地唄 出口の柳 初代杵屋長五郎作曲 宇治加賀椽作詞 (菊原初子編譜) 本調子
三味線のお稽古の励みに、習っている曲について調べてみる事にします。
地唄 出口の柳 初代杵屋長五郎作曲 宇治加賀椽作詞 (菊原初子編譜) 本調子
たてまつる(ヨ) 奈良の都の 八重桜(サエ) けふ九重に
浮かれ来て 二度の勤めは 島原の(ヨイサヨ) 出口の柳に
ふりわけて 恋と義理との(ヨイサヨ) 二重帯 結ぶ契りは
仇し野の 夜霧の憂き身の 誰ゆえに(サエ) 世渡る舟の
かひもなや 寄辺定めぬ あま小舟 岸にはなれて
頼りなや 島かくれ行く 磯千鳥
(二上り)
忍び寝に泣く 憂き涙 顔が見たさに またここへ
木辻の里の 朝ごみに 菜種や芥子の 花の色
うつりにけりな いたづらに わが身はこれのう この姿
つれなき命 ながらえて またこの頃や 偲ばれん
忍ぶに辛き めせき笠 深き思いぞ せつなけれ
出口の柳というのは、現在の京都市下京区西新屋敷、すなわち壬生通花屋町筋西入る、つまり五条と七条の間で、壬生と千本の間で、JR丹波口駅の南で、梅小路機関車庫の北で、西本願寺の500mほど西で、四条大宮から南へ1.5kmほどのところにある島原大門という門の前に立っている柳の事らしい。従って、歌詞に出てくる「島原」は、長崎の島原ではない。
しかし歌詞の内容はだいぶヤバいですな。これは明らかに遊郭に働く女の哀歌であるので、俄然調査に熱がこもるのであるが調べてみると、このJR山陰本線の高架下界隈は、もともとは応仁の乱(1467)で荒廃した京都を豊臣秀吉が再建するために、二条柳馬場というから御池と丸太町の間で烏丸と寺町の間で、ちょうどハリストス性・・・失礼、正教会のあるところに日本で初めて公認した花街が、しかしなんで京都を再興するために遊郭を公認するのかという深遠な疑問がつきまとうのであるがそれは振り払うとして、たぶんどんなに窮しても欲望の処理だけはいかんともしがたい男の性が、ないカネを生み出すというか、カネがないカネがないと始終言ってるアル中みたいなもんで・・・、ええと、とにかくその大変結構な街が、200年近くたってこのJRの高架下に引っ越して来るというので島原に乱が起こった・・・のではなくて、それがたまたま島原の乱(1637)の直後だったのでこのあたりを島原というらしいのだが、で、そこがどんなところだったかということに首を突っ込んでいると、もっと下の方を突っ込みたくなるから程々にしておいて、とにかくその格は祇園を上回ったという。ほんでそのイロマチはイロマチであるから、健全な青少年の育成に支障を来すのは今も昔も変わらんと見えて、そこを塀で囲うてしもて東側の入り口に門を設けた。それが島原の大門であって、そこの前に柳が植わっとるのを「出口の柳」というらしい。なんで入り口やのに出口というんかとか、いろいろ考えだすと夜も寝られんようになるから、歌詞に戻る。
地唄の世界では、このように女性の心情、特に花街で働く女性の恋を歌ったものを「艶もの」といって、なかなか練習に気合いが入るのですが、日本の歌は基本的に五七調あるいは七五調であって、この区別というものは、ラテンのクラーベでいうところの3ー2と2ー3と同じくらい、どっちが先に出るかわからん、というかどっちとも取れる、というか実はどっちでもエエねんけど、絶対にひっくり返したらあかんという厄介な代物であって、この歌詞も、はじめの「たてまつる」の五文字から数えはじめて五七調でとって行こうとすると、歌詞のつながりとしては「奈良の都の八重桜」の一括りの表現が七五調であるから、つねに五と七がどうも反転しているような、それが気持ち悪いような、いやいやこれこそ稲藁の穂先で脇腹をしばかれているようなえもいわれぬ快感について書きはじめるとこれも長くなるから、とにかく最後まで残便感・・・失礼、何か反転した心持ちが続く事になるので、これをいっそのこと七五調と考えて、「たてまつる」の五文字はその前にくっついている、民謡でいうところの「五文字冠り」としていくと、うんこの切れは良くなる・・・失礼、最後の切れは良くなるのだが、三味線との相性がこれがどうもねじれてしまって、その美的感覚は私の音楽的理解を超えて遠くにさまよってしまい、途方に暮れているうちに師匠の叱咤が飛んでくるという有様であって、なんともこれが純邦楽というものの得難さかと、しみじみと思いやられるのであるが、問題を一層ややこしくしているのは、この歌詞をリズミカルに四拍子で、淡々と歌って行くのではなくて、丁度皇居の歌会初めのように、地唄の歌い方には一音を長ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーく伸ばして歌う、民族音楽用語でいうところの「メリスマ」を思いっきりきかせて歌い上げるのが常であるから、その歌の意味合いから来る段落と、演奏の構成から来る段落と、五七調のリズムが持つ段落が、みっつともに私の中を別々にはしりまわるものだから、これが全く理解どころか想像を絶する音楽世界が繰り広げられとるのであって、そのありようの不思議さに途方に暮れているうちに、またしても師匠の叱咤が飛んでくるという有様であって、なんともこれが純邦楽というものの得難さかなと、しみじみと思いやられるのであるが、問題をさらに一層ややこしくしているのは、それが四つに枡どられた縦書きの譜面に書いてあって、かならず「いち、にい、さん、しい」と数えながら三味線を弾き、歌詞が入れば歌も歌わねばならず、どっからどーかんがえても4で割り切れへんのにそれをやらされ、明らかに同じフレーズが全然拍子違いのとこから出てくるのに、演奏間違うたら必ず4つの枡のひとつ目からやりなおさんなんからますます途方に暮れているうちに、またしても師匠の叱咤が飛んでくるという有様であって、なんともこれが純邦楽というものの得難さかなと、しみじみと思いやられるのであるが、問題をくわえてさらに一層ややこしくしているのは、その歌というのが、実は地唄独特の節回しを持っていて、必ずしも三味線のリズム通りになっていないというか、三味線のリズムから半拍とか一拍遅れたり、三味線と交互に出たりして、そこに歌詞と三味線のつぼと長さが書いてあるもんやから、一度に4つもの情報を総合的に処理せねばならず、しかもそれをやった上で弾いたんでは遅い訳で、弾く前に頭に叩き込んで、それを弾いてる時はその先を読んどかな間に合えへん理屈になっとって、つまりは一時に8つ以上もの音と歌詞とリズムが渦巻いとって、それを片道小一時間もかかる大曲でやらされたヒニャ発狂寸前で、おおかくもこれが純邦楽というものの得難さかなと、しみじみと途方に暮れているうちに、またしても師匠の叱咤が飛んでくるのであって、なんともこれが純邦楽というものの得難さかなと、しみじみと途方に暮れるということを繰り返しているうちに、2時間後には精も根も尽き果てて、心頭を滅却すれば火もまた涼し状態に至っていて、それこそまさに純邦楽というものの得難さかなと、しみじみと途方に暮れているうちに、またしても師匠の叱咤が飛んでくるということをえんえんと毎週繰り返しているうちにしまいには叱咤が罵声に変わって、バチまで飛んでくる有様でね、邦楽というものはこんなにこわいもんやったんやとしみじみと・・・
で、この曲のメリスマがどうなっているかというと、カタカナで書いた部分がいわばかけ声のようなものであって、そこがまず伸びる。実際の楽譜には、「たてまつる奈良の都の」で一旦間奏に入る。で、暫く置いて「八重桜」があってまた間奏。ここまででだいたい5分くらいかかる。で、間奏の中に同じ印象的なフレーズが出てくるのであるが、これがひとつ目の間奏では、楽譜の2升目から出るのに対して、二つ目の間奏では3升目から出る。この事についてお師匠様に何度訊いてもおこられるばかりでさっぱり要領を得ない。わかった振りをして次に進むと、「今日九重に」で歌を伴奏する三味線の印象的なリフがあって、これがメリスマを入れて4枡が5個。厳密にいうとそのリフは4枡の3つ目から始まっているから4+3/4なんて理屈をこねてたら雷が落ちるから、それは胸にそっとしもといて、その次の間奏の例の印象的なフレーズは1升目から出ていて、次の歌詞の「二度の勤めは島原の(ヨイサヨ)」とあるのが、同じリフが今度は4升が6つ。同じように見て行くと、次の間奏に例のフレーズはなく、歌の例のリフはなんとたったの2回、次の間奏で例のフレーズが3升目に出てそれ以降の歌には同じリフは出てこない。そのかわりその次の間奏の例の印象的なフレーズは1升目から出てたりするから、つまり規則性というものはほとんどなくて、丸覚えしないととても太刀打ちできない代物なのである。
従って歌詞を追うと、「奈良の都の八重桜」・・・これは百人一首にある「いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重に においぬるかな」からとったもので、そのまくらを「たてまつる」に変えてあるから、そこで既に二つ目の枕すなわち「二度の勤め」すなわち「二重帯」と、恋する本命の男と、お座敷に喚ばれた先の主と、二股賭けざるを得ぬ遊女の悲哀を、可憐な「奈良の八重桜」の花に見立てて歌っているのが前段である。この「奈良の都の八重桜」は、単に奈良に咲く八重桜をさしているのではなく、「ナラノヤエザクラ」というれっきとした学名を持つ日本国指定の天然記念物であって、その花は蕾は濃い紅色で、花は薄い桜色、しかし散り際に少し色が濃くなる事から、清楚に咲いてほほを染めるようにして散って行く女の美に対するあこがれとして、不遇の身をそれになぞらえて、せめてもの慰めとしたのであろう。前段は掛詞と枕によって複雑に絡み合っており、たとえば二重帯の次に出てくる「あだしの」という言葉も、「仇し」つまり恋の気持ちの裏返しとしての恨みと、京都の西の方「化野」とを掛けて、世のはかなさ、生命のはかなさ、自分の身の上のはかなさを表現すると同時に、今日の果てに落ち延びてしまった侘しさをかけるという具合に、そこに古典の教養が試されている・・・のかなあということは想像がつくのだが、なにしろ日本史と古典は避けて通って来たので、これ以上の事はさっぱりわからん。しかしこの「あだしの」のあたりから、歌の風景は水辺へと移るのであって、あやふやなこころもとなさをひめつつ後段へ導かれて行く事になる。
「二上り」というのは、それまで本調子で来た奴をここで三味線の真ん中の糸を一音上げる操作を指示しているのであって、楽譜を見ると、その4枡の終わりがその糸の解放弦で、その次がなんと、4枡の一番上にペケがしてあって1拍欠けており、しかも「二上り」に上げたあとの解放弦をべべべんべんべんと弾き連ねるのである。ということは、必ずその余韻がべうううんと上がるものなのであるが、そうするとまた落雷する。でも書いてある通りにしたのにと思っていたら、わきに「徐」と書いてあって、そこで減速するから、本調子の2の糸の余韻が消えてから「二上り」に調弦するのであって、感じとしては4拍子そのまますすんでいる事になる。ややこしいこと書きやがって。後段の歌は、多分芸者を廃業してから思い煩っているのか、想い人が愛想を尽かして他の女とどっかへ行っちまったのか、遊郭を出て木辻の里へ行く。木辻の里というのは、やはり京都の西の花園あたりの事で、これら三つの土地が、当時の京の街の中でどのような意味合いを持っていたのか、調べれば調べるほど泥沼に入りそうなので辞めた。木辻という地名は全国各地にあって、なかでも奈良市にあったという木辻遊郭、これは近鉄奈良駅から南下してJR京終のちょっと手前、元興寺のいろんなんがあるちょっと西に今でも遺跡があるが、歌詞の木辻の里がこれと意味を掛けていたかどうかはわからない。「木辻の里の 朝ごみに 菜種や芥子の 花の色」このあたりがこの歌の意味の分からんところで、「うつりにけりな」からは、やはり百人一首の有名な小野小町の歌によっている。若い頃は抱いてくれる男も多くあったが、老いさらばえてしまっては、たまさかの愛撫にも張りを失って、命ばかり永らえてどうなるものかと嘆息する、悲しい老女の姿がある。目の詰まった笠で深く顔を隠し、世を忍ぶ自分を切なく思うというワビの文句で締めくくられているのであるが、この「目せき笠」も、人目を「さける」ことと、目の詰まった笠を掛けているようであり、そういえば、長唄の「汐汲み」という曲の歌詞の中にそんな掛詞もあったりしてなかなか面白いのだが、ふと気がつくと、作曲が初代杵屋長五郎とある。杵屋の号は、長唄の世界に受け継がれたもので、何故この曲が生田流の箏曲に伝えられたのか、また私の所蔵する「当道音楽研究会」編の「琴曲全集」にもきちんと掲載されているから、まあなんやねえ、古典古典ていうても、当時は流行歌で戯れ歌で艶歌やったというのが、よく読むとわかりますな。
Posted: 木 - 7月 5, 2007 at 08:26 午後