ピリピリのアパート清掃完了


想い出の詰まった母の懐のような



 今日、ピリピリの住んでいた部屋の片付けを終えた。やっと、一つ目の区切りを終えたという感じだ。まだまだやらんなんことが一杯ある。次は25日の追悼の会の段取り、その前に、彼の2枚目のCDの扱いをどうするか。アーティストが亡くなった以上、誰が売上や印税を受け取るのか? 発売元に入ったお金を誰が管理するのか? という、まあ捕らぬ狸の皮であっても、皮も伸ばせば太鼓に張れるし、打てば鳴る鳴る法隆寺、関係者一同が、気持よく納得出来る調停が出来るかどうかがかなりキツい問題。出来れば、その上でみんな澱みない気持で追悼の日を迎えたいのだが・・・
 この部屋の後片付けには、結局あしかけ5日かかった。1/10に若いの二人を連れてお母様と4人で要るものと要らないものの仕分け、11日に冨依を頼んで要るものを実家へ運んで整理、要らんものを軽トラに積んで翌日処分場へ。それからは平日なので私ひとりでひたすらゴミを処分場へ運んでは戻って掃除、運んでは戻って掃除、運んでは戻っ掃除、では戻って除、運んでて掃除、運んでて掃は戻って戻っは戻て掃除、運んで除、運ぶということの繰り返しでゴミはなんと軽トラ4台分。軽トラを直接部屋に入れても4台並ぶか並ばんかという狭さの部屋なのに、なんでこうも多いんや。
 しかし、この部屋は実に想い出深い。初めて奥田さんの部屋というものを見たのは、豊中にあった「曽根ハイツ」という、ごろつきミュージシャンが屯するすばらしい木造アパートやった。その部屋は小さくて、中に入ると目を疑うばかりに雑然、というか、まさにアリジゴクの巣を上から見たような感じで、そのすり鉢の底に奥田さんは座っていた。私の印象では、奥田さんはものすごく怖い人だった。当時は怖いひとが多かった。なんといってもインディーズの走り、そんな概念さえなくて、なんか、アングラの音楽シーンは、すべてが混沌としててものすごかった。俺と冨依は、多分その頃まだ「かげろうレコード」に関わっていた。町田町蔵を初めて見たのもこの頃だった。こいつもなんかすごかった。奥田さんは「オーケストラ・ピリピリ」というのをやっていた。いつから「オルケストル・ピリピリ」になったのかは定かではない。すごい目つきで、いつも煙草をくわえていて、酒焼けした額をさらに輝かせて、ものすごいオーラだった。
 その曽根ハイツの敷地にマンション建設計画が持ち上がって、住人は散り散りに立ち退いた。奥田さんは、立ち退き交渉の不当性を訴えて、最後まで戦った。そしてこの武庫之荘のマンションに引っ越した。たしか、そのときも私が手伝ったような気がする。前より広い部屋で、なんといっても鉄筋コンクリートだ。これで前のようなアリジゴクの苦しみからは解放されるかと思いきや、数ヶ月後には、床面積が広くなった分、さらに堆く遠くまでアリーナは築かれていったのである。
 部屋を片付けながら痛感するのだが、生活必需品が驚くほど少ないのである。食器はコップくらいしかない。ほとんどが音響機材・録音機材・楽器・カセット・レコード・CDで、台所には、膨大な写真のネガやプリントが、タッパーに仕分けされて山積みになっていた。居間の方は、一昨年に、一度レコードをほとんど処分したから、その分すこしはマシになってはいたが、アリーナ建築に向けて、新しい機材類が増殖を続けていた。当時のことを思い出す。レコードの処分を決意したピリピリは、本当に辛そうだった。止むに止まれぬ事情とはいえ、身を切るような気持だっただろう。なにしろ30年以上の思いの詰まったコレクションである。しかし、決めてしまった以上、作業にかからねばならない。そこで踏ん切りをつけたようだ。レコードは、玄関を入ってすぐのわずかな板の間に、横倒しにされた3段のカラー・ボックスふたつと、その上に積まれた6段のカラー・ボックスに入れられていた。一つの段に80枚、そこだけでおよそ1,000枚弱のレコードがあった。「まだあんねん」なんと、左手のアリーナの壁面の奥は2間の押し入れであって、その中段の壁際にずらっと、さらに上段の戸袋の壁際にずらっと・・・ 結局、私のカリーナの後部座席を倒したくらいでは積みきれず、というか、重過ぎて、また二段重ねて傷んでもいかんというので、二回に分けて運び出したのである。私も、レコードは1,000枚程度持っているが、たいていカリーナ一回で運びきる。さすがに多いなと実感したことを思い出す。
 さて、この斜面を掘り進むことは、そのままピリピリの活動や関心事をさかのぼって行くようなものだ。つまり、ある機材の音に飽きて、新しい機材を買ったとする。すると、新しい機材は、古い機材の上に積まれ、古い配線はそのままに、別途配線が新設される。これ以上積めなくなるか、積むと危険な場合は、手前に置かれ、もとの機材の内側に配線が新設される。カセットなども同じである。ピリピリも若い頃には、当然ロックもソウルもブルースも聴いていた。中にはポップスや歌謡曲もある。しかし、それらを聞かなくなると、箱詰めにして壁際に置かれ、その上に新しいカセットが積まれる。レコードやCDも同じことだ。書籍や雑誌もまたしかり。そして音楽活動のために作ったパンフレットやチラシ、ミニコミ誌そのた諸々・・・ ある時点で、それらを一括して、レコードはレコード、CDはCD、雑誌は雑誌と分類した形跡もある。また、使いやすいように配線を分岐して、手元で操作できるようにした形跡もある。しかし、基本的には、上に積むか前に置く・・・これを繰り返して行くうちに、やがて壁は見えなくなり、部屋の中心を底とした、見上げるばかりの壮大なアリーナが形成される。
 ところが、ここに来客があると大変なことになる。なにしろ、部屋の中で平面といえば、そのアリジゴクの巣の底にあたる、わずかに人ひとりが横たわれるぎりぎりの広さしかない。3人入ると立ち話か、縦に並んで正座してピリピリと膝を交えることになる。しかし、その居心地の悪さに参ってるようでは、厳しいピリピリの道は進めない。このアリジゴクの巣の底に座って、その目線でアリーナを見上げてみよ。上から見たときには、ただ雑然たるゴミダメにしか見えなかったものが、徐々に目が慣れると、それらが必然的にそこにある、全てのものが居ながらにしてコントロールできるように、極めて合理的で無駄のないレイアウトになっていることに気がつくであろう。しかも、驚くべきことに、家具らしい家具がない。全てのものは、小さなボックスかタッパー・ウェアに小分けされ、密封された上で、積み上げられている。どんどん積み上がって行くので、その奥にあるものが捨てられるということは先ずない。従って、小物類の保存状態は極めて良い。家具を使わずにここまで整理整頓することは、おそらく並の人間には難しい。まず神経が持つまい。しかし、ここでピリピリは20年以上を暮らしたのであった。まるで、外界から遮断された母の胎内に帰るかのように、ここへ帰って来たのであった。
 ピリピリが亡くなった後、お母様がいつもピリピリが座っていたところに腰を下ろして、ぽつりと言った言葉が忘れられない。「私と一緒や」・・・お母様も、ものの整理のしかたがこんなやり方だと仰るのである。それも身につまされる話であるが、それよりも、この雑然とした部屋を見て、即座にその本質を見抜いたお母様の鑑識眼に驚かされた。しかし、それにしても、この部屋は普通の神経の人間には酷である。可動範囲が極めて狭い上に、どれもがどれもに寄りかかった状態であるので、ものを引っ掛けてしまわないように、細心の注意を要するからである。だから、冬場にも暖房はない。電気ストーブ屋がス・ファン・ヒーターの類いが出て来たが、それらは何年も使われた形跡がなかった。「さむい」と、入院直前の彼からのメールに、一言あった。その三文字が、どれほどの寒さであったことか、私は想像することが出来なかった。その部屋は、入居以来掃除されたことがない。従って、アリーナを解体してゆき、発掘調査が壁際にまで及んだ時、うずたかく堆積した膨大な砂埃を見て、思わず咳き込んだのであった。「なにもこんなになるまで我慢しなくても良かったのに・・・」お母様は涙ぐまれた。まさしくその通りである。
 この砂埃の量であれば、必ず冬場のすきま風に乗って、畳に寝ている彼の喉を痛めたに違いない。火事を起こしては取り返しがつかないからと、暖房は入れなかった。音源や機材に良くないからと、煮炊きをしなかった。満腹になると感覚が鈍ると言って食事をしなかった。手が汚れると言って仕事をしなかった。そのこだわりと引き換えに、彼は自分の肉体をいたわることを忘れ、徒に死期を早めた。生みの親としての、お母様の嘆きはもっともであった。しかし、だからこそのピリピリだったのである。一度にふたつの人生を選ぶことは出来ない。多くのひとが、現実を前に己の無力を知る時、ピリピリは、果敢にもそれに丸腰で挑んだのである。その結末がどうだったかは措いて、その勇気は何にも代えられない。知らなかった訳でも、酔っぱらっていた訳でもない。彼は十二分に、こうなることを自覚していたのである。この部屋を見れば、彼が徹底的に音楽に身を捧げたことが、よくわかるのである。

Posted: 水 - 1月 14, 2009 at 11:24 午後          


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