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『地震をめぐる空想』

  第五章、春を迎えるまでのあらまし

 地震直後には三十万人を超えていた避難所の人口も、三月の初めには十万人を割っていた。それを聞いてほかの地域の人たちは、復興が進んでいるのだと考えがちだったが、実態はそうではない。仮設住宅に当選して避難所を出た幸運な人も勿論少なからずいたが、知り合いや親類を頼って疎開した人も多かった。しかし最も多かったのは、どこへも行きはしない、危険を承知ですぐ目の前のわが家へ帰って行った人たちである。夜はまだ寒いというのに、窓も割れ柱も傾いたわが家に寝起きする決心をした背景には、避難所や知り合い宅での、いらぬ気苦労が大きく影を落としていた。その頃には、体に感じられる余震もめっきり少なくなってきたので、そうした地震の恐怖よりも、人間関係の苦労の方が、より切実になってきただけのことである。そんなわけで、避難所の人口は減っても、市民生活の実態はいくらも好転していなかった。避難所にいる人たちは、仮設住宅などの抽選にももれて、現状全く住むところも手だてもない人たちか、どうしても現地を離れられない特別の事情があって、自主的に残っている人たちだけになっていた。避難所内では、相変わらずの厳しい寒さのなかで、老人たちは依然として昼間っから布団にくるまり、会社員はいくぶん改善されたとはいえ、やはり長時間にわたる通勤に苦しんでいた。自営業者は連日の金策に声も枯れ、受験生はいよいよ終盤を迎えて、瓦礫の中に喪失してしまった受験勉強の成果を必死で思い出そうとしていた。のんきにあたりを見物していたのは、私ぐらいなもんである。

 そんな三月の最初の日曜日、宝山荘の第二回解体が行なわれることになった。前回の解体の主な目的が、裏の一軒家への二次災害の予防だったのに対して、今回の解体は、前回手のつけられなかった部屋の住人の財産の捜索が主な目的だった。例によって電話連絡網により、ほとんどの住人が宝山荘の前に再会した。再び丁寧な業者が手配されていたが、またしても彼等との十分な打ち合わせができていなかったため、現場に到着した彼等は重機でいつまでも通りを塞ぐわけにもいかないと思って、目の前の玄関の上に乗った。「もうだめね。」本人の許しも得ずに、一度ならず二度までも重機で踏み荒されることになった玄関の上の部屋の不運な女性は、もう怒る気にもなれなかった。後の顛末は前回とほぼ同じである。せめて写真だけでもという彼女の希望で、いろいろ手を尽くしてはみたものの、やはりこんなにてんこ盛りで、重機によって踏み荒された土砂の中からは、そんなちっぽけなものなど見つかるはずもなかった。一方、管理人夫婦は、遠方の親類宅から若いのを数名引き連れて出て来ていた。彼等は寒くて食料事情の悪い、プライバシーのない避難所生活に耐え切れず、山地に住んでいた親類のところへ、ひと月ほど前に身を寄せていたのである。老夫婦だけあって、実に細かい趣味の物をたくさん持っていた。それらは小さな瀬戸物の人形だったり、竹細工の扇子の置物だったり、鈴のついたお守りだったりしたが、それらはどれもきちんと箱に収められ、居室の窓の下の戸袋の中から夥しく現われた。子供のなかったこの夫婦は、その寂しさを紛らわすために小鳥を飼っていたが、それは籠ごとペっちゃんこになって地面の底から見つかった。同時にその日は家主の四十九日の法要も行なわれ、住人を代表して管理人夫婦と何人かの住人がそれに参加した。私も行きたかったのだが、この砂ぼこりの中で大声を上げられる者がいなくなってしまうというので残ることにした。その後、通り側の住人たちのこまごました荷物を出すには出したが、もう地震から二ヵ月近くたっていたのでその保存状態はきわめて悪く、何もかもぼろぼろになっていた。それを見てそこに集まった人の多くは、もう何が出てきてもまともな形はしていないだろうと諦めざるを得なかった。

 住人が心に踏ん切りをつけるという意味では、確かに無駄な一日ではなかったが、ろくなものを掘り出せなかったので、業者の若者はすまなさそうな顔をしていた。宝山荘の住人で避難生活を余儀なくされていた人たちは、その後さまざまに散って行くことになる。地震当日、近隣の多くの人の命を助けた若い二人の男たちは、初めはそれぞれ友人の家に泊り込んでいたが、相次いで仮設住宅に当選し、そこから自立復興をはかることになった。初めは、自分たちは若いので老人たちにその権利を譲ろうとしたのだが、事務に混乱を来たすとの理由で、行政側から厳しく禁止されてしまった。二人とも単身者なので、宝山荘の倍近い広さの空間をもて余していたが、そのうち家を失なった別の友人たちとそこを分け合うようになった。新聞配達をしていたプロダンサー志望の少女は学校の寮に一時避難し、その後、二軒の部屋を転々としたあげく、大阪市内のとあるマンションに落ち着くことになった。しかし何ヵ月かたって、われわれバンドのメンバーが止めるのも聞かず、とある新興宗教に入信し、挙げ句の果てに音信不通になった。理学療法士志望だった学生や、男遊びに熱中していて外泊中だったために難を免れた若いOL、わからずやの父親を持った大学受験生などは、それぞれ実家へ帰って行った。単身赴任でマンションの管理人をしていた二人のおじさんも、それぞれ別の賃貸の部屋を借りて仕事に行くようになった。私の部屋の下の画家の先生も、どうにか自宅の敷地に仮設の住居を建ててそこに落ち着いた。管理人夫婦も出て行ったあと、宝山荘の住人で避難所に残されたのは、仮設住宅に当選したが場所が遠いことを理由に辞退したため、申込資格を剥奪された一人のおばあちゃんと、じっと行政が救済してくれるのを待っている二人のおばあちゃんと、玄関の真上に住んでいたあの中年の女性だけになってしまった。彼女は二回目の解体の日も、いつもと変わらぬ明るさを振りまいていたが、老人という程でもなく頼りにできるつてのあるわけでもなく、不定期ながら仕事もあったため、福祉から最後まで取り残される結果となってしまった。宝山荘の住人が一堂に会することは、それ以来二度となくなった。そのうちの何人かが、様々なことが原因で程なく亡くなってしまったからである。また、避難所で様々な話を聞かせてくれたかつての得意先も、その顔見知りもひとりふたりと去って行った。アパートの周りでは家屋を解体撤去する家が目立ちはじめ、それにつれて地域の人たちも街を去っていった。

 馴染みの古い家々がどんどん更地になっていった。土地の四隅にはロープが張られ、立入禁止の看板が掲げられていたり、早々と土地を手放してしまったのか、不動産屋の看板が掲がっていたりするところがあちこちに見られるようになった。かつて救急車や救援物資の輸送車などでごったがえしていた道路は、瓦礫を満載した日本中のあらゆるナンバー・プレートをつけたトラックで数珠つなぎになった。宝山荘のすぐ北の高架鉄道の工事現場では、そのころ高架の撤去が完了し、その跡には遮るもののない抜けるような青空が見られたものである。その側道は高架の新たな建設のため、地中深く基礎を掘る工事が始められていたために、長らく通行止めとなった。そこから海のほうを見渡すと、更地や残された瓦礫の山越しに、部分復旧していた別の鉄道の青い電車がそろそろと走っているのが見えた。さらにその鉄道の盛土の上から南を眺めてみると、はるか彼方に激しく折れ曲がったまま手付かずに放置されている高速道路の高架が見え、その脇を走る最も海よりの鉄道の電車までが見渡せたほどだった。今まで視界を遮っていた高い建物がなくなってしまうと、海まで広がる地平線のあちこちに、見事な枝振りの松の木が見えた。その眺めは、太古の昔にこのへんがどんな風景だったかを想像させた。足許の国道は、依然として午前中は西行き、午後からは東行きの車で大渋滞していた。そこへ合流する細かい通りも、小さな交差点の信号機や曲がった標識をはじめ、傾いた電信柱などは次々に撤去されていった。あたりは一面の荒野となり、更地の間を縦横に区切るかつてのアスファルトの舗装道路でさえ土に覆われて、時々車が走って来なければ、遠くからはそれが道だとはわからないほどだった。特に街灯までが撤去されたので、夜は暗黒だった。街は明らかにその姿を変えつつあった。総じて解体だけが猛烈なスピードで進み、復興というよりも荒廃の目立つ街になってしまった。人口の減少とともに、砂ぼこりばかりが目にはいる寂しい街と化していった。誰が見ても、この街に人々が戻ってくるまでには相当な年月がかかりそうに思われた。仲介する物件そのものがなくなって、依頼を断わるのに忙殺されるようになった近所の不動産仲介業者に聞いてみても、特にここらあたりは古い住宅街なので、今まで賃貸業を営んできた人も老齢化していて、今さら新しく住宅を新築してまで、賃貸経営などやる気も資力もないとのことだった。そんな更地は次々と施設のいらない青空駐車場になってゆき、住民がいないのに駐車場ばかりが増えて、料金の相場は地震前の半分以下に下落してしまった。近所に住んでいた、全国の大学を客員教授として渡り歩いている先生も、とうとう仕事がないのでアルバイトを始めることになった。体はがっちりしていたが、学者にありがちな頭脳優先で短気な性格のため、およそ機転と根気の必要な作業員には向いていないと心配したが、三日後に会ったときには、案の定やめてしまっていた。あんな気のきかんあほな奴らと一緒にされてたまるかというのがその理由だったが、恐らく先方でもあの人は何だったんだろうと首をかしげたに違いない。

 ひと月半も駐車場の仮設テントで部分営業していたスーパーも、建物の修理が終わって全館で営業を再開していたが、客足はさっぱりだった。中途半端に崩れ残った商店街では、跡継ぎのない商店のおやじが、すっかり気落ちして日々を避難所で無為に過ごしていた。彼等は昔からの持ち家で、しかも家族経営でなんとかやってきたのである。しかし、こうなっては店舗の建て替えにさえ莫大な費用がかかるため、若い者でも初めからやり直す気には到底なれなかった。しかも、ここらは都心に近いせいか、サラリーマンをやめて儲からない自分の家の商売を継ごうなどという息子には、とんとお目にかからなかった。買い手がつき次第、土地も商売の権利も手放して、さっさとどこか遠くへ行ってのんびり暮らしたいというのが彼等の本音だった。それでも更地の中でいくつかの店は仮設で営業を再開した。高架の撤去工事のため取り壊された高架下の商店街は、近所の跡形もなく全壊した大邸宅の跡地に、仮設の共同店舗を提供されて、そこで商売を再開した。その商店街は、夏に鉄道が復旧してから九ヵ月あまりがたった翌年の春に、ようやくかつての場所に顔を覗かせはじめたが、一年あまりの混乱の末、ここに戻って来られなかった店主も多く、開店当初は歯抜け状態だった。それでもそのアーケードが再開したおかげで、夜は真っ暗だった高架下に真っ直ぐに伸びる蛍光灯の列ができ、ようやく人心地ついたと実感した人も多かったに違いない。しかし彼等は収入があるだけましだった。どこか皇室の人じみた例の内科の先生は、かつての医院の隣にプレハブを建てて診療を再開したが、被災者の保険医療はその一部負担金が一年間にわたって免除されていたから、いずれ返ってくるとはいえ、医療機関には当座の現金収入がなかった。いかな医者といえども、台所は壮烈な火の車だったようである。 私のお気に入りの歯医者の先生に至っては、それからずいぶんたってから、崩れ残った自宅の車庫の中で診療を再開したのだが、当時はすでに夏間近で車庫内はとても耐え難く、先生は仕方なくガレージの焼けつくようなスレートの屋根で目玉焼きを作るありさまだった。これには、歯科医院に対してだけは、国がその再建の援助を拒んだことも絡んでいるようだった。それは、かつて歯科医師会が、国の保険医療の一部の負担を拒んだことに対する報復措置だと報じられていた。こんな大変なときに思わぬしわ寄せを食って、苦虫を噛み潰したような顔の先生も、もはや噛む元気すらなさそうに見えたが、かつて治療してもらった私の奥歯も、先生の性格が頑固だっただけに周囲の歯との折り合いが悪くなって、その頃にはしくしくと痛みだしていた。こうして四月までに再建できた医療機関は全域で半分にも満たなかった。この内科と歯科の医院がそれまでの仮設診療所から、それぞれ立派な医院を再建して診療を開始したのは、それから約一年後のことである。一方、店舗の全壊した散髪屋のおやじは、借家だった店を手放し、ほぼ一年後に半壊した自宅を改築してその一階で営業を再開した。改築中は、賃料の高騰した近所の賃貸マンションに仕方なく移り住んでいたが、店舗の跡地には二年後には立派なマンションが建ち、そこには地震を知らずに淡い憧れだけでこの地にやってきた若者が大勢住みついた。また、エキゾティックな建物で周囲に異彩を放っていた古いサロン的な喫茶店で、モータウンのソウル・ミュージックを聴かせてくれた、あの品のいいおばあちゃんは、救出されたあと九州のとある保養施設に入ることになった。その近来まれにみる建物は、しばらくは保存の方向で検討されていたが、どうにも傷み方がひどく、収蔵されていた絵画や彫刻を運び出し、壁画は壁ごと切り出されたあと、建物全体が解体撤去された。運び出されたそれらの収蔵品は、ていねいに修復されたうえで、近くの全壊した大学の附属ギャラリーなどで一般に公開された。

 実家のあたりでは、被害面積が少なかったためか、復旧の目に見える度合は早かった。奥地へ抜ける高速道路が本格的に開通して、周辺の交通渋滞が一段落すると、道路の整備も早まった。奥地へのびる古い国道は、長いあいだ橋が落ちたりしてほうぼうで寸断されていたが、三月の中頃には全通した。その頃には、被害の最もひどかった国道付近の住宅の撤去もほとんど終わり、あたりは何百メートルも見透せるような寂しい空き地に取って替わられた。なかでも国道に並行して走る鉄道の、自宅の最寄りの駅付近は建物の損壊がひどく、復旧どころか全壊した市場は撤退し、それに伴なって駅そのものの廃止が取り沙汰される始末だった。三年近くがたった秋、すぐとなりの駅前に大手スーパーが進出してきたので、もはやこのあたりの衰退も免れようのない時代の流れとなった。しかしこの時点では、となりの駅周辺も鉄筋コンクリートのビルがいくつも倒れ、国道の両側は廃墟も同然だった。このあたりは、更地といっても数区画がまとまってぽっかり穴が空くという程度だったので、街全体の印象が変わってしまうという程のものではなかった。避難所も三月には統合が進み、四月にはすべて閉鎖されてしまった。当局の発表によると、仮設住宅に入居を希望していた全ての市民に住宅が割り当てられ、さらに余剰ができたので、近隣の自治体に割り振ったとされていた。その頃、実家周辺では水道はほぼ復旧を終わり、そろそろガスの復旧が噂されはじめていた。母は、いつかいつかと一日千秋の思いで待ちわびていたものである。ガスの復旧は、一軒一軒をしらみつぶしに、その配管から家の中の全てのガス器具の安全を確認しながら行なわれたので、膨大な時間と人手がかかっていた。それでも被害の軽かったところや、幹線道路のあたりから、じわじわと復旧エリアはこの山懐にまで広がってきていた。 そんなある日、呼び鈴に応対した母は、それがガス会社の訪問とわかって躍り上がって喜んだ。喜色満面で彼等を迎え入れ、器具の点検が終わっていよいよバルブが開かれたとき、階段を駆け上がって万歳三唱したい気持ちをやっとのことでこらえた。サザエさんのような性格だったのである。すぐに市場へ飛んで行き、野菜や肉を買い込んで喜び勇んで下ごしらえを始めた。実家では、その日、およそ二ヵ月ぶりに平常に戻った生活を祝って豪華な料理が供された。実家のあった山の手一帯のガスの復旧が完了したのは、それからしばらくしてからのことである。しかし海沿いの地域では、桜の季節を過ぎても夜遅くまでガス会社の軽トラックが走り回っていたものだった。その頃、まだガスの通らない近所の家々では、電気仕掛けで鍋の湯を沸かすコテのような器具で、一日中かかって風呂の湯を沸かそうとしたために、月に何十万という電気代を請求されたところもあった。

 私がマッキントッシュを再び手に入れることができたのはこの頃だった。これは、その販売会社が震災によってシステムに被害を受けた正規ユーザーを対象に、買い換えのための割引プランを決めたからである。当時、公共料金をはじめ、信販会社を含めてありとあらゆる業者が、この地域の全ての住民を対象に救済の手を差し伸べていた。ガスや電気や水道などの公共料金は、家屋の全壊したところはメーターそのものが破損していたので、測定することができず、全部ただになった。公的機関やいろいろな団体からも、このころ公営住宅のために遊休地を格安で提供しようという申し出があった。 あの散髪屋のおやじですら、当時はまだ半壊状態の自宅での仮営業だったので、料金は割安になっていた。「お客様にご不自由をおかけしているのに、正規の料金をもらうわけにはいかん。二千五百円な。」そうして、今までみたいには儲からないものの、ぼちぼち人々は商売に戻っていった。しかし、相変わらず賃貸物件や、家屋の修理などにかかる費用などは、割引どころか便乗値上げが野放し状態になっていた。

 一方、どうやら落ち着いてきたようなので、そろそろ仕事でも探しはじめるだろうと期待していた母は、それどころか筆記用具をそろえたり、辞書を買い込んだりするわが子を見て、これは何だか様子がおかしいと思ったに違いない。その息子から返ってきたのは、失なった物的財産は大きかったが、そのかわりわずかな貯金が残り膨大な時間が手に入ったので、これを機に仕事はしばらくお預けにして、今まで出来なかったことを全部やってしまう決意だという返事だった。当時の私はなにより時間が欲しかった。動ける限り動いて、自分が作り上げてきたものを復元し、それらがなんであったのかを確認したかった。今までの安楽で勝手気ままな生活、時間をふんだんに使える生活が一撃のもとに破壊し尽くされたので、もはやのんびりしているわけにはいかないことを悟った。やりかけていたことのうち、これから何と何をやりとげるべきなのかをじっくり考えて決めたかった。手許に残された貴重な時間を何に使うのが最も有意義かを考えていた。そうして私は、それから一年余りに及ぶ隠遁生活を始める決意を固めたのである。しかし考えてみれば実にお誂え向きだった。仕事がないので時間がふんだんに使えるというのは、なによりの強味である。さらに震災による実害を最小限に食い止めることができ、一年ぐらいは持ちこたえられる程度の貯金が残ったし、実家に居候の身の上なので、さしあたっての金の心配はしなくてもよかった。くわえて宝山荘の部屋より広い空間が確保できたので、待望の暗室造りもできるようになった。なんとも気楽なもんだった。世間では多くの人々が、毎日を通勤地獄の中で、ガスや水道の止まった不自由な生活の中で、膨大な借金を抱えた絶望的な疲労の中で、そしてプライバシーのない沈滞した避難所の中で、地震のために損失したマイナスを補おうと必死になっているというのにである。逆にいうと、この大変な時期に、のほほんと文章など書いていられる状況にある人もそう多くはあるまい。どんなことになっても知らんぞ、と突き放したように冷たい目で私を見放す両親を尻目に、もうこれは天が私に、今こそおまえは自分のこれまで培ってきたあらゆるものを形あるものにせよ、と命じているかのようだなどと大きな事をほざいていたが、内心は正直いって不安で一杯だった。というのは、街には失業者が溢れかえっていたし、近所の路地という路地にまで展開されている復興事業でさえ、圏外から大量に労働力が投入されていたので、現地調達はほとんどなかったからである。短期のアルバイトさえできない状態だった。私は、今更じたばたと仕事など捜してみても時間の無駄だと自分に言い聞かせ、頭にたまっている欲求を全て吐き出そうとした。そう思いはじめると、このがらんどうのような頭の中をめずらしくビールの泡のように計画がわきあがってきた。私は、親の心配をよそにこの暗い部屋にとじこもり、ザイール旅行記の復元と写真のモノクロプリントの技術の習得に励んだ。さらにそれらと並行して、まだやり終えていない自分の持ち物の清掃や、ここに転がり込んだときから始めていた、旧いレコードやテープを順番に聴いていくことに時間を費やしていった。一日に二度ほど母屋に出ていくほかは、ほとんどの時間を、このかび臭さの残る物置ですごした。梅の花がほころびはじめたのにも、鴬が啼きはじめたのにも気がつかなかった。

 少しずつ雨が多くなり、雷とともに南の暖かい湿った空気が上空を暴れ出した三月下旬のある日、そうした平穏な気分を破る事件が起こった。首都の地下鉄で毒ガステロが起こり、別の嫌疑である宗教団体が大がかりな捜索を受けた。その矢先、おそらく日本人にはいないほどの熟練したプロの殺し屋によるものと思われる銃撃事件が起こり、右翼団体の構成員による白昼の、それもテレビカメラの真ん前での刺殺事件や、それに便乗したと思われる、繁華街や駅前での異臭騒ぎなどが相次いだ。さらに海外でもテロ事件が頻発し、未解決のままに引き延ばされていた民族間の紛争も激化していった。そんななかで、かつてないほどの円高が進み、社会不安と経済不安が一気に高まった。報道機関は、地震報道のときにあれほど反省したはずなのに、その舌の根も乾かないうちに、またぞろたいして意味のない一方的なスクープの打ち合いに時間と労力を空費しはじめた。ニュース番組でさえ、かなりの時間を割いて、連日のように警察の捜査の一挙手一投足を追い、疑惑の人物をめぐる何度も聞いた証言を繰り返していた。その頃を機に、全国版のニュースでは、地震関係の報道は目に見えて減少し、その宗教団体の一連の事件の方に大きくシフトしていった。こうした地震以来のいろいろな出来事のなかで、暗い気分に一層の拍車がかかった。考えてみれば日本も外国なみに、自分の身の安全を自分で購なわなければならない国になったということだ。それだけではない。それに合わせるかのように、私のまわりでも、堅実な生き方をしてきた何人かの仲の良かった連れが、あっさり会社を辞めてどう見てもうさん臭い新手の儲け話に飛びついてしまい、相次いで音信不通になったり、気丈だと思っていた私の友人のなかからも、新興宗教に入信してしまう者などが出るありさまだった。

 こうして二月に感じはじめていた、一種不穏な気分がにわかに現実味を帯びてきた。今まで付き合ってきた人が何人もいなくなり、残った人の心もどんどん変わっていった。たまらなく虚しい思いがこらえきれなくなったら、私はぶらっと三宮まで行くことにしていた。当時、神戸の周辺から徐々に復旧していた三本の鉄道は、最も山手を走っていた路線が、他のふたつの路線が復旧できなかった区間を二月の中旬に、さらに三月の半ばには三宮まで部分復旧させた。残る不通区間は、他のふたつの路線が復旧を終えていた神戸の東部から東側だけとなっていた。各鉄道会社では、不通区間をまたぐ定期券や回数券を持っている人を対象に、三社の間で振替輸送が行なわれたり、それぞれの鉄道の折り返し地点や、振替輸送の取扱駅を結ぶシャトルバスが運行されりしたので、この三つの鉄道を乗り継げば、なんとか一時間程でかつての不通区間を乗り切ることができるようになった。これは大きな進歩だった。それまで神戸へ行くというと、まるで戦場へでも向かうかのような覚悟が必要だったのだが、この復旧のおかげで、時間はかかるものの遊びに行くような気軽な気分で出かけることができるようになったからである。その頃、三宮周辺では下山手通りを中心に屋台営業の飲食店が活気づいていた。私の知り合いも何軒か店を出すようになり、ゴースト・タウンのようだった界隈も、暖かくなるにつれてにぎわいを取り戻していた。ちょうどその通りが、駅周辺の立入禁止区域に通じていて車両通行止めになっていたので、自然発生的な歩行者天国ができていたからである。屋台村のできた下山手通りの両側は、大きなビルの傾いたものが多く、そのほとんどが取り壊されることになっていたが、その時点ではまだ手つかずの状態で、依然として窓枠から電線一本でつながったクーラーがぶらぶらしていたり、頭上近くにまで落ちかかった風俗店のいやらしい看板などが見られたものだった。しかし、かつては華やかな夜の蝶が舞い狂っていた有名な通りも今は見る影もなく、八時を過ぎると真っ暗に静まり返り、闇に紛れて悪事をはたらくガキどもが多くて、地元の人間ですら滅多に近寄れない場所となりさがっていた。

 しかし、そんな歩行者天国も長くは続かなかった。駅周辺を埋め尽くしていたコンクリートの瓦礫の山が、四月には撤去され、駅のターミナルビルや百貨店を兼ねた駅ビルの解体が進むにつれて、駅周辺の立入禁止区域は縮小され、それにともなって車の通行ができるようになってきたからである。暖かくなるにつれ、遅々として進まなかった復興の歯車がやっとかみ合って、全域で一斉にフル回転しはじめたかのようだった。

 行政側も一旦は黙認した屋台営業を、三月の終わり頃には規制する態度に出はじめた。いちはやく屋台営業を始めた連れも、横柄な態度で怒鳴り込んできた警官に、いきなり殴られて頭に怪我をしていた。彼としても、次のステップを真剣に考えなければならないときが来ているようだった。ありとあらゆる街角で、落ち込んだ人々を勇気づけようと始まっていた草の根の復興活動や、自然発生的にあちこちにできていた野外生活者のテント村は、時間の止まったような平和な日々をもたらしはしたが、混沌のなかで何が生まれるのかわからない新しい世界への漠然とした希望に、人々の胸を高鳴らせただけで時間切れとなった。手付かずのままに残されていたがために守られていたそうした世界も、重機やトラックなどによる、本来進むべき現実的な復旧の手が本格的に入れられるにつれて、解体され運び出されていった。世の中に再び便利さが満ちあふれ、人々がかつての生活のリズムを取り戻すにつれて、電車の中で髪を染めた若者と会社の重役のような紳士が、これから訪ねようとする地域の情報について、あれこれ話し合うなどという姿は見られなくなった。暖かい光のなかで見知らぬ者同士が、路上のテーブルを挟んで語り合うということもなくなった。若者と大人が一瞬理解しあい、手を握りあうかと思われた。そのわずかな実感を、のちのちにまで胸に刻み込めた人は決して多くはなかったに違いない。地震によってもたらされた、夢のような休息の時間、現実を失なったために与えられた、現実を考えずに済んだ時間は終わった。復興が進むにつれて、めいめいがめいめいの忙しい現実のなかに戻ってゆき、街は再びよそよそしい都会らしさを取り戻していった。と同時に、荒廃の見えはじめていた人々の行動にも、明らかに都会的な匿名性があらわれてきた。

 まだ瓦礫の放置されていた宝山荘の跡地では、それまで見かけなかったごみが次々と捨てられるようになった。更地になったところはそうでもなかったが、近所の瓦礫の山でも同様の被害が出はじめていた。「ごみを捨てないでください、私の家です」と書かれた札が立てられるようになったが、それも効き目はなかった。嘲笑うかのようにその注意書きを押し倒して、大きな箪笥や冷蔵庫が捨てられるようになったからである。近所の者の仕業には違いなかったが、もうこのへんの住民は、家がなくなって半分がたいなくなっていたので、監視のしようがなかった。しかし、まだ瓦礫の中に遺品ののこる家では、遺族の憤懣はやる方なかったにちがいない。いくら立て札をしてもその上からごみを捨てられるので、休日に訪れた遺族は、すっかり暖かくなって悪臭を放ちはじめた瓦礫のなかで、一日に片付けることのできる量をはるかに超えて増え続けるごみと格闘しなければならなかったからである。もはやそれ以上放置するのは限界だった。遺された物があるとわかっていても、人の手ではいかんともしがたかったので、遺品の保全を諦めて、泣く泣く重機を入れる家族もあった。地震のショックによると思われる後遺症が取り沙汰されるようになったのもこの頃である。イライラのあまりわけもなく暴力的な振る舞いに出る者も多くなった。ずっと世話になっている接骨院のにいちゃんも、原因不明の全身のだるさを訴えて押し寄せる患者に音をあげていた。かつて通い詰めた銭湯のおやじも、よく来る顔見知りの客でさえすっかり人が変わってしまって、シャワーの湯がかかったとか実に取るに足らんことで、危ない風呂場の中で取っ組み合いのけんかが毎日のように起こるようになったとこぼしていた。あたりがどんどん更地になってゆき、街の荒廃がすすむとともに、人々の心もすさんでいくように思われた。それは車で走っていてもよくわかった。かつては辛抱強く列に並び、互いに譲り合って信号の消えた交差点でも混乱を避け、自ら秩序を守るように気を遣っていたはずのドライバーでさえ、いつの間にか信号無視や一方通行の逆進、反対車線の走行や右折レーンからの割り込みなどが頻繁に見られるようになった。私自身何度も経験したが、三宮周辺では、赤信号で止まっている車の脇を、つまりその前を横切っている歩行者の列めがけて、クラクションを鳴らしながら猛スピードで突っ込むという殺人まがいのゲームをやる若者のグループが出没するようになった。また、瓦礫を満載したトラックの運転手はたいがい気性が荒く、ほんの些細なことでいやがらせをしたので、結構強気な私の仲間でさえ、おっかなくて道も走れないとこぼす者が出てくる始末だった。そこらじゅうの道路に、そうしたトラックからこぼれ落ちた砂や瓦礫がまき散らされたまま放置され、ただでさえ荒廃の目立つ界隈の雰囲気をさらにとげとげしいものにした。

 そんななかをかいくぐって、私は十日に一度ぐらいの割合で、自然と宝山荘に足が向いていた。もう何を掘り出したいわけでもなかったのだが、そこにはアパートにあったものがまだ運び出されずにそのまま眠っているのだと思うと、そこにいるだけで不思議な安らぎに包まれたからである。四月に入って、あの全壊した高架部分をジャッキで持ち上げただけの鉄道会社が全線で運行を始めた。これで大阪と神戸が一本のレールで結ばれることになった。新聞やテレビは、この二か月半は長かった、待ち望まれた復旧がついに実現したなどといって開通を喜び、その間の関係者の苦労をねぎらう論調で満ちあふれた。しかし、逆にたった二ヵ月半で開通したのはなぜなのか、本当に安全なのかという疑問は残されたままだった。当初その会社は、崩壊した高架部分の復旧には基礎工事からやり直す必要があるので、最低でも四、五ヵ月はかかるだろうと発表していたし、その後、耐震基準を強化するために、原状回復にとどまらないさらに高度な基準に基づいて復旧工事に当たるので、もっと時間がかかるだろうとさえ言っていたからである。それに対して、宝山荘の北側の、最も山手を走る鉄道の倒壊現場では、そのころ一部で高架の鉄骨が組み立てられていたが、現場の柵にはどのようにして鉄道を復旧させるかを図解入りで説明したパネルが掲げてあった。さらにその鉄道会社では、昼夜兼行で復旧工事に当たっていたために、沿線住民で安眠できない人も多く、彼等のためにホテルを用意するなど、利用者や沿線住民に対する心遣いも感じられた。もうひとつの海辺を走る鉄道でも、壊れたところを全て造り直していたが、ともに全面復旧は夏以降とされていた。同じ様な壊れ方をしていながら、この対応の違いは一体どういうことなのか、全面復旧を果たした会社から利用者に対する納得のいく説明はついに行なわれなかった。それから一週間ほどして、かつては世界一のスピードを誇った同じ会社の高速鉄道も全通した。橋脚のコンクリートの中に木片や貝殻を残した原因については、依然わからないままだった。それなのに、近い将来通常ダイヤでの高速運転を再開すると発表されたために、沿線の住民から不安の声が上がった。沿線の住宅が損壊したままで、そこには住んでいる人も多かったからである。事実、試験走行や徐行運転の段階から、明らかにその振動によるとみられる家屋の外壁の落下などが起こっていたが、その鉄道の振動がもたらす損壊家屋への影響については、当局は一切関知していなかった。彼等は、「それとこれとは別問題だ。われわれの任務は、わが国の鉄道の大動脈を一刻も早く、安全に復旧させることだ。」という傍若無人なコメントを発表した。この非常事態にどうしても高速運転をしなければならない理由がさっぱりわからなかったが、せめて沿線住民の不安を和らげ、万一の危険を回避するために、速度を落として運転してくれないかという市からの要望も退けられた。そして、関係者はまたしても呪文のように安全だ安全だと繰り返した。

 その橋脚の安全性については、実験データによると今度のはかつての二倍以上の強度を持っているということだった。破損した構造物を補強して持ち上げ、鉄板を巻きつけただけなのにである。果たしてその実験室のシミュレーションが、自然現象をどこまでフォロウできているかなど、全く疑わしいものだった。それにその二倍以上の強度で、どこまで耐えられるのかも未知数だった。しかも、新聞などで報道されていて、彼等が新たに耐えられるようになった基準として示した数値は、いくらかの力の横揺れに対してだとされていた。しかし、われわれがあのとき感じたのは、実に激しい縦揺れだったのである。この災害で現代的な建物の多くが吹っ飛んだ最大の原因は、この強烈な縦揺れに対する備えをほとんど怠っていたからだということはもはや常識となっていたにも関わらず、どんな報道に目を通してみても、縦揺れに関する満足な言及はなかった。この不安に対する最初の答を見たのは、それから二年半もたった頃のことである。ある研究機関が、地震の縦揺れをも再現できる巨大なシミュレーターを開発した。それによって、最新の工法の耐振性が初めて具体的に証明されたのだが、すなわちそれまでは、当局はそういう根拠なしに安全性を強調していたということも、ついでに証明されたのである。とにかく当時は、開通というものが先にあって、そのために都合のよいデータだけで安全性を証明しようとしているようにみえた。彼等が利用者の命と引き換えに商売をしようとしているのは、工事現場を目のあたりに見てきたわれわれにとっては明々白々の事実だった。それでも予想されていた通り、それまで不自由な迂回通勤に苦しんできた通勤客はどっと駅に押し寄せた。信じるしかなかったのだ。安全性に疑問があっても、それが原因で自分が死ぬ可能性があったとしても、仕事を休めない日本人の悲しい性が如実に現われていた。当時、その裏で避難所生活をしていた人は五万人、公園でテント生活をしていた人は数千人、すっかり暖かくなって、日中のテント内の温度は四十度にも達しようとしていた。くわえて菜種梅雨の頃から降り続いていた雨がその頃になっても断続的に残っていたために、彼等はテント内に浸入する雨水と連日のように闘っていた。

 それから二週間ほどして、宝山荘の最寄りの駅に西側から電車が乗り入れるようになった。これでこの鉄道の不通区間は、その駅から東側の高架橋の崩壊した宝山荘北側付近と、盛土が崩れた神戸市東部の二ヵ所だけになっていた。折しも地震から三ヵ月が過ぎ、葉桜の美しい季節になっていた。わずか三駅だけの部分開通だったが、それでも駅の西側には、久方ぶりに軽やかな車輪の音が響きわたった。しかし、車両は地震当時にこの区間に取り残されていた二編成しかなかったので、便数も少なく乗客もまばらだった。駅の東側は、依然として曲がりくねったレールが工事現場の手前で途切れていた。私は実家周辺で行動することが多くなっていたが、この頃になって、ようやく創造的な気分で写真を撮ることができるようになっていた。瓦礫から救い出した古いカメラを伴に連れて、生まれ育った街をぶらっと散歩するのは楽しいものだった。そこはかつて、広範囲な地滑りとともに跡形もなく谷底へ崩れ落ちてしまったと噂された商売の神さんの参道の近くだったが、山肌を這うその参道の両側にも、すでにプレハブの仮設店舗が立ち並び、もう向こうは忘れてしまっているだろうが、見覚えのあるおっちゃんやおばちゃんも目についた。その街角のあちこちから、暖かいものを配る湯気が立ちのぼっていた。 それでも復活した商店の間に、地震から手付かずのまま放置されたしもた屋が顔を覗かせていて、その横を通ると、あたりのすっかり春めいた雰囲気に混じって、サッと冷たい風とともに、あの暗くてかび臭い瓦礫のにおいが鼻をついたものである。その空気は、三ヵ月もの間、時に見捨てられていたかのようだった。こうした仮設建築などの目に見える復興は、全て自助努力の結果だった。そのため、その力のあった者や幸運に恵まれた者は、物事をさらに有利に展開することに成功し、そうでなかった者は失敗が明らかになった。明暗を分けた自営業者の間の格差は、時がたつにつれてますます広がっていくように見えた。さらにまた、目に見える復興は交通機関やライフラインといったものがほとんどで、多くの会社員は、復興した鉄道に乗って、復興した会社に出勤していたが、本人の自宅の再建にはまだまだめどが立っていなかった。

 その目に見える復興でさえ、よく見ると穴だらけだった。倒壊した建造物の施工方法に疑問が投げかけられ、被害を広げたのは耐震基準の不備ではなく、その原因の多くは手抜き工事によるものだったことが明るみに出されたのはずいぶん前のことだったが、たとえ大地震が起こったからといってすぐに業界の体質が改まるとは、とても考えられないことだった。現に横倒しになった高速道路の残された橋脚では、その仮補強に使われている鉄骨を固定するボルトが、あちこちで抜け落ちているのが目撃され、再び関係者が苦しい弁解をした。屋根の傷んだ家では、ブルーシートによる応急処置が施されていたが、この頃から瓦の葺き替えをする家が目立ってきた。しかし、あれほどたくさんの倒壊家屋を見せつけられたにもかかわらず、そして重い屋根のために多くの人が絶命したのをよく知っているにもかかわらず、なまじ自分たちが無事だったがために、相変わらず骨組みの上に土を乗せて、従来と同じ瓦葺きをやり直す家があとを絶たなかった。しかも、瓦と職人の不足から、施工費用は地震前の三倍にも跳ね上がっていた。新聞には耐震性の高い新しい木造住宅の広告が、骨組みの拡大写真入りで仰々しく掲載されることが多くなった。さらに強固になったとされるその接合部には、新しく金具が採用されることになったらしいが、それはいかにも頼りなげで、かえって今までがいかにいいかげんなものだったのかを疑わせるものだった。それでも疎開していた多くの人が、このあやふやな受け皿に戻って来ようとしていた。やっと念願かなって神戸に自宅や店舗を再建できたという話が、市民の復興を象徴する美談として頻繁に報道されるようになった。

 しかし、個人の復興が本格的に始まるにつれて、今まで忙しさにかまけてずるずると先延ばしにしてきた深刻な問題に、否応なしに取り組まなければならないときがやってきた。つまり、金の問題である。なかでも、何十年分もの住宅ローンがまだ残っているというのに、その自宅が全壊したので新たに家を新築しなければならなくなった結果、二重のローンを組むケースが報道されるようになった。多くの親たちは自分だけではローンが組めないので、子供たちに頼らざるを得なかったが、子供達はこれからが自由奔放な人生の華だというのに、初めから何千万という借金を、自分と親のために背負う覚悟を強いられたのである。彼等の人生はそこで終わったも同然だった。まだ今回の地震だけならいいが、また同じやつが来たらどうしよう、早く孫でも産んでもらって、そいつに組ませるか、彼等は口をそろえて言っていた。自分たちの預かり知らぬ地異で被った損害なのに、幾らかの優遇措置があるとはいえ、基本的には自分たちでそれを購っていかなければならなかった。福祉というものは一体どこへいってしまったのか、多くの人が諦めきれない気持ちを抑えながら、目をつぶってローンの契約書にはんこを押したものである。そうまでして彼等は戻ってきた。しかも、同じ地震が起これば、再びあれほどの激しいエネルギーが集中するとわかっている場所にである。彼等はこの事実から目を背けようとしていた。深く考えずに、身近な現実問題と、盲目的な帰巣本能を優先させて、この街に戻ってきたのである。 そのなかには私の連れも何人か含まれていたが、実のところ、様々な悲劇を目のあたりに見ておきながら、私が彼等に対して感じた偽らざる気持ちは、何もかも失ない、ローンだけが残ったというのに、またぞろ借金までしてなぜ再び家を買わなければならないのかという単純な疑問だった。適当に安い部屋を借りてでも生きていけるじゃないか、何度そんな大きな買い物を繰り返せば気が済むのか、そんな思いを胸に秘めながら、私は彼等に会うたびに、何度もそんな自分の考えを頭から振り払おうとした。それは、その当時の彼等に対して抱くには、あまりにも思いやりのなさ過ぎる考えに思えたからである。しかし、実際彼等の多くは、家の再建のためにかかった巨額の借金のためにげっそりと痩せ衰え、人が変わってしまった。私はそんな彼等を見るに忍びなかったが、どうすることもできなかった。しかも、ここで再建されている多くの建物が、地震前のものよりもかえって粗悪な造りになっていることは、多くの専門家の指摘するところである。つまり、需要が多すぎて、クォリティが保てなくなっているのである。そんな建物に、彼等は二世代にわたる多額のローンを組んでまで、再び金をつぎ込んだ。その決意に至るまでに、どれほどの覚悟が必要だったかは、もはや私には計り知れない。私は、努めて彼等と気持ちをひとつにしようとしたが、月日がたつにつれて、私の気持ちは次第に彼等から遠ざかっていった。いつしかわれわれは、お互いを理解するどころか、ほんの軽口をたたくことさえできなくなっていた。「どうせお前にはわからん」ふたこと目にはそんなせりふが飛び出して、気まずい沈黙が流れるようになった。 

 不動産というものの恐ろしさ、それに金をつぎ込むことの愚かさ、復興とやらの嘘くささを目の当たりに見せつけられて、私はこの世の中について行く気をすっかり失くしてしまった。マイホームを建て、子供を作り、幸せな家庭を築くなどという、いわゆるまっとうな人生とやらが、それほどの自己犠牲に値するものとは、とても思えなかったからである。自然が教えたのは、形ある物は全て壊れるという実に単純明快な真理だった。今まではたまたま何もかもがうまくいっていたから壊れなかっただけのことなのだ。地面がほんのちょっと身震いしただけで、人間の作った都市なんてこのざまだ。その都会に住むということは、同時にそこにある手に負えない建造物の下敷きになって、いつ死んでも仕方がないという覚悟と合意が必要なのである。それがいやなら都会を離れるよりほかはない。自分の身の安全を守るのに、これほど明確な結論はない。われわれは、それをよく認識していなかっただけのことなのだ。しかし、そのことに気がつくまでは、私は非常にアナーキーな気分から抜け出すことができなかった。われわれは騙されていたのではないか、何もかも、この社会の全てが、嘘っぱちだったのではないか。第二反抗期のガキどもが、必ず自分の行動を正当化するのに振りかざす大仰で突飛な論理に、年甲斐もなく縛られてしまった。目の前の街全体が、文字通り物理的に崩れ去った印象が、余りにも強烈だったからである。復興と称してわれわれはここにまた同じ都市を再建しようとしている。全く同じ場所に高速道路を通し、その上を時速百キロものスピードで車を走らせようとしている。誰がそれを決めたのか、誰が同意したのか、それは誰のためなのか、それらは一切明らかにされないまま、莫大な金がつぎ込まれ、われわれはそれを支持した形になっている。私はそれに付き合っている余裕はない。またいつこんな災害が来て、自分の培ってきたものを途中で破壊されるかも知れないからである。社会的責任は仕方ないにしても、いわゆるまっとうな生き方や、体面を気にしていたら、身がいくつあっても足りず、無能な私には、やりたいことのひとつもできずに老いさらばえて死んでいくに違いないからである。人生は短い。これ以上の時間の浪費は我慢ならない。ザイール人の食いつめたミュージシャンから教わったことがある。それは、志すものがあるうちは、仕事なんかしちゃあいかんというものだった。ザイールでは、ミュージシャンたるもの、決して仕事などしてはいけないというモラルがまかり通っている。いわば、托鉢坊主のようなものだった。それをこの日本で忠実に実践するわけにはいかないが、要らぬ欲を、勇気を持って捨てることのみが、心を平安へ導き、迷わず前に進めることができるということを思い知ったのである。

 私は生活の規模を大幅に縮小した。部屋に物を置かない、嗜好品は買わない、コレクションはしない、将来の長きにわたる人生設計はしない。当然、家や土地を買うなんてもってのほかである。生活を身軽にしておけば、どうひっくり返されてもどうにでも生きていけるからである。この頭さえ潰されなければ、何者にも裏切られることはないからである。自分のなすべきことが自分の外にあれば、必ずそれは自分を離れていくだろう。しかし、それが自分の創造力の中にあれば、いつ死んでもそれは目的の途上にある。それは私だけのものであり、誰にも真似できず、誰にも盗まれることはない。それによって、自分は無益な苦労から解放され得るのではないか、そう考えるようになった。

 そんなある日、私はいつものようにぶらっと宝山荘を訪れたのだが、ふと見ると黄色いショベルが唸りを上げて、瓦礫の中を引っ掻き回していた。ついに市の解体撤去の順番が回ってきたのである。作業の効率を高めるため、解体の日程は住民たちには知らされないのが普通だった。もうこれで何もかも持って行かれるのだ。そろそろ潮時だった。いつまでもこの場所に安息を求めてやって来るわけにもいかない。もうこれで、心に踏ん切りをつけなければならない。しかし、次々にトラックに積み上げられていく木切れや布切れを見ていると、ここでの八年間の生活が自然と脳裏に甦ってきた。私はじっと作業を見守っていた。触りなれた玄関の扉の大きな金具が積み込まれた。いま鉄の爪がつまみ上げたのは、明らかに数え切れないくらいの手によって艶を与えられた、階段の木製の手すりだった。ずたずたにされた鴬張りの廊下も、もはや輝きを失なっていた。宝山荘のコンクリートの基礎部分があらわになった。それは、西側が激しく割れて地中に深く陥没していた。それを見たとき、思わずあの激しい縦揺れの記憶が甦ってきた。

 あの日、私は朝六時に起きる予定だった。私は二階の自分の部屋の窓際で寝ていたのだが、妙な癖で、たいてい自分が起きようとする時刻の五分前には目が覚める。だから地震が起きたときは、もうそろそろ頭のほうは覚める準備をして、意識は水面近くまで浮上しつつあったのである。何の前触れもなく、私は暗闇の中でぱっと目が覚めた。十五年ほど前に北海道を旅行していたとき、札幌に住んでいた友人のアパートで、強い地震を経験したことがある。以来、わずかな地震でも、その直前にぱっと目が覚めることが多くなったのだ。今回もそうだった。忘れもしない、そのとき確かに西の方から、ゴオーッというジェット機の離陸するときのような低い音が、それもばかでかい津波のように、幅広く分厚い感じで押し寄せて来たのである。不思議に恐怖心はなかった。しかし、何故かひどく冷静に、とんでもないことが始まるという予感がした。その直後である。大がかりな仕掛け花火が打ち上げられる瞬間のような、低くて鈍い音が連続的に地下でしたかと思うと、わずかな縦揺れを感じ、すぐさま、あれがやってきた。今でもあの振動をありありと思い出すことができる。それはいくら身ぶりや言葉を重ねても、人間のちっぽけな体や、さらにちっぽけな口などで表現できるものではない。それはぐらぐらとか、がたがたとか、そんななまやさしいものではなかった。地面がまるでベニヤ板のようになって、その下から巨大な削岩機でもあてがわれたかのように感じられたものだったが、それは明らかに、木造の建物の本体が、このコンクリートの基礎の上で何度となく跳び上がり、たたきつけられていた衝撃だったのである。ダダダ、ダンダンダンダン、ダーン、ダーン、ダーン。強烈な突き上げと同時に食器や瓦やガラスの砕け散る轟音や、ほうぼうの柱がねじ切られる鈍い苦しげな音が響きわたった。顔に大量の砂がかぶさり、落ちてくる物を避けるために体を丸くして、布団を頭までかぶるのがやっとだった。その布団の上に、どさどさと重たい物がいくつも落ちてきた。部屋が鈍い音をたてて傾斜していくのを感じ、かぶったばかりの布団から顔を出して、窓の外をうかがおうとしたのだが、そのときフラッシュのような、あの不気味な閃光が見えたのである。屋根から大量の瓦が流れ込んで来る音が聞こえ、潰されるという思いで、反射的にベッドの脇に置いてあるレコードプレーヤーの上にあるはずの眼鏡を探った。それと揺れがおさまったのはほぼ同時だった。ところが眼鏡を探っていたその手に当たったものは、寝ていてもそれとわかるいつもの手触りではなく、ごつごつとした丸太の感触だった。私は軽いパニックに陥った。眼鏡をかけるということは、いつも起きるときにする間違いようのない動作で、眼鏡をかけてから目を覚ますことさえあったくらい、この部屋に移り住んできてからの八年間というもの、毎日繰り返してきた動作だったからである。轟音と非常ベルの響きわたる暗闇の中で、私は何度もその動作を初めからやり直した。飛行機が落ちたものと思いこんだ私は、とにかくカメラでも持ち出して撮影してまわろうと思い立ち、起き上がって部屋を横切ろうとしたのだが、どういうわけか全く身動きがとれなかった。そのときの体の状態は、傾いた部屋のために頭が三十度ほど下がった体勢になっていて、下半身にはテレビとビデオと本棚と、その向こうにあった押入の中身の一部と、さらにかなりの量の瓦に壁土などがかぶさっていたからである。両手をしきりに動かして、闇の中で何か覚えのあるものを探っていた記憶がある。アパートの非常ベルや住人の騒ぎ声が聞こえ出したのはその頃だった。あとでみんなに聞いてみると、あのときは誰も同じで、一生懸命自分が起きるときに最初にする動作を、自分の存在を確かめるように黙々と闇の中で繰り返していたらしい。だからしばらく静かだったのである。 そんな空白の時間の後、ベルの音や続けざまに襲いかかる地鳴りの音などで徐々に目が醒めていき、この明らかな異変や、自分が家具に挟まれていることに気づいた人から、順番に声を上げていったのである。私はまた、枕許に常に懐中電灯を置いておくという、もうひとつの妙な癖があって、やっとのことでそれを思い出し、それで部屋の中を照らしてみて息を呑んだ。もうもうとまき起こるすなけむりの中でおぼろげに見えたのは、部屋を埋め尽くした夥しい量の木材と瓦の山だった。それは今にも窓際の私のベッドを押し出そうとしていた。とっさに窓を開けようとしたのだが、それは窓枠が歪んでしまったためにびくともしなかった。反対側から逃げるしかないと思い、山の向こうを照らそうとしてふと見たものは、とても本当のこととは思えなかったが、夜空に輝く星だった。そのときはじめて、自分がどういう状況に置かれているのかを悟った。もう眼鏡どころではなかった。私は立ち上がり、裸足がガラスや瓦や木のささくれを踏み抜くのも構わず、とにかくその山を登って崩れ落ちた屋根に出た。さらに無造作に倒れかかってうまい具合に橋のようになっている丸太や板切れを伝い、傾きながらも立っていた階段つきの鉄のベランダにぶら下がった。最初の揺れから私がベランダにぶら下がるまで、ものの数分ほどのことだったはずである。懐中電灯を口にくわえてそこをよじ登ると、慌てて這い出してきた二階の男たちの足許を照らしてやった。彼等を導いている間も余震があり、鉄のベランダも大きくゆさぶられ、わずかに引っかかっていた橋も次々に落ちていった。それでも私は地震に気づいていなかった。最後の男が出て来たとき、われわれが踏み台にしていた一階の壁が、音を立てて暗闇の底に崩れていった・・・。

 作業が昼休みに入った時には、通りかかった何人かのもと住人が集まっていた。私は彼等とともに瓦礫に踏み込んで、いたずらにそこらの木切れをほじくってみた。するとそのなかから、昭和参拾年四月拾参日起工という文字とともに、施工主と家主の名前が書かれ、上部に飾りのつけられた、棟上げに使われる木片が現われた。それを見つけたとき、もうここでの私の役目は終わったと感じた。それを家主の遺族に返しに行った三日後、「高級アパート宝山荘」は跡形もなく消滅し、その住所は完全な更地となった。かねてから計画のあった、ここを通る幹線道路の本格的な事業化が決まり、三年後には完成させるという当局の強い意志が示されたのはこの頃である。その計画線上は、まるで申し合わせたかのように見事な更地の帯と化していたが、それでも宝山荘の裏の一軒家をはじめ、何軒かの無傷な家が残っていた。しかしその東側の、かねてから開通していた幹線道路には、恰もこの未開通区間を貫通して西側へ抜けられるかのような、紛らわしい道路標識が何枚も新たに掲げられていた。それは明らかに当局の意志表示だった。火事場泥棒と後ろ指を刺されながらも、市は計画を推進するだろう。私の住んでいた部屋は道路になる。この場所に思いを馳せることができるのも、そう長いことではない。

 


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