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『地震をめぐる空想』

  第四章、厳寒のなかでの生活のあらまし

 

 毎年十二月のクリスマス寒波がやってきて、六甲の山並みが重苦しい冬の雲に包まれるようになると、私の心の中で何かがはじけるのである。

 あたりを満たした冬の空気と、おぼろな弱々しい太陽の光。全くあの朝と同じ空気が、紛れもない冬の臭いが、毎日のように身の回りにまとわりつきはじめる。寒さが厳しさを増していくと同時に、わけもなく不穏な空気を感じるようになる。

 そして、その不安な心持ちのまま、街中が華やかなイルミネーションに包まれるクリスマスを、人々が慌ただしく走り回る年の瀬を迎える。次第に浮かれ騒ぐ世間、それに反して落ち込んでゆく自分、そんな喧噪、特に祭りのようなニュー・イヤーズ・イブのカウント・ダウンも、その頃にはもはや遠い耳鳴りのようにしか感じられなくなる。私は青ざめ、冷や汗をかき、現実感が次第に遠のいてゆく・・・。そして、年が明ける。

 突然、何の前触れもなく暗闇の中でぱっと目が覚める。その直後、揺れてもいないのに急に体が激しく痙攣して止まらなくなる。理性は、少しも揺れてなどいないことを認識しているのに、体がいうことをきかないのである。

 夢を見ているのか、体だけが狂ってしまうのか、その状態は何分も続く。あれから毎年、あの日の夜明け前に起こる現象である。

 無事にあの瞬間をやり過ごすことが出来たのだと、心身ともに確認して再び浅い眠りに落ちるまでには、かなりの時間を要する。

 しかしもはやその時、私の中ではじけた心の割れ目はぱっくりと口を開き、どろどろの傷口からは、黒い膿のもうもうたる湯気が立ちのぼっている。

 私は訪れた冬を、やり場のない苛立ちの中で過ごさなくてはならなくなる。これはもはや、私にとっては手に負えない、解決法の見出だせない苛立ちである。これを和らげるただひとつの方法、それは、あの時、何がどうなったのかを、つぶさに思い出し、書き記すことだった。

 夜が明けると、追悼の意味をこめて宝山荘の跡地を訪れ、さらに家主の家へ行く。毎年のこの日の日課である。

 家主の家の窓から外を見ていると、決まって手に花を持った近所の顔見知りの人たちが、何人か通りを歩いて行くのが見られる。

 夜になると、方々の街角で犠牲者を追悼するために焚かれたろうそくが、暗闇の通りに沿って、ぽつぽつと浮かび上がっている・・・・。

 冬は、私にとっては大切な季節だった。それは、身の引き締まるような風の冷たさを顔に感じ、葉の落ちた街路樹を眺めやりながら、うらわびしい公園をそぞろ歩きすることのできる、感傷的な時間を与えてくれたからである。

 石油ストーブのほのかな香りのする静かな朝、隣近所から朝食を用意する暖かい物音が聞こえ、窓ガラスに細かな露がついて、弱々しい朝日が柔らかに室内を照らし出す。そんな、毎日繰り返されてきた当たり前の光景を、こよなく愛していたからである。

 しかし、もはや私は同じ光景を見ることはあっても、その情感を感じ取ることができない。冬は、私にとってすっかり変わってしまったからである。

 あの修羅場ともいえるありとあらゆる事実のおそろしい記憶が、その当時あたりを包み込んでいたのと同じ、朝もやのような白くて冷たい空気によって、再び呼び起こされるからである。

 そして何よりも、そうして甦った記憶は、冬の空気の中に分けがたく融け込んでいて、毎年、冬という冬ごとに、私の心の割れ目の中で何度でも息を吹き返すであろうことが予想されるからである。

 地震から季節が一巡して翌年の冬が訪れたとき、恐怖というものは、一定の条件さえ整えばありありと甦るものだということを思い知らされた。

 悪夢はひと冬の間中、夜な夜な私の枕許に現われ、押し固められたように硬い、棘を含んだ冬の空気は昼も夜も私を苦しめた。体調は目に見えて悪くなり、あまり風邪などひかない私が頻繁に熱を出した。異常な緊張感のなせるわざか、いつもは春先や秋口の、気候の不安定な季節に現われる、持病の十二指腸潰瘍が真冬に痛みだして寝込んだこともある。早く冬が去ってくれないか、そんなことばかり考えるようになっていた・・・。

 宝山荘が解体されてから、私がザイールの旅行日記を掘り出すまでの時期、すなわち、一月の下旬から二月の中頃までの時期、私は実家が壊れなかったのが幸いして、衣食住は何とか満足させられる程度に立ち直っていた。おかげで昼間は表向き元気に走り回ってはいたのだが、夜は実家の暗い物置の片隅で、振り払っても振り払っても現われるあの瞬間を思い出し、圧死した顔見知りの呼び声にうなされる時を送っていた。

 特に二月の初め頃までは、まだ毎日のように体に感じる余震があったから、そのたびに、すっかりデリケートになってしまった心臓を何度も収縮させなければならなかった。

 私の実家のあるあたりは山の手で地盤が硬いためか、余震は海沿いとは比べものにならないほどに軽かった。それでも恐怖が引き起こす一時的な貧血状態からは、なかなか抜け出すことができなかった。

 また、都会と違ってここは闇の色も濃く静寂も深かったので、木々の葉ずれの音やちょっとした雨風の音も、都会にいたときよりも大きく聞こえ、それが自然に対する漠然とした畏怖を呼び起こした。

 初めの一ヵ月はなかなか寝つけなかった。耳を圧するような静寂と、体ごと吸い込まれていくような黒い闇に恐れをなして、電気をつけたりラジオをつけたりしてみたが、そうするとかえって、その向こうからやって来るかも知れぬ天変地異から身を守ろうとする本能が働いて、地面や空気の変異に神経を集中するために、再びそれらを消さざるを得なくなった。

 異常に覚醒した思考回路がようやく疲れをみせ、朦朧とした意識のなかにそれが溶け込みはじめると、決まって悪い夢が現われた。

 凄まじい閃光とともに大気をゆるがすような空中放電を繰り返しながら、山の向こうから巨大な火の車のような彗星が現われて、この世が終わりを告げる夢を見た。

 突然平野部に口を開いた長さ何キロにもわたる巨大な地割れにつき落とされて、何十メートルもの深いクレバスの底へ転がり落ちたあげく、奈落の底の灼熱地獄で身を焼かれ、空気を掻きむしりながらのたうちまわる夢を見た。

 闇がこわいという根源的な恐怖と、これほど長い間向き合ったことは未だかつてなかった。

 寒いはずなのに汗をびっしょりかいて飛び起き、何気なく時計を見ると、ものの十分とたっていなかったことも多かった。

 暗闇の中で、あの朝のようにぱっと目が覚めることがあると、そのたびにまたあれがやってくるのではないかと思って、言いようのない恐怖に突き落とされたこともしばしばである。

 いくつもの長くて果てしない夜をやり過ごさなくてはならなかった。疲れ果てて目覚めた朝は体中が猛烈に痛かった。

 やり場のない、自分に対する怒りや苛立ちが全身をかけめぐった。私はそれらを振り払うように闇雲に行動した。生活のために朝早くから給水の行列に並び、仕事と財産の保全に深夜までかかる日々が続いた。この頃はまるで二重に目を醒ましているような感じだった。

 私は、ただでさえ宝山荘の住人からは、ありとあらゆる持ち物を瓦礫の中から取り返し、もはや失なったものより取り返したもののほうが多かったのではないかといってはあきれられ、付近の住民たちからは、私が暗闇の中で何度も職務質問を受けるので、その度にこの人はここのこういう住人でなどと身の証をたててやらねばならないといってはあきれられ、さらに家に帰っては、また訳のわからない泥だらけのものを大事そうに持って帰ってきたといってはあきれられる始末だった。

 そうして応接間に大量に運び込まれた砂まみれの持ち物を、夜っぴて掃除していたのもこの頃である。しかし長い時間をかけて洗い落としたはずの細かい砂は、その後いつまでも執拗について回った。

 古い持ち物にさわったとたん指が砂にまみれてゆき、皮膚がぼろぼろになった。

 あらゆるものからなめらかさと柔軟性が失なわれ、かつて馴れ親しんでいたはずの物の性質がすっかり変わってしまったのに驚かされた。

 新しく買ったものでさえ、封を開けるか開けないうちに砂が飛び出した。

 広いテーブルも、何度雑巾がけをしても乾いた端から砂が浮いてきた。

 ざらざらとした不快な感覚は風呂に入ってもとれず、体中に蔓延し、危うく風邪を引きそうになったばかりか、いらいらした気分が直らず、ちょっとのことに腹を立てるようになってしまった。

 私は普段から甘いものをほとんど口にしない人間だが、この頃は、気がつくとだらしない子供のように、見さかいなく甘いものに手を出すようになっていた。チョコレート、キャラメル、キャンディなどというちゃらちゃらしたものを、母屋の台所から漁ってきては暗い物置に持ち込んで、かがみ込んでがつがつ食うようになってしまった。

 おかしな状態は、春になってようやく連れと酒が飲めるほどに気持ちの余裕ができても癒らなかった。通りを走る大型車の音をあの地鳴りと感ちがいしてテーブルにしがみついたり、ずっと向こうの物音に耳を澄ませて遠くを睨みつけたたまま、連れが呼んでも聞こえなかったりするなどということがよくあった。

 それまで夢中になっていたザイールの音楽を、とんと聴かなくなっている自分に気がついたときはショックだった。あれほどのめり込んだ、華やかでゆったりした豊かな音楽の情感が、今では単に能天気なだけの、気持ちを苛立たせるものにしか聞こえなかった。

 さらに、あれほど執念を燃やして掘り出したはずの、過去二回にわたるザイール旅行の日記にも、当初の意気込みに見合うほどの値打ちを実感することができなくなっていた。

 自分を取り戻そうとして手に入れた時間と空間で、私は図らずも自分を見失ないそうになっていた。

 当時の私の気持ちにしっくりきたのは、二十年も前に聴くのをやめてしまった七十年代のソウルであったり、それまでほとんど何の関心もなかった黒人のヒップ・ホップや、ラップ系の音楽だった。また、中学の頃から聴きはじめたヨーロッパのアングラなプログレッシブ・ロックや、シンプルな編成のクラシックの室内楽だった。

 これらは似ても似つかぬ生い立ちの音楽であるにも関わらず、不思議なことに、私には共通の魅力が感じられたのである。

 当時の私の心の中は、一種不穏な空気で満たされていた。今までの、嘘のように安楽な生活が終わりを告げ、常に獣のようにあたりに気を配らなければならない緊張感が、私の音楽的な志向性をも徐々に変えつつあった。

 私は部屋にいる時間のかなりの部分を、後片づけをしながら、手許に残った旧いレコードやテープを、片っ端からひとつ残らず聴くことにあてることによって、心の平安を得ようとした。

 そんな二月初旬のある日のことである。私は電車とバスを乗り継いで、半日がかりで初めて三宮へ出た。

 当時、鉄道は阪神間を結んでいた三つの路線のうち、最も南側を走っていた路線が、いちはやく神戸市の東部まで復旧し、相前後して別の路線が西から神戸の中心部まで乗り入れるなど、日を追って神戸の周辺から徐々に復旧していた。

 しかしそれらの区間のほとんどは、レールを継ぎはぎに繋ぎ合わせたうえ、まだ地盤が不安定なのか常に徐行運転を続けていた。そのため、異様な静けさとともにスローモーションのように車窓に展開される悲惨な光景に、思わず不気味さを感じざるを得なかった。それまでは、鉄道が瓦礫の山の間を走ることはなかったからである。

 鉄道の折り返し地点から中心部までの間は、バスによる代行輸送が始まっていた。しかしその頃は、ラッシュ時で待ち時間に三時間、走行時間に六時間という全く時間の読めない状況が続いていた。

 神戸にある会社では、社員がその日のうちに家や避難所にたどり着けるようにと、退社時刻を大幅に繰り上げざるを得なかったが、それでも社員たちはまだ夜も明けないうちから避難所を出て、一日の大半を通勤に費やし、わずか数時間勤務したあと、夜遅くまでかかって帰ってくるありさまだった。なかには会社住まいを余儀なくされた人もある。

 地震後初めて訪れた三宮駅とその周辺は、軒並みビルが倒壊していて、広い範囲にわたって柵によって閉鎖され、立ち入り禁止の状態だった。

 鉄柵に囲われたその中は、まさに広大なコンクリート瓦礫の海で、時折、風が飲み屋の宣伝チラシを巻き上げるほかは、昼だというのに猫一匹見あたらない全くの廃墟だった。重苦しい灰色のよどんだ風が、ゆっくりと渡っていた。そうしたエリアは、主にメイン・ストリートの西側に何ブロックも続いていた。

 その外側でさえ、もはやあたりにはまっすぐに立っているビルは少なく、無惨にまっぷたつに割れたビルや、爆発でもあったかのように上半分が吹っ飛び、瓦礫が道路に散乱しているビルなどが立ち並んでいた。

 ある雑居ビルなどは、建て増しに次ぐ建て増しで、どの柱がどこで支えられているのかさっぱりわからず、行き場に困った地震波のエネルギーが、腹立ちまぎれに建物を八つ裂きにして出て行ったかと思われるほどだった。

 街中のいたるところが工事現場と化していたので、街を歩くだけでも防塵マスクとヘルメットは必携品となっていた。そのため、お洒落で名高いこの街の中心部を歩く人たちの服装は、どれもが砂にまみれ、いつ破れても惜しくはないほどの、なりふり構わぬものになり下がっていた。

 そんななかで、駅前の閉鎖された繁華街でバーをやっていたある友人は、遥か西方の知人から格安で屋台を調達し、立入禁止の柵を乗り越えて自分の店のあったところから酒瓶を救い出し、いちはやく店を再開した。しかも場所は警察署のど真ん前だった。

 「どうせやるんやったら真ん前でやったれ。」

 これにはいかな警察といえども何も文句は言えなかった。憔悴しきった付近の住民たちが、キャリアに満載した食料や水を運ぶ途中で、一露のやすらぎを求めてそこに集まっていたからである。しかも一杯の酒の値段はほぼ原価に近かった。

 それは確かに一般公道の不法占有には違いなかったが、市民の必死の復興の努力を権力で封じ込めたと言われては、あとが面倒だった。こうした路上営業を行政が黙認し、頼むから食中毒やもめごとだけは防いでくれよと念を押して、おそるおそる引き下がったのはそれからしばらくしてからのことである。

 しかし彼にしても、家と店の両方が全壊したので、何千万という損失を抱えることになった。誰もが将来のことまで考えている余裕のない状態だった。今できる最善のことに向かって今日はとりあえず進んでみて、明日になればなったでまた考える。その位のことまでしか気が回らなかったし、それでみんな神経をもたせていたのである。

 私はその屋台で、多くの神戸方面のミュージシャンの消息を得ることができた。家族を失なった者、友人を失なった者、家を失なった者、楽器を失なった者、やはり誰もが何かを失なっていた。しかし幸いなことに、私の友人のなかで誰ひとりとして死んだ者はなかった。

 それどころか、宝山荘のボロさ加減をよく知っている奴らから人づてに、私が死んでしまったのではないかと噂される始末だった。「生きとったんか」というのがこの頃の合言葉だった。

 私は久々に懐かしい顔ぶれに会い、ここにいない懐かしい仲間の消息を聞いた。その場でいつまでもこの時間の止まった感覚に浸っていたかったが、ここは神戸、今では実家からほぼ半日がかりの遠い土地だった。私は早々にそこをあとにし、何時間かかるかわからない帰路につくべく、都心のバス・ターミナルに向かった。

 ターミナル付近の混雑は大変なものだった。待っている間に暗くなってしまった。狭いところに何列もの行き先の違う行列が何ブロックも続き、その再後部を目指す人が逆進して来てごった返しているところへ、夜になってもその真横でビルの解体工事が行なわれていたものだから、その柵から飛び出たねじや針金で服を破いてしまうことも多かった。

 乗客の苦痛をちょっとでも和らげようと、ゴージャスな観光バスが投入され、常務員が乗客のひとりひとりに丁寧に声をかけていたが、これは鉄道会社のせめてもの誠意と思われる。毎日のことで慣れっこになっている乗客のほうも、それに笑顔で答えていた。その常務員のなかには、明らかに訛りの違う遠い地方から来た人も多かった。

 豪華な内装の車内から見る工事現場や倒壊家屋の眺めはまた格別だった。変り果てた街の姿に涙ぐむ女性も多かった。高速道路の高架下を走っていると、街灯のない暗闇の中に無秩序に積み上げられた瓦礫の山や、形を失なった廃墟の連なりの影が、不気味に黒々と車窓に展開されるので、男たちでさえどこかへ集団で護送されるかのような、言いようのない不安を覚えたものである。

 案の定、私はその日は実家にたどり着けず、アパートの近くの避難所に厄介になった。

 私はその後、何度もそんなバスを利用したが、やがてぴかぴかの観光バスも目に見えて黄色くなり、ふかふかのカーペットや座席もみるみる砂にまみれていった。

 その後、私はよく公私の用で三宮へ出たが、やがて最も浜手を走る国道にバス専用レーンが開設されて、直行バスが運行されるようになると、いくぶん時間の読みがはかれるようになった。それでも日中は、移動に三時間近くを要した。

 ほとんどマヒ状態にあった阪神間の陸上輸送に見切りをつける形で、海上輸送や、内陸部を走る別の鉄道路線や道路を使った迂回輸送も始まったが、やはり阪神間を越えてその東西を行き来するには半日近くを要した。なんとか鉄道だけで阪神間を移動できるようになった二月の中旬までは、依然としてバイクが最も速くて確実な交通手段だった。

 交通の混乱は阪神間の海沿いの地域に限らなかった。私の実家のある街は、大阪平野が六甲山系と長尾山系の間に吸い込まれていくどん詰まりになっていて、そこは中国地方への交通の要所でもあった。このへんも幹線道路が方々で寸断され、中国地方へ抜ける高速道路が通行止めになっていた時期には、奥地へ抜けられる唯一の道路が、古い国道の狭い橋一本でつながっている状態だった。そのためその橋の両側で、海沿いの地域をはるかに上回る信じがたい渋滞をひき起こしていた。

 幹線道路は言うに及ばず、生活道路や路地裏の小径に至るまで、大型トラックやトレーラーで埋め尽くされていた。それらは、とても今では信じがたい話だが、本当に何時間もそこにじっとしていた。

 私は生まれ育った土地だから裏道をいくらでも知っていたので、その渋滞をかわして進むことができたのだが、新しく来た人によると、ブロックひとつ越えるのに一時間以上かかることなどあたりまえだったらしい。

 高速道路がとりあえず一車線の対面通行で仮復旧すると車がそちらに集中し、実家にほど近いその工事現場では、車両の重量を一台ずつチェックしたうえ、工事区間を前の車が渡り終えてから次の車を通すという慎重な措置をとったため、現場を先頭に、両方向とも渋滞区間を通過するのに七時間以上を要するありさまだった。

 このように、付近一帯はどこへ行くにも時間の約束のできない最悪の状態がひと月近く続いたが、二月後半に高速道路の二車線通行が可能になると、それまで付近の裏道までをも埋め尽くしていた車の列が、まるで夢ででもあったかのように忽然と消えた。

 しかしその高速道路の橋脚は、夏になっても積み上げられた鉄骨で補強され、外からは見えない防音シートのなかで修復工事が続けられていた。実家から程近いその工事現場を通過する車の振動は、地盤が依然緩い状態が続いているせいか、以前とは明らかに異なる響きをもって、仮住まいの私の枕許に響いてきた。

 避難所の生活が、最悪の状態になったのもこの時期である。ガス、水道が途絶え、交通がままならず、洗濯ができないために下着類が不足し、この冬一番の寒波が襲いかかった。空っ風に雪の舞散る日々が続き、そんななかで、まだ二十万人を超える人が、避難所や屋外に放置されて寒さに耐えていた。

 当時の寒さは、避難所で寝ることの少なくなっていた私にとっても、ことのほか身にこたえた。六甲おろしの厳しく吹きすさぶ神戸市東部の避難所などでは、小学校の建物ですら危険な状態だったために、避難した多くの人が校庭でテント生活を強いられていたが、その寒さたるや想像を絶するものがあった。

 現場を取材しているレポーターが、昼間でさえあまりの寒さに、中継が終わったとたんに車に逃げ込んだほどだった。体育館の中を取材していた記者が、そこに泊まることなんて考えられないことだと感想をもらしたこともある。頭がぼうっとなるような厳しい寒さがいつ果てるともなく続いたが、それでも、自衛隊や在日米軍などがテントを供給してくれたおかげで、毛布にくるまって焚き火の周りに転がっていた頃よりは、うんとましになった。

 宝山荘の住人のほとんどが避難していた小学校の体育館でさえ、夜はいくら着こんでも、身を刺すようなすきま風が首筋から背中にまとわりついて離れず、底冷えのする床は容赦なくじわじわと腰を痛めつけた。それでも防災上、個人による電気の使用は厳しく禁止されていたので、暖をとるには校庭の真ん中にある焚き火にあたるしかなかった。

 「こんなとこにおったら死んでまうぞ。」

 食事は相変わらず一日二食で、依然として、基本的には冷たく固まったおにぎりかパンがひとつずつだった。

 便所は言うのもはばかられるほどの極限状態だった。排水さえできないところが多く、仕方なくスコップとネコで一日に何度となく運び出すのだが、すぐに息もできないほどのてんこ盛り状態になった。

 気丈なわれわれでさえ、もよおしたときにはそれを思い出して真っ暗な気分になったくらいなので、そこへ行くのがいやで飲食を極端に切り詰める人が多いのも無理はなかった。みんなそろって一週間も音沙汰がないというのに、治療を求める人はまばらだった。

 手を洗うにも便所に備え付けの汲み置きの濁った水しかなく、ついこないだまで華やかに着飾って通りを歩いていた関西屈指のお嬢様が、流れるようなロング・ヘアをかき上げながら、すえた臭いのするてんこ盛りの排泄物の上に身を屈め、衛生管理に気を遣わざるを得ないありさまだった。

 特に老人たちは日を追うごとに衰弱し、なかには凍えたり栄養失調で倒れる人が出てきた。風邪が蔓延し、結核の不安が叫ばれたのもこの頃である。

 周りの人が次々に衰弱していくのを目のあたりに見ながら、誰もが自分だけは気が変にならないように、余計なことは考えずに足許だけを見つめて歯を食いしばっていた。

 それは氷のような時間だった。

 みんな息をひそめ、じっと耐えていた。

 あまりの寒さのために意識が肉体を抜け出して、自由にどこへでも飛んでいけるかと思われた。

 まるで戒厳令下のように、声もたてずに布団の中から、テレパシーによって互いに意思疎通ができたほどだった。

 特に夜は、もうこの世の終わりがすぐそこまで来ているという妄想に取りつかれる者が多くなっていた。巡回の医者に頼めば、精神安定剤や睡眠薬などは難無く手に入ったのだが、寝ている間に余震が来て逃げ遅れてはかなわないという理由で、心の安定へ向かう一切の治療を断わる人が多かった。

 そんな実態を公にしようと、マスコミの取材をはじめ、様々なイベントが頻繁に行なわれる、いわば人気のある避難所と、そうでないところとの色分けが、だんだんはっきりしてきたのもこの頃である。

 また、学生やアマチュア劇団のボランティアによる芝居が巡業しはじめたり、首相や皇族のお見舞があったり、針灸師のグループの巡回訪問があったりしたのもこの頃である。

 自衛隊や在日米軍から、仮設風呂が提供されたりし、近所のいろんな商店の人などによって、おでんやお好み焼といった暖かいものが配られたりしたのもこの頃だったが、最もそういうものを必要としていた衰弱した老人たちの全てに目が行き届いていたわけではなかった。

 それでも宝山荘の管理人夫婦などは、あんなアパートの狭くて古い部屋に押し込められて、あほな住人たちを相手にあくせく働くことを思えば、ここは天国みたいなもんだ、見てくれ、老人たちにはこんなにいいものをくれるんだと言って、貰ったものをうれしそうに見せた。

 そんな昼間の華やかさが、夜の寂しさを一層厳しいものにした。特に、一日の大半を無益な長時間にわたる通勤の苦痛に費やしていた会社員や、とりあえずの金策に駆けずり回っていた自営業者や、公務だからのひとことで、文字通り身命を投げうって市民のために奉仕しなければならなかった公務員たちにとってはなおさらである。

 彼等を待っていたものはただ、両肩にのしかかるどんよりした疲労と、厳しい夜の冷え込みと、いつ来るかもしれぬ最大級の余震の恐怖と、それによって新たに迫られるであろう対応と、食料の配給時刻に到底間に合わなかったために、食事の頭数にも入れてもらえない自分自身の現実だった。

 「冗談じゃない、そんな頃にはまだ勤務先近くのバス停の、うんざりするような列の最後部にやっと着いたばかりだ。」

 当時は飲食店はおろか、屋台や炊き出しといえども、すっかり治安が悪くなっていて日没後はどこもやってはいなかった。オフィス街は言うに及ばず、かつての繁華街にまで、周辺地域からならず者が押し寄せて方々で掠奪行為を働くので、日が暮れてから飯を食ったり買い物をしようなどというのは望むべくもない状況だった。

 いまひとつの苦労は入浴のことだった。阪神間に難を免れた銭湯は少なかったので、人々は、はるばる大阪や周辺地域まで出かけて行かなければならなかったが、例によっての交通の困難のために、銭湯にたどり着くだけでも半日近くがかかった。そのため、一月いっぱいは満足に風呂に入れた人は少なかったに違いない。季節が冬だったのは、その点では幸いだった。

 近隣の一部のレジャー施設でも、その中の浴場を無料開放していたが、状況はまさに芋の子を洗うようなものだった。近場の銭湯に至っては、そこが無事に営業しているという情報が流れただけで長蛇の列ができ、止むを得ず何人かずつの入れ替え制で入浴時間まで制限される始末だった。そのため何時間も並ばされた客は、そそくさと体を洗うか、陰部の洗浄を諦めて湯舟に浸かるかのどちらかしかできなかった。

 当時の会社員たちは、大きなかばんに着替えと、お風呂セットと、食料と水、それに非常用のヘルメットに防塵マスクなどを詰め込んで通勤した。いつどこで何が起こってもやっていけるように備えていたのである。

 私の方は、そのころ運よく実家の最寄り駅から電車に乗って五つばかり東の駅から、歩いてすぐのところにある隠れた銭湯を見つけ、難無く並ばずにゆっくり入浴することができるようになった。初めてそこへ行った帰り道、駅前の商店街がやっていたので、全くひさしぶりに端から端まで冷やかして歩いたことを覚えている。

 飲食店は、水道とガスが止められていたために、汲み置きの水とプロパンガスでようやく営業を再開していたが、メニューは水を多く使わないごく簡単なものにしぼられ、使い捨ての食器で洗う手間を省いていた。

 川岸では、宗教団体が大がかりな炊き出しや衣料品の無料配布を行なっていた。瓦礫の中を歩き回って腹が減ると、よくそこへ行ってただ飯にありついたものである。

 それを食うと洗脳されるぞと冗談を言う仲間もいたが、「この石頭を洗脳できるもんならやってみい」と腰を降ろして笑い合っていると、本当に入信を勧めに来た女性がいた。三十分ほどやりあって、彼女の神の存在証明を論理的に突き崩していると、隣にいた明らかに浮浪者とわかるおっさんが、抜けた歯をむき出しにして大笑いしながら聞いていた。

 はるか南方で寒い夜と慣れ親しんでいた彼等は、地震が起こるが早いか、被災地の入り口にあたるこの川原にどっとなだれ込んで来ていた。

 ここへ来れば避難所があって夜露はしのげるわ、ただ飯にはありつけるわ、毛布や衣類までもらえるとあって、彼等にとってはまるで天国みたいなものだった。

 見ただけで明らかにここらの住民ではないことが見て取れた。しかし彼等は動じる様子もなく堂々と避難所に出入りし、訳の分からない独り言を大声でわめきちらして、お上品な住民たちを不安がらせた。

 なかには壊れて鍵のかからなくなった無人の家に忍び込む不埒な輩もいた。勿論、その頃には周辺地域からゲリラ的に入り込んでくるならず者は後を絶たなかったとはいうものの、かつてはれっきとした住居だったところであたり構わず立小便をする彼等は、その泌尿器の先の乾かないうちに避難所に入って行ったために、なんとも分が悪かった。

 一宿一飯の世話になったというか、川原で炊き出しの味噌汁を飲み、体育館の軒先で夜を明かしたというだけで、警察に突き出される運の悪い奴もいた。

 ただでさえ、先の見えない避難所生活で神経が参っているところへ、余計なまねをしたばっかりに、鬱積していた不満がどっと彼等に浴びせかけられるようになったのである。いろんなデマが乱れ飛び、彼等に対して容赦ない敵意を抱く者さえあった。

 多くの浮浪者が古巣に戻って行ったが、なかには、川原で身ぐるみの一切を新しいものと取り替え、自衛隊の仮設風呂で垢を落とし、ボランティアの散髪屋でさっぱりした身なりに変身する者も現われた。彼等は、何食わぬ顔で配給の列に並び、今見てきたばかりの所番地をぬけぬけと答えて、住民に交じって同じ釜のめしを食うようになった。

 彼等はこのサバイバルゲームの勝利者だったが、結局それも長くは続かなかった。春の訪れとともに復興事業が本格化すると、避難所の人口が急激に減少しはじめたので、彼等は目につきやすくなったからである。

 商店街では早くから組織されていた自警団が住宅地にまで広げられ、避難所の住民の登録制度が始まり、住民以外の避難所での配給を厳しく制限しだしたのもこの頃だった。ここが「被災地」として定着するにつれて、スキだらけのこの地域に、腹にいちもつ持った様々な人間が続々と入り込むようになったからである。浮浪者の一群は最初の闖入者だった。それを機に、世間はそれまでのほんわかした無差別な助け合いムードから、とげとげしい排他的なムードに変わっていった。

 当時、私はある広告代理店から某食品メーカーに出向する形で仕事をしていたのだが、その取引先の要望に応じて食料品のデリバリーも引き受けていた。さらに、行った先々で、得意先から神戸方面の避難所に食料品を運ぶように依頼されることも多くなったので、私は緊急輸送経路の通行許可証を取得した。

 こうして次第に神戸方面のいくつかの避難所にも出入りするようになったおかげで、私は多くの知り合いや取引先から様々な話を聞くことができた。仕事先には内緒だが、当時神戸市の東部ぐらいまでなら、幹線道路や国道さえ使わなければ、報道されていたように膨大な時間がかかることは少なかったし、そのくらいの範囲なら裏道も熟知していたので、表向き仕事に影響することなく避難所に立ち寄ることができたのである。

 いくつかの避難所では、私の懇意にしていた知り合いなどが依然寝泊まりしていた。行ってみるとそんな人との話がはずんだばかりでなく、その周りにいた人たちまでもが話の輪に入って来るようになった。誰もが雄弁で、みんな何か聞いてもらいたいという思いで一杯のようだった。

 このように、来客があるとあちこちで話の輪が広がっていくのだが、客が去るとそれぞれが黙りこんで自分の布団に戻る姿が見られたものだった。地震からひと月近くもたつと、毎日顔を見合わせている避難者どうしでは、もはや話すこともなくなってしまっていたからである。

 掃除、食事、給水と、規則正しい日課に黙々と従う毎日だったが、それだけに長引く避難所生活の重苦しい倦怠から、いらいらを爆発させる人が多かった。避難所によっては極端に殺気立ってきたところもあり、廊下でたばこを吸っているのを注意しただけで刺し殺された人もいた。

 避難所での唯一の気安めは、体育館の演台に置かれた大型テレビの放送だった。しかし、報道される場所が、いつも絵になる決まったところばかりで、ほかのところについての情報が極端に不足しており、またもや憶測がデマを産み、ある町の商店街がまるまる全部燃えてしまったとか、山肌を縫うように走っていたある商売の神さんの参道が、広範囲な地滑りとともに跡形もなく谷底へ崩れ落ちてしまったとか、およそ今では考えられないことがまことしやかに語られていた。

 さらに、当時話題の中心となっていた仮設住宅の募集要領をめぐっても、もはや阪神間に満足な空地のないことは誰の目にも明らかだったので、一旦申し込んでしまえばたとえ地の果てといえども拒むことはできないとか、身障者がいるとか母子家庭だとか老人がいるなどという、申し込み世帯の個別の状況を考慮して抽選されるのに、先着順だという噂を信じて、夜も明けないうちから並んだために病院に運ばれた人もあった。

 当初、この地震では津波の心配はないと報道されていたらしいが、はるか南方の半島で、漁師たちが浜辺でたき火をしていたところ、引き潮の時刻でもないのに潮が退いてゆき、程なくたき火を消してしまうほどに潮が満ちてきたのでいぶかしく思ったという記事が載せられた。これが津波であったかどうかという問題をめぐってテレビが特番を組み、気象庁が、わずかの津波なので危険性はないと判断したという苦しい弁解をしたのは、何十万人もの人々が食料と水を求めて長蛇の列を作っていた最中だった。

 また、患者の搬送のためにとせっかく国がヘリコプターを用意したのに、県や市はそれを断わったばかりか、その情報すら医療機関に流さず、そんな情報は受け取った覚えはないとまで言い張って問題になった。

 また、多くのテレビ報道のレポーターたちが、悲惨な現場にわざわざ踏みこんで、不埒な表現でそれらをレポートしたといっては問題になり、どこかの知事が避難者の神経を逆なでするような発言をしたとかしないとか、およそ建設的とはいえない話題が報道されていた。

 さらに地震当日の早朝、どこぞの政党の有力者が、新しい党派を作るために会派離脱届けを出したのは、まったくもって不謹慎なことだとか、首都ではこのはるか西方の出来事について、なかなか本気にしなかったとか、海外からの救援の申し出を、日本政府はなぜか断わり続けているとか、中央官庁と防衛庁との連絡の不緊密によって、自衛隊への出動要請が遅れたために命令の発信が遅れ、県も情報の混乱から自衛隊への支援要請が遅れたために部隊の出発が遅れ、部隊の移動が始まった頃には、すでに道路は抜き差しならぬ大渋滞に陥っていたために、部隊が現場に到着したのが大幅に遅れ、その結果、より多くの救出される可能性のある人々を犠牲にしたとか、災害では一分の救出の遅れが十五人の生命を奪うという統計があるとの報告に対して、いや、今回の災害では、犠牲者のほとんどが十五分以内に即死したのだから、いくら行政が早く対応できていたとしても、どっちみち犠牲者の数には大きな違いはなかったはずだとか、まるでみみずとなめくじの決闘のような、さっぱり埒のあかない議論に話題は終始した。

 避難所の住民たちの多くは、それを恰も娯楽番組でも見るかのように笑いとばしていた。ああすればよかった、こうすればよかったという、全ての議論をつなぎ合わせてみると、たとえスーパーマンがごまんと寄ってもできそうにないことのように思われたからである。

 また、学界でも様々な議論が沸騰していた。今回動いた断層の近くにあって動かなかったものは、近い将来動く可能性があるとか、今回は震源から東に向かって破壊が進んだが、日本を大きく貫く活断層の流れからいうと、次はさらに東のほうが動く可能性があるとか、いや、それは慶長の大地震で動いたのだから、これを一連のものとして位置付けると、今度は南か西だろうとか、せっかく断層がないと思って安心していたら、過去にあまり地震の起こらなかったいわゆる空白域は、ただ断層が見つかっていないだけのことで、本当は最も危ないとか、必ずしも活断層の真上が危ないとは限らない、むしろ地震の被害は地盤の柔らかさに影響されるから、エネルギーが地面で集中しやすい山沿いは避けたほうがいいとか、これまた様々なことが取り沙汰されていた。

 何度となく、新聞に新しい学説とともに断層の細かい位置が掲載されたが、そのたびに母は地図に定規を押しあてて、虫眼鏡で何時間もそれに見入っていた。いくら見ても同じだった。今寝起きしているこの家の真下に、明らかになんとか構造線という、わりと大きな活断層が走っていたからである。

 要するに、日本中のすべての土地が等しく危ないということだった。このようにマスコミが主に力を入れて取り上げたスキャンダラスな話題のほとんどは、われわれの現状とは何の関係もないものだった。それらは、明らかに周辺にいる人たちの知的好奇心を満たすのが目的だったと思われる。

 ところが、たまたまある市民が法律を調べていて見つけたものだったが、自分で家を修繕する能力のない人に、自治体が災害発生後一ヵ月を限度に応急修理を施すという法律があることが報道されたのは、まさに地震から一ヵ月が過ぎようとしていた頃だった。

 当局はそれを市民に広報しなかったばかりか、申込資格を極端に限定して運用したために、実際に恩恵にあずかったのは、二十万戸にのぼる損壊家屋のうちの、わずか数十件という事態になった。

 当局は、運用権はわれわれにあり、業務の混乱を避けるため資格を具体的に示したまでだと言い張ったが、さすがにこの対応には、国側も法の趣旨に反するとクレームをつけるありさまだった。

 また、各地に災害対策や復興支援の連絡窓口が開設され、ボランティアの組織化が進んだのもこの頃である。しかし、それはあくまでも草の根の非力な運動に過ぎず、一時的な美談は生まれても、行政側は抜本的な対策はおろか、人々に希望を与えることすらできなかった。

 彼等は、そうしたボランティアの皆さんの活躍はありがたいことだなどととうそぶき、ひたすら自助努力に期待するという声明を読み上げるばかりだった。

 ところがその実態たるや、慈善運動が売名行為になるとわかると、にわかにボランティア旋風が地域全体に吹き荒れ、様々な団体が、ボランティアに名を借りて住民に取り入るようになった。ボランティア・グループの内部でも、行動方針やリーダーシップをめぐって様々な対立が起こり、それが傷害事件にまで発展した例も少なくない。

 その行き過ぎた風潮は、徴兵制度でもあるまいに、若い者がただ道を歩いているだけで、登録用紙をガバンにはさんで慈愛に満ちた笑みをたたえたご婦人に、登録だけでもいいからと執拗に何度でも追い回されるほどだった。

 「見ればわかるだろう、そんな暇なんてあるもんか。」

 財産の捜索のために瓦礫の中をほじくり回していた私は、わざわざそこに踏み込んで声をかけてきた婦人に向かってそう答えた。そんなにボランティアがしたければ私の仕事を手伝ってくれと言ったが、全く聞こえないのか、彼女はオウム返しに決まった勧誘の言葉を繰り返すだけだった。

 そんなこんなで、避難所は緊迫を通り越して、閉塞的な状況に陥っていった。老人たちばかりか、若い者でさえ、昼間っから毛布にくるまって様々なうわさ話に憂き身をやつしていた。私が川向こうとの間を行き来して手に入れたものを、ちょっとしたきっかけから渡してやっても、返事もせずに生気の失せ果てた目をして窓辺に佇んでいる若いのが多かった。

 被災者は避難所に入り仮設住宅を待つというのが、まるであたりまえのような空気になっていた。それに疑問を投げかける声は聞かれず、マスコミも、この実態を哀れむような口調で報道した。ここはいわば囲い込まれたような状態になっていた。仮設住宅に当選した老人が、涙を流しながら、卑屈な態度で役所の職員に手を合わせる始末だった。

 プライバシーがないからといって、折り畳み式の間仕切りが導入されたと、それがまるで画期的なことででもあるかのように報道されていた。「被災者」は、マスコミの格好のネタになった。そのうち私は避難所のことを、つい口が滑って「収容所」と呼ぶようになってしまった。

 当時はまた、全国から寄せられた義援金が、被災者個人に分配されると言う噂で持ちきりだった。赤十字などの関係機関は、当座の現金のない被災者の迅速な救済のために、できるだけ早く義援金の配分を実施したがっていた。それに対して実際の運用を担当しなければならない市としては、どんな被害状況の人にどれだけ配分するのかを実地に調査するのが先だと考えていた。しかし赤十字など関係機関は広報を先行させたために、市民からの問い合わせが市役所に殺到した。

 宝山荘のあった市では、役所の建物が倒壊していて満足に機能してはいなかったが、気の早い市民たちが大挙して市役所に押しかけたために、黒山の人だかりは通りにまで溢れ出し、ようやく入ることのできた一階のロビーは、何がどうなっているのやらさっぱりわからないほどに混乱していた。

 どれが何のために並んでいる人の塊なのかわからぬままに、人ごみに揉み出されるように前へ進んで行くと、いくつもの無人の受け付けカウンターの横を通りすぎ、非常口へ抜ける通路の向こうが暗くなっていて、大きなコンクリートの塊に押し潰されているのが見られた。

 足許には、すし詰め状態の通路にまで避難者が毛布を敷いて寝ていた。そのため前もよく見えないのに、走り回るガキどもを踏みつけないように気をつけなければならなかった。

 結局、何時間も並んだ末に、集まってきた市民たちが受け取ったのは、自分の住んでいた家屋の被害状況を記した一枚の紙切れだった。それも、客観性のある調査結果などではなく、自己申告として今書いたばかりのものがそのままコピーされただけだった。それが何の役にたつのかと聞いてみると、職員はあっさり何の役にもたたないと答えた。それは市が被害者の実数を把握するために統計をとっているだけだったのである。

 公的な効力のある被災証明書は、後日、市の調査が完了してから発行されるということがわかったのだが、今の段階ではそれがいつのことになるのかめどは立っていなかった。そのため、これでは被災者の当座の資金を賄うという義援金配分の本来の目的など、到底達成されないだろうということもついでにわかった。

 われわれは、この忙しいのにお上の統計づくりに協力するために何時間も並ばされて、すっかり落胆してそこを出たのだが、考えてみれば情報をよく確認せずに動いた自分たちも適切ではなかった。市がわれわれを満足させるお土産を用意して待っていると公表していたわけではなかったからである。

 黒山の人だかりを前にして一人一人に同じ説明をし、今すぐなんとかしろと詰め寄る気の荒いおやじをなだめ、機嫌をできるだけ損ねずに理解を求めなければならない職員こそいい迷惑だった。

 後日発表された義援金の交付要領によると、家屋が全壊した人で、一世帯あたり最高二十万円までの給付を受けることができた。これは、借家だろうが持ち家だろうが一律だった。

 私のように家賃二万円そこそこのボロアパートに一人で住んでいた世帯も、私の下の部屋にアトリエを構えていた画家の先生のように、時価一億円以上の豪邸に大家族で住んでいた世帯も、一世帯は一世帯、全壊していれば等しく二十万円だった。それは私にとっては大金だったが、彼等にとっては雀の涙のようなものだった。

 そのあとで配布された、被災証明の発行申請書には、なぜか被害の程度を居住者自身が記載する欄があったのだが、家屋が全壊なのか、半壊または一部損壊なのかの判定基準がはっきりしなかったので、最初は誰もが「全壊」と書いて申請した。

 ところが、市の実態調査が思ったより長引き、その集計が義援金の交付開始予定日に間に合わなかったために、市の調査結果とは無関係に申請書の記載に基づいて義援金が交付されたところもあった。

 また、市の調査が終わったところでも、時間がないのでさっと外から見ただけで判定してあったから、見る人によって明らかな食い違いが生じていたし、外形は半壊でも、二階の床が落ちていたりして内部はぐちゃぐちゃの家も多かった。

 大規模な集合住宅では、自治会が機能しなかったために、住人がばらばらに被害状況を自己判定して申請した結果、同じ建物のとなりどうしで異なる評価が下されて義援金が交付された例もあった。

 また被害の比較的少なかった高級マンションでは、自治会が住人の意見をとりまとめようとしたのだが、全壊に持ち込んで少しでも多くの金をせしめようとする人と、たとえ一部損壊の判定でも、それが自分の不動産の評価を下げることになってしまうと考える人の間で激しい対立が起こった。

 確かに、自分の不動産をこれから運用してやろうと思っていた人たちにとっては、被災証明の判定如何で大幅な損失を招くことにもなりそうだった。

 こうして、その何十万かの金をめぐって、あっちが高い、これは安すぎる、判定を間違えたから返せ、いや一旦貰ったものは返さんなどと、どろどろの論争が巻き起こってしまった。

 くわえて配分の始まった当初は、資料の見直しや整理などによって配分は何度も中断され、そのたびに、もう財源が尽きてしまったのだなどという、様々な憶測が乱れ飛んだ。

 いや、配分はおろか申請の受付だけでもてんやわんやの大騒ぎだった。最も人口密度の高かった地区では、義援金配分の申請を受付けるための整理券を配る初日に、朝早くから並んだ人の数が一日に受付処理できる人数をはるかに上回っていたため、受付開始直後にその日の受付を締め切ったことから押し問答となり、それが新聞に報道された結果、申請の受付は終了して二度と行なわれないというデマとなって各地に流れていった。

 「そんなはずはない、義援金はいつでも受け取ることができると新聞にちゃんと書いてあった」といくら言っても、不安に駆られたばあさんたちには無駄だった。

 当時、カメラを持ち出して仕事のかたわら街の様子を写真に撮り続けていた私は、近所の人からよく声をかけられて、その建物の被害状況を詳しく撮ってやったが、なかには基礎の部分の克明な写真のおかげで、判定が翻った例も少なくない。

 基礎がやられたんだから建て替えざるを得ない、とゴネに行ったおやじが、勝った勝ったと言って、全壊の被災証明書を見せびらかして帰ってきたときには笑ってしまった。どうもこのおやじはこんなところで何万円か勝っても、これから家を壊したり建て直したりするのに莫大な金がかかるということをまだよく実感していないようだった。

 結局この大混乱の末、なんとか本格的に交付が始まった頃には、案の定、多くの人たちは当座の資金などとっくに自分たちで何とかしていた。早くから申請していた私が義援金を受け取ることができたのは、地震からひと月近くがたった、二月の二週目のことである。

 義援金に関しては、その後、赤十字に蓄積された募金の一部が、今後の復興事業のためと称して、自治体の一般財源に組み込まれることが決まった。そのため、赤十字に募金することが被災者の直接の支援につながると信じていた人たちが、自分の払った金が被災者と対立する行政の施策にも使われかねないとして、募金そのものに異を唱える人が出たり、直接避難所などに金を持って行く動きなどが見られるようになった。

 この義援金をめぐるてんやわんやの大騒ぎは、被災者の苦難の皮切りに過ぎなかった。災難を逃れてここに集まってきたはずの人たちは、その後まったく思いもよらぬ別の災難に揺さぶられることになる。

 地元の人間で商売に復帰できた者は限られていたから、それに代って海のものとも山のものともつかぬうさん臭いセールスマンや、ボランティアに名を借りた新興宗教の伝導者が横行しはじめた。彼等は、混乱に乗じて住民の心のすき間に忍び込み、弱みにつけ込んでは、勢力を伸ばして行った。

 亭主が商売の再建のための資金繰りに駆けずり回っている間に、女房が変な宗教に入信していたりした。会社から自転車に乗って砂まみれになって、やっとの思いで避難所に戻ってみると、子供たちが万物の根源についての、わけのわからない呪文を唱えていた。

 なかでも建物の解体業者や不動産業者などは、これほど一時に商売の種が固まって自分たちを待っているチャンスはまたとないというので周辺地域からどっと流れ込み、被災した地元の業者を後目にあの手この手で住民たちに取り入ろうとした。

 避難所を集中攻撃すれば、呼び鈴を鳴らすまでもなくいくらでも客が転がっていた。ありとあらゆるところにビラが貼られ、それは避難所の連絡用の掲示板を不法占拠し、窓という窓を埋め尽くした。貼ったり剥がしたりという、業者間でのイタチごっこが繰り返されるうち、宝山荘近くの小綺麗な小学校も、学生運動の盛んな公立大学の校舎のように、荒廃した雰囲気になってしまった。

 ビラにはたいてい、当時まだ普及の途上だった携帯電話の番号しか書かれていなかった。なかには事務所が焼失してしまったので住所を書くこともできません、体ひとつで仕事をしています、と書き添えられているものもあり、同情心からころっと騙された人もあったらしい。

 携帯電話について、白いものとも黒いものとも判断がつきかねていた当時のわれわれの多くが、そういう使い方もされ得ることを知ったのはそんなことがあってからのことである。

 雨後のタケノコのように、ありとあらゆるビジネスとも詐欺ともつかぬ金儲けの策謀に、住民は翻弄されはじめた。

 なんでもありだった。今にも崩れそうな建物の持ち主に、早く解体しないと二次災害が起こって、とてつもない責任があなたの身の上に降りかかってきますよと、言葉巧みに言い寄り、法外な値段で解体を請け負う業者が続出した。

 行政側が建造物の解体撤去についてどう対応していいか迷っているのをいいことに、今のうちにやっておかないと、これからは需要過多でもっと相場が上がりますよと、根も葉もないことを並べたて、おろおろする老人からまんまと解体契約を取り付ける輩が後を絶たなかった。

 ある者は、こんなときに金儲けなんてとんでもない、お互い被災者ですからがんばりましょうなどと、手みやげまで持参してやさしい言葉をかけ、店舗の解体と整地、仮設店舗の建設という、セット契約の書類にまんまとはんこを押させる始末だった。

 避難所の自治会も、初めはそうした業者の申し出を善意と勘違いして受け容れていたが、その魂胆が明らかになるにつれて自衛策を講じはじめた。また新聞も、おそまきながら大まかな費用の目安を掲載しはじめたが、すでに手遅れだった。そんなことにはかまわず、彼等はどやどやと避難所に土足で上がり込んできては、荒っぽい言葉と血走った眼で、そこらにいる老人たちを震え上がらせた。

 自治会は、悪徳業者に注意しましょうという貼り紙をあちこちの窓に出したり、不当に貼られたビラを一斉にはがしにかかったが、業者は圧倒的な動員力をもって学校中を徘徊し、顧客の獲得合戦を繰り広げた。

 その結果、自治会と業者の間のいざこざばかりでなく、業者同士のトラブルがエスカレートして、避難所のあちこちから巻き舌の罵声が飛び交うようになってしまった。

 しかし現実問題として、倒壊した建物をどう処分していいか全くめどは立っていなかったし、自分の建物が原因で、本当に二次災害が起きるかも知れないとおびえた住民の心理を落ち着かせる決定的な施策は、まだ講じられていなかったので、ぼったくりとは知りつつも、業者の条件を受け容れた人も多かった。

 相場の何倍もの見積がまかり通っていた。しかし当時、家屋の解体を請け負った私の連れの話によると、二月いっぱいは救援物資を積んだトラックによる猛烈な渋滞のため、また建物の解体撤去が本格化した三月以降は、瓦礫を満載したトラックによるさらなる渋滞のため、また撤去された瓦礫を一時的に保管する自治体による瓦礫の仮受け場には、そこへ瓦礫を捨てるための順番を待つトラックが何キロも、ところによっては十何キロも数珠つなぎになり、並ぶだけで徹夜しなければならないという救いがたい実状のため、今までの料金で請けていたのでは到底算盤が合わないのもまた事実だった。

 しかし、明らかな便乗値上げは、監視の目が行き届いて営業停止処分を受けた会社まで出したタクシー業界や、食料品、日用品、燃料といったものから、建設、不動産、貸倉庫、古道具、家屋の解体、屋根の葺替といった方面に広がっていった。そしてその不透明な体質はこのごたごたと混乱がどうにか収拾されるまでほとんど野放しにされ、その間に大儲けした輩も少なからずいた。

 高速道路が再建されることを聞いたのは、そんな二月の初めのある寒い朝のことである。

 当時、その高速道路の崩れなかった部分の下の片側四車線の国道は、川より東側ですでに車の走行ができるようになっていて、私も大きくひび割れのできた橋脚や橋げたを眺めながら、おそるおそるその下を走ったものだった。

 しかしそのはるか西方の、あの六百三十五メートルにわたって横倒しになった高速道路の倒壊現場は、わずか十日後にはほとんど原形も留めぬほどに解体され、三週間のうちにきれいに整地されて、恰も新しい高速道路の建設現場のようになってしまった。

 もちろんそれは、その下を走る片側四車線の国道を塞いでいたために、公共の交通路を確保するという緊急かつ重要な必要性があったからには違いないが、それでもあれは自分たちの手抜き工事の明らかな証拠隠滅工作だという噂は免れ得なかった。

 通れるようになったのはいいが本当に大丈夫なのか、また大きなやつが来て、残った高架が落ちてくるのではなかろうか、それは切実な不安だった。しかしそのひびだらけの橋脚のほとんど全てに、すでに作業員が何人も足場を組んで張り付いていた。

 避難所で私と一緒にテレビを見ていた運送屋の知り合いが、「地震があと三十分も遅かったら俺はあの下敷きになっていただろう」とぼっそり言った。私とても同じだった。あと一時間遅かったら丁度あの横倒しの高速道路の上か下を西へ向かって走っているところだった。

 しかもその時刻にはそろそろ渋滞が始まっていたはずだから、どこへも逃げることなどできなかったに違いない。われわれはこんな事になるとは思いもせずに、ほとんど毎日その上や下を走っていたのである。知らぬが仏とは、まさにこのことだった。

 国や公団としては、これをできるだけ早く、なるべく金をかけずに再建したかったのだ。世の中の大勢も、まるで当然のごとくそれを支持しているようだった。彼等にとっては、これを復旧することに対するわれわれの根元的な不安など、想像もできないことに違いない。

 何のために同じものを、わざわざこの危険な同じ場所に作りなおさねばならないのか、何故この狭くて危ない地域に、こんな危ないものをもう一度詰め込もうとするのか、そうした復興のあり方に疑問を投げかける議論もあるにはあったが、それらは新聞の片隅に有識者のコラムとして散見されただけで終わってしまった。

 鉄道に至ってはより始末が悪かった。その折れた橋脚や落橋現場がいつまでも公に曝されていたために、多くの研究家や学者や専門家や山師が、そのぐにゃりと曲がった鉄筋を写真に収めて、新聞やテレビなどでさんざんにこき下ろしはじめたからである。

 曰く、そこに巻つけられていた鉄筋の間隔が本来何センチあるはずなのにそれよりも広かったがために強度が落ちたのだとか、その溶接の仕方が建築基準法で定められたやり方と違っていたために切れるようにはずれてしまったのだとか、この切断面はなになにというタイプの切れ方で、それはこれこれこういう力がこういうふうに働いたときに起こりやすいものでとか、いやいやこの断面はつるつるだから、最初っからつながってなかったんだよ、云々かんぬん・・・。

 そんななか、宝山荘の真横で倒壊した高架鉄道の会社は、高架橋を全て作り換えると発表した。何を当り前のことを言っとるんだと思っていたら、別の鉄道会社では、なんと壊滅した駅舎や高架部分をジャッキアップすると発表した。

 その鉄道会社は、安全だ安全だと何度も繰り返し強調していたが、日本で安全だと強調されるものほど危ないものはないことは、日本人の誰もがよく知っていることである。

 かつては世界一速いともてはやされた、その会社の高速鉄道の高架橋の鉄筋コンクリートの橋脚の内部から、あるはずのない木屑や貝殻がいくつも、しかも複数の場所から同時に発見された。

 また、驚いたことに、地下鉄に至っては耐震基準そのものがなかった。地震になっても地下の構造物は大地とともに振動するのだから壊れるはずがない、というのがその理由だった。しかし考えてみれば、地震が地下の何十キロかで起こって地割れや液状化現象が地表に達することは別に珍しいことではない。そこに所詮人間が作った細いコンクリートの管を通しておいて無傷でいられるわけがないことぐらい子供が考えてもわかりそうなものだった。

 早急に地下鉄の耐震基準についても検討を始めるという愚にもつかん学者連中に、われわれは結果的に命を預けていたのである。

 また、家屋の倒壊現場でも、柱や梁や基礎という剥き出しにされた建物の骨格についての実態調査が進むにつれて、その大部分に手抜き工事があることが露呈していた。専門家でさえ、消費者を欺くその手口のあまりの豊富さに、あきれ果ててものも言えないようだった。

 ここでも鉄筋コンクリートの建造物のほとんどで、溶接や補強の方法に手抜きが認められた。基礎を全くといっていいほど打っていなかったマンションや、日本の伝統を守りそこねたがために、重い瓦屋根を支え切れずにへたり込んでしまった木造家屋も実に多かった。木造の柱を補強する金具や筋交いに至っては、そもそも使った形跡のないものや、なんのためにやるのか全くわかっていない施工が次々と現われた。

 塗り込んでしまえば素人にはわからないだろうという、積み木細工のような仕事に、多くの人が何千万円という莫大な金をつぎこんでいたのである。

 一家の主人たちは、自分が一生を賭けて買い、その支払いのために、何十年も毎月の稼ぎの中から住宅ローンとして差っ引かれていったにもかかわらず、でき上がったものが手抜き工事の塊だったことを知って、無念さのあまりさめざめと泣いた。いかに何も知らずに業者を儲けさせてやったかを、ほとほと思い知らされたからである。

 しかし、生きていた彼等はまだよかった。何が起こったのかもわからずに死んでいった人たちの恨みは、決して晴らされることはないだろう。自分たちが何によって殺されたのかが、せっかく白日の下に曝されたというのに、その責任を追及する議論は、またしても新聞の片隅に有識者のコラムとして散見されただけで終わってしまったからである。

 このように、街はいわば手抜き工事の総合展示場という様相を呈していたが、しばらくして目立つものから順番に解体され撤去されていった。

 その跡地はきれいに整地されて更地になったが、そこには手抜き工事や危機管理体制の不備に対する議論などを想起させるものは、何ひとつ残されなかった。復興という錦の御旗の前に、それに邪魔になるものを片づけることに反対する意見など、どこからも聞こえて来るはずがなかったからである。

 しかし、トラックに積み込まれて運び出されたものは、倒壊した建造物の恥部ばかりではなかった。自然の猛威が引き起こしたこの複雑な破壊の影響の、実に様々な生き証人が目の前から消えていった。そして何よりも、その生き証人を誰もがじっくり検分できる貴重な機会が奪われていったのである。

 それに追い討ちをかけるように、被災地は見世物じゃないという議論が湧き起こり、どこからともなく被災地へ行くことを自粛するムードが醸し出されてきた。

 それは、地元住民に支持された魂の叫びででもあるかのように報道されていたが、その結果、そこにある観光地や娯楽施設は、あおりをもろに受けて閑古鳥が鳴いた。春の甲子園は静まり返り、選挙カーは人目を避けてそそくさと走り去った。花見のシーズンになっても、情報誌は被災地の桜の名所を一切掲載しなかったほどである。

 この自粛ムードは夏になっても続き、その間に倒壊した建造物は急ピッチで運び出されて粉砕され、あるものは燃やされ、あるものは埋め立て用の土砂に還元されていった。

 その一方で、テレビやラジオからは、震災を語り継ごうとか、この教訓を無駄にするなという仰々しいかけ声や、「がんばろや神戸」などという、さむいぼの出そうな歌が執拗に響きわたった。

 公共の施設や巨大な建造物には早くから行政による処置が施されていたが、倒壊した一般市民の住宅やマンションは後回しになった。それでも二月の中頃になると、自分で自分の家を壊す作業が見られるようになった。

 自分の育んできた愛しい世界を失なった人の数は限りない。宝山荘のように見る影もなく全壊してしまえばまだあきらめもつくが、なんとなく立っている家を自分の手で壊さなければならない人が、心に踏ん切りをつけるまでには相当な時間を要したに違いない。

 ある家庭では解体の決まった家の柱に子供たちが思い思いの言葉を落書きして別れを惜しんだ。そして時間がたつにつれ、あれほど助け合いの精神を発揮した住民の間で、垣根を越えて倒壊した家屋の処理などをめぐる諍いがあちこちで起こりはじめた。

 宝山荘でも前回の解体は裏の一軒家にのしかかっていたために行なわれたのだが、業者の手配はその一軒家の主人が行なった。その後、その費用の負担をめぐって家主側としばらくもめていた。

 宝山荘の近所のほんの数メートルのブロック塀でさえ犬も食わんような罵り合いが起こったくらいだったので、より大きな集合住宅などではなおさらのことだったに違いない。

 近所の四十五度に傾いたマンションなどは、北側の一軒家で辛うじて支えられていたが、結構長い間放置されていたために、日に日に一軒家のほうにめり込んで行き、心なしか家が沈みこんでいるように見えたものだった。鉄筋五階建てで1フロアに8世帯も入っていた建物が、一気にわずか二階建ての民家にのしかかったのだから、建っているのが不思議なくらいだった。

 その様子は地震当日の号外から各新聞の紙面をセンセーショナルに飾ったために、その付近は川沿いの猛烈な地割れとともに、アマチュア写真家の絶好の撮影スポットになってしまった。

 現行法では、たとえ法律にどんな不備があるにせよ、建築基準法を満たした建造物が、震度6以上の地震で倒壊して近隣に被害を及ぼしたとしても、それは不可抗力と考えられ、その建造物の所有者に過失責任は問えない、という立場に立っていたから、どんなに巨大なビルが近隣の多くの家をなぎ倒したとしても、理屈としては、それは隕石でも落ちてきたのだと思って諦めなければならないというのが原則だった。

 それではというので、住民の間では当初から、こんなに大きな自然災害なのだから、個人の家屋の解体や撤去も行政の負担で行なうべきだ、との議論が叫ばれてはいたが、行政がそれに答えを出したのは二月に入ってからのことだった。

 それまでは、ひとの家にのしかかってしまった家の持ち主たちは、確かに何らかの処置を施さなければならないのは十分に理解できるが、解体業者を手配しようにも先立つものがなく、その資金を借金できるあてもなく、第一、業者自身が被災していたり、すでに方々から引っ張りだこになっていたりで手配のしようがなかったのである。誠意をもって対応したいのは山々だが、多くの人は動きたくても身動きのとれない状態だった。

 数々のうさん臭い業者が横行し、避難所にまで上がり込んでは、金持ちから順番に法外な契約をとりつけてまわったのはこの頃だった。

 特に、宝山荘からすぐ先のある家などは、生き残ったのがまだ年端のいかぬ子供だけだったから、彼にそんな手配のできようはずがなかった。

 救済措置が決まって、少なくとも解体撤去の費用だけは免除されることが決まった後も、今度は限られた行政の対応のなかで、一体いつになったらそれが実行されるのかというのが、新たな心配の種となった。正規の手続きでやろうとすると、何ヵ月も先の解体撤去までは避難所で生活し、さらにそこに新しい建物を建てられるかどうかは、それから先という計算だった。

 また、行政による解体撤去には条件がつけられた。長さ三十キロ、幅二キロにも及ぶ広大な面積を、限られた労力と時間で、片っ端から街ぐるみ解体撤去しなければならないのである。一軒一軒の都合を聞いていたらいつ終わるかわからないというので、建物の中にある全ての動産の所有権を放棄することが条件とされた。つまり、どんなに大切なものであっても、家財道具もろとも全てごみだということである。

 それはあまりにもむごい話だったが、被害面積があまりにも大きすぎたため、誰もが涙をのんでそれを受け容れた。しかし、それが決まるまでの人々の不安や苛立ちは大変なものだった。地震から一ヵ月たっても、国と県と市が費用の負担をなすりあっていたので、本当に行政の負担で解体してくれるのか、自分で手配してしまった費用を本当に払ってくれるのか誰にもわからなかったからである。

 また別の問題があった。家の後片付けやら食料の確保やらで、何から手をつけてよいのかわからずに茫然としていた人々の鼻先に、何年先のことになるのかわからない都市計画とやらが突きつけられたのである。

 それは、住民がまだ食うや食わずで避難所で毛布にくるまっていた頃のことだった。多くの人々が避難所を離れる勇気を持ちえず、恐怖を乗り越えた人々でさえ、個人あてに配分される雀の涙ほどの義援金の算定をめぐって侃々諤々やっていた頃のことである。

 廃墟と化したある地区の小さな掲示板に、三枚にわたって都市計画の立案についての最初の公示が出された。そこには実に当り障りのない表現で、災害に強い都市作りの必要性と区画整理事業の理念が掲げられていた。

 それは、着の身着のまま放り出された住民の窮状に対して手を差し伸べるというものではなく、苦難を乗り越えたあとをどうするか、要するに、みんなで住みよい明るい町づくりを目指してがんばろうという、わかり切ったスローガンが書いてあるように見えたのである。

 ところがその事業に隠されていたアクションプランは、事業に必要な不動産は行政が買い上げるのではなく、とりあげるというものだった。誰もまさか自分のものをただで差し出さなければならないとは夢にも思わなかった。命がけで守ったわが家を、よくわからない公共性や、公共事業の採算のために突き崩されることになりかねなかった。

 猛烈な反対運動が全域で沸き起こり、隣の市で議会がこの計画を含む予算案を否決するという異常事態となったのは、三月も末のことだった。

 そのアクションプランについて当局は、法律に定められた期間と手続きを経て決定したのだから、たまたま知らない住民がいたとしても問題はないと主張した。街が壊滅し、住民が避難し、その多くは疎開し、通信網も交通網も寸断されているなかでである。

 この地震は、当局にとっては、住民の反対によって何十年も宙に浮いた形になっていたそうした事業を、一気に推進させる千載一遇のチャンスとなった。これだけいっぺんに、しかもただで、こんなにたくさんの建物を始末することができたからである。

 当局は、区画整理事業に盛り込まれた道路の整備計画は、防災のためにどうしても必要だと頑固に主張した。ところが地震からまだ何日もたたない頃、そんな幹線道路の予定地で、瓦礫と化した住宅越しに、計画線を測量しはじめたのを近所の住民に見つかった。

 本当に防災に役立つことを考えていたのなら、現実に災害が起こっている最中に測量などするわけがない。

 公の場で、当局はその失策を詫びる羽目になったが、それでもその道路の建設計画はいつの間にか決定され、結局宝山荘の敷地もその幹線道路の計画線内にすっぽり入ることになってしまった。

 さらにまた別の問題が持ち上がった。山の手の分譲地では、自分の家が全壊したうえに、盛土になっていた急斜面の石垣部分が崩れて、段の下の住宅を押し潰す危険があるところが少なくなかったが、そんなところでは、早急に崩れた石垣の補修工事をするようにと、当局から家の持ち主に対して再三にわたり勧告があった。

 しかし土砂が流れ出し、深くえぐれた斜面を補修する費用たるや一億ではきかなかった。新築に近かったある家では、斜面にあって危険な状態のため、行政による家屋の解体撤去も断わられ、のり面の補修から新家屋の建設まで、残ったローンも全部合わせると二億円以上の負担となる計算になった。

 金がないので補修なんかできないと市役所に直談判に行った知り合いのおやじが受け取ったのは、「費用がいくらかかるかということは市の関知する問題ではない。われわれは市民の安全を守るため、早く危険要因を取り除くようにとあなたに要請しているのだ」という血も涙もない返事だった。

 「わかったよ」彼は膝をぽんとたたいて立ち上がった。

 「責任をとればいいんだろう。」

 彼は黙って家に帰りつくと、雨の降りしきるなかを、何を思ったのかコンクリートブロックを両手に下げて、家の真下で崩れかかっているどろどろの斜面を登っていった。危ないからやめてと泣き叫ぶ妻の声を無視して、彼は家の基礎の真下にそのブロックをしっかり埋め込んでその上に立ち、両手を延ばして家を支えようとした。

 押し流されて死んだほうがましだったのだ。

 「たった三千万円のちっぽけな建て売り住宅なんだぞ、何のためにそんな借金を抱えこまなきゃいけないんだ。」

 そこを造成した会社はお咎めなし、そこを宅地として開発することを許可したはずの当局でさえ、救済の手を差し伸べようとはしなかった。

 まさか地中にまで土地の所有者の責任が追及されるとは想像すらしてみなかったことである。

 地中といえば、さらに別の問題が住民を打ちのめした。なんと、誰も考えてもみなかったことだが、ここらへん一帯は埋蔵文化財の宝庫だったのである。

 大きな公共施設の解体が進んでいた頃、研究機関の職員たちが調査のために顔を出すようになった。街がどんどん更地になっていくにつれて、古地図や古文書のなかにわずかにしるされていたに過ぎない幻の遺跡が、次々と現実のものとして姿を現わしはじめたからである。

 当初は学術的なことだから、さぞかし重要なことだろうというので、何も知らない住民たちは、くそ忙しい後片付けの手を休めて、わざわざボランティアまで募ってその調査に協力したものである。

 太古のロマンに、住民たちは殺伐とした現実を忘れて、一時の幻想に耽ったのだが、それも束の間のことだった。国から復興計画に待ったがかかり、文化財保護法による開発前の発掘調査が義務づけられることになった。

 その広さたるや、当時の体制でいくと何十年かかるかわからないほど広大なもので、しかも、現行の法律では、その調査費用は土地所有者の負担とされていた。

 それがわかったときには住民たちは凍り付いてしまった。そんな負担を迫られるくらいだったら、いっそのこと刑務所にでもぶち込まれて、遺跡の発掘調査の労役にでも従事したほうがましだと言ったおやじもいた。

 調査に協力した報酬がこれだった。それ以来そこに土地を持っている人たちは、ベージュ色の作業服に身を包み、眼鏡をかけて青白い顔をした学者風の研究員が、瓦や丸太を踏み越えて、調査のためだと言って訪ねてきたあの日を呪いたくなるのだった。

 そんな話は枚挙にいとまがない。よりによってそんなところに土地を持ったばっかりに、生活再建などは夢のまた夢、肝腎の自分の家が建てられるのは一体いつのことやらさっぱり見当がつかないので、かつての生活が、まるで遠い夢物語のように思い出された人も多かったに違いない。

 われわれは、不動産とかいう名前を付けて、こんなにあやふやで愚にもつかん地面に線を引いたり建造物をたてたりして、それに一生をつぎ込んで喜んでいたのである。まったく馬鹿みたいなもんだった。

 あたり一面そんな土地だらけだったので、付近の地価は下がるというより、買い手のつかない状態になった。ついこないだまでは、住宅地としてはまさに一等地だったというのにである。

 逆に何事にも運よく引っかからなかったほかの土地は急騰した。早くも市場が、このエリアには今後何十年も、ひょっとしたら何百年も地震はないと判断したためである。現金なものだとはまさにこのことだった。

 


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