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舌癌入院記

 発見までのあらまし

 自分が舌癌になろうとは、夢にも思わなかった。幸い早期発見が出来て最小限の手術で癌を摘出し、経過を見ている段階である。癌の程度は「I」。同じ不安を持つ患者の皆様のために、ここに発見に至る過程と入院、手術、その後の経過を記録しておこうと思う。
 私は、1960年生まれの男性で、体格は身長170cm、体重55kg、この状態が14歳の頃より変わらず続いている。痩せ過ぎではないが、許容範囲ギリギリである。性格は、知人の意見を総合すると、神経質・短気・いらち・わがまま・何でも自分の思ったことを思った通りにすぐ出来なければ気が済まない扱いにくい性格だと言われている。独身・一人暮らしで、基本的に自炊生活である。
 自覚症状はなかった。ここ数年の記憶に依れば、大好きなみかんや朝食のサラダをそれほど食べなくなったことくらいである。たぶん無意識に酸っぱさを避けていたものと思われる。
 大病は特にしていないが、幼少の頃より粘膜は弱かった。中学生の頃まではよく鼻血を出し、出ると止りにくかった。鼻中腔湾曲と診断されたが、特に治療をした記憶はない。季節の変わり目に出血することが多く、アレルギーを疑われたが、有効な治療法はなかった。出血したあとの傷が、一旦亀裂となって鼻の中に広がると慢性化し、笑っただけで血を噴いた。成人する頃には稀になったが、今でもごくたまにひどく出血することはある。
 25歳のときに十二指腸潰瘍を患った。胃下垂体質と言われ、ストレス・食事・節制に注意するよう指導されたが、猛烈に働く訳でなし、暴飲暴食の出来るタイプでもなし、不節操な振る舞いを繰り返す訳でもなく、特に思い当たる節はなかった。刺激物・焼き物・油料理をなるべく控え、体を労るように心がけたが、季節の変わり目になると痛みがひどく、踞るようになった。薬も処方されたが、制酸剤と粘膜保護剤が主な成分であったため、消化不良や体調不良に悩まされたものの痛みは消えず、袋入りのパンを常に携行しそれで痛みを抑えた。約10年後と記憶するが、ピロリ菌除菌治療に用いる抗生物質が認可され、すぐに服用を始めると全快し、現在まで再発していない。ちなみに治療薬は約5年後に保険適用になったと記憶している。
 口内炎に関しては、子供の頃から舌の側面によく腫れ物が出来た。体格の割に良く食べるので、腹八分目を指導された。ビタミンBを補充する市販薬を飲めば治ったか、少なくとも気にならなくなった。気になりだしたのは35歳頃からだったと思う。何度か内科・皮膚科・耳鼻科に相談したが、口腔用の軟膏を塗布するように言われただけで、これは効かなかった。主治医のカルテには、口内炎の記載が手術の3年前、すなわち2002年42歳の頃から出て来る。
 主治医の隣にある歯科医とも古い付き合いなのだが、私はこの件について歯科医に相談したことはない。歯医者が舌を診れるとは思っていなかったからである。しかしあとになってわかったことだが、この歯科医は、阪大口腔外科で舌癌の手術を主に執刀した、この道の専門家であった。たまに虫歯や歯の損傷などの治療で世話になる程度だが、職業柄舌も必ず見ていて、私のカルテにも、舌には「異常なし」を意味する斜線が引いてある。舌癌の兆候があれば見逃すはずはない。この歯科医を最後に受診したのは、手術の4年前であった。以上の各位のカルテや証言を総合してみると、事実認定としては、どうやら3年ほど前に発生していた悪性腫瘍が、癌に変化したものと思われる。
 早期発見のきっかけを作ってくれたのは、女友達の旦那が歯科医で、メールで舌の状態を問い合わせたことによる。先述したように、自覚症状と言えるほどのものはなかった。しこりもなく、押さえても痛みはなく、ただ白い薄いもやがかかったような部分があり、時々その中が擦り剥けるのである。よく観察すると、それが剥けたときに、味の強いものを飲食するとしみる。みかんを食べなくなったのはそのためと思われる。彼は総合病院の「口腔外科」を受診するように勧めてくれた。そこで私は地域の市民病院を受診した。2005年の1月初めのことである。

 入院までのあらまし

このもやもやした部分が、実は癌であった。

 市民病院の視診では、「腫瘍、あるいは癌であることが疑わしい」というもので、血液検査・綿棒による粘膜の検査・CT・MRIと、初診の日にほぼ一日がかりで検査した。それぞれ、癌の発生と深く関わるリンパの数・粘膜細胞診・病変部の深さ・転移の可能性を見ていたものという。後日、再診を受け、検査結果としては何も徴候は出ていなかったが、病変部の状態からして、やはり「疑わしい」とのことで、病理組織を取って生検することになった。この時の病変部は白いもやがかかった状態で、素人目から見ると、舌の反対側にも同じようなものがあり、昔から出たり出なかったりしていたものだ。セカンド・オピニオンを取ることもかねて、阪大第二口腔外科で組織を採取することになった。後日受診したところ、そこでは視診だけで「心配ない」として帰されてしまった。この時点で、私は一旦診察を打ち切ることにした。
 後日、ふたたび市民病院から呼び出しがあり、こちらで生検するというので、もう一度説明を受けに行ったが、即座に治療台に座らされ、組織の摂取が始まった。私は注射針かなにかで、ごく簡単に済むことと思っていたし、それで確定できるならよかろうと思って応じた。しかし、それはメスを持ってかなり深く舌を切る行為だった。局所麻酔はされたものの、激しい痛みのため、それから一週間、食事は重湯や粥を流し込むことになった。確定診断に必要だからとは聞かされていたが、このような重傷を負うという説明はなかった。運悪くその日に買い込んだ生鮮食品は処分せざるを得なかった。この時点で、私はこの医師との意思疎通に限界を感じた。
 数日後、検査結果を聞きに病院を訪れたが、確定診断は「microinvasive cartinoma of tongue」すなわち、舌の微細な浸潤性の癌ということで、既に入院の段取りが決められていた。手術の説明は、治療台越しに片手間の感覚だった。術後の療養や後遺症などに関しても、医師からの積極的な説明はなく、こちらから訊かないと、なかなか全体像が把握できなかった。ここでの手術や予後その他の説明は、おおむね以下の通りである。

組織検査後の状態。これでも痛くて何も食べられない。

 舌は右側3分の1を切除し、転移の可能性はほぼないと思われるので、リンパ節は触らない。切除範囲が小さいので、太ももの肉を採取したりしての再建は行わない。切除による言語障害は一定の範囲で残る。味覚もある程度損なわれるが、これらは個人差があり、一概にどの程度とは言いにくい。入院は1/31、手術は2/4、それから一週間程度鼻からチューブによる流動食の摂取で、徐々に粥食などに移行し、退院は2/22の予定。私が最も関心を持っていた、アレルギー性アフタや褥床性腫瘍との鑑別診断、手術以外の治療法については、全く説明がなく、訊いても問題外という対応だった。また、予後の経過観察のやり方についても説明はなかった。
 前回の生検時にもなんの説明もなかったことから、私はこの医師に不信感を抱いていたので、全ての手続きをキャンセルし、組織標本を借り受けて、いわばサード・オピニオンを取りに行きたいという意向を伝えた。非常に不愉快な対応をされたが、食品を扱う営業職であるので、味覚と言葉は私の生命線であり、いくばくかでもその部分に障害を残すことには、慎重になって当然だった。
 かかりつけの主治医や歯科医と相談し、MRIやCTのフィルムとともに組織標本を借り出すまでにはいろいろあったが、結局、主治医に大阪府立成人病センターに紹介状を書いてもらって、そこを受診することになった。この病院を選んだことには、いくつかの理由がある。まずは主治医の奨めであり、日本有数の口腔癌の権威であること、手術例が圧倒的に多く優秀な医師がそろっていること、インターネットで主要な病因を調べた結果、この病院だけが、内科と外科の両方から見た舌の疾病の鑑別診断と治療法について広く言及するページがあったことなどによる。
 最後の点については、重要なので特に付け足すと、私は初め口腔外科を受診したのだが、外科的な観点から見た資料では、この病変は腫瘍や癌としてしか認識されていないようだし、耳鼻科・皮膚科・内科のそれを調べると、アレルギーやアフタなどという病気としてしか認識されていない。歯科・口腔外科がアレルギー疾患の可能性について言及したり、内科・耳鼻科が白班症や癌について言及していることは稀である。おそらくここに深い溝があって、学際的な研究が一般化されているとは言いがたいように思えた。少なくとも、何科を受診すれば良いのかさえわからないような、われわれ素人の疑問には答えていない。市民病院でも、口腔外科から耳鼻科に意見を求めようとして断られた経験がある。日本医師会と歯科医師会が分裂しているように、両者は仲が悪いようだ。
 素人にとっては、このような派閥争いはどうでもよい。自分の舌がどういう状態なのかをわかりやすく説明してもらえないと、安心して治療を受けることが出来ない。大阪府立成人病センターのホームページでは、科目別の説明もあるが、体の部位に分けた説明もあって、とくに舌や喉に関しては、内科・外科にまたがるアプローチがなされていて、非常に納得のいくものだった。ちなみに同病院に口腔外科は存在しない。舌は、同病院では耳鼻咽喉科が担当し、内科的治療も外科的治療も、必要と判断されれば組み合わせて受けることが出来る。そこで私は外来日を調べ、ホームページにあった医師の考え方を読んで、その医師を指定して受診した。2005年2月1日のことである。
 視診では、やはり診断がつかなかった。画像診断のフィルムには影も映っていなかった。確定は、病理組織の診断に持ち込まれた。数時間後に結果が出た。「浸潤性の癌で悪性」とのことで、市民病院・阪大病院に続いて、三カ所目も同じ結果であれば、これは腹をくくらざるを得ないと観念した。以後の説明は、ホームページでの印象に違わず、全く得心の行くものだった。
 まず、一般的に舌の病変の見方について、いくつかの可能性があり、それらの鑑別診断が非常に重要であることが説明された。私の場合は、既に組織標本を持ち込んでおり、そこから癌細胞が検出されていることから、この病変が癌であることは確定している。しかし、このような説明をしてくれるということが大切なことである。
 次に、癌の治療法についての説明に移った。これは、おもに手術に対する恐怖心に答えようとするものと思われる。先ず、内科的治療については、抗癌剤による副作用の説明として、抗癌剤は「たたく」という言葉にもある通り、癌のみならず健康な肉体をもたたいてしまう。私の癌はきわめて局所的で、しかも目に見える場所にあり、転移もない。この微細な癌を治療するために、他の大部分の健全な肉体をたたくことは医者として賛成できない。次に、放射線治療による副作用について、これは「焼く」という言葉通り、軽微ながら被爆しているのであって、特に粘膜に関しては焼けただれる状態を作ってしまう。また照射は数十回に及び入院期間も長引くし、その間ほとんど食事も出来ないなど、微細な癌を治療する方法としては負担が大きすぎて奨められない。その点、外科的切除は、確かに「切る」ことから来る恐怖感は免れないが、私の癌の場合は切除範囲もわずかであり、他への影響はほとんどない。確かに言語障害と味覚障害は残るが、深刻なほどではなく、命と引き換えであることを考え合わせると、最も有効で負担の少ない治療法である、と。
 そして手術の具体的な説明に入った。手術時間は約1時間、切除範囲は市民病院や阪大病院で示されたよりずっと小さく、全体の10分の1程度の大きさということだった。ただ、舌の付け根に近い部分を切除することから、口を開けたまま辛抱するには限界があって、全身麻酔を採用したいとのことだった。後遺症については、やはり障害は残るが、早くて一年、長くても数年程度で、ほとんど意識せずに暮らせるようになるとのことだった。予後については、手術後数日間は、鼻からの経管食、様子を見て順次粥食に切り替え、全部食べられるようになったら退院で、入院期間は一般的には10日間程度という。市民病院での見立てとはずいぶん違いがある。以後、3年間は毎月、それ以降は3ヶ月に一度定期的に検診し、5年間見て異常がなければ完治という判断になるとのことだった。これらは、すべて先方から自発的に説明されたことである。しかも説明は、診察室に隣接して置かれたテーブルをはさんで、落ち着いた雰囲気のなかで行われた。市民病院の対応とは格が違っていたので、ここでの入院を決意した。この時点で、私は家族に連絡した。不要な不安を与えないためである。

 退院までのあらまし

 入院したのは2005年2月7日だった。以下、日記をもとに入院生活を再現してみたい。入院初日は、手続きのあと、採血・心電図・止血検査・握力・肺活量・運動神経の検査などが行われた。病室は二人部屋で、先客は敦賀から来たT氏、同じ舌癌で本日が手術日とのこと。彼は昼過ぎに手術に入り、一時間程度で歩いて戻って来た。舌の裏側の癌で、先の方に寄っていたため、局所麻酔で終了したらしい。私の方は、夕刻になって医師から手術説明があり両親が来て、ともに聞く。
 翌日はなにもなく、外出許可をもらって大阪城公園を歩き回る。夕食後は絶飲絶食、下剤を服用。麻酔科医から全身麻酔について説明を受ける。
 2月9日手術日、午前中にT氏退院。入れ替わりに母が来る。午後から私の手術が組まれていたが、先の手術が遅れているとのことでしばらく待たされる。癌がわかって以来禁煙しており、喫煙を排便のスイッチ代わりにしていた私は頑固な便秘になっていた。手術には都合が悪いとのことで浣腸される。15時頃手術室へ向かう。
 金属内装の小さな手術室であった。促されるままに寝台に横になり、心電図やマスクなどを手早く装着され、酸素吸入、看護士がずっと手を握り肩をさすり続けてくれる。点滴より静かに麻酔薬が入り、まぶたが重くなったかと思うと、飴色の泡の中に沈んで行くように意識を失った。
 呼びかけに目を覚ます。麻酔科医の笑顔が見えて安心する。自分が別の部屋で寝ているのがわかる。周りに多くの人がいるものの、慌ただしくはない。どう声をかけられたか、どう反応したかはわからないが、手術は成功したらしい。予告されていた吐き気や錯乱もなく、笑顔で手を振ったことは覚えている。痛みは感じないが、口の中と首がパンパンに膨らんでいるのがわかる。そのままベッドごと室外へ搬出され、エレベーターに乗せられて、病室に戻って来た。全身が硬直している、あるいは感覚がない。ほどなく母が来て筆談する。術後説明によると、予想通りの切除範囲で済んだという。しばらくいてもらって子供の頃の話などしてもらう。20時過ぎに母帰り、ともかく寝る。夜半数度、女の気配がして目を覚ます。見れば、暗闇の中で私の腕に何かごそごそやっていたり、点滴のチェックをしていたりする。どんな夢かは忘れてしまったが、幸せな夢を見る。
 2月10日、手術翌日、酸素マスク、右の鼻からチューブ、猛烈な体のこわばりのまま目をさました。昨日は麻酔や鎮痛剤がよく効いて朦朧としていて何も気づかなかったのであろうか、扁桃腺のあたりが猛烈に痛く、つばが飲み込めない。挿入されたチューブのため右の鼻はつまり、左の鼻は鼻血が固まっている。不明瞭な発音ながら、言葉を発することは出来るが、舌を持ち上げる動作は全く出来ない。経管食が始まる。チューブの途中にジョイントがあって、そこにスタンドにかけたパックから伸びたチューブを接続してストッパーを外すと、胃に直接流動食が流れ込む。胃に冷たいものが流れ込む妙な感じとともに、胃まで挿入された管が意識され、吐き気を催す。力を抜けば楽になる。本日より4日間、この「食事」に耐えることになる。くわえて、食後の鎮痛剤服用、洗浄をかねた1リットル以上の水分補給が、経管で行われることになる。導尿の管を抜く。激痛に飛び上がってのけぞる。動く気にならず、本読みCD聴く。4人部屋へ移る。点滴の合間を利用して入浴。
 以後、13日まで経管食が続く。痛みは予想されていたほどではなく、経管食のあとで出される鎮痛剤以外に必要を感じなかった。手術翌日には吸い口で水をふくめるようになり、次の日には嚥下できるようになる。三連休中に、友人や仕事関係者などが、相次いで見舞いに来てくれる。やはり笑うと気分が晴れ、舌の回りもよくなる。
 2月14日、朝食より全粥食が始まる。生検のときに経験したので痛みを避けることが出来るが、食事には時間がかかる。全粥・卵焼き・大根入りみそ汁・みかん・牛乳食べるのに40分。昼食45分、全粥・サバの味噌煮とオクラの煮物・大根おろし・タマネギベーコンしめじピーマン人参の洋風温サラダ。しかし、夕食はこれより多い量だったにも拘らず35分で食べ終えることが出来た。

手術2週間後。やっと口を大きく開ける事が出来た。

 手術翌日より落ち着きを取り戻し、その翌日より起きだして、ロビーで読書に励む。疲れたら入院患者の人たちとコミュニケーションをとる。コミュニケーションとわざわざ書いたのは、ここの病棟は耳鼻咽喉科専門病棟で、喉頭癌で声帯を取っている人が多く、筆談で会話している人がほとんどだからだ。喉の回り以外は健康な人が多く、昼間はみんな出て来てロビーで遊んでいる。しかし病状は深刻である。入院患者のほとんどは喉頭癌で、声帯を取って声を失っている。これで三級の身体障害者である。呼吸は鎖骨の間に空けた穴で行い、人口声帯または食道発生のリハビリを受けている人が多い。舌癌は私の他にもう一人、リンパ腺に転移してそれを切除し、散らばった癌を放射線で焼く治療を受けている。鼻中腔の奥に癌が出来て、上顎から鼻全体を切開した若者もいた。頬の内側に癌が出来、他の病院での対応が悪かったために、悪化させて転院して来た人もいた。初めからここに入院していたのではなく、何らかの理由で病状を悪化させてからの転院組が多いのも特長であった。私は舌以外の場所への転移もなく、体に全く傷を付けずに済んだ唯一の入院患者であり、私以外の人は、例外なく首や顔面に、深い手術の跡を残していた。なかに、顔の下半分が切除された人もいた。この人は、車いすで個室におられ、余り姿を見せなかった。
 喉頭癌で声を失った人に共通するのは、低いドスの効いた声、酒煙草カラオケ好き、食通あるいは食品業界の従事者、業績の良い営業社員であることなどが上げられる。舌癌の人も板前さんであった。不安を感じながらも声が枯れるまで放置し、もはや自業自得と諦めて入院した人が多いが、なかには我慢に我慢を重ねて定年まで熱心に働き、やっとこれから好きなことが出来ると思っていたのに、退職前の健康診断で癌が見つかって、全てがぶちこわされたという人もいた。
 最も仲良くなった喉頭癌で入院中の老人の話によると、癌が見つかったとき手術を奨められたが、怖くて拒否した。ならばというので放射線と抗癌剤の治療を受けたが、口の粘膜のただれと薬の副作用に苦しみ、手こずっている間に癌自体も進行したので、ここに転院して手術を受けた。しかし手遅れの部分が多く、近く再手術する。初めのうちに、もっと早く手術に踏み切っていればと後悔している。家族はみんな「切らずに済んだ」と一時は喜んだが、放射線や抗癌剤の治療の苦しみが、手術より重いことを知らせてくれた人はいなかった。結局、自分で癌をこじらせてしまったようなものだ。口内の炎症のため、口を動かす動作もままならないため、わずかな表情と、動作や仕草で意志を伝えようとするのだが、そのコミカルさが性格の良さを物語っていて、どちらからとはなしに「話し」かけたのである。
 愚痴や後悔の話は聞かされるものの、入院患者達は互いに出来るだけ楽しく過ごそうと務めたり、積極的にリハビリに参加したりと、打ちひしがれた様子はなかった。こうした昼の顔とは裏腹に、夜は深刻である。消灯時刻を過ぎてしばらくするうちに、部屋中から、また他の部屋から苦しげな咳き込みや嘔吐の声が聞こえ、眠られぬ夜を過ごすことになる。昼の彼等の明るさと優しさを知っているだけに、その同じ人が夜になるとこんなに苦しんでいる横で、とても寝てなどいられなかった。初めは私も戸惑ったが、慣れるにつれ、彼等が楽になるように背中をさすったり、発作のために踞ってしまって、ナースコールのボタンに手が届かない人のために、代わりに押してあげたりした。
 入院は初めての経験だったから、夜の病院の実態を見るのも初めてだった。私は一度もナースコールをしたことはないが、回りの患者達は、絶え間のない咳き込みや嘔吐や発作のため、頻繁にナースコールを呼ぶ。夜勤の看護士さんは、鳴り続けるアラームにせき立てられて、一晩中走り回っている状態だ。しかも相手は荒くれとも呼べるような男達ばかり、なのに疲れを見せないどころか、彼女達の献身的というか、しなやかな対応は天使の名に値する。掃き溜めに鶴、地獄に仏とはこのことだ。言い方は良くないかもしれないが、まさに地獄を見た想いである。
 退院間際にみんなが口を揃えて言ってくれたことがある。「お前は親にもらった体のどこにも傷を付けずに出て行くことが出来るんだ。そのことを神に感謝しろ。甘えるのも孝行のうちだから、親がいる間に孝行をしておけ。」明らかに手術の傷ではない、別の傷で貫禄十分の大男が、子供用のお絵描きボードで筆談する。柔らかな日差しに包まれた、この病棟のロビーを去る間際になって、やっとこの空間に愛おしさを覚えたものである。退院は2005年2月16日であった。


予 後

2005年7月8日、術後5ヶ月現状。舌の粘膜が徐々に傷口を修復している。

2007年2月9日、術後2年経過。ほとんど変化はない。

 術後半年後くらいで状態は落ち着いたものと思われる。この頃には舌で鼻の先くらいまでは舐められる程度、通常の会話であれば人に違和感を与えない程度、味覚もほぼ元通りに回復した。痛みはない。しかし違和感はある。主には味覚。これは当初、酸っぱさを感じる部分を切除したので、酸味の味覚が損なわれるかと思ったが逆に強調され、水でさえ酸っぱく感じられた。全体としては、一時何を食べても酸っぱく感じられたが、それはかなり改善された。また、化学調味料や保存料、消毒薬などの刺激には非常に敏感になった。次に食感。例えば豆腐は、その滑らかさを感じられず、高野豆腐のように感じられるなど、全体にざらついた食感がある。これは、現在でも幾分残っている。最後に発音。自分から見て、舌の右端を切除しているので、右側の気密性が悪くなったため、特に「さ」・「た」・「ら」行の発音が不明瞭になる。ときに右から唾が勢い良く飛ぶので、唇を右半分閉じながら話すようにしている。また、人前で話すときなど、大きな声で明瞭に発音しなければならないときや、仕事のクレーム処理などで、相手に礼を失してはいけないときなどは、発音に気を使う。逆に舌を切除している事を説明して、クレームを転じて福となした事もある。まあ、命を落とす事を思えば、この程度は安い代償である。


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