地唄 出口の柳 その2
主題についてわかった事
もともと長唄の二上り芝居うたという事だが、出典自体がそもそも不明。1704-56の宝永年間に成立したと思われる。「出口の柳」は、かつての京都島原遊郭の東門出口にあった柳の事で、一説にある長崎県島原市とは、やはり無関係。歌詞の内容、すなわち題材は、近松門左衛門作「傾城反魂香」に登場する遊女「遠山」・・・彼女は、もと室町時代の絵師「土佐光信」(15世紀)の娘であったが、光信がクビになったために敦賀の遊郭に堕し、気比の浜辺で狩野派の絵師狩野元信(1476-1559)に会って結婚を誓うが、なかなか食えないため、島原でヤリ手ババアをしながら貢いだものの捨てられ、想い諦めきれずに亡霊となって、当時元信の妻になっていた「銀杏」に頼んで七日間だけ妻に成り代わるが、五日目にばれて・・・という哀しいオンナの心内を歌ったもので、従って、前の記事に書いた「二度の勤めは島原の・・・」の下りは、恋するオトコと自分を買ってくれた客との二度の情事を言っているのではなく、添えると思って当てにしていたオトコに貢ぐために再び遊郭に勤めはじめた事を言っており、二上りに上がってからの「偲び寝に泣く憂き涙・・・」からは、ぐっと年月が過ぎて、「木辻の里の 朝ごみに 菜種や芥子の 花の色」このあたりがこの歌の意味の分からんとこやと書いたんやが、つまりフラレたとわかってもなお、元信の姿がよもや京の街にありはせぬかと笠を目深にかぶって朝から徘徊する自分の姿と、朝の街の込み合うにぎわいや華やかさとを比較して我に返って想い見れば、なんというわびしい、切ない事であるよのう・・・と、歌っているのである。全体の曲調は、気品と自然描写を本筋とする地唄・箏曲の曲調とは異なって、江戸時代に関西で流行した門付け芸、すなわち後に江州音頭から河内音頭となって関西の諸民芸の代表となるところの、歌祭文の影響を色濃く受けていて、これは全くの異色である。しかし、枕から前歌に渡るあたり、二上りに上がる手前には、箏曲特有の気品ある処理が施されていて、一曲で様々に手が加えられたあとを偲ぶ事が出来る。ちなみに、その元となったであろうと思われる歌祭文は、後に祭文経ともよばれて文盲の庶民に仏の教えをわかりやすく伝えたり、流しの芸人が三味線を弾くのだが、外に持って回るため皮が緩み、チューニングを下げてだらだらと弾く音が、「デロレンデロレン」と聞こえる事から、「デロレン祭文」ともよばれた。もちろん、同じ京都を本拠地にしているとはいっても、「後藤ゆうぞうとワニクマ・デロレン・アンド・マキ」とは直接関係はないが、後藤ゆうぞう氏以下バック・バンドのメンバーが、かつて揃って江州音頭の桜川唯丸一座のバックを勤めていた事は、なかなかもって縁のある事よのう・・・という話を師匠にしたのは、北海道の旅行から戻ったその日であった。12:20千歳発伊丹行きの飛行機が到着したのが14:00であって、電車を乗り継いで帰宅したのが16:00、ちゃんとお土産を携えてきちんと一時間半も練習して仕上げたつもりで臨んだのであるが、私が三味線を構えるなり、「あんた、今日はえらい疲れてなさるな。私は別に帳尻合わしてまで稽古に来てほしい思てませんねや。集中できんみたいやから今日はもうよろし。帰っとくなはれ。」て、ぴしゃっとふすま閉めてしまいはった・・・ああ、もうこないなったらなんやらの岩戸や。
Posted: 火 - 7月 24, 2007 at 09:50 午後