地唄 芥子の花(本調子半雲井)


菊岡検校作曲・松崎検校箏手付・後楽園四明居作詞

 先週まで、地唄「出口の柳」をみっちり仕込まれて、ようやく私としては生まれて初めて、ひとつの歌を最初から最後までなんとか歌うような真似が出来たのであった。ちょっと早いが50の手習いとはこのこっちゃ。とゆーても「うーあー、うーうー」とゆーてだいぶ前の総理大臣みたいに誤魔化したとこも半分くらいあったけど、生まれて初めてものを歌たというのは嘘やなくて、子供の頃から理屈ばっかりこねて、みんなでさあいっしょにやりましょうハイいちにいさんっ、ていうのが最も嫌いやったから、皆が歌てるとこもクチパクでごまかして、テストやなんかで逃げ道なくなったら教室の後ろへ回ってずっと大太鼓叩きまくって妨害してるような子供やった。「止めてほしかったら単位よこせ」て、むちゃくちゃな事言うとった。中学と高校では幸いにして音楽の授業というものがなかったから・・・それも今から考えたらあんまりなことやけど、そういえばプールがなかったから水泳もなかったな・・・したがって歌というものは一切経由せず、もともと歌謡曲が嫌いでロック大好きやったから、大学出るまで流行歌なんか知らず、社会に出てもカラオケだけは御免被って来たんで、まあ歌なんかよう歌わん。でも、まさか胡弓を習いたいと思うて、こんなとこで歌を歌う、しかも三味線弾きながら、弾いてるメロディと別の旋律を歌うなんて・・・大したもんや。
 ほんでその「出口の柳」に「木辻の里の 朝ごみに 菜種や芥子の 花の色」という文句があるもんやから、お師匠様「ああちょうどええわ、もう夏も終わりやけどこれやりましょ、来週はお盆やから、再来週までによう見て来てんか。」て渡されたんがこれや。「芥子の花」チュウタラあんた、人間国宝クラスの大名人がリサイタルにかけはるような大曲や。そうか、おれもそこまで来たんか・・・て・・・みんなお金持ちよっ。

手に取りて 見ればうるわし 芥子の花 しおりしおれば ただならぬ
匂い芳ばし 花びらの 散りしく姿 あわれそう (手ごと)
悋気する気は 夏の花 雨には脆き 風情あり
誰に気兼ねを なんにも言わず じっとしている 奈良人形

 たったこの4行を、あらかた15分くらいかけて歌うんやから、地唄というものは底の知れんもんや。これも「五文字冠り」でしょうな、最後だけが、七・七・七・五で重々しく鎮めたあるとこなんかなんともオツですわ。歌詞の字面を見て行くと、表記には伝えられてる流派によって幾分違いがあって、例えば手ごとの直前の「散りしく姿 あわれそう」は、大阪の生田流菊原家に伝わる文句ですが、東京から出版されている歌詞集には「散りしく姿 あわれとも」、大阪の当道音楽研究会のものには「散りし姿 あはれよ」とある。また意味合いの点から見て最も相違があるのは、最後の「じっとしている 奈良人形」の部分で、大阪では両流とも同じであるが、東京の山田流に伝えられている歌詞は、「じっとしていな」と、命令形ともとれる文句になっている。この部分はたとえば、地唄艶物の「こすのと」の最後のほう、さァこれから一発ヤルぜという場面を表した部分に、「(癪に嬉しき 男の力) じっと手に手を なんにもいわず 二人して吊る 蚊帳の紐」にあるように、これも七・七・七・五で重々しく鎮める最後の4句の韻が「オ・ウ・ウ・オ」となっていて、この押韻の仕方が地唄古曲の締めくくりに良く出てくるから、「じっとしていな」というのは、ちょっと違和感を覚えますな。
 それはさておき、歌詞の通訳を試みてみますと、

手に取ってみれば 美しい芥子の花 (そんなこたァ見りゃわかる)
花を手折って手折って見てみれば それは尋常でない
かんばしい香りのする 花びらの (ここも「かんばし」と「こうばし」の二通りの歌い方がある)
散って地面に敷き詰められたようなその有様は いかにも可憐に見える (手ごと)
嫉妬する気持ちの燃え上がるような そんな気持ちを表したような夏の花だが
愛情の雨に打たれれば 脆くも散ってしまう儚い風情
誰かに気兼ねをしているのか なんにも言わないその様子
ただじっと咲いているその様子は まるで(艶やかで可憐な)奈良人形のようだ

 芥子の花とは、むろん阿片の原料であって、もともと1800年頃、産業革命の成功によって大変な事になっていた大英帝国イギリス本国では紅茶を喫む習慣が大流行して、印度ムガール帝国の紅茶とともに、中国大清帝国からも中国茶や茶器を輸入していた。しかしイギリスから清への輸出はごく少量だったため、著しい貿易不均衡状態となり、イギリスは印度で生産される阿片を清に密輸してその是正を図ろうとした。当時の世界経済の主流は未だ銀本位制であったため、貿易赤字はそのまま銀の流出を意味するからである。清ではそれ以前から、密輸される阿片の吸引が社会問題化していて、当時の皇帝は林則徐を大臣に任命して取り締まりにあたらせた。林則徐は、阿片の吸引や所持だけでなく、売買や密輸に関しても実に厳しい取り締まりを行ったため、イギリス当局と衝突するのは時間の問題であった。かくしてイギリスは、阿片の密輸を公認しろという全く恥知らずな要求を以て清と開戦し、圧倒的な武力によってこれを屈服して、1842年、南京条約という前代未聞の不平等条約を結ばせる事になる。この条約によって、イギリスは多額の賠償金のほか、香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港、治外法権と関税自主権の承認、最恵国待遇条項の承認などを獲得したのだが、このことが列強諸国によるアジア・アフリカ・南アメリカ諸国の経済的侵略の正当化の端緒となり、以後の世界史に不平等条約の乱発による混乱と世界的貧困を招く端緒となった事はいうまでもない。当時のイギリスでは、さすがに開戦の理由が阿片の密輸ではいかがなものかという反対意見もあったらしいが、結局貿易不均衡の是正を口実に承認された。要するにイギリスにとって銀の流出を食い止めるための戦争だった訳だが、所詮それは一時的な対処療法に過ぎず、実際には産業革命によって生産の拡大を制御する事が出来なくなったイギリスでは、次に綿製品の販路拡大のために戦争を続ける事になる。アジアにとって、組織的体系的に、いわゆる「西洋列強」の脅威というものを体験したのは、歴史上この時の清が初めてだったのだが、この戦争によって清はイギリスが単なる蛮国ではない事を知り、取り締まりと交渉に当たっていた当の林則徐が収集しイギリスやアメリカの商取引や関連法の情報を、彼の右腕であった魏源が「海国図誌」にまとめあげている。これは、東アジアに於ける本格的な世界紹介書であって、清の商人によって幕末の日本にも紹介されている。隣の海で阿片をめぐってイギリスと中国が戦争をしている最中、すなわち天保年間の初期(1840年頃)にこの曲は成立しているから、これは所以なくもない。その芥子の花の一種である「ヒナゲシ」は中国では「虞美人草」と言って、儚く美しく艶麗さの代名詞であるが、この歌に言うところの「芥子の花」はこの「ヒナゲシ」をさしているのであって、そこらへんの空き地に咲く雑草の芥子ではない。さらにそこらに自生している芥子の花が終わってから膨らんで来た果を絞ったところで、催眠効果のある物質を得る事は出来ないが、そのアヘンの効用については紀元前3,000年のメソポタミアから知られていて、日本に入ったのは室町時代の明朝からであって、そのころ、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に紹介されており、その典礼音楽として、後にヨーロッパではバロック音楽として花開く、数々の宗教曲と楽器、及び楽譜が日本に伝わっている。さて、女が国の命運を左右するのは、洋の東西を問わず歴史上ままある事であるが、この「虞美人草」の名の由来となった女性は儚い伝説で語り継がれている。急激な改革によって中国最初の帝国となった秦が短命に滅んだあと、項羽と劉邦の勢力争いに後者が勝って漢王朝が出来る頃の話だから紀元前200年頃、劉邦軍により垓下に追い詰められ、「四面楚歌」の状態になった項羽に、片時も離れずに付き従っていた「虞」という女性の事で、このとき項羽は、「力は山を抜き、気は世を覆う。時利あらずして騅逝かず。騅逝かざるを如何せん。虞や虞や汝を如何せん。」という有名な「垓下の歌」を残している。説話では、このあと項羽は垓下を脱出し、虞は項羽の足手まといにならないように、舌を噛み切って自害した事になっており、彼女を葬った墓に無数のヒナゲシの花が咲いた事から、中国ではこの花を「虞美人草」と呼ぶのであって、ヒナゲシも咲いて間もなく散る事から儚い花の象徴とされている。そのヒナゲシのような健気で美しく、慎ましやかで潔い女にあれかしと願う男の心情を歌っているような気がするので、多分作詞者の後楽園四明居は女性で苦労されたんでしょうな、というのも、歌の前半は歌詞そのままで掛けた言葉もないようだが、後半いきなり「悋気」などと言う過激な言葉で歌が始まる。気の強い情熱的なオンナではあっても、俺の愛の飛沫を浴びればたちどころに身を柔らかく従順に致せよ、だれも見てはおらぬさあ、よいではないか・・・ちなみに「手ごと」というのは、歌と歌の間の間奏であって、いまふうにいうならばギター・ソロのようなもんですな。箏の手付けがあるから、ギターとキーボードの掛け合いになっとって、1840年頃という成立時期から考えるに、フランシスコ・ザビエルによって西洋のキリスト教典礼音楽が日本に伝えられたのが1550年頃、日本の箏曲の開祖八橋検校が、有名な「六段の調べ」を作曲したのが1600年頃、ザビエルの使節団は洋楽器も複数持参して時の将軍織田信長や豊臣秀吉に献上している。ミレラを考え合わせると、未だ想像の域を出ないが、約200年後に作曲された「芥子の花」のインター・プレイに、ヨーロッパ風変奏曲の影響を感じるのも私だけではないだろう。しかも、この間奏のあとには、リズムの全く異なる「中チラシ」・「チラシ」という楽章が付与され、音楽的な情感が増幅された後に、あの「悋気する」で始まる後歌が出るのである。これを中世典礼音楽の組曲の形式であるサラバンド・メヌェット・ジークなどという、変奏曲の要素でなくてなんであろう? いずれにせよ、深みある底知れない麻薬のような曲である事には違いない。

Posted: 木 - 8月 9, 2007 at 12:18 午後          


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