるだけというのが普通である。従ってサポート・メンバーは、伴奏する以外に食い扶持を見つけなければ生きていけない。だからある者は自分がリーダーになろうとし、あわよくばパトロンを見つけ、無理ならば女を騙し、さもなくばドサまわりに出る。「キンシャサ・ロックの萌芽」、そしてキンシャサの音楽シーンの膨張の影には、独立からわずか10年、旧宗主国ベルギー人の遺していった先進のインフラがまだ使用可能であった事、モブツ大統領の独裁体制が確立して政治が安定した事、それにともなって地方からキンシャサへ大規模な人口の移動があった事、結果として都市文化が熟成していった事、資産家が現れ音楽産業のパトロンになったこと・・・などなどのこうした現実があり、ごまんといる音楽志望者の氷山の一角を奉って、幸運な事にこれを支え得たと考えるのが妥当だと思われる。いずれにせよ、アフリカ大陸の中で、この時期このタイミングで、このような幸運の重なった都市は他にあまり例を見なかった。音楽ビジネスで成功した者は極一握りだったとはいうものの、自前で音楽シーンが成り立ったということ自体、アフリカでは希有な事だった。恵まれた環境とは言えないが、かといって捨てたもんではなかった。そのなかでこそロックも産まれ得たのであろう。
AIR B. MAS Production presente Dino Vangu: "Kin Nostalgie" (CD, BMP000 171-2) Makina Loka Di Ma Ye (1974-76) Dino Vangu & Africa Nova (1986-89) |
番外に紹介するのは「Kin Nostalgie」と題されたDino Vanguの音源集である。Dino Vanguは、Tabu Leyの「Afrisa International」のリード・ギタリストで名アレンジャーであったが、「Afrisa」を辞して自分のバンド「Makina Loka」を結成したというのが、公式のプロフィールである。しかしそれは1980年代後半の事で、このCDの前半4曲が録音されたのが1974-76年とあるから詳細不明。このへんは直接知らんのよね。「Makina Loka」の名は、確か1970年代にもあったと思うから、この名を冠するグループが複数存在していたのか、Dino Vanguが主催していたのは事実で「Afrisa」と併存していたのか、そのへんの事情はともかく、Dino Vanguも「Makina Loka」も、非ロック系の「Afrisa」や「T.P.O.K.Jazz」、「Zaiko」の流れに属するのは確かである。タイトルからも懐古趣味の曲の寄せ集めと思わせたのだが、聞きはじめてびっくり、懐古趣味どころか、キンシャサ・ロックを明確に特長づける、あの甲高いギターの音が随所に炸裂、歌の終わりを待ちきれずに走りだすギター・ソロ、そのまま爆発するように加速して行くセベン、エンディングの車止めを突き破ってもまだ止まらない演奏、キンシャサ・ロックの盟主を持って自任するはずの「Isifi Lokole」よりも遥かに過激で突き抜けている。紛れもない、Chora Mukokoの音である。曲データも参加ミュージシャンもクレジットがなく、Choraのショの字も出て来ないが、聞けばわかるし血も騒ぐ。どのような経緯でこの前半4曲が録音されたのか、Choraの活動期間が「Isifi Lokole」・「Yoka Lokole」での活動時期と重なるが実態はどうだったのかなど、これまた全く不明。しかし、「Afrisa」を彷彿とさせるDino Vanguの完璧なアレンジがあったればこそ、Choraがこれほどに暴れ得たのだろう。ワン・プレス廃盤のため絶対買いの一枚。血眼になっても捜すべし。ちなみに「Di Ma Ye」とは、Dino Vangu・Makiona・Yenga Yengaの略、謎に包まれた音源である。後半4曲は聞かいでもよろしい。