オルケストル・ピリピリ解散のお知らせ


死は徐々に、しかし唐突にやってくる。



 2008年12月22日の午前10時半頃、ピリピリが亡くなった。初めてピリピリに逢ったのは、まだ「かげろうレコード」の「ヴィオラ・リネア」が解散した後、冨依と大西と私の三人で続けていたの名前のないユニットが、時々練習していた頃だから、たぶん1985年頃だ。その翌年には、ピリピリが率いていた「ノンストップ・カイマン」は、メンバーの音楽性の違いから不協和音が響きはじめていた。そのうち、より現実的な芸能路線を目指すグループが、その後「後藤ゆうぞうとワニクマ・オールスターズ」、河内家菊水丸の「エスノリズム・オーケストラ」、それから「大西ユカリと新世界」へと繋がって行き、ピリピリ以下、よりアフリカン・ポップスの奥へと進みたいグループが、当時リード・ボーカルを担当していた福丸和久のもとに集まって練習を始めた。そこに我々三人が合流したのが、「カーリー・ショッケール」の始まりだった。もう23年も前のことだ。それから半年くらいは、「ノンストップ・カイマン」と「カーリー・ショッケール」は併存していたが、1987年に正式に「カーリー」がデビューすると「カイマン」は解散した。しかし、いまも「ゆうぞう」氏のグループが「ワニ」の名を頂き、「カーリー」の唯一のアルバムも「ワニの王国」ということからみても、これらの人間関係が、いわば「カイマン鰐」を頂く「ピリピリ・ファミリー」であることに間違いはない。
 彼がいなかったら、我々はこうして相見えることはなかったし、アフリカの音楽、特にコンゴの音楽について、こんなに深い見識を得ることもなかった。また、関西のサブカルチャー的ロック・ムーブメントの直中に身を置くこともなかったし、要するに、今の自分はなかった。これは、彼に影響を受けたひとの全てが口を揃えることだろう。特に「ウルフルズ」は、ピリピリが今のプロデューサーに紹介したことがきっかけで、現在の彼等たり得た。もちろん、そうでなくても「ウルフルズ」は成功しただろう。しかし、他のルートでの成功と、今のありようとでは、ずいぶん違ったものになったはずだ。そのピリピリ自身は、本当に小さくて目立たず、酒を飲んでは御託を並べているだけの、たんなる音楽好きに見える。しかし、彼に引き寄せられて彼に学び、影響を受けて、彼によって活かされた人間は、数限りない。くりかえすが、彼自身は本当に小さくて、とてもそんな風には見えないのだ。しかし彼は確実に、関西にひとつの音楽的な潮流を作った、まぎれもない張本人である。
 彼の死に直面した瞬間は、特に感慨のあるものではなかった。14年近く前に起こった阪神淡路大震災のとき、震度7の真っ直中に在って、どっかぁぁぁぁーん、うわぁぁぁぁっ・・・て感じで、恐怖なんて全く感じなかったのと同じで、彼は余りにも近い存在過ぎて、酔いも、眠りも、死も、たいして違わないように見えた。私は、彼の死を知らずに彼の用事を済ませ、死の約一時間後に対面した。はじめは眠っているのだと思った。が、なんだかずいぶん感じが違った。顔色が悪いし、少し口が開いたままになっていた。顔に表情がなかった。付き添っていたお母さんは、周りを片付けていた。その淡々とした空気の全体が、彼の「死」を雄弁に物語っていた。彼は、誰にも看取られずに死んだのだ。その瞬間を待っていたかのように。お母さんは買い物に出かけ、付き添いのひともトイレと散歩に立ち、病棟は昼食の準備に追われていた。彼は、改まったことがことごとく嫌いだったので、自分の旅立ちに際しても、挨拶してほしくなかったのだろう。ましてや、涙なんて、まっぴらごめんだったに違いない。誰も見ていない間に、さっさと旅立ってしまった。それは、あまりにもあっさりとした、素っ気ない別れ方だった。近親者だけで通夜も葬式もするということで、どちらにも行かなかった。本人がそれを許さなかったからである。そのことを関係者にいちいち伝えるのには、なかなか手間取ったが・・・
 最後に彼の生きた姿を見たのは、もと「カーリー」のメンバーの福丸和久と大西裕司、それに新しい「オルケストル・ピリピリ」のメンバーが何人か見舞いにくるという日だった。「レッツ・パーティー」というかけ声のもと、不埒にも病室でビールの栓が抜かれ、宴会が始まった。ようやく発売にこぎ着けた彼の2作目の作品「Mopepe」のサンプルを鳴らしながら、彼は上機嫌でバイブレーターを喉に当てて歌っていた。調子に乗ってギターも弾いた。あまり元気なので心配ないと思って、夕闇の迫る頃、我々はいつものように片手を上げて彼と別れ、鶴橋へ焼き肉を食いに行ったのだ。そこにむーちゃんが合流し、さらに河岸を変えて年末いっぱいで閉店する「トドムンド」でワインを飲んだ。そこは、かつてよく対バンしてもらった「A Decade in Fake」/「ソンナバナナ」を率いていたマルタニカズ氏の店だったので、勢い音楽談義に花が咲きまくった。ピースフルな一日だった。
 そんなピリピリだったので、彼は確かに死んだのだけれども、悲しいとか、寂しいとか、悔しいとか、残念とか、そんな気持はちっとも起こらないのである。かといって、「ピリピリは心の中に生きている」なーんてセンチメンタルな気持のかけらも持ち合わせてはいない。彼は死んだのだ。しかし、事実として、彼は生き続けている。この感じは、普通他のひとの死に対する「別れ」の気持と違って、より複雑であるが、よりシンプルである。彼のようなすばらしい人物に出会えて、最後まで彼のお伴ができたということが、私にとって大変仕合せなことなので、私は少しも悲しみを感じることが出来ないでいる。お通夜の日もよく眠れたし、お葬式の日も普段通り仕事をした。今日も予定通り三味線のお稽古に行き、今洗濯機をまわしながら、このように夜更かしをしている。明日は、というか、もう今日だが、「容器包装プラスチック」回収の日なので、早起きしなければならない。そして、いよいよ新しい畑を鋤起こすことになっている。夜はクリスマス・イブだが、うちは鶏鍋だ。このように、何事もなく、ピリピリの音楽とともに日々が過ぎて行く。

Posted: 水 - 12月 24, 2008 at 02:34 午前          


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