Viva la Musica以後のキンシャサ・ロック・シーン
Ghetto Music・Ndombolo・Euro-African Dreams・Operette
Belle Kinois Films presente; R. Barret & F de la Tullaye: Jupiter's Dance (DVD + CD, Ideale Audience International DVD9DM25, 2007) DVD: featuring... bonus clips: CD: Jupiter Bokondji & Okwess International: Man don't cry |
アフリカ音楽が好きであろうとなかろうと、少しでも音楽の「力」に関心のある人の全てに見てほしいDVDである。綺麗ごとでなく、崇高でもなく、技巧的でもない、かといって素朴の一言では到底収まりきれない、苦しい、どろどろとした、追いつめられた、やり場のない、しかしそれでも明るくて力強い肉声が、歌う表情、踊る肉体とともに迫力を持って迫ってくる。この作品は、Jupiter Bokondjiという、キンシャサのダウン・タウンの地元ミュージシャンたちのカリスマが、おそらく自分のテリトリーの隅々まで撮影クルーを案内し、そこで活動する無名のミュージシャンたちを紹介する形で進められて行く。この作品を見るとき、初めて訪れたキンシャサの街の、あまりにも混沌とした喧噪や騒音、強烈な匂いをありありと思い出す。これこそまさにキンシャサであり、現地へ行かずしてこのような映像を見られる事は、全く奇跡というより他はない。というのは、Jupiter Bokondjiが案内する路地裏の裏の裏は、いくら音楽好きの強者でも、入って行こうと思って行けるところではないし、行けたところで撮影はおろか、言葉は悪いが生きて出られるかどうかわからないほどの場所だからである。彼らダウン・タウンの住人を悪く言うつもりはない。しかし事実として、外国人がそこで信頼を得て、安全に好きなように動けるようになるためには、相当の努力と幸運と忍耐が要求される。ましてやカネモチ日本からのこのこ入って行けばなおさらである。成功する確率が非常に小さい事は、私が身を以て体験している。しかし、一旦その中に溶け込んでしまえれば、彼らは非常に温和で優しく、多様で美しい表情を見せてくれる。危険を顧みずに不逞の輩を遠ざけ、忙しい手を止めて案内もしてくれ、困っているときは自分をさて措いて助けてくれる。「危険」と見え「排他的」に映るダウン・タウンの外見は、「公」から見放された住人たちの自衛の姿であって、それゆえに「身内」と認められたもの同士の連帯感は極めて強い。共同で「自治」を行う彼等を束ね、率いるもののひとつが「音楽」であり、それは、成功したら利潤追求のために故郷を捨てるスターたちの音楽のあり方とは根本的に異なるものである。この作品には、そういう地元に密着したミュージシャンたちの生きた姿がつぶさに描かれている。そこが、これを第一に薦める理由である。
「キンシャサ・ロック」は1970年代に生まれ、その全盛期を1980年代前半に置き、後半は主だったグループのインターナショナルなステージに於ける成功と、それによる活動拠点のヨーロッパへの移転などで衰退の一途をたどる。私が初めてキンシャサを訪れた1989年は、まさにそのラスト・パーティーだったと言えるだろう。その後キンシャサでは、Viva la Musica・Pepe Kalle・Defao等、地元に残ったミュージシャンやその残党、彼らをお手本としてきた膨大な若手ミュージシャンが地道な活動を続けていたようであるが、いずれもかつての栄光をキンシャサに呼び込むほどではなかった。そんななかで、かつてのViva la Musicaのオリジナル・メンバーでありながら独自路線を行ったKoffi Olomideが出資して、現地でリクルートした若手を中心に結成された「Quartier Latin」と、Viva la Musicaの後継者を自任しながら、よりコンパクトで「民主的な」ロック・バンドを目指した「Wenge Musica」が台頭する。そして老若男女問わぬ絶大な人気を誇ったPepe Kalle率いる「Empire Bakuba」と、Defaoの「Big Stars」が、甘いラブ・ソングを中心にした歌謡路線で大成功を納める。キンシャサのメイン・ストリームは、彼らによって再編成されて行くのであるが、彼らも成功を手にするとほどなくヨーロッパへ進出していった。その結果、地元で長く演奏し続けている長老や若手ミュージシャンたちに、新たな目が向けられる事になった。
「キンシャサ・ロック」の誕生から続いた爆発的なシーンの膨張は、地元の辻という辻、空き地という空き地に若手のグループが日夜練習または演奏しているという状況を産み出した。私が訪れた頃には、マトンゲなど主だった交通の要所とその周辺だったものが、その後の情報では、広大なキンシャサのダウン・タウン全域の木陰という木陰にまでそのような状況が繰り広げられているという。彼らのほとんどは楽器らしい楽器を持たず、廃品や有り合わせの道具を楽器に転用して、つまり椅子に箒をくくり付けてをドラム・セット代わりにし、一斗缶に棒を付け、そこらで切ってきた電線を張ってギターの代わりにし、地声を張り上げて画一化されない独自の音色とフィーリングを求めて音を模索している。私もキンシャサ滞在時に、そんな地元ミュージシャンとたくさん交流を持ったのだが、当時はやはりメイン・ストリームに関心があり、彼らの事に大した注意を払っていなかった。また、のちに旅行記を纏めるにあたって、そういう無名ミュージシャンたちの事にも言及しようと思ったが、なかなかストーリーの中に活かせずに割愛した思い出がある。このDVDは、まさにそうしたキンシャサにごまんといるであろう、音楽シーンの広大な底辺を支えるミュージシャンの実際を切り取ってみせてくれる。
作品では、Jupiter Bokondji率いる「Okwess International」というバンドが主にフィーチャーされている。キンシャサ産の手作りギターの名品「Almaz」、木の箱に竹ひごを束ねたものを乗せたキンシャサ風手作りドラム・キット、丸太をくりぬいた伝統的な片面太鼓「Mbunda」を駆使して演奏される、社会風刺とアイロニーに満ちた硬質のルンバ・ロック、内線を生き延びキンシャサに流れ着いた戦災孤児たちの国内難民キャンプで彼等を支えるリンガラ語によるラップ、廃墟と化したビルを占拠する地方出身労働者たちのラガマフィン、コンゴ中を遍歴して450もの部族の歌を収集するシンガー・ソングライター、身体障害者のおっちゃんばかりで作られた和やかなルンバ・ブルースのバンド・・・それはそれは美しい、表情豊かな、多種多様なコンゴ音楽のドキュメンタリー。必見!熱烈推薦!
Revue Noire, No. 21: Kinshasa, Zaire (Magazine + CD, ISSN 1157-4127, 1996) CD "Revue Noire a Kin" |
これは「Revue Noire」という、アフリカとアフリカ人による主にファイン・アートを題材としたフランスの雑誌の1996年8月号 (No.21) である。全編キンシャサ特集。絵画・彫刻・立体・写真・ファッションその他、アート誌ならではの美しい内容だが、さすがザイール (当時) は音楽の国、紙面の半分近くを音楽に充てていて、「Revue Noire a Kin」というCDが付録としてついている。この内容が実にすばらしく、まさにクーデター直前の状況下、ヨーロッパへ散ったビッグ・ネームを追うのではなく、キンシャサに留まって地元密着で活動するミュージシャンを丹念に紹介している。ここにもやはり、ルンバ・ザイロワーズばかりでなく、レゲエ・ヒップホップ・ラップの他、若手のフォークやじいさんのフォークもある。このCDの最後を飾っているのが、さきのDVDでフィーチャーされていた「Okwess」で、Jupiter Bokondjiの名も見える。こちらはきちんとしたスタジオ録音で、ドラム・セットも使われているが、マイナー調を巧みに取り入れた、当時としては新しい感覚の美しいルンバ歌曲である。2008年10月現在、版元に若干在庫が残っているようである。テキストは英語とフランス語。
Bisel presente Wenge Musica: Bouger!! Bouger!! Makinzu!!! (LP, Bisel BL014, 1988/ CD, NATARI NACD9401, 1994)
Mulolo (J.B, Mpiana) |
Viva la Musica以降の沈滞するキンシャサ・ロック・シーンに活を入れたのは、地元出身の若手グループ「Wenge Musica」であろう。これは、彼等のデビュー・アルバムである。このグループは、「リンガラ・ポップス第四世代の旗手」と言われている。つまり、それまでのロック系長大オルケストルとは、明らかに違う方向性を示したからである。私は、その翌年の初めてのキンシャサ訪問で、彼等をとある場末のバーで見た。その演奏は、当時の主流だったまろやかなタッチのルンバや、よりポップな路線を目指して構成やダンスを簡略化させていく流れに真っ向から対立していた。いわばごつごつの、民俗音楽色を前面に押し出した、武骨かつ激しいものだったのである。キンシャサで、私はレコード屋を回って彼等のレコードを捜し求めたが、遂に手に入らなかった。
「Wenge Musica」の誕生が、何故第四世代の始まりとされるのかというと、それは、彼等が日本やアメリカで、ガキどもが「バンド」をイメージするのと全く同じ感覚でバンドを始めたからである。では、当時のザイールの「バンド」とはどういうものだったのか。それは例えば、VivaのWembaや、VictoriaのEmeneyaなど、いわゆるリーダー格のボスに対しては絶対服従の世界、ギャラその他も常に重要人物の間でしか分配されないのが常だった。若者を因習的社会から解放し、音楽を通じて自由を獲得する・・・などと言って共同体Molokaiを創設したWembaでさえ、Vivaの人気が不動になるに従って、親分風を嵐のように吹き荒れさせてメンバーを震え上がらせた。結局、古い秩序にアンチ・テーゼを唱えたのは良いが、出て来たものは別の秩序に他ならなず、秩序そのものからの解放ではなかったのだ。一人のカリスマが何かを提唱すると、そういうことになりがちである。
「Wenge Musica」はそれとはまるで違っている。彼等の演奏は一人のスターをもり立てるためのものではない。それは、曲を聴いてみれば良くわかる。形式そのものは、歌があってカダンスを経てセベンに至る。リズムもコード展開もメロディも、別に新しいものではない。しかし、姿勢がまるで違うのである。例えばセベンにおけるアレンジは、これまではギター・ソリストの独壇場であり、彼が気の済むまで演奏を終えないうちには、曲を終わらせることができなかった。しかし、「Wenge Musica」の音楽は歌からセベンに至るまで、全てが綿密にアレンジされている。いくつものアイディアが、モザイクのように交錯して全体を形作っている。ギター・ソロ、アニマシォン、ダンス、その全てがまるで生き物のようにひとつの姿をして動いているのである。ボスを楽しませるためでも、パトロンの財布の紐を緩めるためでもなく、それはただひとつ、音楽を楽しむためになされたことである。自由な雰囲気があって初めてできたこと、そこが素晴らしい。
その新しさゆえに、彼等に対する現地での受けとめられ方は様々だった。アレンジの自由さが構成の複雑化を誘い、めまぐるしい展開が保守的なオーディエンスからは、「やかましい」という批判となって現われた。また、カリスマ性のある飛び抜けたリーダー格がいないということは、フロントに何人もの同格の歌手が立ち並ぶ事態を招き、古い人から「無秩序」の烙印を押されてしまった。
しかし、Wemba系のワンマン・ロックに飽き飽きしていた若者たちは夢中になった。「やかましい」とこき下ろされためまぐるしい展開には、よく聴くと非アフリカ的な様々なニュアンスによるインター・プレイが、実に小気味よくこなれた形で挿入されている。特に、ジャズ、ブルース、ソウル系の感覚が取り入れられていて、それが黒人である彼等のセンスに響いたのであろう。また、ダンスの振り付けも非常に細かく取り決められており、しかも動きがかなり派手、アニマシォンとダンスの組み合わせも複雑で、それまでのものよりずっと長いので、セベン全体がひとつの迫力あるステージ・パフォーマンスになっている。それは「無秩序」どころか、壮観の一言である。このニュアンスは、後に「Ndombolo」と呼ばれ、アフリカ音楽を席巻して行く事になる。こうした新しさが「Wenge Musica」の、そして第四世代の魅力である。
しかし、これを自分の関心において考えなおしてみて私は思うのだが、西洋音楽を教育された我々にとって、こんな事は至極当然のことであり、ひとつのゲイジュツであるはずの音楽が、一人のボスやギタリストごときに牛耳られることなどあってはならないことなのだ。われわれがそもそも何故アフリカの音楽に惹かれたかというと、「牛耳られている」無茶苦茶な世界が存在することが面白かったのではなかったか。では、この第四世代の動きというのは、我々にとってはクソ面白くもない当然の方向に進んできているのではなかろうか。であれば、聴くべきものは別の流れにあるのではないだろうか・・・などということを思ったりもする。
ともあれ、これはシーンにとって新しい動きであることには間違いない。しかし、残念ながら彼等も売れるに従って不透明な部分が出てくる。1991年、「Wenge Musica」は主導権をめぐって、「Wenge Musica B.C.B.G.」と「Wenge Musica Aile Paris」に分裂。前者の1993年の作品「Kala yi Boeing」(CD, PGS-14)を最後に、出口のないマンネリズムに陥ってしまう。ワンマンのボスがいないこと、すなわち「船頭多くして舟山に登る」の例のごとく、その後の彼等は分裂と抗争を繰り返し、2005年のコンゴの国家的国際博覧会「Fikin」では、WerrasonのファンとJ.P. Mpianaのファンが衝突して死傷者まで出す騒ぎになった。2008年現在、都合9つの「Wenge ・・・」が存在するらしい。もはや泥沼である。
V.A.: Nouvelle Generation; Notes par les 4 orchestres (CD, Crown Records ZL-134, 1989) Dynamiques Asha: Bebeche Mbuku |
地元ミュージシャンの発掘という観点から、廃盤になってしまったものの忘れがたい隠れ名盤を1枚。このCDは1989年に日本の山崎暁氏がキンシャサを訪れて現地の若手グループに当たりを付け、Bobongoスタジオで録音したものをクラウン・レコードがリリースしたものである。メジャーに浮上出来なかったごまんとある地元バンドのうちの4つ、ほとんどガキ・バンドといっても良いくらいだ。いずれもプロで活動しているものとは、ひと味もふた味も違う活きの良さ、展開のつなぎやきっかけの枕もなく、ただただ勢いだけで突っ走る。1970年前半にプロが模索していたことを、1989年にはガキ・バンドがやっている。そのなかでもギグに参加出来るもの、プロの前座に呼ばれるもの、ひたすら流しで揉まれるもの・・・、実に様々。彼等の時代の「ロックの萌芽」を聞く事が出来る。ここに収録されているもののうち、私は「Stunning Mangenda」と「Litonge Bouge」の練習を見た事があるが、前者はMatete地区を本拠としStukasの流れを汲む地元バンド、後者はMatonge地区を本拠としてViva la Musicaを聞いてイカレたガキ連中の親分みたいなものだった。いずれもろくな楽器を持っていなかったが、思わぬスポンサーがついて、今回1曲限り夢のスタジオ録音である。NHKののど自慢みたいに、「3番、すとぅにんぐ・まんげんだ!ぞんが・ぱぱ・どぅうう゛!」なんて宣言してるのが目に見えて可愛い。現地では当たり前すぎて聞き流されてしまうような存在だからこそ、こうしてCDという形にしておく事は、きっと将来の歴史的遺産となる。シーンを支える底辺には、どれだけの勢いがあるのかを感じさせられる1枚である。
Koffi Olomide & Ba la Joie, & Historia, & Langa-Langa Stars, & Zaiko Langa-Langa: N'djoli - Annees 1978 - 1979 (NG 028 ) N'djoli |
さて、Koffi Olomideは、Viva la Musica以後のキンシャサのシーンにあって独自の路線を築き上げ、パリからキンシャサに出資して現地の若手アーティストを集めて活動し続けた事で特異な存在といえる。彼は初期Viva la Muiscaの歌手であったが、その才能は、むしろ作曲とアレンジに発揮されていた。Viva在籍期の彼の作品を集めたものとしては、 「Viva la Musica de Papa Wemba et Koffi Olomide: Au village Molokai - Annees1978-1979 Vol. 2 - Premier Duo Papa Wemba & Koffi Olomide (NG 027)」がある。「Ba la Joie」とは、Vivaのレコーディング・セッション部門で、Olomideが自分の曲をソロ活動として発表したいときに、よく使っていた。このCDは、後に彼独自の、いわば「ユーロ・アフリカン・ドリーム」とも呼べる美学を打ち立てる雛形を作ったものとして紹介したい。演奏は、古い1970年代のViva la Musicaであるが、楽曲のエッセンスは、既に「第四世代」に通じる独特のフィーリングを秘めている。
Special Koffi Olomide: Ngounda
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上はその後の彼の歩みを知る上では興味深い盤ではあるが、彼の本領が発揮されるのは、Vivaを抜けて単身ヨーロッパへ移住し、様々なミュージシャンとセッションをこなしていくなかで産み出された1983年以後の作品と、1993年に正式に結成された彼のバンド、Quartier Latinによる作品である。ここに紹介するのは、彼が渡欧して最初のソロ、T.P.O.K. Jazzの歌手Josky Kiambukutaとのデュエット・アルバム"Ngounda"の全曲と、Victoria EleisonのリーダーEmeneya Kesterとのデュエット・アルバム"Lady Bo"の全曲に、Papa Wembaとのデュオが1曲含まれている。彼の2枚目のソロは、"Ngobila (1984)"とするのが通説であるが、この"Lady Bo"は、Emeneyaが渡欧中に録音されていること、録音の出来具合や音質から判断して、Emeneyaの幻のソロ"Willo Mondo"と同時期、あるいは同時に録音されたものと思われる。これは生産枚数が極端に少なく、Olomideの「幻のセカンド・アルバム」といわれていた。われわれファンの間でも頗るつきの稀少盤で、私も長い間カセットにコピーされたものをコピーして聴いていた。この時期、KinshasaではEmeneyaの留守中BipoliによるVictoria Principalの結成劇が起こっている。
さて内容であるが、ここでは既にOlomideの世界が確立されている。彼の世界とは、私が思うに、熱帯アフリカの灼熱の音楽であるリンガラ・ポップスのエッセンスを、ヨーロッパのライフ・スタイルに合わせたお洒落な感覚の中に溶かし出し、キンシャサの市民が夢見る憧れのヨーロッパのイメージを具現してみせることだった。曲調は、全体としてクールで、マイナー・コードが多用され、ズークの感覚が微妙にミックスされ、いわばユーロ・アフリカンとでも表現できそうな、線の細い独特の世界を描き出している。
この編集盤の中では、最初と最後の曲がダントツに良い。特に、Emeneyaとのデュオである最後の曲"Lady Bo"は、全リンガラ・ポップスの中で最もはかなく美しい名曲である。特に、後半のカダンスにおけるEmeneyaとOlomideによる掛け合いは、コンゴの、いやアフリカのクール・エレガンスを窮め尽くした二人の男の哀愁が、美しく結晶した黒いダイヤモンドの輝きである。それに続くセベンにおける、魔術的に繰り返される美しいギター・ソロは、それが単純であるだけに、エネルギーが粘度の高い熔岩のように夜空を彩って、もはや涙なしには聴き続けることが出来ない。アフリカ音楽にとかく欠乏しがちなセンチメンタルな情緒を、安易に流されずコアなかたちでモノにした、全く希有な名曲といえるだろう。この1曲のためだけにでも、絶対買いの1枚である。
Debaba et Historia: Kayikoley (Veve: EVVI-49, 1983)
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Choc Starsで甘い声を聞かせていた歌手のDebabaが、それ以前にやっていたグループHistoriaのアルバムを1枚紹介する。なぜ紹介するかというと、このグループは、「新しい波」のもうひとつの流れの中心人物Koffi Olomideが、Vivaを抜けたあとに在籍したグループであり、同じくViva脱退組のDebabaをリーダーに頂いてはいたものの、似た音楽性を持つ仲間によるユニットという感が強く、その後の自由な音楽の流れを先取りしたからである。しかし往々にして、このような良識あるグループというものは経済的に長続きせず、短命に終わる。このあとDebabaは、Choc Starsの商業路線に身を投じるのである。深入りした人にお薦めの1枚。Historiaにはもう1枚、Faux Parisien (Rhythmes et Musique: REM-530)というアルバムがあるが、ともに廃盤で復刻もされていない。これも復刻されればお薦めのグループである。
さて、タイトル曲のKayikoleyは、クレジットではDebabaの作品となっているが、実はBatekulという男の曲である。彼は、1989年のRumba Ray再建に参加した歌手兼コンポーザーである。Rumba Rayのアルバム"Miranda"に"Kamundungule"という曲があるが、これと同じ曲である。彼は苦労人だったから、この時期、自分の曲を売って生活していたのだろう。ちなみに、先に紹介した"Faux Parisien"も、そのタイトル曲は彼の作品である。彼は、Choc StarsやHistoria、Olomideなどに曲を提供していた。
彼独特の、部族の伝統を強調し、そこにノスタルジックな情感をからませる曲作りは、それまでのリンガラにないものであった。その後のシーンが、打ち込みを主体とした、よりズーク的な音づくりに走る一派と、土着的な感触に回帰しようとする動きとにわかれ、後者が第四世代を形成していった流れを見れば、彼の新しさがわかるのである。
Koffi Olomide: Diva (Espera: 1510, 1986)
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このジャケットを見て単なる成金と思うなかれ。これがユーロ・アフリカン的センスである(成金やんけ)。これは"Tcha-Tcho"と呼ばれた時期の最高傑作。4曲中2曲をChoc StarsのDebaba、Defao、Carlitoが、1曲をO.K.JazzのJoskyが、コーラスでサポートしている。バック・ミュージシャンなかに、Toure Koundaの名前も見える。音の世界は、先に紹介したアルバムと同じ路線。かつては、トロピカルな世界であるルンバ・パートからクールなカダンスに至るプロセスにやや不自然なつなぎがあったのだが、このアルバムではそういう部分が充分にこなれ、洗練されてきている。 CD復刻は未確認だが、アナログは稀に見かける。
Koffi Olomide: Koweit, Rive Gauche (Tamaris TMS92007CD, 1992)
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1992年、この年はKoffi Olomideにとって、ひとつの頂点をなす年だったに違いない。というのは、"Tcha-Tcho"期から続くパリでのセッション・ミュージシャンを交えてのソロ活動も大ヒットを連発し、Kinshasaの自宅を開放して育てて来た自らのオーナー・バンド、Quartier Latinのデビュー・アルバム"Pas de faux pas"も発表に漕ぎ着けたからである。ちょうどこの1年前に、私はParis・Bruxelles経由でKinshasaへ旅し、途中何度か彼と会う機会があった。大きな仕事を成功に導こうとするひとりの男の重々しさと物静かさ、独特のエレガンス、すなわちそれが彼のいう"Tcha-Tcho"なのだが、そうしたユーロ・アフリカンの夢を現出させようとしている男のオーラに虜になってしまったものである。おりしも湾岸戦争の真っ最中、アメリカとヨーロッパと、アラブとアフリカが、異様な緊張感に包まれて行く暗い世相の中、国際電話を通じて細々と会話するかのような"Papa Bonheur"の哀しくもおしゃれなメロディが、パリのアフリカ人街のカフェでよく聴かれたものである。そんなユーロ・アフリカンの不思議なミス・マッチ感覚に満ちあふれた名盤。
Koffi Olomide: Noblesse Oblige (Sonodisc CD71307, 1993)
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前作の延長線上にある、これもまた良い作品である。大ヒット曲"Papa Plus"を含む。このアルバムをもって、Koffi Olomideは、単なるリンガラ・ポップスの歌手ではなく、アフリカを代表するポップ・スターの一人になったと思う。脂の乗り切った絶好調の演奏が堪能できる。
Orchestre Quartier Latin et Koffi Olomide: Pas de faux pas (Sonodisc: CD-92018) 1992
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Orchestre Quartier Latinとは、先ほど少し触れた、Koffi Olomideが、パリでの活動とは別個に、当時のザイールの首都Kinshasaの自宅を開放して、若手ミュージシャン志望者を集め、ダンス・チームも含めたスペクタクル・ショウもこなしうるひとつのオルケストルの完全形を目指した大所帯のチームである。1991年に私がKinshasaを訪れたときには、既にダンス・チームのリハーサルも詰めに入っており、メンバーの一部は渡欧を始めていた。一様にザイールのトップ・スターに選ばれたことに誇りを持ち、表情は希望に輝いていた。練習は非常に真剣で、毎日朝から晩まで続いた。Olomideにとっても、ずっとソロ活動で、発表する作品はその都度全てスタジオ・ミュージシャンを頼んでいたから、パーマネントなバンドが必要だったに違いない。このアルバムは、その翌年にBrazzavilleで録音された、彼等の記念すべきデビュー盤である。
Olomideはワンマンな性格の人ではない。たいていのコンゴ人ミュージシャンが、自己のバンドを残して渡欧しても、その面倒をほとんど見ないのか常であるのに対して、彼はQuartier Latinを維持するために常に送金していた。そして、やがてほぼ全員をパリに呼び寄せたのである。こうした人格が、彼がリーダーであったとしても雰囲気を壊さず、結果的に自由な雰囲気を生むことにつながったのではないかと思う。このデビュー盤は、Olomideの写真が使われ、彼が表に立っているように見えるが、実は作詞作曲、演奏、アレンジその他諸々が、全てQuartier Latinの手によって行われている。Olomideは独特の低いヴォイスで、ときどき雰囲気を整えているだけである。金は出しても口出さん、パトロンの鑑である。Quartier Latinで特に際立っているのは、Suzuki 4x4という若手の歌手である。とても情感のこもった、ウェットなヴォイスで歌唱力がある。バックの演奏も非常に洗練されていて、とても良質のユーロ・アフリカンな作品である。特に"Ma Fille"の美しさは、もはや涙なしでは聴き続けることができない。
Koffi Olomide: Loi (Sonodisc CDS8837, 1997)
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このアルバムは、1996年頃からアフリカ全土で大流行したダンス"Ndombolo"が堪能できるアルバムとして推薦したい。Swede Swedeの大流行による伝統回帰への流れはルンバにも波及し、"Ndombolo"のダンスは、それまでSoukousのダンス・パートの中で、曲の流れに対応した形でしか表現されなかったものを、一旦ハーモニーを取り去ることによってどんな場面でも展開できるきっかけを作った。フロントの歌手が"Ndombolo"を唱えると演奏はフェイド・アウトし、リズムの骨格だけが残る。ダンサーは楽曲のスタイルに左右されずにパフォーマンスできるようになり、このため"Ndombolo"は、コンゴのひとつのダンスに過ぎなかったものが、アフリカ全土で踊られるようになった。その名前は、単なるダンスの名称だったものが、アフリカ音楽のひとつのジャンル名にまでなった。2002年サッカーのワールド・カップの試合のひとつが大阪の長居公園で行われた時、応援に訪れたナイジェリアやセネガルのサポーターが、少し形は違うものの"Ndombolo"と称するダンスを踊っていたのを見て驚いたものである。もちろん"Ndombolo"を演奏しているアルバムはあまた数えられるが、どれか一枚を選べといわれたら、このアルバムを推薦する。着実に自らの世界を表現し続けるOlomideが、それまでのQuartier Latinとは一風異なり、アフリカ伝統音楽の6/8拍子のニュアンスをこなれた形で取り入れた作品。第四世代の音楽を考えたときに、ひとつの典型として語り継がれるのではないかと予感させられるほどの名作である。 しかし、残念なことにKoffi OlomideとQuartier Latinの蜜月もこの次のアルバムまで。Quartier Latinは、Academiaを結成して分裂して行く。
番外編
Orchestre Touche pas: Les Freres Fataki (LP, Production Mami 'n' do, MND1010) Keyoke Wani (Fataki, Ndoko) |
Joe Fatakiの経歴は良く知らないのだが、1980年代後半のViva la Musicaには何曲か曲を寄せ、自身歌っている。また1993年、Lusyana Demingongoを中心とした「La Nouvelle Generation de la Republique Democratique」の結成に参加している。ちなみに、B面1曲目の「J'ai ose... d'yose」は、「La Nouvelle・・・」の2枚目のアルバム(CD, GK2812 56)で再演されているが、非常に美しい佳曲である。さて、このLPにはデータがなくいつ頃の作品か確定出来ないが、音からしてかなり古い。1980年前後か。聞き所はA面1曲目の「Keyoke Wani」の前半のムトゥアシである。Viva la Musicaにもムトゥアシの曲が多いが、このイントロのシンプルさとアレンジの妙はどうだろう。派手さは全くないが、質実剛健、ジャケット通りの田舎臭さが実に新鮮な作品集である。
Minzoto Wella Wella LP's
「Minzoto Wella Wella」という、実に個性的なバンドがあって、彼等をどこでどう紹介するのが良いかを迷っているのだが、とりあえず出ているLPの内容を記録しておくよ。
International Minzoto: Dance Caneton a l'aisement (LP, Editions Veve International, VVLP1013) Bayame na Tshela (Matutu Djo Roy) |
L'orchestre Minzoto Wella-Wella: Vol. 2; Dance Caneton a l'aisement (LP, Editions Veve International EVVI05D)
Fala (Ambele Mondo) |
Minzoto Wella-Wella: Malembe Kidiba Chant (LP, Eddy'son Consortium Mondial K4219) Nanu-Lubutu |
L'international Minzoto Wella Wella: Avec Nzenze en colere (LP, Gilette d'or EQ3191)
Loyo (Pecos) Direction Artistique: Otis Mbuta, Bimi Ombale |
Special Wela-Wela: Avec la collaboration de Sita Mbele et Mavuela Somo (LP, Musiclub Libreville MUEL005)
Songi Songi Pafi (Umba Sorozo) |
Merci bien, B.C.B.G.!