これで最後のピリピリ・ナイト


自分たちの見た「ワールド・ミュージック」を支えて来たものたちの祭典



 3/28 (土) は、昨年暮れに亡くなったピリピリを追悼するコンサートであった。場所は十三Fandango。出演者と招待客以外の総来客数78名様にのぼる、非常に盛況なイベントになった。出演者は、1980年初頭に「オーケストラ・ピリピリ」と同じステージに立った記録の残る「Zound System」のかつてのヴォーカリストであった「C-RAG」、そして今でも年間200本を超えるライブをこなし、日本で初めて日本語によるレゲエ・スピリットに満ちた演奏を聞かせ続けている「KAJA」、もとブルース・ギタリストから、現在は「艶歌ボッサ」という独自のスタイルを確立し、関西のブラジル音楽シーンを活気づけている「カオリーニョ藤原」、さらに「脱国境音楽」をキャッチフレーズに独自のワールド・ロック路線を突き進む「浪速のカエターノ = マルタニカズ」、そしてピリピリが22年前まで率いていた最初の本格的なアフリカ音楽系「ノンストップ・カイマン」、最後はピリピリが志したリンガラ・ポップスを独自のスタイルで極め尽くした最終形「カーリー・ショッケール」14年ぶり一夜限りの完全復活というラインナップであった。いずれ劣らぬ古豪の皆様を尻目に、我々のような若輩者がトリを務めるブッキングが出来たのは、なにをおいてもひとえに私の・・・いやいや、皆様のご理解とご協力、なによりピリピリの人徳のなせる業であったと思う。そう、我々が最年少だったのだ。50のラインがくっきりと眼前に横たわるアラウンド・フィフティの我々が・・・



 1/25の追悼の会のときにコンサートをしようという動きもあるにはあった。しかし、ほとんどがプロとして活躍しておられる上記のミュージシャンの皆様のスケジュールが確保出来なかったし、なによりまだまだ後始末に追われていた。そんなとき、Fandangoの方から、「3/28でよければ」と話があったのである。「お金のことは心配しなくてもいいですから・・・」と、鶴ちゃんの優しい言葉に甘え倒して、私は企画立案に専念することが出来た。ごくごく当初には、「ウルフルズ」あるいはトータスの出演も検討されたが、これはかなわなかった。また、ピリピリの訃報を聞いて東京のリンガラ・バンド「ヨカ・ショック」も出演するかもという話が舞い込んだが、これも消えた。最終的に一ヶ月後に出演者の概要が決まり、了解を得てタイム・テーブルまで出し終えた。しかし、イベントにトラブルはつきものである。当初、オープニングとして、何かゆったりと始まれるものはないかと思い、ピリピリが亡くなるまえにお見舞いに来ていた二人の女の子のことを思い出した。タンザニアのZawoseファミリーの許で修行を積む、日本でも数少ない正統派「Limba」奏者である。メンバーは修行のためにタンザニアに旅立つ直前だった。「三月には帰ります」という言葉だけをたよりに、当事者の承諾を得ないままブッキングしてしまったことを、ここに告白します。まあそれまでに帰ってくるやろし、ピリピリの追悼やから出てくれるやろ、という甘い読みがあった。しかし滞在は長引き、遠いタンザニアから連絡があったのは、ライブの数日前だった。それでもメンバーのうちのひとり、横山葉子氏はスケジュールを前倒しして前日に帰国、観客としてコンサートを見に来てくれた。そんなやり取りをしているさなか、カオリーニョ藤原氏が倒れた。当初はかなり深刻な状態とのことで、出演は絶望視されていた。カオリーニョ藤原はマルタニカズと途中で共演もすることになっていたので、演し物の内容にも関わる事態になってしまった。「リハビリのつもりでお越し下さい、時間は空けときますから」と関係者に伝えて、彼が参加出来る場合と出来ない場合の、ふたとおりのタイム・テーブルとセッティング転換図を用意して、前日に打ち合わせに臨んだ。その時点でも、出演は当日にならないとわからないという関係者の判断だった。



 薫ちゃんは来た。リハーサルの時は顔色も悪く、足取りもおぼつかず、声も出なかったが、やがてモニターからの音に対する注文をオペレーターに出し始めた頃から、いつもの薫ちゃんに戻った。オペレーターは、Fandango創立当時から務める山本氏である。全員が、お互いに勝手知ったる旧知の仲、リハーサルは、音バランスのチェックを軽く流して恙なく終了した。和やかな雰囲気の中で本番は始まった。「C-RAG」・「KAJA」と、アコースティックな音色による、レゲエがもともとワーク・ソングであった頃の情感を色濃く遺す素朴な演奏が続き、そこにピリピリの想い出がさりげなく差し挟まれた。そこに薫ちゃんが上がると、少し雰囲気が変わった。それまでとはっきり異なるブラジル風のムード、独特の寂寥感の漂うボサノバのコード進行の中で、先ずは定番曲、そしてオリジナルと歌い進められるうちに、やがて「カオリーニョ藤原」独特の世界が現れはじめていた。



 続く「マルタニカズ」のステージで、はっきりと場は加速して行った。初めは「浪速のカエターノ」よろしくCaetano Velosoの曲の弾き語りカバーであったが、宅録MDと北林純のドラムをバックにエレキ・ギターに持ち替えると、以降は懐かしの「A Decade in Fake」の世界。ラテンもブラジルもアフリカも「俺が法律ぢゃ、文句ある奴は出てこい」的な、全くお約束に拘泥しない、しかしながら技術的な裏付けはきちっと決めてある「脱国境音楽」・・・しかしどこまでも中心にあるのは、他ならぬ「マルタニカズ」であって、そこんとこが言いようのないほど素晴らしい。MD音源のサポートがあるとはいえ、たった二人でこれほどの音世界を、ほぼ即興で作り出せるのは、まさに実力である。思わずステージに踊り込んだむーちゃんが花を添える。あんたね、二児 (じゃないよな、もうオトナやし) の母でね、しかも俺と同い年ということはやね・・・まあ歳のことはいわんとこ。



 出演者、特に後半を飾るピリピリ直系のバンド・メンバーたちにとってはハードな一日だった。まず「カーリー・ショッケール」のメンバーは、全員12時から中津のスタジオで一回限りの総合わせをやった。東京・福岡・鳥取・岡山と、今ではメンバーがバラバラだったので、特に遠方のメンバーは早朝の出発だったに違いない。リハでの演奏は、14年のブランクなんて、まるで屁みたいなもんやった。約一名、最後まで感覚を取り戻せんかった奴がおったが、全員10年近くもババほど演奏しまくった曲ばかりであるので、どの部分にどの部分を従えてどう展開するかという、段取りの確認だけで、ほぼ問題なく終了した。終了したのは14時である。そこから淀川を渡って14時半からステージ・リハ、15時半には会場整理、16時半に開場というスケジュールであった。岡山から参加した歌手の今井は、最近相次いで両親を亡くし、どん底の失意からの出演であった。中津に現れた彼は最初見てもわからないくらいやつれていた。しかし、狂乱の宴の終わった後、翌日になって来たメールには、「僕自身、やっと前に進み出したな、と心から思えた日になったしなあ」とあった。その宴の終わったのは、もちろん翌朝である。



 「後藤ゆうぞうとワニクマ仲間」とは、本来「後藤ゆうぞうとワニクマ・オールスターズ」、近年・・・といってもだいぶ前のことだが・・・になって美女ギタリスト、カメリア・マキが加入して「後藤ゆうぞうとワニクマ・デロレン・アンド・マキ」からのピック・アップ・メンバーである。その実体は、もと「ノンストップ・カイマン」と並行して存在した河内音頭のロック的バック・バンド、のちに「河内家菊水丸」のバックとして名を馳せる「エスノリズム・オーケストラ」である。「ノンストップ・カイマン」とは、ドラムの福原稔氏とギターの石田雄一氏が重複するのであるが、石田雄一氏は音楽制作の仕事がもっぱらとなり、現在では別のギタリストが入っている。内容は、河内音頭の新聞 (シンモン) 読みをアレンジした、いわば「レゲエ調河内音頭」であり、ボブ・マーリーの一代記を語った「ボブ・マーリー物語」が定番である。今回は演奏時間の制限から、おもにメンバー紹介によるアトラクションとなったが、河内音頭をレゲエに載せてしまう語り口の上手さは、レゲエを神格化しない、極めて大阪的な独自の路線といえるだろう。尤も後藤ゆうぞう氏は京都出身なのだが・・・
 


 「ノンストップ・カイマン」は、オリジナル・メンバーの全員が集められなかったため、「カーリー」から冨依がベースで参加、福丸和久と福丸裕明はオリジナル・メンバーでもあるので、両方に出演となった。彼等は開場に先立って、14時から近所のスタジオで直前リハーサルに臨んだ。「ノンストップ・カイマン」のメンバーは、ほぼ現在の「大西ユカリと新世界」の「新世界」である。リード・ギターの森島さんは音楽教室を別に構えておられ、ただ一人音楽から遠ざかっていたリード・ヴォーカルだった渡辺狂一氏以外は、いずれもプロである。音源は、私の方からネット配信で送った。2時間の練習時間を取ってあったが、1時間後にはすることがなくなり、30分後にはスタジオを出たという。さすがはプロである。彼等が帰って来た頃には、既にプログラムは始まっており、イベントでは押すのがあたりまえであるのに、なんと20-40分もまいていた。大所帯の皮切りである「後藤ゆうぞうとワニクマ仲間」のセッティング時に、舞台挨拶を時間調整とかねて行った。それに続く「ノンストップ・カイマン」の本番演奏は、まさにピリピリの匂いが「むわっ」とむせるような懐かしの世界だった。このふたつの、最も難しいプロ・ミュージシャンのスケジュール調整を買って出てくれたのは、ドラムの福原稔氏であった。彼がいなかったら、このイベントの主要な部分は欠落してしまったに違いない。



 選曲は、まずは「オーケストラ・ピリピリ」時代の「Cassaba Dance」・・・これは「ピリピリのテーマ」とも呼ばれ、途中で「ピー・アイ・エル・アイ、ピー・アイ・エル・アイ、ピリピリ、ピリピリ、ピリピリ、ヤッホ」と絶叫するアホな曲である。展開もなにもない、ワン・コードでひたすら突っ走る明快な曲で、これを、「世界の民族音楽」くらいしかアフリカの音楽に触れる機会のなかった当時のメンバーたちは、ラテン音楽をいかに演奏すべきかという真剣な議論の末に提示され、大学教授や音楽評論家も混じって、全員が当惑しつつも絶叫したという。もちろん喜色満面だったのはピリピリひとりであったことは想像に難くない。続いては「ノンストップ・カイマン」のテーマ曲、渡辺狂一の「ウミガメヤマガメ」という名曲である。このあたりから、当時の「ノンストップ・カイマン」の音楽は、どうにか「リンガラ・ポップス」や「カリブの音楽」を自分たちのものとして掴みはじめる。つづく「ズール・ボーイ」は、これぞまさしくピリピリの生き様を歌にしたもので、「哀しい話だが、毎日酒で暮らす、気ままな生活と、ぬるま湯人生・・・」という、あんたそのまんまやんけという歌詞で始まり、いきなり怒濤のセベンに突入する隠れた名曲である。それを今回は、これまで聞いたことがないほどスロー・テンポで演奏された。今振り返ってみれば、この三曲が演奏されている時間が、最もピリピリを想い起こすにふさわしい時間だったようにも思われる。



 トリは「カーリー・ショッケール」であった。「カーリー」は、ピリピリが率いていた「ノンストップ・カイマン」のメンバーの中で、ラテンや河内音頭に傾倒する人脈の影響と、リンガラ・ポップスをもっと極めたいと思う人脈との間で軋轢が生じ、ピリピリが前者を排除しようとした結果、それまで特定の名前も持たずにセッションしていた冨依・大西・伊丹の三人が、その前者の役割を肩代わりすることから始まったバンドである。しかし、リーダーは「ノンストップ・カイマン」の後期のリード・ヴォーカルの福丸和久であった。正式なデビューは1987年である。このバンドは、ピリピリが目指した、完全なる日本産のリンがラ・バンドとしての完成形であった。しかし、ピリピリが当初感じた楽しさの裏には、職人的な技術の蓄積があり、リンガラ・ポップスの演奏を深めれば深めるほどそれが厳しく問われて来て、楽しいことが大好きなだけで鍛錬の嫌いなピリピリは、次第に我々の演奏について来られなくなった。そして、私の記憶では1993年頃、彼は周囲の奨めもあって、皮肉なことに、自らが創始した一連の音楽活動から去らざるを得なくなるのである。そのころから、彼は当時勃興した大阪クラブ・シーンで「DJ ピリピリ」として、第二の人生を歩み始める。彼が再びバンドを従え、ギターを下げて歌いはじめるのは、それから約13年後の2006年、新生「オルケストル・ピリピリ」になってからである。しかしそのころには、すでに彼の演奏力は永年のアルコール漬けによって低下し、お世辞にもきちんとした状態ではなくなっていた。しかし、その求めるところは、より明確に提示されるようになった。いわば目の見えないひとの耳が、見えるひとの耳より鋭敏であるように。しかしそれにも限界があった。体力・経験・時間の、三つの要素が、どうにか折り合いをつけた最後の一瞬に、彼は魂を込めて歌い、そしてこの世から去ってしまった。結果は十分なものではなかったが、遺された作品には彼の思うところはある程度反映されている。さて、今回の「カーリー」の演奏は、そのピリピリの代表曲に、「カーリー」再結成を祝してごく初期のストレートな曲が選ばれている。なにより「カーリー」が最も「カーリー」らしく、向こう見ずで破天荒で、ゴロツキでケンカ腰で、知識も技術もなく、感覚と勢い一発で演奏しきっていた頃の曲である。それは達成されていた。観客のウネリが、コールタールのような手応えとなって、ステージ最奥のドラムの位置にまで押し寄せて来た。前で指揮を執る福丸和久の息遣いを確かめながら、細かい演奏のきっかけを両側に発する合図のやり取りも昔のままだった。約一名、まったく気づかんやつがおったが・・・まあコイツは昔からこういう奴やったからしゃあない。「Kinshasa Rapsody」・「Bolingo ya Styno」・「Mawa Trop」・「Cherie na ngai」・「Emi Cherie」・・・そして、ピリピリが最後に残した名曲「窓を開けて」を、彼が愛して止まなかったDJ時代のレゲエ・フリークたちとのセッションで演奏した。もはや時間はいっぱいだったが、観客のウネリは続いていた。鶴ちゃんに合図すると「20分だけ」OKというので、最後にセベンだけ演奏した。もうこのバンドで演奏することは、多分二度とないであろう。「カーリー・ショッケール」は、ひとつの生き物であり、私はその手足の一部である。どこをどう進むべきか、全てを知っているが、バラバラになってしまっては、ひとつひとつは機能しない。しかし、ピリピリ的価値観から見れば、ひとつのバンドでの演奏に執着することは間違いである。音楽は発せられた瞬間に消え去るべきものであり、ミュージシャンは、それをいつでも発することが出来なければならない。消え去るものをとどめようとして、何かに書き留めようとしたり、形を維持しようとすることは、執着である。ピリピリは、極端なまでに執着のないニンゲンであった。だからこそ、この夜に、様々にピリピリと絡んだミュージシャンが、仕合せな演奏をし得たのではないか? それを聞いた観客があれほどに盛り上がったのではないか? 観客に取っては、リンガラも「カーリー」もない。ましてや、「ピリピリ」でもない。「音楽は楽しい」だけのことである。翌日、ピリピリのお母様が電話して来られ、「いままで息子のことが恥ずかしかったが、あの夜にみんながあんなに幸せになって、私もその中で幸せになって、ようやく息子がみんなの心の中に生きているのを実感しました」・・・まあ、それは言い過ぎやけどね・・・

Posted: 月 - 3月 30, 2009 at 10:51 午後          


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