観月の夕べ ガムラン・ワヤン・クリッ


摩耶山天上寺

 ワヤン・クリッという影絵芝居が、バリやジャワにあることは知識として知っていたが、それがこれほどまでに精緻でリアリティに富んだものとは思わなかった。芝居は、白い布の張られた2間四方くらいの衝立の背後から光をともし、その前に座った語り手ひとりの手によって、左右に積み重ねられた登場人物の人形を持ち替えつつ、進められる。語り手は布に向かって数々の人形をかざし、物語を語って行く。その幕の反対側が客席である。その人形は膨大な数があり、登場人物全てを網羅しているのはもちろんのこと、一人の人物の表情や態度の違い、化身などにも対応して、いくつものバリエーションがある。現在では、多くは合成樹脂で作られているが、古い物は水牛の皮をなめして乾かしたものに彩色してある。その絵は精緻を極め、映し出された布の上で、絶妙の雰囲気を醸し出す。ほとんど全ての人形は手足が動き、中には口や眉の動くものもある。人形以外にも、背景や山を表すものもあり、場面ごとに使い分けて行く様は、見事という他はない。内容は「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」などの古代インド叙事詩の一場面を題材としたもので、たぶんインドネシア語で語られているので内容はわからない。しかし、闘争のシーン、和睦のシーン、悩みのシーン、愛のシーンなど、絵だけでわかる場面も多く、なかには幕間のアトラクションと思われる寸劇のシーンもあった。語り手の背後には楽士が控えており、ガムランのフル・オーケストラが場面に応じた音楽を奏でる。おそらく語り手が、シナリオに従って音楽の始まりや終わりを指定したり、テンポを決めたりする。その合図は、幕を張る枠の土台が大きな箱になっていて、おそらく舞台装置一式がその中に入るようになっているのだろうが、それを木槌のようなもので叩いて伝えている。あるいは、足に結わえられた鈴で別の指示を与えているらしいこともあった。語り手も楽士も楽譜を持参していなかった。全て暗記しているか、または一定のフレーズの変奏で対応しているものと思われる。にしても、曲層は多様であり、非常に高度である。語り手のすぐ後にはクンダンという両面太鼓の奏者がいて、おそらくそのひとが楽団の指揮者である。大中小3種類のクンダンを操るが、両面太鼓で片面ずつ音程が異なるため、都合6つの音程が出る。それぞれにオープン・ミュート・スラップなどの手の使い分けがあって、その種類だけ倍増された音色が出ることになる。語り手から合図が出ると、すぐにクンダンの奏者が何かのきっかけを出し、ガムランがそれに続く。
 初めは幕の前で影絵を見ていたのだが、言葉がわからんので布の背後に回ってみた。語り手はまだ若いインドネシア人の青年である。客席がだれたと見るや、アトラクションとして、日本語で寸劇を演じてみせた。「なに言ってるか、私たちわからないね」「あはぁっ、まあね、いろいろむずかしい争いがあるからね」「日本でもそうでしょ」「たとえばどんなこと?」「たとえば・・・家賃払わないとか・・・」ここで客席がどっと沸く。「家賃ふみたおしたらあかんがな」「あかんちゅうたかてない袖振れんがな」「ほなどないすんねん」「そら皆さんに助けてもらわなしゃあないな」と、ここで手回しよくカンパ箱がまわされる。いやお見事。客席が和んだ瞬間を見計らってのこの集金ならば、結構紙幣も集まったと見える。「あの・・・軽い方でいいですからね」「せやな、持って帰んのん重たいもんな」「ええ、ですから紙の方をよろしく・・・」なかなかやりよる。そしてカンパ箱が一周した頃を見計らって、物語の続きが始まる。今度は要所要所に日本語を入れて行く巧みさ、戦争のシーンでは、即興的な格闘シーンがあったり、「おまえ変なクスリやっとんちゃうか」とか「そんなたばこ、みたことないです」とか、時節を表したアドリブも随所に織り交ぜられて、なかなか盛り上がって終わった。語り手の人柄もすばらしかったが、バックをつとめた楽団は、なんと神戸市長田区に本拠を置くガムランのグループで、非常に統制が穫れてて演奏がすばらしい。のみならず美女が多い・・・というか、美女しかおらんかって、しかもメンバー募集中、特に男性大歓迎やという・・・ うぉぉぉぉぉぉぉっ、ぶ・・・ぶじゅるるるるる・・・

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Posted: 月 - 9月 15, 2008 at 12:37 午前          


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