DENパゴ


解釈の違いによるアクセント移動について



 11/07のことである。「バランサ」というサンバ・パゴージのバンドのDEN師が不定期に大阪で催している「DENのパゴージ」というイベントがChove Chuvaに移転してきたので、ペダル・カホンのセットを持って参加してみた。その時の録音を聞きながら、旅の計画を組んだりメール・チェックしたりしているのであるが、気がついた事がある。それは、かねてより私が感じていた、日本人のブラジル音楽家の演奏するリズムのアクセントの位置についてである。彼等の大半は、サンバのリズムのアクセントは一拍目にあると断言する。私は違うと言ってきた。そこで軋轢が生じ、私が引込むか出て行くかという展開でこれまで来たのであるが、このたびの演奏で、その辺についての疑問が溶融しはじめた。このイベントは、サンバの様々な曲を、ひたすらみんなで演奏しながら飲んだり食ったりして楽しむ会である。みんなで、とはいっても、ただ漫然とやっていたのでは散漫になるばかりなので、DEN師が「核」となってそれに参加者が様々に絡むという展開である。なおかつ大半はメドレー。Chove Chuvaに移転した事で、私を含めて気軽に参加出来た人も多く、おそらく関西でサンバが好きで、演奏を続けているひとのかなりが集まったようである。演奏が始まると、多くのパーカッション部隊が音を出し始める。大半は一拍目にアクセントを置いている。私は、基本的には4拍目から1拍目に振りかぶる部分に「溜め」をいれて、そこにブレストを感じつつ、そのとき鳴っているリズム楽器に絡む感じで音楽に分け入って行く。いつものやり方だ。音楽には抑揚があって、それは音量であったりテンポであったり、コード展開であったりイロイロするわけだが、アクセントの捉え方というものもひとつの表現である。サンバは複合リズムであって、様々な打楽器による様々な音程や音色や音量のバランスによって、その時の音楽的な情感は、様々に規定されて行く。だから、基本的に個々の楽器がアンサンブルの中で、どの位置にアクセントを置くかという事は、その時々によって対応は変わるはずである。ところが、残念な事に大半のパーカッショニストは平板なリズムを出している。しかも、一拍目のアクセントに力が入りすぎていて、まるで日本の軍歌を、握りこぶしを振り下ろしながら歌っているかのようだ。「きっさまっとおっれぇとぉぉぉぉわぁぁぁぁっ、どっおっきっのさっくっらぁぁぁぁあぁぁぁ」・・・または、揉み手をしながら頭に一発手拍子を入れる、日本の盆踊りそのままの感性を、なんの違和感もなく持ち込んでしまうのである。「チャッ・・・チャッ・・・」多くの音がそこにアクセントを置き、歌が叙情的になろうが、ボリュームが下がろうがおかまいなし、ヒートアップした演奏がコード展開一発でシックな歌に戻ってるのに「チャカチャカチャカチャカ」・・・つまり歌を聞いてない。アクセントは、みんなが合わせやすいからという、テメエラの勝手な事情で一発目に決められて、みんながそれを守って安心安全、音楽の「お」の字も鑑みられていない。DEN師の歌を良く聴いていると、サンバにも種類があって、いろんなアクセントでカバキーニョを演奏されている。一定の条件さえ整えば、アンサンブルの一環として、そのリズムにちぐはぐに絡み付くようなアクセントを持った打楽器を入れる事も可能である。そのような遊び心こそが音楽の本質であるのだが、周囲の大半が、常に一定、全く同じ、そして不変の平板な演奏で埋め尽くされてしまうと、そこに変化を入れる隙間がなくなってしまう。しかし、そんな演奏は飽きるのである。パーカッションの好きなひとに多いのは、音楽の伴奏をしているという立場を忘れて、自分が演奏する事のみに没頭してしまう事である。これは全く主客転倒であって、演奏は、音楽そのものを表現として様々な姿形に変えてみせたり、彩りを添えたりと、実に多彩で臨機応変であるべきだ。それなしに、何時間も、基本的には同じジャンルの楽曲を演奏していれば、曲調が一辺倒になり、飽きてしまうのも無理はない。そこで彼等は別グループを作って、「核」とは別に自分たちだけで自足してパーカッション教室みたいなものをおっ始めてしまう。それも録音にはいっているが、「場を読めない」雑音でしかない。そのころ京都からドラム・セットのフロア・タムを一本携えてきた人があった。そのひとは元ドラマーで、関西のサンバ界では名の知れたひとという事である。その人が入ってから、かなり感じが変わる。それまでにもスルドゥを叩くひとはあったが、マレットの持ち方が悪く、音が出ていなかった。その点、この人は元ドラマーであるから、マレット・ワークは絶品であり、実に表情豊かな低音であった。バーカッションというより、ベースに近い。私のカホン・セットは、いわばミニ・ドラムだから、このふたつでリズム・アレンジは自在に決まる。そこからは、ほとんどこの人と私とDEN師の三人で曲の展開をリードして行ったと言っても過言ではないだろう。それは、曲や歌を知っているとかいないとかの問題ではなく、それとは別の、音楽的な次元の話だ。私は歌は知らない。しかし音楽はわかる。次にどう来るかくらいは、ピリピリの伴奏でもない限り容易に予測はつく。しかも、それはほとんどの場合的中しており、その展開によって、歌はメリハリを得て、曲は多様性を増したのである。おそらくカーリー・ショッケール解散以来、はじめてリズム・セクションとして、音のやり取りが生き物のように音楽に直結し得た経験ではなかろうか。音楽には様々な解釈が可能であるから、そのどれひとつをも否定されるべきではない。しかし、多様性は最大限に認められるべきであって、何かひとつの表現方法に固執する事は、そのひとの音楽に取ってマイナスである。だから、平板なリズム・パターンや、特定の解釈を堅持するひとの演奏にはイキが詰まるし、すぐ飽きる。それはそれとして、その人のその時のありようを表している。だから、アクセントは一拍目にありますと言い切るひとの伴奏をするときには、そのようにしてあげれば、その人らしい、平板で退屈な音楽が出来上がるというわけだ。それが、その人に対する正しい伴奏のあり方である。演奏が終わった後、DEN師匠と、その京都のひとと三人でその印象について話してみたのだが、やはり意見は一致した。サンバは、もっと全体が動いて、絡み合って、そして歌がある。そりゃそうだ。世界の混血音楽だもん。整然としたものであるはずがない。

Posted: 金 - 11月 20, 2009 at 12:29 午前          


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