ザイール・ヤ・バココ「第三の旅」


旅の計画を検証してみる。

 いまいち気分がのらんのよねえ・・・本来ならば、こうやって旅の計画を立てて、未だ見ぬ国々の事に思いを馳せて、資料を集めて、集めた資料を吟味して行けば行くほど、旅への矢も盾も堪らぬ思いが沸々と煮えたぎって来て、毎夜夢に見るほど気分が盛り上がってくるはずなのに、どうもね・・・資料を集めてても、それを比較検討してても、何故か心の内から突き動かされるような動機というか、旅を実現させる為のバイタリティというか、意図・目的・主眼・・・いや、臭い言葉やけど情熱やね、それが頭でははっきり見えてるはずやのに、気分が乗って来ない。なぜか・・・
 情報がありすぎるのも原因なのかも知れぬ。前回の旅までは、ほとんど情報らしい情報はなかった。あっても、いわゆる「キンシャサ体験者」による、思い入れの入りすぎた「トレ・ビャァァァン」な絶叫ばかりで、実際のところは、行ってみなければわからず、行ってみた結果、期待したものを遥かに超えるものがそこにあったのだ。そう、情報はない代わりに、「そこにある筈や」という、何の根拠もない確信がしっかりとあって、しかもそれは確かにあったのだ。
 その時と今と異なる点を考えてみよう。前回の旅までは、ザイールの「リンガラ・ポップス」を演奏するにあたって、「要するにどうやねん」という部分を知りたいと思った。それを演奏するという事は、矢も盾も堪らぬ熱い動機であり、それをしなければ飯も喉を通らぬ程だった。彼の地で実際の空気に触れて、演奏に関する確たるものを身につけた上で、帰国して自らのグループ、まだ何者でもなかった「カーリー・ショッケール」で演奏するという、代え難い大きな目的があった。そしてそれは実現した。帰国後、グループは飛躍的に向上し、パート練習も含めると、週に数回は集まって練習するほど、全てを賭けていた。いまは、そこまで自分を賭けられるほどの対象がない。
 ザイールの音楽の状況は、既に最盛期を過ぎていた。しかし、未だ大半のビッグ・ネームがキンシャサに本拠を置いていて、週の後半は、どこででも音楽が聴かれた。今は、キンシャサに本拠を置くような大きなグループは存在しないし、ヨーロッパに渡ったミュージシャンたちでさえ、どうしようもないマンネリズムに陥っている。コンゴの音楽は、明らかに堕落したのである。前回の旅の頃までは、ザイール人の多くは国外に出られなかった。経済格差もあるし、すべもつても限られていたからである。だが今は違う。膨大なコンゴ人たちが渡欧し、社会を形成し、コンゴ風相互扶助のシステムが効を奏して、いわば日本のカラオケ演歌産業が、スナックで互いの傷を舐め合うがごとき、閉鎖的悪循環のなかで音楽は垂れ流されている。でなければ、ガキどもの鬱憤ばらしのばか騒ぎにつき合わされるだけだ。発売される新譜には、まったくなんの興味もわかないし、往年のビッグ・ネームでさえ、その潮流に乗り遅れまいと、若造りするようなあり様だ。阿諛追従の輩の腐敗は目を覆うばかりである。矢も楯もたまらずキンシャサを目指したあの頃とは違って、もはやあの国にろくな音楽がない事は、垂れ流される新譜や動画などによって実証済みなのだ。ではなぜ行くのか。
 ブラジル音楽の何たるかを見定める事が目的か。コンゴやバントゥー系のリズム感覚をブラジル音楽に応用して、日本のブラジル音楽愛好家たちと演奏する事は楽しい。そこに生じるどうしようもない違和感を解消する事は、確かに音楽的に意義のある事である。しかし、俺はブラジル音楽が好きか。どうしてもブラジルを目指さなければ夜も寝られず、飯も喉を通らないほど、心身込めて好きか・・・。そうではない。日本のブラジル音楽愛好家が、みんな揃って「このカラスは白い」と言っているのを、「どこに目をつけとる、よう見ろ黒いやないか」と言いたいが為に行くのである。私の感性が、ブラジル音楽に於いても普遍的に通用する事を証明したいが為に行くのである。しかし、そんなことが可能か。そもそも、それは旅の動機として健全か。かりに北東部の「Bumba meu Boi」の祭を見て、ブラジルに於ける様々なバントゥー系の音楽の要素を見聞出来たとしても、それをたかだか一ヶ月弱の滞在でどうのこうのといえるほど簡単な事か。そう期待して旅をする事は、ブラジル音楽に対する、いや、そもそも音楽に対する失礼ではないか。この情報化された世の中で、日本人の膨大なミュージシャンたちがブラジルへ渡り、その大多数が「このカラスは白い」と言っているのである。もしかしたら、私が聞き違えて、「あの鶴は白い」と言っているのを、私が「どこに目をつけとる、よう見ろ黒いやないか」と言っているだけなのかも知れぬではないか。その大多数の音楽的感性が、一致してそう言うのだから、それはそれで良いではないか。それにそもそも、私はブラジル音楽が好きか。例えばコンゴの音楽を聴けば、それがどんなにつまらん曲であっても、なぜか微笑ましく親しみやすく感じられるものである。それが隣国のガボンやカメルーンやマリ、更にケニアやタンザニア、ナイジェリアやギニアやコート・ジ・ボワール、セネガル、そして南アフリカやモザンビーク・・・どの国の音楽も全て等しく愛おしいではないか。そうした愛おしさを、私はブラジル音楽に総じて感じる事が出来るか。既に10年以上もこれを聴き続けて来て、いわゆるブラジル音楽一般に対して感じる正直な気持ちは、残念な事に「違和感」なのである。はっきり認めざるを得ない事だが、私にはブラジル音楽に対しての、純粋で澱みない好奇心というものがない。あくまで、コンゴの音楽を通して得られた感覚を通して見てしまっている。この色眼鏡が外れない限り、ブラジルへ行く事に何の意味があろう。観光旅行の方が未だマシだ。
 そしてアンゴラ。この国の音楽に惹かれたそもそもの原因は、バントゥーでありながらポルトガル風の郷愁 (Saudade) やキューバ風の郷愁 (Nostalgia) を色濃く感じさせるものだったからだ。それはカボ・ヴェルデやブラジルの音楽に共通するものだ。それが愛おしいのではなく、一辺倒で、ややもすると無味乾燥になりがちなバントゥー音楽に対して、ミス・マッチな涼風を送り込む事で新たな感性をそこに見たからではなかったか。つまり、アンゴラの音楽をありのままに見て、好きが嵩じて行かざるを得なくなったという、止むに止まれぬものではなく、コンゴ音楽の停滞、自分の音楽的限界、アフリカ音楽とブラジル音楽の近似性という観点からの興味、すなわちブラジル音楽への架け橋のような何かを求めて行くという作為的な動機が強い。この国の苦難の歴史や、それでもなお細々と続けられて来た音楽の現場を見聞したいという動機、作為的といえば、この国の音楽はプロパガンダの匂いがぷんぷんとする。過去のLiceuの時代のものにはそれは感じないが、特に内戦終結後にブラジルで大量生産されたアンゴラの音楽には、何か国策映画を見るような、同じ味付け、ひたすらゴージャスな夢を与え続けようとする企みが垣間見えて、心底から好きにはなれないのである。それがなんなのかを確認してみたいという別なる動機も、それはそれとしてある。コンゴの音楽に通じ、ブラジル音楽にも関心のある私がこれを見る事は、ジャーナリストや国際協力事業者が見るのとは、全く異なる視点を提供する事が出来るであろう。その手つかずの自然が残されているであろう海岸線の美しさや、あまりにも喪いすぎたものが持ちうる人々の暖かさを知り、伝える事が出来れば、それはどんなに素晴らしい事だろう。しかし、それはあくまでも外的要因と言わざるを得ないのである。音楽に対する澱みない興味という観点から見れば、動機としてはあまり直接的ではないし、そもそも私費を投じて命を賭けて行くほどのものとは思えない。
 最近、師匠ピリピリの歌を伴奏し、作品として残す事に取り組んでいるのであるが、リンガラ・ポップスなどほとんど聞いた事がなく、ましてやキンシャサどころかパリのコンゴ人も見た事のないギタリストのカニヲさんが、コンゴの老ギタリストPapa Noelをして「絶品のアコンパ」と言わしめたことに、大いなる尊敬の念を禁じ得ないのであるが、つまり今回の私の旅は、そもそも自分の音楽的想像力のなさを、体験に拠って武装するような意味合いになってしまっているのではないかと思うのである。真の音楽家は想像力である。外的要素の蓋然性をいくら積み上げてみても、ひとかけらの想像力をしのぐ事すら出来まい。それが出来ると信じて旅をし、たまたま見聞したひとかけらの事実を以て、音楽家の想像力をないがしろにするような間違った自信を持ってしまうという事がもしあるとするならば、それこそ私が最も忌み嫌う、本当に「このカラスは白い」と言い張って止まない、気の狂った音楽ファンと肩を並べる事になってはしまいか。稀代の名曲「Emi Cherie」1曲を残し、それをひたすら歌い続ける師匠の伴奏をしておりながら、莫大な費用と身の安全をすり減らして、のこのこと安全でない国々を渡り歩かなければ、俺は自分の音楽的想像力を検証する事が出来ないのだろうか。そのカネと時間と体力と感性があるのなら、もっと他に見聞すべき世界や音楽や、愛すべき人があるのではないだろうか。

Posted: 金 - 2月 29, 2008 at 11:40 午後          


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