ザイール・ヤ・バココ「第三の旅」


旅の封印か・・・否・・・



 今日は、「第三の旅」の記念すべき旅立ちの日となるはずであった。しかるに晩飯にこんなものを食っておる。冷凍庫の掃除をかねた5種類のシチューである。左から母屋の食べ残し肉のフェイジョアーダ・牛テールシチューの残り・わりとフツーのチキンカレー・ガルバンゾとコカブのキーマカレー・小松菜のグリーンカレー。なぜにこのようなものを今頃食っているのかというと、それはなにを隠そう、別に隠さんでもええんやが、旅を断念したからである。前回このブログに、旅の再検討を書いて以来2ヶ月半、私は旅の事をあえて考えずに過ごしてきた。旅の事を考えると、無性に行きたくなる。しかし、考えなければ考えんでも、それはそれで特に何という事なく過ごせる。これは、旅に吸い寄せられる引力に欠けているのであって、やはり今は出発すべきでないと思われる。しかしながら、1989年の「第一の旅」の出立に際して、「旅と私とどっちが大切なの?」といってすがりつく女の顔をドクテール・マルタンスのブーツの踵で蹴り倒して出て行った事を思い起こし、その後、何人もの絶世の美女から交際を迫られたときでさえ、「快く旅立たせてくれる事が絶対条件だ」と言い切って、泣く泣く去ってゆく女の後ろ髪に痰を・・・いやいや、啖呵を切って「第二の旅」へ赴いた事に赴いを・・・思いを致すに、なぜこの期に及んで「第三の旅」の準備が須く整ったというのに、一時的な感情の前にこの計画を葬り去らねばならんのか、「第三の旅」は、私の音楽探究の集大成であり、このためにありとあらゆるものを犠牲にし、全てを注ぎ込んできたのではないのか、この旅に封印をする事は、この旅の計画のあるために泣く泣く私との交際を断念したあまたの美女たちの人生に対して申し訳がたたんではないか、音楽的にも、言語学的にも、民族学的にも、文化人類学的にも、多くを期待されたフィールド・ワークであるはずである。百聞は一見にしかずという。この目で見た直観こそが、全ての迷いを解き、私の人生を開拓するのである。前進するための聖なる泉足りうるのである。この旅を終えた後で、幻想的な冒険譚を執筆するのである。それなのに、なぜ断念するのか。この地図を見るたびに、また沸々と旅への熱い思いがたぎってくる。行きたい・・・行かねばならぬ・・・止めてくれるな・・・




Posted: 日 - 6月 1, 2008 at 12:14 午前          


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