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「ルンバ・ライ」のアルバム『ミランダ』録音開始

  

金の心配、ズゥズゥ氏登場

 

 こうして、全く申し分のない充実した日々が続いたが、マライからはいっこうに借金の返済についての話がなかった。出来れば純粋に音楽のことだけに集中していたかったのだが、この不安は私にとって日に日に大きなものとなっていった。彼に誠意がなかったわけではない。ただ、彼はのんきな性格だった。私がビザの延長を済ませた時点でも、彼は何の具体的な返済計画も持っていなかった。彼が私に金を借りるときに持ち出した、タクシー・ビスのビジネスも、車そのものを陸揚げするのに日にちがかかりすぎたため、まだ十分な利益を上げていなかった。マテテにあるマライのホテルに催促に行ったある朝、いつまでも煮えきらない態度をとってばかりで、ルンバ・ライが売れてからのことばかり夢見ている彼に、私は思わず怒鳴り散らしてしまった。「ビザの延長が出来たからよかったものの、延長できていなければ俺は今日帰るはずだった。そしたら一体、借金はどうするつもりだったのか。最初から踏み倒すつもりで、俺にこの話を持ちかけたのか。」私の言葉に逆上したザキ・デ・ザキを無視して、私はマライに、二週間以内に全額返済する旨の書面を書かせ、もし返せなかった場合には、訴えられても依存はないという合意をとりつけた。

 その帰り道、ズジさんの家に寄ってみたら彼が在宅していたので、私は彼にことの顛末をゆっくり聞いてもらうことにした。ズジさんは落ち着いて話を聞いてくれた。まず、身分のある人を公証人に立て、三者の合意のもとに文書を取り交わすことを提案した。さらに、「もしもの時のために、ディアカンダの払いは、金が入ってくるまで猶予してくれるように、オーナーに取り計らってやる。」とさえ言ってくれた。悩みを聞いてくれるだけでも十分だと思っていたのに、こうした具体的な方法まで考えてくれたのには、涙が出るほど感謝した。

 帰りの足で私は、フィストンの日本語学校のあった大学へと向かった。例の、日本大使館で働いていたキヴレさんに、公証人の件を相談しようと思ったのである。彼は大学にはいなかったが、受付で彼の住所を教えてもらうことが出来た。しかし、窓口の男は、今は多分大使館にいるだろうと教えてくれた。以前ビザの件で、大使に頼むから面倒だけは起こさんでくれ、と念を押されていただけに、私は大使館へ行くのが億劫だったが、今最も力になってくれそうなのはキヴレさんくらいのものだし、もしかしたら大使も力になってくれるんじゃないかという一縷の望みを胸に、私は大使館への階段を上っていった。

 果たしてキヴレさんはいなかった。大使は、「何の用かね。」と私に訊いた。私が話しはじめる前から、大使は既に怒っていた。「実は、申し上げにくいことなんですが・・・、」おずおずと私は話を切りだした。「いい加減にしろ。だから言ったじゃないか。トラブルに巻き込まれるぞ、そうなっても知らんぞ、とあれほど言ったのに、わしの言うことを聞かんからだ。とにかく、貸してやるような金などない、ごたごたが起きる前に、今すぐ日本に帰りたまえ。」案の定、大使の返事はけんもほろろだった。打ちひしがれた気持ちで待合室のソファに身を投げ出して、どうすればよいかと思いめぐらしていたら、キヴレさんがやって来た。ことの顛末を打ち明けると、大使に聞かれてはまずいので、小声で「何とかやれるだけやってみよう、証人として立つのはいっこうに構わないから、いつでも連絡してきなさい。」と涙の出るようなお言葉だった。

 彼は大使館の仕事に戻っていった。入れ違いに、ルワンダからキサンガニを経て、ザイール河を下ってきた日本人旅行者が尋ねてきた。彼はまだ大学生で、「ヨシ」という名前だった。久しぶりに日本語で他愛のない話で盛り上がり、彼が大使との面接を終えるまで待った後、二人でマトンゲへ行ってそこらでビールを引っかけ、ルンバ・ライのレペへ行った。

 ある日、久しぶりにアリがやって来た。彼はいかにも実業家風の、がっしりした体格の男と一緒だった。その男の名はズゥズゥといい、「オメガ・プロダクション」という音楽や映像の制作会社を経営していた。私がルンバ・ライの新譜をリリースするためにかけずり回っるのを見て、アリが彼を紹介しようとして連れてきたのである。「ありがとう。でも、もうその件はビゼル・プロダクションと話が進んでいるんだ。」という私の返事にも彼は残念な顔ひとつせず、豪快に笑いながらバー・ムココで我々に何本もビールをおごった。私の部屋にカメラがあったのを見て、ズゥズゥ氏は、「俺もあれと同じやつを持っている、今度持ってくるからちゃんとした使い方を教えてくれ。」と言った。私は快く引き受け、その後はカメラ談義に花が咲いた。ちなみに当時私が使っていたカメラとは、最も初心者用に作られたオリンパスの一眼レフだった。

 彼は、その後私の部屋をよく訪れるようになった。彼は大のカメラ好きで、すなぼこりの舞散る環境にも関わらず、彼のオリンパスはぴかぴかだった。そのカメラは自動露出だったので、その点での失敗はなかったのだが、彼は絞りの使い方を写真表現に生かす方法や、露出補正が何故必要なのかという論理をちゃんと理解していなかった。しかし、リンガラ語でそれを説明するのには骨が折れた。彼は車を持っていたので、マルクまで日帰りの撮影旅行をするほどの仲になったが、特に商売の話はせず、互いの趣味の話に終始した。彼は実業家だったので、多くの現金を持っていたから、私はそれまで闇で両替していた分を彼に回してやることにした。実業家にとってドルは少しでもあった方がよいものだろうと思ったからである。しかし、彼は後日、私とマライを最後の窮地から救ってくれることになる。

 その頃、マライとフィストンは金策に駆けずりまわっていた。最初は使われなくなったルンバ・ライの機材や、マライの古い車を売ろうとしたのだが、さすがにどちらもぼろぼろで買い手がつかなかった。そのうち万策尽きて、せっかくヨーロッパから取り寄せたボーカル・アンプを売ることになった。二人は何日かその商談で姿を見せなかったが、ある日にこにこしながらレペにやってきた。商談がまとまって、機材一式があるバンドに引き取られることになったのである。アンプを失なった歌手達は、再び地声でバック・ミュージシャンと闘う羽目になった。「それで、金はどうしたんだ。」と訊くと、「今日は契約だけで、払ってくれるのは後日だ。」ということで、一旦浮き上がった私の気持ちも再び沈んでしまった。まあいい、とにかく目処は立ったわけだ。

 そうこうしているうちに、本格的に私の財布は底をついてきた。バンドのプロモーションやレコーディングの根回しに金を使いすぎたのである。本来ならば、マライが負担すべき経費だが、私は自分の滞在期間中に結果を出したくて、つい独断に走ってしまったのである。おかげで、週末のコンセールを諦めなければならなかったばかりか、食事まで切り詰めなければならなくなった。百円玉を数えるというか、千ザイール札を数えながら、肉は高いので豆と米だけの食事をとる日々が続いた。見かねたズジさんが、昼は厨房を借りてスパゲティをこっそり差し入れてくれ、夜は家からクリスティーヌの手料理をわざわざ私の部屋まで子供に運ばせてくれたりした。部屋代を払わなくなってから随分たつので、オーナーがどうなっているんだとズジさんに詰め寄ったことが何度もあったが、彼はそれを必死で押し止めてくれた。

 結局四月の終わり頃には、ビゼルとの話もまとまったので、レペ以外に外出する必要もなくなり、金もないのでホテルの部屋でラジオを聴き、録りためたテープや集めたドーナッツ盤の整理などをしていた。それまでキンシャサの天気は、基本的に曇りがちだったが、こんな頃になって連日さわやかに晴れわたるようになった。私は青空を恨めしい気持ちで見上げながら、肩身の狭い思いで日々を過ごしていた。代金の回収はなかなか出来なかった。マライやフィストンと一緒に、買ってくれたバンドのパトロンの家まで押し掛けたこともある。しかし何時間待っても主は現われなかった。キヴレさんとズジさんは、いよいよ実際的な行動に出ることを決め、ディアカンダにマライを呼んで、自分たちが証人として立った上で、三日以内に全額返済する旨の約定書にサインさせた。次の日から、彼等は売ったアンプの代金回収のほかに、ドラム・セットを売り払う算段をした。私は複雑な思いで事の成りゆきを見守っていた。金の貸し借りは私とマライの間だけの問題である。しかし、ドラム・セットまで売り払ったのでは、バンドのメンバー全員の気分に暗い影を落としてしまいかねなかった。私はエドゥシャとシモロにそれとなく水を向けてみた。彼等は、「大丈夫だ、大した問題にはならない。」と、また予言じみたことを言った。

 そんな険悪なムードの中で迎えた三日目の朝、マライが私の部屋の扉をノックした。彼は、売ったアンプの代金を回収し、それにタクシー・ビスの上がりを加えて、百万ザイールの札束を抱えていた。しかし、それでも私が貸した金の三分の一にも満たなかった。私は考えた。「これだけあれば、とりあえず滞在期間中の自由は手に入る。マライも随分苦労しているみたいだし、これ以上バンドの気運に水を差すようなことをするのも何だから、もうこれで許してやろうか。」私は彼に言った。「私はここで、ミュージシャンとしては予想もしなかったほどの幸福な日々を送っている。それはお前が私をルンバ・ライに招いてくれたおかげだ。そのおかげで、私はロコレのたたき方を学び、ザイール人達が曲をどうやって作り、アレンジをどうやって決めていくのかを、毎日実地に見てきた。これは私にとっては金で買うことの出来ない経験である。だから、私としては、残りの金を集めるのに、もうこれ以上お前に苦労をかけたくはない。ここにある金で、十分期限まではやって行けるだろう。残りの金は、私がここでザイールの音楽を学んだ授業料として、とっといてくれ。」

 彼は初めはきょとんとしていた。しかしすぐに、「それはダメだ。借金は借金だ。俺は返す。」と言い張った。「じゃあ、こうしよう。残りの金は、滞在期間中、俺の身の安全を守るための警護料だ。」「それもダメだ。俺はむしろお前に、ビゼルとの契約をとりつけてもらったマネージメント料を払わなくちゃいかんぐらいだ。とにかく、返すものは返す。いらん心配はせずに待っててくれ。」何とも爽やかな返事だと感心したのも束の間だった。彼は、「そのかわりと言っては何だが、その録音機材をオレにくれんか。」「これはダメだ。第一電圧が違うから、ここで使うにはトランスがいるぞ。それに満足な電池も売ってないから、すぐに壊れてしまう。」彼は残念そうな顔をした。それは当たり前のことだった。これをやってしまったんでは、全く引き合わない取引だったからである。まあ、とりあえず一部の金を手にしたので、私はその足でレセプションに降りて行って、オーナーに詫びた後、ディアカンダの払いを済ませ、久々に大きな気持ちで外に出て飯を食った。

 

ザイールからドルに戻せない

 

 戻ってみるとフィストンが来ていたので、私は彼と一緒にヴィルへ行くことにした。いつまでもかさばる札束を抱えてうろつくわけにもいかなかったし、ドルに替えて置いた方が、インフレの影響を受けずに済むからだ。キンシャサへ来てからわずか三ヶ月足らずの間に、物価は二倍以上に跳ね上がっていた。のみならずこの数週間は、毎週のように物の値段が改められた。だから厳密に言えば、ここに手にした現地通貨も、貸した時点から言えばかなり目減りしているはずだった。ただ、貸したときには、闇で両替したので、公定の一.五倍程度で手に入れてはいた。札束をリプタにくるんで膝の上に置き、タクシー・ビスに乗って都心へ出た。シティ・バンクへ行って、その束をどかっと窓口に置き、「これをドルに替えてくれ。」と頼んだ。

 窓口の男は、最初怪訝な顔をした。「どうしたんだ、これをドルに替えてくれ。」と私はゆっくり繰り返した。彼は少し間をおいて、「ノン」と言った。「えっ?」私は耳を疑った。私は、彼が私のリンガラ語をよく聞き取れなかったものと思った。「このザイールを、ドルに、両替して下さい。」「ノン」彼ははっきり言った。とんでもないことだった。ザイールからドルに戻せないのである。私の後ろに並んだ人たちからブーイングが出るのも構わず、私は何故だと詰め寄った。「ここに一ドルがいくらいくらと換算レートが出てるじゃないか。どうして替えてくれないんだ。」彼は徐ろに別の表を取り出した。それには、各国の通貨をキャッシュで、またチェックで売り買いする際の換算レートが、スクランブル状に細かく出ている。彼が指さして説明するには、「例えばドルと円なら、売りの欄にも買いの欄にも数字が出ているだろう。しかしザイールの欄は、どの国の通貨に対しても買いの欄が全て空白だ。だから答えは『ノン』だ。」 私とフィストンは途方に暮れてしまった。次の瞬間、一部始終を聞いていた後ろのおばはんが我々を突き飛ばし、その巨体で窓口を塞いでしまった。

さて、どうしよう。私は打ちひしがれた気持ちで札束を抱えたままそこを出た。フィストンは、もとよりそんな事情は見当がつかなかった。嫌だとは思ったが、その上の大使館に相談せざるを得ないかなと思って、私は重たい足どりで、その階段を上っていった。おずおずと大使に面会を求めた。執務室に通された私を見て、明らかに大使は嫌な顔をし、「君まだいたの、すぐに帰りなさいと言ったでしょ。」彼を怒らせてしまうのは、火を見るより明らかだった。しかし、ドルなり円なり手に入れないと、いくらザイールを持っていても仕方がないので、そこらへんのからくりについて私は知る必要があった。祈るような気持ちで、「お願いだから怒らないで聞いて下さい。」言ったが、既に彼はかんかんだった・・・。

 要するにこういうことだった。世界には、ドルや円やフランなどという、相互に両替の可能な「ハード・マネー」と、ルーブルやザイールなどという、その国でしか使えない「ソフト・マネー」というものが存在する。ハード・マネーは世界的に信用されていて、相互に売買の対象となり、為替市場で取引されるのに対して、ソフト・マネーは、その国の政治的経済的な変動が大きすぎて、誰も手に入れようとはしないので、国際的には全く信用されていない。従って、ハード・マネーをソフト・マネーに両替できても、その逆は不可能だ、というのである。そんなことは初耳だった。大使は呆れ返ってものも言えないようだった。「君は大学で何を勉強してきたのかね。」「はあ、私は文学部哲学科でございました。」「話にならん。とにかく生きているうちにこの国を出たまえ。これが最後だ。本当にどうなっても知らんよ。」

 ケニア・シリングでさえ、出国するときにはいとも簡単にドルに替わったので、まさかこんなことになろうとは思いもよらなかった。大使はもはや怒る気にもならないらしく、かえって親切な表情になってつけ加えた。「じたばたしてもはじまらんことをわからせるために、いくつか言っておくことがある。まず、合法的にドルを手に入れようと試みることは不可能だ。外貨準備高という言葉くらい知っとるだろう。どれだけ外貨を持っているかで、その国の力が決まるんだ。この国には、外貨が慢性的に不足している。つまり、銀行はドルを欲しがっているんだ。その銀行が君にドルを渡すと思うかね?。従って君は合法的にドルを手に入れることは出来ない。そこで、これは全く非現実的な話だが、君がここへやって来て、大使としての政治的圧力でもって無理に銀行に働きかけることを私に期待したとしよう。しかしそうした行為は、この国の通貨政策に圧力をかけることになるので、内政干渉にあたる。従って、そのやり方も実現できない。では、非合法的に手に入れようとするとどうなるか。ザイールの現地通貨を闇両替してドルを手に入れようとする行為は、ザイールの国内法で禁じられている。捕まれば、君はこの国に留置されることになり、最悪の場合強制送還。捕らわれなかったとしても、私はその事実を知ることになるから、職務上直ちに日本へ連絡する義務があり、君は帰国した際に逮捕されることになる。しかし考えもみろ。闇市場は銀行以上にドルを欲しがっているから、彼等がドルを分けてくれるはずがない。万一ドルをくれるお人好しがいたとしても、そのレートは目に余るほど低いものになるはずだ。要するにいかなる方法でも、この国でドルを手に入れるということそのものが違法行為であり、そもそも不可能なのだ。もし違法行為ががわかれば大使館は君を訴えることになる。さあ、もういいだろう、助けるなんてとんでもない話だ、聞かなかったことにしてやるから、さっさと帰ってくれ。」彼が言うのももっともだった。我々は、すっかりしょげ返ってそこを出た。

 

外貨獲得作戦

 

 さて次の日、私は朝のうちにマライのホテルにかけ込んだ。昨日の顛末を説明し、何としてもドルで返せ、と詰め寄ったのである。彼は外国へ行ったことがあるから、ザイールからドルには両替できないという事情はわかっていた。「だったら何故もっと早く言ってくれなかったんだ。」と私は再び声を荒げた。「まさかお前がそんなことも知らないとは思ってもみなかったし、ザイールの札束を見て喜んだから、もうそれでいいと思ったんだよ。」と彼は答えた。私はつくづく日本人としての自分が国際的な常識に欠け、金の面で恵まれているがために、何も知らないかを思い知った。とにかくドルを手に入れる何らかの方法を見つけることを約束させて、私は引き下がった。

 ザイールでは、ドルに限らず外貨一般のことを、フランス語で「デヴィーズ」という。大使も言っていたように、ザイール人がこれを手に入れることは、原則的に違法とされている。認められるのは、商用や旅行などで国外へ出国するために、どうしても外貨が必要な場合に限られる。マライはその可能性を探りはじめた。まず銀行に口座を開き、パスポートを取得し、どこか適当な国のビザでも取って、偽のエア・チケットを作らせ、海外旅行と見せかけて外貨取得を正当化しようというのである。それで銀行がうんと言うかどうかがネックだったが、割と堅いことを言わない銀行があると言って、彼は動き出した。私はその話を聞いてうんざりしてしまった。

 しかし、かねてから予定していたルンバ・ライの合宿予定日が間近に迫っていて、彼も私も、その準備や、それを終えてからのプロモーションの計画、それにレコーディングするためのスタジオ探しという、肝心な作業にも追われていた。その日からザイールを出国するまでの二週間あまりは、我ながら猛烈に働いた。マライは、マルクにある一種の保養施設を既に押さえていた。面白いことだが、ザイールでは、教会や公民館のように、人の集まる公共施設には、たいていバンド一つが演奏できるだけの機材が備えられている。だから保養施設は、バンドの合宿にはもってこいだったのである。これで売り払ってしまった器材の件も解決し、トランスポールも要らないとあって一挙両得だった。そのかわりメンバーは缶詰である。

 一方、私はレコーディング可能なスタジオを探して、キンシャサ市内を回りはじめた。これには、音楽業界に詳しいアリの尽力が大きい。アリは同時に、マライとの金のトラブルや、ルンバ・ライのプロモーションについて、ズゥズゥ氏に相談してみることをすすめてくれた。私は目先の忙しさのあまり、彼のことをすっかり忘れていた。自分で動いている時間がないので、例によって、子供を遣ってズゥズゥ氏と連絡を取ろうとした。「ディアカンダかカディオカにいるから、手が空いたら来てほしい、相談がある。」再びマライがカディオカのレペに顔を見せなくなったので、また子供を遣ってどうなっているのかと催促した。

 ズゥズゥ氏からも返事がなく数日が過ぎて、マライが合宿を予定した日になった。どうすればいいかわからずに、メンバーがカディオカに集まってきた。私はアリと一緒にスタジオ探しから戻ったところだった。バンドの警護役を務めるデローマという大男がマライのフォードに乗ってやってきて、彼の指示を伝えた。「今すぐ全員マルクに来い。」彼は合宿所の地図もよこしてきた。私はデローマに、「スタジオの予約の件で私はキンシャサに残るよ。」と伝えた。メンバーはぶつぶつ言いながら車に乗り込んでいった。私はアリとともにディアカンダに戻り、そこでズゥズゥ氏の伝言を受け取った。彼は明日は一日中家にいるらしい。話は明日だ。ところで今日はディアカンダのかつてのパトロンの一周忌にあたっていて、たまたま戻ってきた我々も、ミサに招かれて教会へ行った。その夜は、ディアカンダの一階のバーで、ミサの参列者全員でレコードをかけまくって、明け方までどんちゃん騒ぎをした。

 さて、飲み過ぎでぼーっとして目覚めた翌朝、デローマがやって来て、マライの伝言を伝えた。話によると、マライは今、ドルを手に入れるためにかけずり回っていて、毎日銀行と交渉しているらしい。それからレコーディングが具体的な話になってきたので、プロモーションの段取りをするために、テレ・ザイールや、国営ラジオの「ラ・ヴォワ・ディ・ザイール」のディレクターとコンタクトを取ろうとしている。連絡が取れなかったのはそのためで、「お前はスタジオの確保に全力を尽くしてほしい。」と伝えてきた。銀行の件については、今のやり方で銀行からドルを手に入れようとすると、どうしても手続きに一ヶ月以上かかってしまうので、まず彼は「CFA」を手に入れようとしている。CFAというのは、コンゴやカメルーンなど、アフリカ中部の各国で通用する通貨の名前で、彼等は「フラン・セー・ファー」と呼んでいる。それはハード・マネーとはいえないまでも、ある程度信頼できる通貨だということだった。で、そのCFAからドルには、比較的簡単に両替できるので、マライはその可能性を探っているとのことだった。

 私はマライと連絡が取れずにいらいらする数日間を過ごしたのだが、彼も苦労していることがわかって納得した。程なくしてザキ・デ・ザキもデローマと同じ伝言を携えてやってきた。彼女は、マライも苦労しているのだから、少し待ってやってほしいと、女らしいことを言った。我々はディアカンダの一階のテラスで話し合っていたのだが、その時ズジさんが交代勤務で出勤してきた。彼にもこの件は話してあったのだが、事態は進展していたので、我々は顛末をひと通り話した。ズジさんは、ポケットからフランスの五百フラン紙幣を一枚出してきて、こんなこともあろうかと思って、あらかじめ手に入れといてやったんだよと言って私に渡した。私は返すザイールを持っていなかったが、ズジさんは、「金が出来てからでいいよ。」と言ってそのまま仕事に入ってしまった。一応話がついたので、デローマとザキ・デ・ザキはマルクへ戻って行った。入れ違いにアリがやって来たので、昨日の伝言通り、ズゥズゥ氏に相談を持ちかけるべく、二人で出発した。

 

ズゥズゥ氏の助言

 

 ズゥズゥ氏の家は、立派な一戸建てだった。しかし敷地内に長屋を持つような貸家業はやっていなかった。我々はクーラーのきいた、広々とした応接間に通され、その深々としたソファにゆっくり座って主を待った。彼はパンツ一丁の身軽ないでたちで現われた。大きな口を開けて笑いながら、ぱーん、ぱーんと握手し、手づからビールを持ってきて栓を抜いた。彼はいかにも溌剌とした健康そうな男で、物事に拘泥しないおおらかさが、体全体からにじみでていた。「さて、相談とは何かな。」私はふたつの話をした。マライの金のことと、ルンバ・ライのプロモーションのことである。彼は黙って私の話を聞いていたが、何をそんなことで悩んどるんだという顔で、膝をぽんとたたいて、「わかったよ、両方とも任しとけ。」と言った。いかにも簡単そうに言うので、どうする積もりなのかと訊いてみた。私は自分の話したふたつのことを別々の問題として考えていたのだが、ズゥズゥ氏は、そのふたつをいとも簡単に直結した。

 「つまりこうだろう?、俺はレコードを販売するチャネルをいくつも持っているから、販売権を俺に譲ってくれれば、マライの借金は全て肩代わりしよう。しかし、当然それだけなら不公平なので、もちろん販売して得られる利益に対する真っ当な補償は、マライに対して行なう。それでプロモーションの件も、お前が貸した金のことも、円く収まるじゃないか。マライが納得すればの話だが、金が返せない以上、こうしなければ仕方がないだろう。分からず屋でもない限り、飲めない話じゃないはずだ。まずは質のいいレコードを作ることだ。」そうか、私は目から鱗が落ちた思いだった。こう前向きにいっぺんに片づけることの出来る人に巡り会えたのは幸せだった。「で、いくら貸したんだ。」と訊くから私は当時のザイールでこのくらいだと答えた。

 「なんとまあ、そんな大金をよくもミュージシャンに貸したもんだな。」と彼はあきれていたが、テレビ台の下の金庫から札束を引きずり出して、「とりあえず当時の額面通りにザイールでお前に渡そう。」と言って、巨大な札束をどんと私の膝の上に置いた。「ここに幾らかドルもあるが、その全額には足りないし、計算がややこしいから、とりあえず全部ザイールでとっといてくれ、後で俺もドルを手に入れるようにするから。目減り分は諦めろ、このインフレはどうしようもないからな。」私とアリは呆気にとられてしまった。私は既にマライから一部の金を返してもらっていたことを思い出し、その分をここから差し引いてくれるように頼んだ。ズゥズゥ氏は、「いいって細かいことは、どうせ俺はマライにドル建てで請求するし、販売権を獲得できたら、それでがっぽり頂くさ。まあこれは販促費みたいなもんだ。悪いようにはせんからとっとけや。」と言った。

 私はいいのかなと思ったが、彼はあくどいことをする人ではなさそうだったので、その言葉を信用することにした。「ところで、どこでレコーディングするんだ。」私はアリとともにいまスタジオを回っているところなので、まだ決まっていないと答えた。「そうか、何はともあれそれが先決だ、で、お前はいつ帰るんだ。」私はビザの期限を答えた。「よしわかった。明日俺はマルクへレペを見に行く。お前は俺のために、マライに対して紹介状を書いてくれ、今ここでだ。あとは俺が話をつける。」彼はてきぱきとした性格のようだった。「そうと決まったら、今日はここでゆっくりしていけ、もう何も心配事はないはずだ。そうだろ?。」全くその通りだった。我々はそれからビデオを見ながら何時間か談笑した。そのうちいい匂いがしてきて、食事になった。

 彼の嫁さんはパキスタン系の彫りの深さを持った、エキゾチックな顔立ちの美女だった。彼女は料理を並べると、普通のザイール人達の風習に反して、我々とともにテーブルを囲んだ。「俺は古い習慣が嫌いでな。」と彼は言った。メニューは、大きな白身魚のトマト・ソース煮と、珍しい干した牛肉の塩漬けと、フンブワとサフという、ちょっと変わった取り合わせだった。我々はそれを心ゆくまで味わい、そして食後にウィスキーを飲み、丸一日をその家で過ごした後、夜遅くに帰ってきた。いらいらの原因は全て解消された。私はディアカンダに帰り着くと、その金で部屋代を精算し、ズジさんにフランのレートを訊いて、その分のザイールを返した。しかし、後でわかったことだが、その時彼が答えたレートは、一番安い公定レートだった。彼は闇市場にも通じていたから、闇レートで私に請求した方が得なのは分かり切っているのに、わざわざ私のために損をかぶってくれたのである。

 

スタジオを予約する

 

 こうして、とりあえず金の心配をせずに動けるようになった。合宿と並行して、私はスタジオの予約に奔走し、マルクとキンシャサの間を行ったり来たりした。市内のレコーディング・スタジオの中で、最終的に候補に挙がったのは、ゾーン・デ・レンバにある「ステュディォ・レンバ」と、ゾーン・デ・キンシャサにある「ステュディオ・ボボンゴ」と、やはり一旦断わられはしたものの「ヴェヴェ」だった。手近なところからというので、ヴェヴェから交渉した。正規の料金を払うから貸してくれと言ったが、彼等は首を縦に振らず、スケジュールがいっぱいだと言い張った。アリは、ヴェヴェのスケジュールには通々だったので、「そんなはずはない。」といきまいて喧嘩になりかけたが、私は彼を抑えた。彼はヴィクトリアのエンジニアとしてわずかな収入を得ていたが、そのヴィクトリアはヴェヴェと契約していたので、もしここで面倒を起こして、彼が不利な立場に追いやられはしないかと、心配したからである。

 そこを諦めて、レンバに行ってみた。ここはシステムは結構まともだったのだが、音の分離をよくするために各楽器のブースに間仕切りがあって、互いの顔が見えないようになっている。目の合図に頼って曲を進行させている我々にとっては、演奏中にメンバーどうしのコミュニケーションが取れないことは致命的だった。残るはボボンゴだった。そこはベルギー人が経営している小綺麗なスタジオだった。「ビゼルと契約が出来ていて、オメガ・プロダクションがバック・アップしてくれるはずだ。」と言うと、二つ返事で快諾してくれた。楽器もシステムも環境も申し分なかった。

 後で知ったことだが、ビゼルからリリースされたショック・スターズの歌手のソロアルバムの中には、ボボンゴでレコーディングされたものが多く、両者はもともとつながりが深かった。しかも、レコードにはスタジオ名が明記されるので、販売力のあるプロダクションやプロモーターがついた録音は、結果的にスタジオの名を広めることにもつながり、彼等にとってもメリットになるのだった。ともあれ、予約が正式に取れたのは合宿が始まって三日目、録音予定日は、なんと私のビザの切れる当日で、しかもその日は私の誕生日だった。なんという不思議な巡り合わせだろう。しかもその日に私がレコーディングに参加できるかどうかは、その日のうちに私がザイールを出国できるかどうかにかかっている。つまりその日中にカメルーン航空のナイロビ行きのフライトがあるかどうかである。

 スタジオを仮押さえした足で、私は都心へ走った。バスの路線沿いではなかったので、足で走ったのである。走りながら私は迷っていた。「もしフライトがなくて、一本前の便に乗って帰国しなければならないとすれば、なんとしても残念である。もしフライトがなかったら、ボボンゴをキャンセルして、レンバを予約しようか。しかしレンバでは、メンバーが気持ちよく演奏できそうにない。自分の欲のために、コンディションの悪いスタジオでレコーディングするなんて、気分のいいものではない。質のことを考えるとボボンゴを選ぶべきだろう。」どうしても、ここまでやって来たからにはレコーディングに参加したかった。「もしフライトがなかったら、とにかくレコーディングまで行ってしまえ、あとはなるようになる。」とまで考えていた。運を天に任せるよりなかった。祈るような気持ちでカメルーン航空の事務所へかけ込み、息せききって「五月のフライト日程を教えてくれ。」とまくしたてた。

 「何をそんなにあわてているの。」鼻にかかった、低めのふくよかな声に思わず目を上げた。カウンターで私の応対をしてくれた女性は、目の覚めるような美人だった。どぎつい太ったザイール女ばかり見てきた私は言葉を失なった。ああ、こんな土壇場になって、こんなに素敵な人に会うなんて。彼女はそう若くはなかったが、とてもほっそりとして、なおかつ繊細で知性的な雰囲気をたたえた女性だった。「五月一五日ね、あるわよ。」うつむき加減にフライト表をめくり、ボールペンの先で表の中を捜していた彼女に見とれるあまり、私は返事が出来なかった。「どうしたの?、フライトはあるわよ。」私は緊張のあまり、頭の中でこんがらがったリンガラ語をかき回してさらに混乱しながら、「もっと早く貴女に会いたかった。」というような意味のことを言った。「そう、じゃあスーツ・ケースに入れて私を日本まで連れてってくれる?」「そうしたいのは山々だ」とリンガラ語で言えないでいる間に、彼女は魅惑的に笑って、私のオープン・チケットを持って奥のコンピューター室へ消えていった。 そこから出てきたときには、次の客が隣に来ていたので、彼女は私にチケットを渡すと、新しい客に応対した。「オ・ルヴォワール」でも「トコモナナ」でもなく、私は、口の中でそっと「アデュウ」と言ってそこを出た。

 再び私はスタジオに走った。天は私に味方した。今までの鍛錬と苦労の集大成が、アルバムという形になって残せるのだ。私はそのために全てをかけるつもりだった。ボボンゴの日程を正式に押さえ、予約票を手に入れてマルクに戻ったのは、もうかれこれ夕方だった。レペは既に始まっていて、私がその紙を手に部屋に入っていくと、みんなが、「おおっ。」という歓声とともに迎えてくれた。レコーディングが実現するのだ。彼等もさぞ嬉しかったに違いない。

 

マキ

 

 何日かブランクを作ってしまったので、次の日から、私は余計なことを考えずに合宿に打ち込んだ。合宿のことを彼らは「マキ」という。これはフランス語の「maquis」の訛ったものである。但し、「マキ」は、「卵」を表わすリンガラ語「リキ」の複数形でもあるので、両者はイントネーションで区別されている。合宿の「マキ」は、「キ」を高く発音する。さて、マキの行なわれた保養施設は、マルク郊外のザイール河を臨むきれいな丘の上にあった。何棟かの宿泊施設と集会所のようなものが建っていて、レペはその集会所のひとつで行なわれた。それこそ朝から晩まで、食事以外は延々とレペをやる日々が二週間も続いた。マライの留守中、フィストンがシェフ・ド・オルケストルの立場から、レペを仕切っていた。曲の方は、マキが始まるまでに全六曲のセベンのアレンジが全て整い、決まりかけていた新しいダンス「ンドゥエケレ」の振り付けがようやく形を見せはじめていた。ちなみに、「ンドゥエケレ」というダンスは、人混みのなかで悪い奴を捜す動作をダンスに取り入れたもので、リズムに合わせて左右に伸び上がる動きを持っている。

 完成させるには、アニマシオンのアレンジをきっちり決め、セベンのどの部分でどういうタイミングで、何回コールを入れるのか、入れた後、バックの演奏はどう変化するのか、という細かい演奏上のアレンジを残すのみとなっていた。それらは、私がスタジオの予約票を持ってレペに戻ってきた頃には、だいたい出来上がっていたが、実際に曲の中にはめ込んでみると、ダンスパート全体にもう少し厚みがほしいと感じられたので、あと二つ三つ別のアニマシオンを考えようということになった。気楽なセッションをやっていた頃に、グロリアがお遊びでやっていた「ウィット・ウィット」というダンスとアニマシオンが採用され、マライが考案したダサいブレークが挿入されることになった。「ウィット・ウィット」というのは、フランス語で「8・8」という意味で、両手の指で頭の上で8の字をかきながら、何かにしびれたように肩と首を震わせるダンスだった。こうして、ンドゥエケレ−ウィット・ウィット−ブレーク−ンドゥエケレ、という八十八小節も続く一連の立派なアニマシオンが完成した。さらに、アニマシオンとダンスを際立たせるための、派手めの演奏アレンジが決められ、その前後の演奏のニュアンスに手が加えられた。こうして、少しずつピラミッドを築くように、あっちにひとつ石を積んではこっちに積むという、地道な作業と試行錯誤の繰り返しによって、曲は完成に近づいていった。

 一方、歌手達による歌い込みの方もさらに深まっていた。歌手は六人だったが、この頃には、誰がどの曲を担当するかが正式に決められ、一曲に四人ずつが配置された。そのうちのひとりは作曲者で、もうひとりはマライだった。あと二人のポストをめぐって、様々な駆け引きがあったが、繰り返し行なわれたリハーサルの結果、それぞれのポジションが決められた。そして歌手によるソロ・パートの歌い継ぎが細かく決められ、歌詞の内容の物語性や整合性が検討され、曲の完成度は高まっていった。私は当時、いくつかのロコレを持っていたが、レコーディングするにあたって、高めの音でボリュームの小さいものを選んだ。これは、エドゥシャのドラミングが、どちらかというと太くて重いニュアンスであり、シモロのコンガも、中低音を中心に音を構成していたから、それとコントラストをつけたかったからである。

 こうしてマキの後半は、レコーディングを想定した、段取りをきちっと踏まえて演奏する練習と、プロモーション・ライブをにらんだ、本番さながらのステージングを重視した練習の二通りのやり方で進められた。ズゥズゥ氏はレペには一切口出ししなかった。実際彼は仕上がり具合に満足していたようである。確かに、当時のキンシャサにはここまで生でやるグループはなかったし、ルンバ・ライはどこか初期のビバの雰囲気を色濃く残していたから、少し古くささはあるとはいえ、破天荒な荒っぽさと、伝統音楽の部族臭さが醸し出すノスタルジックな側面を、より強調した方がメリットになると考えたからであろう。

 日本人の私にとってルンバ・ライの音楽は、アフリカの大きな空や、真っ赤な水をたたえて蛇行するザイール河の流れや、延々と果てしなく続く変化のない大地や、てこでも動かないほど悠長に流れる螺旋階段のような時間を、要するにこの国の持つ豊かさをありありと連想させるに足る世界だった。その音の流れの中に身を任せ、一日中、何日もぶっ通しでプレイしても疲れひとつ感じられなかった。

 マライとズゥズゥ氏は、何日も契約条件の細かい詰めをしていたようである。最終的に彼はズゥズゥ氏の申し出を受け容れ、バンドは現実的な可能性を得て走り出した。マキの終半、私はマライとともにときどき時間を作っては、地方都市の出先機関を回って、プロモーション・ツアーの段取りをつける工作に動き出した。私は滞在期限の関係でそれに参加できる可能性はゼロだったが、そうしてキンシャサへ出ていくついでに、ザイールをCFAに替え、さらにドルにすることもしなければならなかったからである。正直言って、マライがいっこうにドルを持ってこないので、私は再びいらいらしていた。帰りのチケットはあるし、ナイロビで贅沢さえしなければ、日本に帰るまでそんなに金はかからないはずだったから、最悪の事態ではなかったものの、やはり自分の金は取り戻したいという欲目が出たのである。

 キンシャサの駅から東へ少し行ったあたりに「マルシェ・ノワール」がある。つまり闇市のことで、「ある」とはいっても売人が通りにたむろしているだけなのだが、マライはそこでザイールを少しずつCFAに替えていた。CFAをザイールに替えることと比べると実に不利なレートだったが、それでもそこが一番有利なのだそうだ。それで得たCFAを銀行へ持って行って預金し、少しずつドルに替えていったのである。それがザイール人が合法的にドルを手に入れるもっとも一般的な方法のようだった。ただ、マルシェ・ノワールの売人も銀行も、基本的に外貨を手放したがらないから、実に少しずつ、何度も両替していかないと、ドルは貯まっていかない。マキが三週間目に入ったある日、私はマライにドルがどれだけ貯まったのかと訊いてみた。返事ははかばかしいものではなかったので、私はズゥズゥ氏に相談してみることにした。彼は、だいたいの事態を予測していた。彼はドルは持っていなかったが、フランス・フラン、スイス・フラン、ベルギー・フランをかなり貯めていた。私はズゥズゥ氏から、出資した金の全額をザイールで受け取っていたため、今度はそれをドルにするために、二人が手に入れられる限りのドルを協力して集めることになった。

 その日、私は合宿所には泊まらず、キンシャサに出た足でディアカンダに帰った。何日かぶりでズジさんと話していると、やはりドルの話になった。ズジさんは百ドル紙幣を、なんと二枚出してきた。私が目を丸くしていると、ディアカンダの上階に住んでいる実業家や、さらにはここのオーナーまでやって来て、百ドル、千フラン、と、貴重な外貨を少しずつカンパしてくれた。もちろん、それに対して私はザイールで十分にお返ししたが、それでも思わず涙が出て止まらなくなった。

 

帰国三日前から前日までの顛末

 

 翌日、ズジさんが起こしに来た。わざわざ起こしに来ることは珍しいので、どうしたのかと思っていたら、彼は再び五百フランの紙幣と、ベルギー・フランで幾らか持ってきた。ズゥズゥ氏がアリに昨日のやりとりを話し、アリが夜中にかけずり回って、親戚や知人、ヨーロ地区にあるマルシェ・ノワールなどで、これらの外貨をかき集めてくれたのである。アリが来なかったのは、明け方に別のトラブルに巻き込まれ、面倒に陥る前に子供に金を託してズジさんに届けさせたからである。なんと、彼はそこまでして私に金を届けてくれた。何も言わない奴だが、本当に信頼の置ける男である。私はそれを言い値でザイールに替え、資金の一部に加えた。その頃から、私の帰国はディアカンダや界隈の関係者を巻き込むことになった。少しずつ、密やかに、次々と外貨が寄せられた。日野自動車の現地法人に勤めるベルギー人を夫に持つ、日本人の女性から援助を受けたこともあった。こうして、あっという間に時は過ぎ、帰国の日が迫ってきた。

 ズジさんは、「帰国の日付は親しい人間以外には誰にも言うな。」と言った。「なぜなら、お前が旅立つ直前を見計らって、信用できない奴等がお前の部屋に忍び込んだり、訪ねてきて居座ったりして、持ち物を少しでも手に入れようとするからだ。以前には掠奪騒ぎもあったから、くれぐれも気をつけてくれ。」とズジさんは念を押したあと、少ししんみりしてつけ加えた。「オレはな、お前が無事に日本に帰り着いてくれれば、それが一番なんだよ。」その日は一日荷物をまとめ、持って帰るものと置いていくもの、世話になった人たちに置きみやげとして渡すものなどを仕分けし、長いようで短かかった今回の滞在で、足りなかったことはなかったかどうか、ゆっくり思いめぐらすことにした。

 午前中にシンバ君がベルギー・フランを持って来たので、高く買ってやった。この異国で、肌の色も違い言葉も習慣も違い、何よりも経済的な格差の違いすぎる国から来た、この一介の異邦人をここまで暖かく見守ってくれる彼等の温情に、何度も胸が熱くなる思いだった。

 昼過ぎにマライが車でやって来たので、私は彼とともに外出し、まず自分のスーツ・ケースに収まりきれない荷物のために、別のスーツ・ケースをひとつ買った。そして、何軒かのみやげ物屋を回って、いくつかのみやげを買い求め、三時になったので銀行へ行った。そこで彼の持っているドルを全て計算したのだが、到底足りなかったので、銀行の人の知恵でそのドルをズゥズゥ氏の口座に振り込むことにした。一本にまとめた方がロスが少ないと教えてくれたからである。その足でズゥズゥ氏の家へ行き、彼が不在だったので、マライの金を彼の口座に振り込んだことを伝えた。出発は月曜日なので、行動を急がなければならなかった。今日は既に金曜日である。明日の土曜日は銀行は午前中だけなので、何としてもそれまでにドルを作ってしまう必要があった。

 ディアカンダに戻ると、世話になった人や友達が集まっていた。アリがいたのはもちろん、ポストに努めるジャック、散髪屋のフレディ、イチャーリ先生も来ていた。彼等には、日本から持ってきてまだ手許に残っていた扇子の置物をプレゼントし、連れだってバー・ムココへ飲みに行った。彼等はズジさんの知らせを受けて集まってきたのである。私が巻き込まれた様々なトラブルの思い出話に花が咲いたが、彼等は気を遣って宴会を早めに切り上げた。私が荷物をまとめる時間を作るためである。私は部屋に戻ると、いつでも出ていけるように、日常必要なもの以外の全てをパックし終え、深夜になって眠りについた。

 翌朝、私は七時に起きてマライのホテルへ行った。そこで、ザキ・デ・ザキがいるのも構わず、マライを引きずり起こして、車を運転させてズゥズゥ氏のところへ行った。ぐずぐずしている暇はなかったからである。運良く彼がいたので、三人でズゥズゥ氏の口座のある銀行へ行き、昨日の振り込みを確認したあと、全てのドルを現金化する手続きに入ろうとした。全部足しても私が出資した金額の七割程度にしかならなかったので、ズゥズゥ氏の持っていたフランス・フランとベルギー・フランを加えようとしたのだが、銀行側が何故かそれを拒んだ。そのためわれわれは、ヨーロ地区にあるデヴィーズ・ノワールへ行って、それらをCFAに替えた。それを持って再び時速百キロを上回るスピードでブーレヴァールをぶっ飛ばし、銀行に戻ったのは一一時半だった。それは目にも止まらぬ早業だった。遅々として、いっこうに動かなかったザイールの悠長な時間の流れが、ごろっと、大きな音を立てて一回転したかのようだった。キンシャサの土壁づくりの小さな家々が立ち並ぶ、時間の止まった街並みも、マルシェの賑やかな喧噪も、われわれの車の両側を時速百キロで駆け抜けていった。

 混雑する窓口で、ズゥズゥ氏は金をばらまいて列の最先端を確保し、窓口の女にも金を握らせて手続きを一番先にやらせた。女の上司がやって来て、「今日中に現金を出すのは無理だが、パスポートさえチェックできれば、T.C.を午後三時までには用意する。」と約束したので、私がパスポートを渡し、受取人になることにした。銀行側もその点については依存がなかった。そして、さっきまでの急転直下から一転して、それからおよそ三時間を、窓口の前のベンチで、止まった時間となれ合うことになった。正午を過ぎると、銀行には何ぴとといえども立ち入ることが出来ないためである。我々は、じっと息を詰めて待った。この国の事務処理の非効率から延々と何時間も、場合によっては何日も、成すすべもなく待たされることには慣れっこになっていたが、この時の三時間はそれよりも長く感じられた。それに私はパスポートを銀行に預けてしまっていたので、のこのこ外を出歩くのは危険すぎた。それにその金がないと、道中が不安でもあったから、なおのことそう思ったのかも知れない。昼どきを過ぎても腹は減らず、暑苦しいのに喉の渇きさえ感じなかった。こうして大の男三人は、電気の消えた無人の薄暗い廊下で、ぽつねんと待った。

 午後三時といえば、今までの経験からいって四時か五時になるだろうという予測に反して、三時前に目の前のカーテンが開かれ、さっきの男がにこやかに我々を呼び寄せた。彼から受け取ったT.C.は、紛れもない本物のトーマス・クックだった。私は促されるままにその全ての紙片の上欄にサインを入れ、パスポートとの照合を受けたあと、全てが返却されて一介の旅行者に戻った。マライとズゥズゥ氏は、二人ともわが事のように喜び、思わず抱き合ったほどである。そして明るい気持ちで銀行を出、車でまずズゥズゥ氏を送り、マライと私はマルクへ向かった。彼も晴れ晴れとした気持ちで車を走らせ、私も久しぶりに、束の間の観光客気分で、ドライブを楽しんだ。「どうだ、キンシャサはマカンボ・ミンギだろう。」とマライが言ったので、私は、「いや、マカンボ・リコロ・ヤ・マカンボだ。」と言った。それは、問題がさらなる問題を生み出すという意味で、ビバの曲のなかで使われたギャグのひとつである。ともかくそのようにして、マライのマカンボも、私のマカンボも、ズゥズゥ氏の尽力によって、土壇場で一挙に解決し、レペはレコーディングのための最終調整に入っていった。

 帰国前日は日曜日だった。昨夜はほぼ徹夜でリハーサルをやったため、みんな疲れ切って昼前まで寝ていた。その日は合宿所を明け渡さなければならなかったので、荷物をまとめてとりあえず集会所に集まった。そして夕方まで軽く練習したあと、車に乗って全員キンシャサに帰ってきた。ディアカンダに戻ると、ズジさんがちょうど昼の勤務を終えて家に帰るところだった。「おお、ちょうどいいところへ来た、これからわしの家で飯を食え、最後だからクリスティーヌに別れを言ってやってくれ。」と言うので、私は喜んで彼と一緒にマテテへ行った。ヴィクトワールからタクシー・ビスに乗るのも、マテテへの悪路に腰をかがめて耐えるのも、マテテの市場のすえた匂いをかぐのもこれで最後だと思うと、何とも言えない感慨があった。

 クリスティーヌは、既に料理を暖めて待っていた。ズジさんの兄や親戚、家主の旦那などが既に集まっていて、またしてもビールが大量に振る舞われ、何皿ものどっぷりとしたザイールの料理が供された。二台の扇風機からの暑苦しい風も、それにはさまれたラジカセからの耳をつんざくような大音響も、やはりこれで最後だった。ここで何度食事をしたことだろうか、ここでテレビを見ながら、私は日本の古い時代劇や、子供向けのテレビ映画やアニメが、フランス語に訳されて放映されているのを見た。信楽高原鉄道の列車事故を知り、消費税が導入されたのを知ったのもこの部屋のテレビでだった。金に困って弱り果てていた一ヶ月近くの私の生活を陰で支えてくれたクリスティーヌに、十分に報いてあげることが出来ただろうかと思いやると、何とも申し訳ない気持ちでいっぱいになった。しかし、宴の後、陰でそっと彼女にそのことを打ち明けると、彼女は、「がはははは。」と豪快に笑って、私の背中をぼんとたたき、「何を言いだすのよあなたは。」と言った。みずくさいというのである。彼等は、私が翌朝レコーディングの本番を控えているのを知っていたから、早めに引き上げていった。ズジさんは翌日は非番だったので、必ず見送りに行ってやると言った。私はフライトの時刻を伝え、彼の家を出て、市場のロータリーからタクシーでディアカンダに帰ってきた。

 

レコーディング

 

 翌日、この日は私の帰国できるぎりぎりの日だった。マライはなんと朝七時にディアカンダにやって来た。私は急いで身支度をし、選んだロコレとともに車に乗り込んだ。我々はメンバーを拾い集めながらキンシャサ中を走り回り、九時にボボンゴに着いた。しかしミュージシャンは元来寝ぼすけなものなので、いくらなんでもこんなに朝早くからでは演奏に身が入らず、スタジオ内でセッティングとリハーサルをかねて、二時間ほどウォーミング・アップをした。

 そして休憩に入り、本番に備えて最後の打ち合わせをした。手順としては、まずバックの演奏を一発で録り、そのあとで歌を入れることになった。歌も一緒に入れたかったのだが、それではチャンネル数が足りなかったからである。なるべく多重録音を避けようとしたのは、我々の演奏は即興性が高く、そのときどきの合図が演奏の展開に重要な役割を果たすので、楽器陣をバラバラに録音したのでは、その阿吽の呼吸が損なわれるからである。それでも全ての楽器にインプットを立てる完全なセパレート方式で、スタッフは全く手を抜かなかった。日本ではこんなことはあたりまえだが、ここではそうではないのである。メンバーはいつもと変わらずリラックスしていて、実にいい雰囲気だった。

 昼から本番に入った。念のため、ひとつのトラックにマライがガイドとしての歌を入れ、我々はそれをヘッド・ホンで聴きながら演奏した。全六曲のうち録り直したのは二曲だけで、あとはファースト・テイクで一発OKとなった。ほぼ三時間ほどでベーシック・トラックの録音を終了したが、仕上がり具合は全くいつも通りで、なんら問題はなかった。では全六曲のうち、私の気に入っているものを紹介しよう。録音された順番は日本でアルバムとして発売されたものとは若干異なっているが、ここではアルバムの曲順に従うことにする。

 まずは1曲目のアルバム・タイトル・チューン「ミランダ」である。これはマライのクレジットとなっているが、本当に彼が作ったのかどうかは定かではない。「ミランダ」とは、新生ルンバ・ライのステージに華を添えるために新加入した女性ダンサーの名前である。歌詞の内容は取り立てて言うほどのものではない。新しく自分の友となったミランダに対する愛情と友情をさらりと歌ったものである。しかし、特筆すべきはセベンに於けるフィストンのギター・ソロで、彼の部族音楽に対する深い造詣とセンスを見事に表現している。跳ねるようで華やかでありながら、リズムの深い切れ込みに、思わずロコレをたたく手に力がこもったのを覚えている。

 さて、2曲目。タイトルは「カムンドゥングレ」。録音当時は「ベベ・カムンドゥングレ」といった。これは、バテクルという非常にインテリな美男子の歌手の歌である。改めて彼のことを紹介しよう。彼はビバ在籍当時のコフィ・オロミデに曲を提供したり、オロミデとデババの結成した幻のグループ「イストリア」や、その後のデババ・カルリート路線の「ショック・スターズ」に曲を提供し続けた。ザイール・ルンバ界で、一貫して甘いラブ・ソングを書き続けたが、生活のためにそれらの名曲を金に換えてしまったために、ザイール音楽史にその名を残すことなく消えて行った名コンポーザーのひとりである。 私は彼の知性的な顔立ちと、明晰な頭脳と控え目な性格が大好きで、エドゥシャやシモロとともに、ルンバ・ライのなかで最も仲良く付き合った相手のひとりである。自分の出番のない曲の練習中、彼は英語で書かれた経済学の本を読みふけっていた。なんでもアメリカに留学する希望を持っているという。その二年後にキンシャサを訪れたときには、彼に会うことは出来なかった。インドネシアに渡ったとか、フィリピンでその姿を見た者がいるとかいう噂だけが残っていた。

 さて、「ベベ・カムンドゥングレ」というタイトルについては、彼はただ苦笑いするばかりで何も教えてくれなかったが、女の名前のようである。曲は実に宗教的で厳かなコーラスで始まる。それに続く歌パートはあくまで重く、マイナー調に展開してからは、実にアフリカ的な深い暗さを表現している。歌詞の内容についても彼は多くを語らなかったが、ディクテーションしてみると、インテリの彼にふさわしく哲学的で、隠語と比喩を交じえ、チルバ語が多用され、彼の故郷であるアフリカ中部の奥深いジャングルの出の者にしか、その真意はわからないようになっている。しかし、ルンバ・パートに於けるその重苦しい雰囲気から、実にゆっくりと段階的にダンス・パートに盛り上げていく構成は、何度聴いても飽きることがない。私が個人的に最も愛する曲である。

 ザイールのバンドのコンセールでは、ライブ・パフォーマンスのため、オープニング・アクトやスターの登場する直前、さらに幕間などに、よくインストゥルメンタルによるダンス・メドレーが演奏される。ビバの有名な「リズム・モロカイ」や、サフロのアレンジによるヴィクトリアの名曲「アンベンゾ」などが有名なところである。4曲目の「ンガフーラ」はそのための曲で、われわれはこれを非常によく練習した。こういう曲は、ザイール各地の部族ダンスをロック的にいくつもつなぎ合わせたものが多く、よく聴くとそのバンドの出身者や影響を受けたスタイルなどが見て取れる。ルンバ・ライは、バ・ザイール出身またはその子孫、中部ザイールのバンドゥンドゥ州出身またはその子孫の者が多く、主にそのふたつの地方の音楽が色濃く取り入れられている。クレジットはされていないが、アレンジはフィストン、エドゥシャ、シモロである。この曲には、もともとはこの後ろに「ムトゥアシ」という、カサイ州地方の有名な民俗音楽のダンス・パートがついていたのだが、全部演奏すると四〇分を超えてしまうので、録音の際に割愛された。そのかわり、その年の年末に彼等が来日を果たした際、東京で録音された日本盤「トサンブワ」のなかの、「フローラ」という曲にその割愛されたムトゥアシのフレーズが受け継がれている。

 最後にラストの曲「ザコ・マトゥバンガ」を紹介する。これは再びマライのものである。この曲は名曲のひとつに数えられるだろう。「ザコ・マトゥバンガ」は、テンポの速い、軽やかな曲調なのに、歌メロが実にゆっくりしていて、短調が使われていないにも関わらずもの悲しい雰囲気がある。この不思議な感覚がリンガラ・ポップスの醍醐味と言っても過言ではない。アフリカ的な大波に乗って覆い被さるような分厚いコーラスが堪能できる。その大きなうねりの中で、私は非常に細かい泡のようにロコレをたたいた。そのまろやかさを断ち切るかのような、セベンに於けるフィストンのギター・ソロは圧巻である。からみつくだけではなく、縦に切るのもアフリカの音だと実感させられる。

 これらの曲は、その後ズゥズゥ氏の尽力でマスタリングされ、マスター・テープは日本にも送られて、クラウン・レコードから翌年の一月に日本盤としてもリリースされた。私はそのマスター・テープのコピーや、発売されたアルバムを持っていたのだが、1995年の兵庫県南部地震の際に、全ての資料とともに失なってしまった。アルバムは初回プレスを売り切って廃盤となっていたため、私はその愛聴盤を永らく所持していなかったのだが、地震から3年あまりたった冬に、とある中古盤屋で二束三文に売られていたのを見つけ、喜び勇んで買い求めたものである。

 さて、こうして緊張を極めたバック陣の録音を終え、そのあと歌手達は歌入れのリハーサルに入った。その時点で私の乗る飛行機の出発まで、あと数時間に迫っていた。マライは私とフィストンを連れ出して車に乗せ、ディアカンダへと疾走した。ディアカンダでは、ズジさんとアリが待っていた。私は部屋に入って荷物を引き出し、一部をアリに持ってもらいながら、ディアカンダの階段を駈け降りた。裏の家の子供が別れを言いに来たので、よく私が困ったときに、伝令となって走り回ってくれた彼に幾ばくかの小遣いを渡し、別れの握手をした。そして、イチャーリ先生に別れを伝えてくれるように、最後の依頼をした。そこではっと思い出した。キヴレさんのことをすっかり忘れていたのである。私はキヴレさんの住所を調べ、「悪いけどこれも頼むわ。」と言って、彼にもよろしく伝えてくれるよう頼んだ。その子供は、私のところで走り回っていたこの三ヶ月の間にすっかり大人びた雰囲気を身につけ、このうっかりものの私に、「しょうのないやっちゃなあ」というしかめっ面をして見せた。そうこうしているうちにオーナーが降りてきたので、困ったときに陰ながら助けてくれた彼に別れを告げ、私はアリとズジさんとフィストンとともにマライの車に乗り、慌ただしくそこをあとにした。

 マライは全速力で空港への道を突っ走り、わずか三〇分後には我々は空港のロビーにいた。マライは慌ただしく私に別れを告げると、録音の続きをやるために市内へとって返した。アリとズジさんは、日本人を問題なく出国させることには慣れていた。ここキンシャサ国際空港では、入国と同じく、出国にもトラブルが付き物なのである。二人は、私を二階にあるカフェ・テラスに座らせ、パスポートとチケットをポケットに入れ、大きな二つのスーツ・ケースを引きずりながら、出発ロビーの方へ歩いて行った。私はエコノミー・クラスだから、機内預けは二〇キロまでだと決めて掛かっていたが、彼等は「そんなことは心配いらん、何も考えんでいいからお前はここで座っとれ。」と口を揃えて言った。

 私はそこでフィストンとともにカフェ・オ・レを飲みながら、傾きかかった陽の光に照らし出された、空港の全景をぼんやりと見つめていた。そして、実にばたばたとした、せわしない出来事に翻弄された日々を追想した。 ここに着いた当初のショックを思い起こした。コンセールやレペという、音楽的に楽しかった充実の日々を思い出した。マライに金を貸したために、滞在期間のほぼ半分近くを、不健康な精神状態で過ごしたことを思い出した。しかし、ここで穏やかな夕暮れ時の静かなひとときを味わっていると、そうした混沌やどたばたそのものがキンシャサであり、ザイールであるような気がしてきた。実に悠長な、大きな時間の流れのなかで、ここにいる人たちは、ある時は命がけでかけずり回り、ある時は仕事も放り出して音楽に憂き身をやつしている。しかし、誰がどんなことをしていようとも、それとは全く無関係に時はゆっくりと流れる。そして、もうこれで限界という最後の土壇場になって、事態はごろっと動き、望んでいた方向にほんのわずかに進展し、時間はまた知らんぷりをしてゆっくり動きはじめる。これがザイールの時の流れだった。私は結構ラッキーだった部類だろう。結局、はらはらさせられたとはいえ、望んでいた以上のものを手に入れたのだから。

 アリとズジさんがにこにこしながら帰ってきた。既に機内預けのタグ・シールを手に入れ、チケットには全ての必要事項が埋めてあった。パスポートには出国スタンプまで押されていた。「いくらかかったの。」と訊くと、わずかな金額だった。ズジさんの知り合いが当番の日だったから、結構スムーズにいったらしい。出発時刻までかなり時間があったので、そこのカフェでさらにキンシャサのひとときを楽しんだ。不要になった手持ちの現地通貨を全て彼等に分け与え、約一時間後、私はみんなと固い握手をかわして出発ロビーに降りて行った。

 

KINSHASA AIRPORT DEPARTMENT JAM

 

 私は全ての手続きを終えていたので直接出国待合室へ進み、ベンチで飛行機の到着を待った。待合室には、白人ばかり十数人がいた。程なくカメルーン・エア・ラインのボウイングが姿を現わし、何人かの客が降りて脇の通路を通り抜けていった。しばらく時間が経ったが出口の扉が開かれず、われわれの間に不安な空気がよぎった。待つのは当たり前という気持ちが半分と、不安も半分あった。しかし、離陸予定時刻の五分前になっても扉は閉ざされたままだった。さらに時間が過ぎて、軍服姿の係員が待合室に入ってきたとき、やれやれやっと出発か、と我々は立ち上がりかけたのだが、彼は語気荒く全員に向かって、「立って一列に並べ」と命令した。私は、入国したときの、あの軍人の横柄な態度を思い出して嫌な気分になった。と思う間もなく、列の前の方で女性の悲鳴が聞こえた。我々はどよめき、何が起こったのかと前を見た。見ると、銃を構えた軍人が列の先頭から、ひとりずつの金目のものを掠奪しているのである。身構えようとしたとき、既に待合室の四隅には銃口をこちらに向けた軍人が立っていた。もう誰も声を上げる者はなかった。前の方から白人女性のすすり泣きが聞こえ、服の破られる音や、鞄のチャックを乱暴に引きちぎる音、さらに鞄自体が放り出される音が、静寂の中に響いた。それが徐々に近づき、私の番になった。もう抵抗しても無駄なのは明らかだったので、私は損害を最小限にくい止めるために、自ら二つのボストン・バッグの口を開けた。掠奪者はそのうちのひとつに楽器や工芸品が詰まっているのを見て、それをバッグごともぎ取り、部屋の隅へ放り出した。その中には、もっとも気に入っていたロコレと、レコーディングに使った小振りのロコレ、さらに、キンシャサの美術学校で仲良くなった友人が、わざわざ作ってくれた木彫りの人形や、知り合いになった画家の青年の絵などが入っていた。しかし、略奪者に根気が足りなかったのか、もう一つのバッグには目もくれなかったので、私の録音機材やカメラやテープの一部は、無事すり抜けることが出来た。掠奪が最後まで終わると、我々は両手を頭の上に乗せるよう命令され、その姿勢のまま一列に並んでその部屋を出た。

 不思議と恐怖心はなかった。それより、この空港からさっさとおさらばしたかった。待合室を出ると手を降ろすように命令され、我々は犯罪者のように、兵士に護送されてタラップまで歩いた。途中、後ろから私を呼ぶ声がしたので振り返ると、空港の建物の屋上に、ズジさんとアリとフィストンがいて、元気に笑いながら大きく手を振っていた。私は彼等のこの最後の挨拶に返事を返したかったのだが、行列はとてもそんなことの出来ない、暗い厳しいムードに包まれていた。仕方なく、ちょっと笑っただけで、後ろの男にこづかれるようにタラップまで進んだ。そして階段を上って機内に入った。そこは、経済的により豊かな国、未だ見ぬカメルーンの空気だった。柔和な笑顔のステュワーデスが迎えてくれたが、一番前の白人女性の破れたブラウスを見て、はっと息をのんでいた。我々は皆揃って厳しい表情をし、それまで和気藹々とした空気の流れていた機内に、明らかに水を打ったような静けさを呼び込んでしまった。私の席は窓際だった。運良く建物が見える側だったので、私は屋上の三人を捜し、彼等を見つけて今度こそ手を振った。しかし彼等に私が見えていたかどうかはよくわからない。飛行機は砂塵を巻き上げて飛び立ち、私はキンシャサに別れを告げた。全ての感慨がけし飛んでいた。これもまたキンシャサの姿だった。こうして第一の旅は終わった。

 


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