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いかなごの釘煮

 「いかなごの釘煮」とは

 

 「いかなごの釘煮」というのは、いかなご科の小魚の稚魚を佃煮にしたもので、明石を本場とし、播州から阪神間の早春の特産品である。西限は、赤穂あたりまでは見たが詳しくは知らない。東限はだいたい尼崎あたりで、大阪以東や京都ではあまり知られていない。

 いかなご漁は、通常2月の下旬に解禁され、佃煮用の稚魚は4月頃まで流通する。ほとんど全てが卸売市場を通さない直接販売なので、魚屋によっては入荷しない店もあるが、今では人気を呼んで、たいていのスーパーやコープなどで簡単に手に入る。最盛期は3月の中頃で、この時分になると、あちこちの家庭からいかなごを炊く醤油とみりんの強い香りが漂い、この匂いを嗅ぐと、土地の人は「春が来た」と実感するのである。

 「釘煮」という名は、出来上がった状態が釘に似ているからで、要するに醤油やざらめ、みりんで照りを出して固める佃煮である。だから全国にある通り一遍の小魚の佃煮と、外見上はなんら変わるところはない。しかし、ゴマメやジャコ類のアクの強い味覚とはひと味違う、イカナゴ独特の風味があって、これがこの地域の人たちに特別の感慨をもたらすのである。

 「名物に旨いものなし」というが、いかなごの釘煮も他の地域の人たちにとってはまさにそれで、特別に旨いというものではない。しかし、これがないと春が来た気にならないから、まさに桜に浮かれる花見客のごとく、この季節になると、たった1キロのパックを求めて、朝から熾烈な獲得合戦が展開されるのである。

 私自身も、15年以上前に独り暮らしを始めてから、毎年炊くようになった。明石に実家がある仲のよい友人宅で、詳しい炊き方を教わったからである。初めは何度も失敗したが、そのうちうまく炊けるようになった。そして、うまくいきだすとこれが病みつきになり、自分でも取り立てて旨いと思えないのに、毎年この時分になると、匂いにつられてつい炊いてしまうのである。

 いかなごの釘煮はこの地域の特産品なのだが、佃煮の状態で売られているものは、何故かあまり旨くない。日持ちさせるために非常に濃く固く炊いてあるからで、これでは折角のいかなごの春めいた柔らかな風味がとんでしまう。自分で炊くようになってからは、一層それが気になるようになった。また多くの商品には、調味料や添加物のたぐいが使われていて、味がべたべたしすぎている。

 自分で炊けば正真正銘の無添加だし、味わいの微妙なコントロールもできる。しかも、ちゃんと炊けたものは、私の経験では1年以上の長期の保存と賞味に耐えるので、おかずの段取りを忘れた夜などはとても重宝する。さて、あなたもこれを機に、ひとついかなごを炊いてみませんか?

 

 いかなごを買う

 

 まず、いかなごを買う時期として最も適当なのは、3月の半ばくらいである。もちろん2月の終わり頃から出回るのだが、いわゆる「はしり」のものは、味がのっていないうえに、身が柔らかすぎて崩れやすい。一般には、体長が5センチ近くにまで成長したものが炊きやすく、風味や歯ごたえがよい。その時期が、だいたい3月半ばくらいなのである。

 さて、いかなごの釘煮は、よく「買ったその日に炊くように」などと言われるが、その認識は甘い。私の経験では、釘煮の大原則は「買ったらすぐに炊く」ことである。理想をいえば、朝から明石へ行って、「魚の棚」(明石にある魚市場の俗称)あたりで新しいのを買い求め、保冷状態で即座に持ち帰り即座に炊く。阪神間などに昼過ぎになって出回ってきたものを、その日の夕方になって炊いていたのでは、失敗する確率が高い。

 特に「はしり」のものを買うならば、直接明石へ行き、午前中に炊きあげる覚悟が必要である。体長が5センチくらいに成長したものなら、なんとか夕刻前まではもってくれるだろう。しかし、スーパーの水産売場で夕方まで残っているものは、まず失敗すると考えて間違いない。多くの店で、昼過ぎの入荷とともにほぼ売り切れるのは、そのためである。

左から、ダンゴになった失敗作、標準のいかなご、減塩タイプ

 さて、「失敗」というのは、出来上がりが「釘」の状態にならず、身が煮崩れて、どろどろのダンゴになってしまったものをいう。見た目が悪くカビも出やすい。しかし早くに食べるのならば、実はこの状態のものを、私は結構旨いと思っている。失敗した者の僻みもあるのだろうが、とにかくこのぐぢゃぐぢゃの失敗作は、茶漬けによし、そぼろに見立ててよし、卵焼きに混ぜ込んでも結構いける。山椒と合わせるとなおよい。初めての人は何度かこの「失敗」を経験するはずだが、これはこれで使えるからどうか畏れずに挑戦していただきたい。

 

 いかなごを炊く

 

まずは、明石の友人宅に伝わる伝統的なレシピをご紹介しよう。

 用意するもの

 

 まず、いかなごをざっと洗う。身が柔らかいので、大鍋に水を張った上にざるを載せ、その中にいかなごを静かに流し入れる。手でゆっくり混ぜ、ざるを静かにあげて鍋の水をかえる。これを数回繰り返せばよい。あまりかき混ぜたり、水が澄むまでやらない方がよい。最後にざるをあげて、自然に水が切れるようにする。

いかなごを傷つけないように細心の注意を払いつつ、そっとやさしく洗う。
左手で失礼、カメラを持っているのだ。

 

 土しょうがをよく洗い、千切りにして小皿に用意しておく。鍋に醤油、中ザラ、酒、みりんを入れ、強火にかける。次第に泡立ってくるが、ここで焦らず、鍋を持って回し、ザラメが完全に溶けるのを確認する。

煮汁の材料を入れた状態。ザラメの山が出来る。

画像ではわかりにくいが、鍋の左上にザラメの粒が残っている。これが溶けるまで待つ。煮汁の中に見えているのは、ユズの皮の乾かしたもの。こういうバリエーションを楽しむのもよい。

完全に溶けてひと煮立ちした状態。今回の画像は全て減塩醤油を使ったものなので、吹き上がりが少なくなっている。普通の醤油だと、ビールの泡のように細かい泡が勢いよくあふれる。

十分に吹き上がれば、ざるのいかなごを手でひとすくい入れる。一旦泡が消えて煮汁の温度が下がり、次第にまた吹き上がってくるので、またひとすくい入れる。これを繰り返すのであるが、その際、手許に用意した土しょうがを少しずつ入れていく。

 この段階で注意すべきは、いかなごを一気に入れないことである。なぜなら、煮固めるのが目的なのだから、煮汁の温度は出来るだけ高温に保った方がよい。一気に入れてしまうと、急激に煮汁の温度が下がり、身が崩れやすくなる。だから、沸騰した状態を出来るだけ保ちつつ、つまりふきこぼれる直前まで待って、いかなごをひとすくいずつ入れるのである。また、入れるときはなるべく鍋端に沿わせるように、手を回しつつぱらぱらと入れるのがよい。鍋の中心は温度が下がりやすく、煮汁は鍋端に沿って吹き上がるからである。火加減は終始強火を維持する。

 いかなごを全部入れ終わったら、さらに激しく吹き上がってくるので、こぼれない程度に日を弱めるか、出来れば強火のまま遠火にして、落としぶたをする。鍋の蓋は、絶対にしてはいけない。ここまでくれば、落としぶたが鍋の上で踊っているのを見ながら休憩すればよい。

減塩醤油を使うと、画像のように吹き上がりはおとなしくなるが、火加減が難しくなる。

落としぶたをした状態。

遠火にする工夫。

 だいたい30分ほどでふきあがりが少なくなるが、それまでは絶対に手を触れてはいけない。ここでよく家庭の主婦は、心配になって中を見たり、箸を入れたり、焦げ付くのではないかと思って、鍋を揺すったりするのである。これらの動作は、全ていかなごを崩れさせる原因になる。なにがあっても、落としぶたが鍋の上で踊っている限りは、そのまま放置する。焦げたものは捨てるくらいの度胸が必要である。しかし、ふきあがりが少なくなってくれば、今度は絶対に鍋から離れてはいけない。油断すると一瞬で焦げ付き、苦みが行き渡って風味ががくんと落ちるからである。

 煮汁がなくなりかけたら、落としぶたをとり、焦げないように細心の注意を払いつつ、鍋を持って中身をひっくり返す。ここまでくれば、いかなごはほぼ固まっているから容易に崩れない。フライパン返しの要領で、鍋の下に溜まった濃い煮汁を全体に絡ませる。

落としぶたをとった状態。これは減塩醤油を使っているため、かなり色が淡いが、普通の醤油では焦げ茶色に見える。いずれにせよ、魚の形がはっきり見えていればよい。途中でいじくると、必ず身が崩れる。

鍋を少しずつゆすり、オムレツの要領で一方に寄せ、反転させて上下を入れ換える。

 数回で絡まる筈なので、まだ煮汁が僅かに残っているうちに、ざるに空けて放置する。ざるの下にはボウルか皿を敷いて煮汁を受ける。これはあとでいかなごにかけてもよい。ここでも、暖かいうちはまだ箸を使ってはいけない。完全に冷えたら、初めて箸を使ってほぐす。

 以上がいかなごの釘煮の全てである。しかし私の味覚では、このレシピでは、かなり味が濃いように思う。そこで煮汁の分量をどこまで減らせるかを試行錯誤したのだが、醤油を減塩タイプにし、みりんはそのままで、中ザラを1割程度減らしても大丈夫だった。しかし、それ以上崩すと、照りが出なくなったり、固まらなくなったりした。しかし、いかなごの状態は年によって異なるし、買った時刻も炊いた時刻もバラバラなので、必ずしも公平な比較というわけではない。上にあげたレシピは、かなり無難な線といえる。

 私は釘煮のバリエーションとして、生山椒の実を入れたり、ユズやみかんの皮の乾かしたものを細かく切って入れたりしてみたが、これらはまた格別の風味がある。みなさんも、慣れてくれば様々な釘煮を試していただきたい。そしてもし旨いアイディアがあれば、是非ともご一報をお願いします。


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