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『地震をめぐる空想』

  第一章、地震発生と人命救助のあらまし

 

 地獄の呼び声のような、低い不気味な地鳴りの音で目が覚めた。

 直後に起こった全てを引っ掻き回すような振動で、私の住んでいた「高級アパート宝山荘」は、ものの十秒とたたぬまに見る影もなく全壊し、私はまだ崩れ落ちつつある柱や壁を飛び越えて、多くの悲鳴や非常ベルの渦巻く中、ぱっくり開いた屋根から脱出した。

 初めは飛行機か何か、とんでもないものがアパートに飛び込んだものと思った。それほど振動は瞬間的で破壊的だったからである。しかしあとになって、地鳴りで目を覚ましたことを思い出した。逃げようと思ってふと見た窓の外に、初めは誰も信じてくれなかったが、迫りくる地面を照らす、不気味な遠い雷光のような、白くて淡い光を見たことを思い出した。地面が、まるでベニヤ板にでもなって、その下から巨大な削岩機をあてがわれたかのように、上下に激しく揺れたことを思い出した。

 それらによって、また通りに無事に転がり出たときに見た周囲の状況から考えて、飛行機の墜落などではなく、とても信じがたいことだが、地震が起こったのだということに気がついた。

 報道によると、前年の大晦日に、海を越えた南の地方一帯で、ちょうど震源地のほうへ長く一直線に伸びる、巨大な帯状の飛行機雲のようなものが目撃されていた。住民のひとりがそれを写真に収め、気象台にこれは地震雲ではないかと問い合わせたが、笑って取り合ってもらえなかったという。

 また、最近頻発した北方での地震でもそうだったが、今回も十日以上前から蚕が整然と並ぶ現象が見られた。

 古くから地震予知能力があるとされてきたナマズは、評判に違わず前日には暴れた。その後の余震でも、大きな揺れの前の日には暴れたという。

 ある有名な評論家の家の飼い犬も、喉も張り裂けんばかりに鳴き喚いて近所の人々に地異の近いことを知らせた。

 水族館のイルカは自分たちのショウを台なしにし、街なかではかつてないムクドリの大群が押し寄せて、激しい叫び声を上げていた。

 しかし彼等は知らなかった。日本は当時三日続きの連休で、若いもんはスキーツアーにうつつを抜かし、親たちは娘の成人式の衣装のことで頭が一杯だった。せっかく気を利かして多くの人が集まるところで叫んでいたのだが、そんなわけで、あいにく都会はもぬけの殻だった。

 幸いにしてそれを聞いた者も、連休のレジャーのことにすっかり気をとられていたし、そもそもこの地方に地震の起こるわけがないと誰もが信じ切っていた。

 われわれは本気でそう考えていた。しかし、考古学者は地震の前に、ある警告を発していた。

 神戸市の東部にある、歴史的にも有名な、四世紀のロマンティックな伝説の伝わる古墳で、発掘調査から明らかになったことは、おそらく慶長の大地震のときに、神戸も甚大な被害を蒙っていたのではないかということだった。

 その古墳からは、邪馬台国の所在地論争にかかわる重要な銅の鏡が十一枚も発掘されたのだが、研究者を驚かせたのは、そんなことよりも、地下にある竪穴式石室の異常なまでの壊れ方だった。

 それは、竪穴式石室を真っ二つに断ち切ったあげく、副葬品の数々を断層の斜面にぶちまけただけでなく、石室の板石をばらばらにするほどすさまじいものだった。

 それは明らかに巨大地震による結果で、その地震は、実は前方後方墳だったその古墳を前方後円墳に形を変えてしまうほどのものだったのではないか、従ってこの地方に地震の起こるわけがないなどというのは、根拠のない思いこみにすぎないのではないかと、こともあろうに今度の地震のわずかひと月前に警告していたのである。

 しかし、銅の鏡の出土数が全国で三番目の膨大な量にのぼったために、そうした警告はほとんど相手にされず、報道は邪馬台国の起源に関する歴史のロマンスに終始する結果となった。その古墳に避難していた近所の人たちでさえ、そんな警告のことなどちっとも知らなかったほどである。

 京阪神周辺だけでも、二十以上の遺跡が、程度の差こそあれ同様の痕跡を残しているという事だった。

 つまりこの地震は、子細に検討してみれば、十分に予告されていた出来事だったのである。

 震源地の海峡を見下ろす高台に住んでいた、当時私と一緒にバンドをやっていたベーシストは、地震の前の夜、低く垂れこめた雲の向こうに顔を出した、不気味なほどの暗くて赤い月を見ていた。

 地震のあと家の屋根を点検していたところ、灰のようなごく軽いものがたくさんふわふわと降ってきたので、ふと目を上げると、海を挟んだ向かい側の島の上に、入道雲ともつかぬどす黒い雲が出ていたのを見た。彼の家の被害はさほどではなかったが、目の前に広がる穏やかな海が震源地だったと知ったときには、さすがに怖じ気付いてしまった。

 地震の直前、その近くの海峡で漁をしていた別の友人は、宵闇のなかで、舟の周りの水面がなんともいえない低い音を立てて、急に泡立ちはじめたのを見た。

 空一面が青白く光り、その直後に陸の方で低い大きな爆発音がしたと思うと、舟が激しく突き上げられた。

 その光は海峡を渡る建設中の夢の架け橋をくっきりと浮かびあがらせ、その衝撃は小さな舟が波の上を転げ回るほどだったと言っている。

 彼は以前から近海の海水が広い範囲で濁り、小魚の死骸が数多く浮かび上がったり、いつもは深いところにいるはずの魚が海面近くをあえぐように泳いでいるのが、何か不吉な出来事の前兆のような気がしてならないと、私の飲み友達に語っている。

 その知り合いの蛸漁師も、前日には不吉な予感が頂点に達していた。

 このところ毎日、十分ゆとりをもって沈めてあるはずの蛸壷のロープが、まさか海底が動いているわけでもあるまいに、ぴんぴんに伸び切っていたからである。ほとんどの壷には蛸が入っていなかったか、たまに入っていると思ったら、産卵期でもないのに雄雌が一緒に入っていたりした。

 揺れが来たのは、どこに引っかかっているのか、重たいロープを手繰りながら舟から身を乗り出しかけていたときである。危うく冷たい海に放り出されずには済んだものの、上も下もわからない全くの闇の中に、何時間も閉じこめられるという恐怖を味わう羽目になった。

 そこからはるか東の神戸市東部の海側の人工島にある卸売市場で、早朝の仕入れを終えて帰る途中だった食料品店を経営する別の友人は、陸地へ戻る橋の上で、突然軽トラックが荒馬のように暴れだしたのですっかり気が動転してしまった。

 同時に目の前を一直線に横切る高速道路の高架のナトリウム灯が、ムチを打つように激しくしなったかと思うと、全ての電灯が一斉にかき消え、あたりが自分の車のヘッドライトだけになってしまった。

 彼も初めは船か何かが橋に衝突したと思った。何が何だかわけもわからぬうちに、暗闇に散乱した荷物を積み直して再び車を進め、路面が激しく割れ、段差のついた橋をそろそろと渡り終えたあと、高速道路の高架下を東へ戻る途中で、彼はあの恐ろしい高速道路の横倒し現場に遭遇することになったのである。

 その現場のすぐわきの高層マンションの最上階に住んでいたまた別の友人は、はるか彼方からやってくる巨大な海ぼうずののたうつ音で飛び起きた。

 その直後の揺れは建物が高かっただけにはるかにすさまじく、ふたつある彼の部屋は上下左右に激しく揺さぶられ、まるでミキサーにでもかけられたかのようにかきまぜられた。

 彼自身がベッドから跳ね飛ばされたのは言うまでもない。上に置いてあったものが落ちたのはもちろんのこと、となりの台所のテーブルや冷蔵庫や食器棚が寝室になだれ込み、何枚もの皿が、あちこちの壁にぶちあたりながら、狙いすましたように彼の額に命中した。

 また、寝室の全ての家具は倒れ込んで、その中身は台所へ飛び出し、重たい電子レンジが踊り狂うテーブルから飛び上がって、造りつけの棚をばらばらにした。

 彼は実に屈強な男だったが、断続的に何度も押し寄せる地底からのうなり声と、そのたびにまるでおこりにでもかかったかのように震え上がる建物にすっかり肝をつぶしてしまい、家具や食器に埋もれたまま、思わずやめてくれと叫んだほどだった。

 まさに部屋全体が巨大なマラカスとなり、大地から沸き起こる怒涛のルンバに合わせて、夜明けまで果てしなく演奏し続けるかと思われたほどだった。

 宝山荘では、地球の手荒い目覚まし時計によって不意打ちを食らわされた住人たちは、それでも誰もがどういうわけか、とても静かに、むしろ穏やかな笑みまでたたえながら、転がり出た真っ暗な通りの真ん中で互いの無事を確認し合った。

 ぶっ飛んだ意識がゆっくりと地面に降りてくる何分かの時間が過ぎたあと、突然爆音とともに西から襲いかかった激しい横揺れに足をすくわれ、そのとき初めてわれわれは「地震だ」と叫んで顔を見合わせたのである。

 それを機に、一気に現実に引き戻された。方々で助けを求める悲鳴が聞こえはじめたからである。宝山荘では通りに面した部屋の住人のうち二階に住んでいた人々は、私を含めて自力で脱出した男たちの導きで次々と救出された。二階が一階の高さになるまで押し潰されていたので、ばあさんでも容易に地面に降り立つことができたのである。

 アパートは、裏に建っていた新しい一軒家にもたれかかるように崩れていた。そのまだ形の残っていた一階の裏側に住んでいた住人のうち、アパートと裏の塀とのすき間から二人が自力で脱出したが、さらに奥に住んでいた管理人夫婦と、その隣の女性は閉じこめられた。屋根が引き裂かれ、まっぷたつになった二階の最深部の部屋の住人と、一階の通りに面した側に住んでいた二人は、当初その生存すら危ぶまれていたが、程なくうめき声によって無事が確認された。逃げ遅れたこの六人は、全て老人だった。

 一階に住んでいたそのうちのひとりの女性は、二階が落ちてくる瞬間の極度の恐怖のあまり、暗闇のなかで失神した。

 彼女の部屋は二階に押し潰されて五十センチばかりになっていた。その隙間から漏れてくる光とわれわれの呼びかけで我に返ったが、とたんにせき込み、そのためにまき上がったすなぼこりのためにさらにせき込み、目も開けられず息もできず、さらにそれを拭うことすらできないほどだった。

 両手はいうまでもなく、腰から下もベッドや床で複雑に折り曲げられ、上からのしかかる箪笥に固く挟まれていたうえに、顔も含めて全身が砂にまみれていたからである。

 胸を圧迫されていなかったのが不幸中の幸いだった。部屋の中身が二階の全重量によって、これ以上破壊できないほどに押し固められたため、その脇にわずかな空間が残ったからである。

 確認のできなかった住人は、犠牲になってしまったのか、単に不在だっただけなのか、その時点ではなんともいいようがなかった。

 また無事が確認できたとはいっても、表に出たわれわれでさえ、当然のことながら着の身着のままだったので、巨大な屋根と二階の全重量がかかって、見るも無残に押し潰された一階はおろか、屋根の落ちた二階の奥でさえ、救出しようと思っても手の施しようがなかった。

 それでもある者は、そこらに転がっていた柱の破片などで、へしゃげてすっかり上を向いてしまった一階の窓枠をこじ開けようとした。

 ある者はどこにそんな力があったのか、どこかの梁を持ち出してきて、大きな石を支点に、てこの原理で覆いかぶさっている二階の床を持ち上げようとした。

 またある者は、救出路を確保するために鉄の柵を破壊しようとして、拾ってきた鉄骨を振り回し、ついていた錆やささくれで手を血だらけにしてしまった。

 通りには、何人ものけが人や老人がさまよい出て来た。この一角は若い者が少なかったが、それでも各自が手近なところから救出活動を始めていた。

 応援を求める悲鳴に近い叫び声が方々で上がり、誰彼となくそちらのほうへ走って行った。誰もが寝間着姿で、靴はおろか靴下をはいている者さえ少なかった。私自身も、とっさの脱出で結局眼鏡も取り出せず裸足で走り回っていたために、いくつものガラスや瓦の破片、材木から出ていた釘などを何度も踏み貫いたにもかかわらず、奇跡的にかすり傷程度で済んだ。

 足場の悪い瓦礫を踏み越えて捜索しているわれわれの気持ちのせわしなさとは裏腹に、あたりは不気味なくらい静かだった。夜露に湿った白い霧のような空気があたりを覆っていた。それはまるで、われわれの住む一画だけが何か超自然的な力によって切り取られ、異次元の空間に放てきされたかのような錯覚を与えた。

 夜明けだった。あたりが徐々に明るくなり、おぼろげに周囲の建物の状況が見えるようになってはじめて、通りに並んだほとんど全ての建物が、投げ出されるように崩れている姿が浮かび上がってきた。

 その光景は、まさに廃墟という言葉がぴったりだった。その時私は隣のアパートの瓦礫のてっぺんで、くぐもった声の主を捜していたのだが、夜が明けていくとともに目の前に現われてくるその光景を前にして、瓦や木屑をたった二本の素手で取り除けていく自分の動作が、あまりにも空しく、非力で、絶望的なことのように思われた。

 東方にある空港から飛行機が飛び発っていくのが見えた。なんとも不思議な気分だった。この惨劇は、ひょっとしたらここだけで行なわれていて、大阪や、もしかしたら東京は全く知らないのではないかという不安にとらわれたからである。

 異様な隔絶感に満ちた時間だった。さまざまな憶測が乱れ飛んだ。近くでラジオを持ち出せた者はいなかったし、時おり地底から沸き起こるうなり声と、われわれの作業する物音しか聞こえなかったからである。

 実際、渦中にいたわれわれが、災害の大まかな範囲を知ったのは、早く避難所へ行った老人たちでさえ、その日の夕方、救出や救援に明け暮れていた若い連中に至っては、翌日の午後のことだった。ここでは、当日の夕刊や号外などは配達されなかったし、避難所にまとめて持ち込まれた翌日の朝刊も、部数が限られていたので、それを目にした者は少なかったからである。

 日が昇るにつれ、そして人々が動きだすにつれて、事態はいよいよ容易ならざることに気付かされた。広範囲にわたってありとあらゆる建物が破壊され、路上に無残に散らばっているばかりか、まわりの通りでさえ、崩れた建物の瓦礫に占領され、路面の見えているところでさえ、舗装も割れ、砂が吹き出していたり深く陥没していたりで、でこぼこの状態だったからである。

 それを見て、人々の意識は一種の孤独感や閉塞感から解放されたかわりに、ある者はとてつもない現実の変貌の前に、激しい興奮状態に突き上げられた。通りに転がるように崩れ落ちた自分の家を指さして、ほうけたようにげらげらと笑い出す者もあった。正直なところ、当時、救出活動に明け暮れていた仲間の間で共通していたのは、怒りや悲しみなどというウェットな感情ではなく、それらとはほど遠い、実に乾いた笑いだった。

 しかし、気の弱い者は頭がパンクしてしまったがために、一切の判断を中止して魂の抜け殻のようになってしまった。

 そうした人々は、おそらくこの災害の最も深刻な被害者だったに違いない。というのは、あまりにも大きな喪失感のために、外に対する一切の関心を失なってしまったため、せっかく残った自分の財産ばかりか自分の将来についてさえも、その後の行き届かぬ行政や、腹にいちもつ持った他人のなすがままにされ、食い物にされていくケースが続出したからである。そして、せっかく生き残ったのに、そのために死んでいった人たちも少なくなかったからである。

 われわれを孤独感や閉塞感から救ったかわりに、情容赦ない現実へ引き戻したのは、あるどよめきだった。それは北の方から聞こえてきた。そのとき私は、隣のアパートの生き埋めになっていた人達の救出をあきらめ、通りかかった名も知らぬ若いのと、別の倒壊家屋で埋っている生存者を探りながら、手で瓦礫を掘り返していたところだった。ただごとならぬそのどよめきが気になって、瓦礫の下へちょっと見てくるからと声をかけて出て行った。

 アパートから目と鼻の先のその場所にはすでに人垣ができていて、誰もが信じられないものを見ているように呆然と立っていた。私も初めは何があるのかよくわからなかった。コンクリートのいろんな塊が無秩序に目の前に広がっていて、まだ収まりきらないすなけむりと、ようやく勢いづいてきた朝日の逆光にさえぎられてよく見えなかったからである。

 それはとても信じられない光景だった。レールが垂れ下がり、電柱も倒れ、架線は空を斜めに切って彼方で地面を這っていた。その下の駐車場に駐めてあった高級車が全てブリキの板になっていた。それが鉄道の高架の無残な成れの果てだと気付くまでに、随分と時間がかかった。

 宝山荘のようなボロアパートが潰れるのならともかく、こんなコンクリートの塊が、しかもその上を電車が走るような強固なはずのものが、こうも無残に崩壊しようとは思わなかった。

 その鉄道会社はこのエリアではもっとも山の手を走っていたが、事故や故障の少ない安全運行で全幅の信頼を得ていただけに、それが倒壊するなどということは全くもって信じられないことだった。

 と同時にこんなことでは、もうまちがいなく交通網は寸断されていて、ここはいわば陸の孤島に等しくなったのではないかと思われた。その予感は見事に的中し、その後半年近くにわたって、われわれはちょっとした移動にも膨大な時間をとられることになる。

 暗い気持ちを胸に救出現場に戻って今見てきたことを話していると、私が助け出しかけていた瓦礫の下の生存者は、人命救助の途中で物見遊山に行ったわれわれを、土の中からくぐもった声で激しく非難した。

 「そんなことをしてる間にけが人が死んだらどうする気だ」全くその通りだった。素直に謝りながら作業を急いだが、瓦礫の下の人は、怒りを増大させるばかりでいっこうに静かにしようとしなかった。

 「この人でなしめ、外へ出たらおまえをぶっ殺してやる」とさえ言った。しかし一時間後に救出されたときには、その間中あらんかぎりの悪態を吐き続けたがために顔は紫色に変色し、唇をぶるぶる震わせてすっかりおとなしくなっていた。サイレンやヘリコプターの音が聞こえはじめたのは、この頃だった。

 救出活動は、住民たちによって組織的に行なわれるようになった。若くて気の確かな連中が進んで活動に当たった。崩れ残った玄関から履物を探し出し、中に入ったガラスを取り除きながら若者に手渡してやる老人もいた。サイズが合おうと合わなかろうと、足を守ってくれるだけで大助かりだった。

 方々で助けを求める声が上がっていたので、われわれは数名ずつに別れて走り出した。声のするところから優先的に掘り進められ、建物のがわが残っているところでは、威勢のいい連中のひと蹴りで、多くはたいして苦労せずにかたがついた。

 倒れた箪笥を男がひょいと持ち上げただけで、ばあさんが何人も顔を出した。天井が落ちてきたと思い込んでいるじいさんにのしかかっていたものが、単なるベニヤ板だったりした。

 しかし、助かって手許に抱きしめているにもかかわらず、子供の名前を呼びながら狂乱状態に陥っている母親から、アパートの両隣の部屋の住人が帰ってきていたかどうかを確認するのは大変だった。ショックで前後不覚に陥っている全壊した古い屋敷のばあさんから、まだ助け出されていない家人が大体どのへんに寝ていたのかを聞き出すのもまた大変だった。

 宝山荘の裏手にあった、倒壊して二階が一階の高さになった文化住宅では、二階のある部屋の一家四人を無事救出したあと、さらに床下から声が聞こえるので板を引きはがしてみると、一階の住人が二階の台所の流しの中から救出されるというありさまだった。

 どんなところに人が閉じ込められているのかわかったものではなかった。どこから声がするのかわからず、声を掛け合ううちに別の救出班の声と混ざり合ってわけがわからなくなっているところへ、上空を何機も飛んでくるヘリコプターの轟音で、全ての声がかき消されるという状態が、何分間も、何度でも繰り返された。

 一人の救出に三時間を要したこともある。

 その文化住宅は、宝山荘よりも十年ばかり新しかったがために、造りが中途半端に頑丈だった。そのため二階はほぼ原形を保ったまま、一階をまるでバナナの皮でもひんむいたように引き裂いていた。

 その二階の角が突き刺さった一階の部屋とおぼしき場所から、われわれは初めての遺体を収容したのだが、それを引きずり出したとき、明らかに意識を失なった重傷者とは違う、生気のなさと死の臭いを感じたものである。しかしその文化住宅には、どう見てもあと五人の行方不明者が取り残されているはずだった。

 救出された人の有り様は、実に様々だった。便所の下から救出された大のオトナは、完璧に幼児退行化現象を起こしており、暗いの狭いのこわいのといって泣きわめくていたらくだった。

 ある若夫婦は、この寒いのに生まれたままの姿で、しかもあの行為中の体勢で砂にまみれて救出された。ある老人は、同時に両方から倒れてきた箪笥と仏壇が屋根代わりになり、その三角形の下で泰然自若と座っていると思ったら、実は腰が抜けていた。

 結局その文化住宅では残りの住人の救出を諦め、われわれは別の現場に走ることになった。いくら耳を澄ませても、それらしい声が聞こえなかったからである。

 宝山荘で生存が確認されたにもかかわらず、その時点で手のつけられなかった住人たちには、時々誰かが声をかけに行くことにした。

 管理人夫婦とその隣の女性は暗闇の中に閉じこめられる形となったため、私は裏の塀のわずかなすき間から懐中電灯を差し入れた。夫婦はそろって元気で、自分たちは挟まれているわけでもなくどこをつついても崩れてきそうにはないので、もう助かったも同然だから、心配せずにほかの人たちの所へ行ってやれと、勇気づけに行ったわれわれを逆に勇気づけたほどだった。

 しかしあまり何度も天井をこづくので、その上の階で気を失なっていたばあさんが、不安のあまり我に返ったほどである。

 周辺に蔓延したガスの臭いだけはどうにもならなかった。配管からやられていたので、元栓が閉めてあっても意味をなさなかったからである。

 電気はすぐに復旧した。それとともに二ブロック先でボヤが起こったが、川まで達する見事なバケツリレーでまたたく間に消しとめられた。これ以上の災害を最小限にくい止めようとする、本能的ともいえるゆるぎない意思が、張りつめた緊張感となって朝の空気のなかに漲っていた。

 宝山荘の前の通りだけで、午前中に住民たちによって二十人以上の人間が運び出された。倒壊して通りを塞いだ家の瓦礫を避けて、蛇行するように畳を並べ、そこにけが人を順番に寝かせていった。

 どうすることもできないのでなるべく暖かくするよう気を遣い、多くの毛布や布団を瓦礫の中から調達して彼等にかぶせてやった。いまや何の意味もなさなくなった、配達されたばかりのその日の朝刊も、負傷者の防寒には少しばかりの役に立った。

 ある人が救急車と病院を求めて電話をかけに行ったが、すでに無駄な試みだと予感された。事実それは全くの無駄だった。救出活動の合間に両親やバイト先に連絡しようとして、テレホンカードはおろか小銭さえ持っていないのも忘れて公衆電話を探しに行ったときでさえ、周りのほとんどの電話ボックスは建物の下敷きになっているか、電話機そのものが吹っ飛んでいたし、まともな形をしているものも電話線が引きちぎられているか何かで、受話器からはなんの反応もなかったからである。

 生きていると思われる電話機には長蛇の列ができ、先頭の人の表情から、かなり回線が込み合っていて容易につながらないことが見て取れた。

 周辺地域の人に聞いてみると、電話は地震発生の直後には何度か通じたが、東の空が白みはじめる頃には、すでに不通状態に陥っていたという。

 電話が駄目なら自分たちで運ぼうということになったが、車を持っている人でキーを持ち出せた人は皆無だった。勇気を奮い起こして、ある初老の紳士が半壊状態のわが家へキーを探しに行ったが、絶え間なく続く不気味な地鳴りに怖気をふるって戻って来てしまった。

 別の人が車を呼んでくるとか言って走って行ったとき、われわれは、ここに並べられた二十人あまりのうち、誰が最も緊急を要するけが人なのかを決めあぐねていた。

 手のあいた者は、毛布をハンモックがわりにして、二人がかりで瀕死のけが人を運んで行った。と同時にこの通りへ急に車が走ってきたときの用心にと、見張りをたてることが提案された。救出活動で人手が足りず、通りに寝ている人にまで目が届かなかったからである。

 しかしそれはいらぬ心配だった。広い幹線道路は別として、裏の生活道路に至っては、倒壊した建造物で方々が遮断され、こことはいわず辺り一帯、あちこちに封鎖されたブロックが出来てしまっていたからである。遠くをけたたましいサイレンの音が渦巻いているというのに、それらは一向に近づいてこないばかりか、近所には乗用車一台通りかからなかった。事実、この現場に直接車が乗り入れられるようになったのは、それから一週間も先のことになる。

 雲ひとつない抜けるような青空がもっけの幸いだった。通りにずらりと並べられたけが人たちは、後になって、通りに放り出されて誰も気遣ってくれる者がなかったことを恨むどころか、ポカポカと暖かで実に気持ちがよかったと述懐している。しかしそのうちの何人かは、一向に好転しない事態に見切りをつけて、自分たちだけでさっさとあの世へ旅立ってしまった。

 救出活動が進むにつれて、負傷者の搬送の問題がいよいよ深刻になってきた。助け出したはいいが、そのなかにはもがき苦しんでいる者もいたし、すでに血の気をなくしている者もいたからである。

 全く外と連絡する手段が断たれていたうえに、現場では助けを求める声が依然方々で上がっていた。決定的に人手が足りず、一人の若者に同時に何人もの老人が、こっちに家族が埋っているからなんとかしてくれと言っては袖を引っぱるありさまだった。気の確かな若い連中はどんどん現場へ散って行き、搬送まではどうにも手がまわらなかった。

 昼過ぎにようやく軽ワゴンが一台、一ブロック先の通りに到着した。われわれはなんとか急を要すると思われる二人の負傷者を送り出したのだが、そのワゴンは倒れかけた電信柱や建物のトンネルの中に身をかがめてもぐり込み、道路を塞ぐ瓦礫の山を爪先歩きで踏み越えて、パンクの恐怖におののきながらも、どうにか車の行きかう幹線道路に出た。

 しかし通常片側二車線のその道路は、歩道と外側の一車線は崩れた建物に占領され、残る一車線に車と歩行者と自転車とバイクがひしめきあい、そこへ緊急車両が飛び込んで来るというありさまだった。しかも停電で信号の消えた交差点は、やみくもに進もうとする車でにっちもさっちも行かない団子状態となり、頭に血ののぼったドライバーたちの罵声やクラクションと、絶え間のないサイレンの音で、騒然とした無政府状態に陥っていた。

 ワゴンはそこをかろうじて脱出すると、落ちた橋や陥没した道路を迂回しようとする混乱した車の列にお行儀よく並んだり、通れると思って上りはじめた高架橋の落下部分の先端で、急停止したためにあわや追突されそうになりながら、また、一方通行を猛スピードで逆進してくる狂った車を避けようとして、はからずも通行人を死の淵へ追いやりそうな羽目に陥りながら、ともかく倒壊を免れた救急病院を探し当てることができた。

 しかし、電気も水もガスもなく無力化した救急病院には、行くあてを失なった負傷者や、ぴくりとも動かなくなってすでに顔色の変わりつつある人々で、玄関のロビーまで溢れかえっていた。

 にもかかわらずけたたましいサイレンを鳴らした救急車は、その音を止めようともせずに何台も数珠つなぎに並んでは、情け容赦なく玄関先に負傷者を降ろして行く始末だった。立てる者は追い立てられ、床に毛布が敷き詰められた。シーツが間に合わないのでそこに雑魚寝状態に負傷者が転がされていたが、またたく間に赤く染まっていく毛布も少なくなかった。

 野戦病院さながらの極度の混乱のなかで、たまたま当直だった医者や看護婦は、白衣も着ずに走り回っていた。彼等は心を鬼にするより仕方がなかった。肋骨骨折などは軽傷とされ、すぐに死ぬおそれのある者だけが手当の対象となった。気の確かな者やすでに死んだ者はことごとく無視された。気丈だったがために自ら重傷者に権利を譲った者のなかには、どさくさと興奮の一ヵ月が過ぎたあと、気がついたらそれまではなんとも思わなかった足の切り傷が悪化していて、自分の片足を切断しなければならなくなった運の悪い者もいた。

 宝山荘の前から搬送された二人の負傷者は、そのうち一人はすでにチアノーゼをおこしかけていたので集中治療室へ運ばれたが、もう一人は意識もなくなっていて、簡単な瞳孔検査のあと死亡と判定された。本来なら片道十分ばかりの距離だったが、ワゴンが帰路につけたのはもうかれこれ夕方に近かった。

 その間に宝山荘近くの現場では、いくつかのバールや鋸などの道具が手に入っていたので、素手や素足では手のつけられなかったところにまで救出の手はのびていった。

 宝山荘では、住人たちが、せめて通りに面した一階の住人だけでも救出しようと再び試みたのだが、二階があまりにも深く覆い被さっていたので、やむなく断念した。

 また、道具は数が限られていたので、一本のバールを複数の現場で使い回さざるを得ず、そのために瓦礫の中を小さな子供たちが伝令に走り回った。

 「危ないからやめなさい」とたしなめる母親を無視して、彼等は見事な機転と行動力で、救出活動の潤滑剤の役割を果たした。

 おかげで生存者の捜索はさらに範囲を広げて続けられ、別のブロックで活動していた人々との間で綿密に情報交換が行なわれるようになった。この子供たちの行動は、夕方になってようやく到着したレスキュー隊員たちの活動に大きく役立つことになる。

 通りに寝ていた負傷者のうち、ある者は気を取り直して立ち上がり、またある者は頭まで毛布を被せられた。生存者と死亡者をよく確認して並べ変えるのは、なんともやりきれない思いだった。立って作業を見ていた老人たちは、三々五々、地域の避難所に指定されていた小学校へと歩いて行った。

 やがて負傷者の搬送にも何台かの車が使えるようになったが、多くの車はさらに深刻化した交通の混乱と停滞のために、より一層の困難に直面し、大半はその日のうちに帰ってくることすらできなかった。特に遺体を乗せた車は方々で収容を断わられたあげく、結局歩いてすぐの避難所へそれらを運び込む始末だった。

 ある一階の押し潰されたハイツでは、鉄の扉が開かなくなったために、われわれはバールで窓を破壊して中に押し入ったのだが、足の踏み場もないいくつかの部屋の奥で女性が助けを求めていた。

 われわれは、ピアノが天井に据え付けられたエアコンをつき落としたあと、側面を上にして立っているのを横目で見て、瀬戸物がどっさり入った頑丈な食器棚や落ちてきたエアコンなどで負傷した老夫婦を、約三十分後に運び出した。

 一階は諦めていたのだが、耳を澄ますと声が聞こえるような気がしたので場所を探りはじめると、ピアノや家具の破片で埋め尽くされた床の下から声が確認されたため、人命救助を優先する立場から、ありとあらゆる散らかったものを叩き壊して窓から外へ、居間から台所へと放り投げた。

 情けも容赦もなかった。ピアノがたたき出されたのはもちろんのこと、清楚な美しさをたたえた日本人形も首をはねられ、見事な花瓶も粉々になってしまった。立派な着物のつまった桐の箪笥も、中身ごと投げ出されて床がむき出しにされた。

 畳が剥がされ、床をバールで破壊し、鋸で一階の天井の骨組みを切断して掘りすすめていった。泥棒でもこんなにひどいことはしないだろうな、などと話し合いながら、誤って閉じ込められている人の頭をぶち抜いてしまわないように気を遣わなければならなかった。

 なんとか一階に通じる穴が開かれたとき、そこから冷たい風がさっと吹いて来たのを覚えている。それは、まだ夜明け前のあの空気だった。

 小さな穴から覗き込んだとき、中がどうなっているのか、全く見当もつかないほどだった。一階は約五十センチほどのすき間に圧縮され、その中にもぐり込んだわれわれは、家具のものとおぼしき木片やガラスや土砂などで、その狭い空間が埋め尽くされているのを見た。

 ヘルメットやマスクなどという気の利いたものなどなかったので、巻きあがるすなぼこりで絶え間なくせき込み目も開けられぬほどだったが、暗いので懐中電灯をつけ、その光がどっちに見えるかと閉じ込められている人に問いかけ、その声をたよりに破片を掻き分けていった。

 暗闇のなかで五十センチのすき間に挟まれて匍匐前進しながら、不自然な体勢で行く手を阻む家具類を破壊するのには骨がおれた。なかでも、固く挟まっているくせにどんな道具をもってしてもふにゃふにゃと形を変えるだけで、決してその場を離れようとしない布団袋には最も手を焼いた。

 ある木箱をぶん殴ったとき、大きな音をたてて何十センチも天井が落ちてきたのには胆を潰した。

 かなり大きな余震が、あの轟音とともに押し寄せてきたときには、恐怖のあまり高鳴る鼓動に顔も紅潮し、息も詰まりそうになった。地球の手心がもう少し強めに働いていたら、あの中にいたわれわれを含めて、いくつもの胆が実際に潰されていたに違いない。

 最終的にその家族は全員収容されたが、声を出していた一人の子供を除いて、全員が意識不明の重態だった。そのあと彼等がどうなったかは、私は知らない。

 その後夕方近くになって、軍手やヘルメットや靴などが供出されてきたが、それはレスキュー隊の到着とほぼ時を同じくしていた。

 本格的な装備で乗り込んできた彼等に、その遅延を責める者は少なくともわれわれの周りにはいなかった。または耳に入らなかった。一軒の救出にどれだけの時間と苦労がかかるか身をもって体験していたし、第一そんな暇がないくらい猛烈に忙しかったからである。

 むしろ彼等を「遅い」と言って責めたてたのは、何もせずにただ立ち尽くしていた老人やご婦人方だった。理屈を通し、遅延の原因の納得いく説明を求めた。彼等は災害がどれほどの範囲に及んでいたかを、まるで想像できなかったからである。その気持ちもわからぬではなかったが、とにかく今は行動が最優先なので、われわれは詰め寄る彼等を振りはらい、最も深刻な現場にレスキュー隊を案内した。

 しかし、この判断にもクレームがついた。うちの家族が先だと頑固に主張するおやじとの間でいざこざが起こりかけたのである。家族が埋められて頭に血がのぼっている彼等には全く通じなかったが、最終的にはその家族も救出されたので大事には至らずに済んだ。

 伝令に走り回っていた子供たちの知らせを受けて、救出活動を続けてきた若者たちが集まってきてレスキュー隊に状況を説明した。

 倒壊した家に家族を残してきた者は家の間取りを書いて、家族のいつも寝ている場所を図示した。私は宝山荘の二十四世帯の見取図とともに、まだ救出されていない六人の正確な居場所へ彼等を案内した。救出活動が進んだおかげで、この時すでに宝山荘が、付近で最も深刻な生き埋め現場となっていた。

 しかし、このとき走り書きで書いたメモが長いあいだ宝山荘の唯一の名簿となり、住人の証となろうとは夢にも思わなかった。というのも、すぐ近所の宝山荘の家主宅も全壊し、住人台帳が逸失したばかりか、当の家主が助からなかったからである。

 そのコピーは、自衛隊から警察へ、家主の遺族から市役所へ渡り、後日自衛隊による行方不明者の一斉捜索が行われたときにも、自衛官の手にそのコピーが握られていた。瓦礫を掘り起こしている最中に、警察官に問い合わせを受けたときにも彼等はそのコピーを持っていた。大学のボランティアグループが被害状況を調査しにここを訪れたときにも、また、倒壊して機能を失なった市役所が、義援金の配分基準を調査するために訪れた際にもそれを見かけた。

 しかし内容はちゃんと裏付けをとったものではなかったので、私は内心ひやひやものだった。住人のうち帰宅していたかどうかわからなかった人については、「不明」と記してはあったが、その部屋が本当に隅々まで捜索されたのかどうかは実に疑わしいものだったからである。

 現に西方のある地区では、行方不明とされていたひとりの女性が、二ヵ月近くもたってから当の本人の家の中で発見されたのだが、なんと、死因は餓死で、地震後八日間は生存していただろうという、信じられない出来事が現実に起こっていた。

 三ヵ月後に宝山荘が完全な更地になったとき、ついに仏様が出て来なかったので私はほっと胸を撫で下ろしたものである。

 ともあれ、救出現場では、われわれはレスキュー隊員に混じって行動することになった。

 本格的な装備のおかげで活動は捗った。宝山荘では、一階の通りに面した二部屋の住人が運び出され、二階の再深部を捜索して一人を救出し、そこから二階の床を切り開いて一階の管理人夫婦を、そして隣の壁を破って残る一人を救い出した。

 暗闇のなかで半日以上も耐えていた老人たちは、それでも疲れひとつ見せずに元気に互いの無事を祝福し合った。暗くなりはじめた通りに、再び続々と負傷者が横たえられた。

 確認された生存者の救出が一段落した頃、自衛隊の派遣部隊が到着し、レスキュー隊は別の現場へ移っていった。今度は確認されていない行方不明者の、しらみつぶしの捜索が始まったのである。

 一般市民は身の安全の確保と安否の確認のため、地域の避難所に指定された小学校の校庭に集まるよう勧告された。われわれは死者を置き去りにし、負傷者を手分けしてかつぎ上げ、ぞろぞろと歩きだした。方々の通りから、似たようなボロをまとった人々の行列が合流した。

 毛布にくるまった者や、薄いパジャマだけを着て、両側から支えられてやっと歩いている老人、完全に意識を失なっていて、男ふたりに引きずられるように運ばれているご婦人・・・、白い水銀灯に照らし出された広場に集まった避難者は、当局の発表では二千人にものぼった。

 夜の闇と寒さが迫るにつれて、防寒具が決定的に足りないことに誰もが気づきはじめた。めいめいが手分けして、安全を確認しながら何か身にまとうものを調達しに行った。私は地震のあと初めて、連れの住人たちとともに、崩れ落ちたものの辛うじて形をとどめた、二階の部屋の窓際にもぐりこみ、オーバーやコートなどを出せるだけ出した。

 このときの感覚は今でも忘れられない。今までは何ともなかったのに、建物に入るということに言い知れぬ恐怖を感じたのだ。これは、その後避難所で部屋の割り振りが終わって、初めて校舎に入ったときにも、また何日かあとに駅前の大きなスーパーに入って行ったときにも強く感じた。なかには、建物に入る恐怖のあまり、厳寒のなかを校庭で夜明かしする人も多かった。それを何とも思わなくなるまでには随分と月日がかかった。

 宝山荘では、通りの負傷者たちにすべて供出してしまったので、寝具はおろか毛布一枚まともなものはなかった。なんとか服を引きずりながら避難所へ戻ってみると、すでに付近の住民たちによって、教室の場所とり合戦は決着のついたあとだった。彼等も半壊した家屋に勇気をもって踏みこみ、必死の思いで家族分の寝具をかき集めてきたのである。

 深夜になって、近所の食料品店が店の冷蔵庫にあった在庫の食料品を無料で供出することを申し出てくれた。若者たちは列をなしてそれを運んだのだが、到底二千人という人数に行き渡ることは望むべくもなかった。

 食料品を運んでいる者たちは、もはや自分たちの分け前はないものと諦めてはいたが、ケースを抱えて学校に戻り、校庭を埋め尽くした蛇行する蟻の行列のような、真っ黒な人だかりを見たときにはさすがにうんざりしてしまった。

 最初の配給は整然と行なわれた。ひとり一パックと決められてはいたが、なかには、動けない老人がいるからと複数要求する人もいた。教室にいる人数分を要求する人もいた。それは信用するしかなかったが、今後のためにも、誰もが避難所内のルールづくりをする必要性を感じたものである。

 案の定、食料は行き渡らなかったが、幸いにして特に混乱はなかった。しかし折角並んだのに、貰ったものが薄揚げや豆腐のパックだった人のなかには、こんなものが食えるかと言って廊下に抛棄する人もいた。

 校内放送は、絶えず行方不明と思われる住民の名前を叫び続けていて、その音量があまりにも大きく、互いの会話もままならないほどだった。夜を徹して煌々と電気が灯され、この非常事態に興奮した子供たちは飽きることなく走り回っていた。

 こうして夜は更けていった。相変わらず不気味な低い地響きをたてて、余震が何度も波のように襲ってきた。初めのうちはそのたびに悲鳴が上がっていたが、やがてそれは愚痴ともつかぬ唸り声になり、次第にわずかな舌打ちにトーンダウンして、安らかな寝息やいぎたないいびきのなかに溶けていった。

 しかし、なかにはどうしても寝付けない人も多く、わずかな物音や自動車のエンジン音にも体を震わせ、いつまでも寝返りばかりうって、やるせないため息をもらしている人もいた。彼等が安らかな夢を結べるようになるまでには、ずいぶんと長い月日を要したに違いない。これが避難所第一日目の夜だった。

 若者たちの献身的な努力にも関わらず、最終的に宝山荘の前の通りだけで十五人の死者が出た。そのうちには宝山荘の住人も一人含まれている。彼は朝のうちは声があった。なかには彼と話をした人もあったくらいである。私もその声をよく覚えているが、かなりはっきりした声だったので、まさか彼が死ぬとは思わなかった。

 あのとき手がつけられなかったのは事実である。助けてあげたいが、どうしても無理だという意味のことを彼に言ったことを覚えている。二階の部屋が丸ごとかぶさっていたからだ。

 しかし、まあ大丈夫だろうと高を括ったのも、今考えればやはり事実である。声が大きくて元気そうだと思ったからだ。本当はあれは、早く助かりたい一心で振り絞った断末魔の叫びだったのかも知れない。今思えば、胸を圧迫されていたような声だった。彼は私の言葉をどんな思いで聞いたのだろうか。

 あとになって発表された、今回の地震での五千人を超える犠牲者の検死結果の最初の集計では、実にその九十六パーセントが、十五分以内に亡くなった即死状態だったことが報告されている。彼は残る四パーセントの中に入っていたのである。

 あの、二階の梁を持ち出した男や、鉄柵を破ろうとしていた男に手を貸してやっていれば、ひょっとしたら彼は助かっていたかも知れない。その後の家屋の解体や財産の捜索の過程で、木造家屋の壁というものが意外に脆いことを知ったからである。

 正直なところその時点では、やってみもせずに無理だと決めつけていた感がある。生きていたことが確認されていながら、助け出せなかった経験ほど辛いものはない。今でも私の耳から、彼の最期の声が離れない。

 あとになって似たような話を多く聞いた。地震のあと、広範囲にわたって火災の発生した西方の地域に住んでいた私の連れは、自分は地震の直後に崩れ落ちるわが家から無事脱出できたのだが、嫁さんの下半身が一階の梁と倒れた家具の間に挟まれてしまった。

 住民による懸命の救出作業が行なわれたのだが、男が何人かかっても手のつけられないようなところに閉じ込められていたので、作業は遅々として進まなかった。

 何時間かして、周辺で散発的に発生していた火の手がそこへ広がってきた。はじめは、誰もが呆然と迫り来る炎のカーテンを眺めていたが、「私のことはもういいから早く逃げて」という嫁さんの一言で彼等は我に返り、結局彼女を置き去りにして逃げ出さざるを得なかった。

 バールの一本さえあれば助かったはずなのに、生きながら焼かれた人は数多い。そんななかから全く奇跡的に救出された人の一人は、「自分はあのとき死んだはずだった、もう何も悩み考えることはない、こうして土に戻っていくのだと思うと、自分の頭は真っ白で、恐怖はおろか熱さすら感じない実に安らかな気分だった、助かった今あのときをふりかえると、消えたはずの恐怖が甦り、今でもうなされることがある」と遠くを見つめて語ってくれた。

 宝山荘の家主の家では、亡くなった彼女が寝ていた場所が、古い屋敷の重厚な屋根瓦が土壁の一階を跡形もなく押し潰した下敷きになっていた。すぐさまわれわれは瓦を一枚一枚はずしにかかったのだが、その下の屋根や梁は、大の男が何人かかっても、どかせられる代物ではなかった。

 のこぎりが手に入るようになってはじめて、そのばかでかい木材を短く切断して撤去しようと試みたのだが、その立派な古い木は黒檀のように硬くて全く歯が立たず、何人もの男が手に血まめを作り、目に涙をにじませたほどだった。われわれは仕方なくそこを諦め、別の家族が生き埋めになっているという場所に移ったのである。結局彼女の遺体は、数日後にようやく自衛隊によって収容された。彼女のことはよく覚えている。非常に早口で話す、てきぱきとした性格の人で、家主を務める二軒のアパートの面倒を見ていた。

 このように、付近一帯では瓦の重い木造家屋が、ほとんど跡形もなく潰れてしまった。特に壁や瓦の土は大量の粉塵をまき上げ、その強烈なかび臭さと息苦しさは、閉じ込められた人々を大いに苦しめた。

 その独特の瓦礫のにおいは、今でも茶碗やコップに口をつけるたびに、また、手許に残った数少ない蔵書を開くたびに私の鼻にまとわりつき、この時期の記憶を呼び覚ますのである。

 後の調査によると、海沿いの沖積層の拡がる一帯で起こった強烈な縦揺れは、それまでの常識を一気にくつがえして、震度7に達していたと発表された。それまで震度は6までしかないと思い込んでいたわれわれは、全くあいた口が塞がらなかった。

 地図上に塗りつぶされた激震域の黒い帯は、六甲の山沿いを西から東へと延び、ちょうどわれわれが住んでいたあたりで一旦途切れ、北東の方へ私の実家のあたりまで散発的に広がっていた。

 人命救助を終えて、完膚なきまでに破壊し尽くされた街を眺めわたしたとき、本当はわれわれも死んでいたはずだった、たまたま地震の方に手抜かりがあって、お目こぼしを受けて今生きているだけなのだという実感を強くした。

 われわれの多くが、じわじわとやってくる地震の恐怖と後遺症に悩まされるようになったのは、それからずっとあとになってからのことである。地震に襲われた直後の数日間は、極度の緊張と興奮の中で、むしろ神経は麻痺していた。大切なものを、ほんの少し失くしたのなら、それを惜しむ気持ちと、もっとちゃんとした場所にしまっておくべきだったという後悔の念に苦しんだことだろう。しかし、こんなにいっぺんに、何もかも根こそぎやられてしまったんでは、もうそんな気持ちも乾き切って、空っ風に吹き飛ばされてしまう思いだった。失なうものさえ何も持っていない自分たちの現実を思い知らされ、却ってサバサバした気分になっていた。

 開き直りではなく、恐れるものも失くしてしまった多くの人々には、ひたすら前進するしかないクソ度胸とでもよぶべきものが身についてしまったようだった。こうして避難所で暮らすようになった人は全域で三十二万人を数えた。

    

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