Vamos Sambar


Yaso Project



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 写真に写らんかったひと、ごめんなされ。今日は、田んぼの除草を切り上げて、私をショーロへ導いた張本人の「やーそ」氏が主催するサンバのセッションに、私の大切な音楽的パートナー「ユウミ」ちゃん (写真前列左) が出演することになったので、見に行って来た。ユウミちゃんがサンバを歌うときいて、初めちょっとびっくりした。というのは、彼女はBossa Novaの弾き語りを主に演奏しているし、Bossa Novaというのは、あの不協和音すれすれの不安定感とか、歌詞とその意味と韻とリズムの、微妙にずれて行くミス・マッチな感覚を楽しむ音楽やと思うてたから。彼女の落ち着いた声の質と、彼女の持つしっとりとした雰囲気と美貌は、それだけでぴったりとBossa Novaチックやけど、たしかに彼女の歌い方には、そうした感覚を楽しむ感じがないんよね。私はUribossaのバックを務めさせていただきつつ、Bossa Novaの魅力に取り憑かれて来た訳だが、彼の伴奏を通じて感じたことが多くある。それは、Bossa Novaは、もちろんSambaから産まれたものには違いないのだけれど、ある意味、Sambaを否定・克服・超越しようとして実験された新しい感覚に根ざしていて、それはJazz やClassicに多分に影響を受けながら、無国籍的なポップ・ミュージックとして進化して来たと思われることである。ブラジル音楽のことをよく知らない私が、これをバッキングしようとして、なんとか出来るというのは、それはBossa Novaがブラジル音楽を止揚して一般化された音楽だったからとも言えるだろう。だから、わたしはそのリズムの基本を知らずに、Uribossaの日本語の抑揚から、体当たりでリズムをつけて行くことに成功した。いわば、それは音楽の予定調和を拒絶した次元に於ける、解体と再構築の、面白い創造だった。だから私が自分の音としてバッキングすることに意義があったし、それを提示することは、私自身の音楽的な表現だった。ChoroにしろBossa Novaにしろ、様々な音楽的ルーツを複合的に持って止揚された音楽は、Rock・Reggae・Soucous・Jazzなどと同じように、音楽を感覚ひとつで体当たりでとらえることの出来る余地・奥深さ・広がりがある。ではSambaはどうなのか? もちろん私の接したSambaなぞ、全体から見ればほんの微々たる量に過ぎないのだが、これは、はっきり言ってブラジル人にしか通じない独特のルールやマナー、情感に対する反応その他、音楽的な様々な人的作用が集積して、ひとつの固有の美学を作り上げている。リズムのねじれ方ひとつとってみても然り、独特の宿命論的な諦念の中に完結しようとする同じコード展開に収束する無数の楽曲の存在することの不思議も然り。もちろん、好きなアーティストはいくらかいる。しかし、私と彼等の音の間には、深くて暗い溝がある。どうしても自分の音として埋没することが出来ない。出来たものがない。でも感動はする。さまざまなSambaを聞いて来たが、やはりこの隔絶感は変わらない。しかも、多くの曲を聞いていて、唐突に現れる能天気な合唱、あの底抜けの明るさには耳を塞ぎたくなる。Salsaのダンスとも、ましてやSoucousやリンガラ・ポップスのダンスとも、それは全く異なる。そこには、リズムのウネリが徐々に腰をついて来て、思わず立ち上がってダンスに導かれるような必然的な衝動が感じられない。頭からすっぽりパラ色の袋をかぶせられて「さあ踊りましょう、どうして貴男は踊らないの?」という傍若無人なおせっかいしか感じられないのだ。神戸祭で踊り惚ける、原色コスチュームで行列する大群のように。もちろん、私はブラジルへ行ったことがないから、本当のSambaを知らない。しかし、ザイールへ行く前には本当のRumba Zairoiseを知らなかったが、断片的に入って来る音だけでも「行かなきゃならん」ことは痛切に感じられた。何が起こるかわからない、片時も目を離すことの出来ないわくわくした感覚・・・痩せても枯れても私はミュージシャンの端くれ、自分の音楽的な感受性だけは、死ぬまで研ぎすましておきたい。Sambaはブラジル人がやってこそ、その真価が発揮されるし、それを越えるも深めるも彼等次第である。だから、私はSambaがブラジル音楽だから、好きだとか嫌いだとか思ったことは一度もない。ただ、Joao GilbertoとCaetano Velosoはこよなく好きだ。彼等がたまたまブラジル人だというだけのことだ。また、いいアーティストだなと思ったらブラジル人だったということはよくある。しかし、日本でいろんなひとと演奏していて、ブラジル音楽ファンに限らないけれども、「本物志向」が偏狭主義に陥った哀れな廃人ミュージシャンをみると、絶望的な気分になる。私は彼等を批判する気はない。音楽を楽しんでいるからだ。ただ、一緒にやりたくはない。向こうもそう思っているだろうけれども。なぜこんなことを書いてしまったのか、自分でも自分を操縦出来ていないのだが、Sambaにあえて限定するならば、いまよく遊んでもらっている人たちにブラジル音楽ファンが多いので、彼らとつき合ううちに様々な演奏家に出会うのだけれども、いつも感じるのは、Sambaのいろんな曲を取り上げて人前で演奏する。見に来ている客たちは、多分その多くがその曲を知っている。つまり、演奏者と聴衆の間で、既に一定の合意が形成されていて、その上で演奏内容がどうだとかこうだとかいう話になってしまっているステージ、これがたまらんのだ。はっきりいって、その曲やそもそもSambaを知らんひとが聞いたら、どれも全部同じに聞こえるか、ただ雑然としたバラバラな演奏にしか聞こえんぞ。しかし、まるでそこで盛り上がるのがお約束とばかりに、ある局面で演奏者の聴衆も一体となって盛り上がる。Sambaをちょっとだけ知ってる私は、ああ、なんだかここで盛り上がったよなあって記憶が呼び覚まされるんだけれども、次の瞬間あまりの熱気についてゆけなくなる。ふとワレに帰った私は、「こいつら、なんでこんなに楽しそうなんやろ、こんな長ったらしいポルトガル語の歌詞を全部覚えて、客もそれが全部わかってるんやろか・・・」そんなことはないのである。いかにブラジル音楽が好きであっても、ポルトガル語の歌詞を聞いてブラジル人のように反応できるはずがない。では何故、彼等はこんなに楽しそうなのか・・・そこに、彼等と私との、深くて暗い溝がある。批判してるんやないんですよ、うらやましいなあと思うてね、僕には出来んことやと、ただそれだけ。ここまで読んでくれて、不愉快に思うたひとはごめんね。

Posted: 土 - 7月 4, 2009 at 12:42 午前          


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