梅の月
作詞者不詳・峰崎勾当・作曲
梅の月 古曲・平調子二上り
うたがひの 雲なき空や 如月の その夕かげに 折りつる袖も
くれない匂う 梅の花がさ ありとやここに 鶯の
鳴く音をり知る羽風に はらりほろりと 降るは涙か花か
花を散らすは 嵐のとがよ いやあだし野の 鐘の声
峰崎勾当は、18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて活躍した大阪の作曲家であり三味線奏者である。技巧的に洗練された手事ものを完成したことと、数多くの優れた端唄ものを作曲したことで知られる。個人的には非常に好きな作曲家であって、端唄ものとしては、「ゆき」・「袖香炉」・「古簾の外」など、高貴な歌詞の中に秘められた色香にゾクッとする名曲が多い。また手事ものとしては、あの究極の名曲「残月」のほか、「越後獅子」・「吾妻獅子」・「都獅子」のいわゆる獅子ものが素晴らしい。私個人としては、これらの複雑な技法を要求される手事演奏、すなわちインストゥルメンタルの部分には、花鳥風月の美学を基本とした、当時の純粋な日本音楽であるというよりも、かなり高度に咀嚼された西洋音楽の語法が取り入れられているように感じられる。これについては遠い将来私の研究対象になるかもしれぬので、ここでは感じられるというに留め、深く持論を展開することは、これを差し控える。
さて、「梅の月」という曲は、なかなかの難曲であって、あまり演奏会にかかるものでなく、捜してみたが音源も市販されていない。ところが来週の月曜日のNHK-FM放送でこれがかかることになり、運良くお稽古もこれの仕上げに取りかかっているところであるので、是非録音してこれを保存しておきたいものである。歌詞は、本によって幾分表記に違いがあるが、まあこんなもんやろ。
艶ものの端唄に毒を秘める修辞法に抜群の才能を発揮した(と思う)作曲家だけに、この歌詞にもなかなか味わい深いものがあって、まあだいたいの体位・・・失礼、大意は梅の香りにまつわって儚い景色を歌ったものであろうが、よく読むとそう簡単ではない。
「うたがひの 雲なき空や 如月の・・・」旧暦の如月、つまり今の三月頃の空は、たいがい霞んでいたり、中国大陸から黄砂が運ばれたりして、すっきりしないことが多いと思うのだが、「うたがいの雲」がないという。つまりこれは、空に浮かぶ雲のことではなくて、心の中の雲、もやもや・・・つまり男と女の気持ちが離れてしまった状態にあって、たぶん男の気持ちがどうなってしまったのかを考えあぐねる焦りや不安に苛まれる女心のことを歌ったのではないか。男に新しいオンナが出来たのか、まんずそれは間違いない。しかし何故? どんなオンナ? いまどこでどうしてる? それにしても、なんて暗い歌い出しなんだ。厳しい冬・・・というか、心の寒い時期、つまり、やり切れぬ思いに身をやつして疲れ果て、自暴自棄になって死のうとまで思い詰めるとき、はたと迷いが消えることがあるという。なんだ、世の中の半分は男じゃないか。それまで思い悩んでいたことが嘘のように現実味を失い、何故か心が軽くなるという。しかし、それも何故軽くなるのか説明がつかないのである。しかしこの歌詞の心情はそこまで至ってはいまい。気持ちが吹っ切れてはいないが、ドロドロに思い詰めてもおらず、そこは乗り越えてまだ少しオンナらしい未練が残っている。
「その夕かげに 折りつる袖も・・・」この部分は、古今和歌集にあるよみひとしらずの歌「をりつれば そでこそにほへ うめのはな ありとやここに うぐひすのなく」からとられたものだが、しかし何故「夕かげ」なのか。昼の日中じゃいけなかった理由は、やはり晴れ晴れとおおらかに花を切って愛でるほどの創造的な心境に至っていないのであろう、しかし夜陰にまぎれてというほど陰湿でもない。その微妙な輝度・・・たぶんISO100のEV値で9から10くらいの明るさであろうが、夕暮れの少し影になった落ち着いた明りの中で、そっと枝を手折ったと、一見思わせる歌詞であるが、しかし折ったのは「枝」ではなく「袖」なのである。袖を折るということは、やはりそれで涙を拭ったものであろう、つまり昼日中に袖を折らなかったのは、涙に濡れた自分の顔を人に見られたくなかったからだとわかる。梅の香りは結構鼻の粘膜を刺激するから、そのあとの恨みつらみを聞いていると、あるいはこの人は花粉症だったのかもしれませんな。当時のアレルギー医学がどのようなものだったかはわからないが、もしかしたら、これから杉花粉檜花粉の舞い散る地獄の季節を迎えることに憂鬱になるその気持ちを歌ったもので・・・んなわけないか。
「くれない匂う 梅の花がさ ありとやここに 鶯の・・・」先ほど「折った」ものは袖だと書かれているが、当時の人々はおそらく古今和歌集のこの歌も熟知されていたであろうから、歌の流れから導かれる連想としては、やはりここに架空の「梅の枝」が折られているのであって、その枝を受けてこの部分が続くのである。ここからは歌詞は明確に二重の意味を帯びて進む。表面的には、手折った梅の枝の香りが袖に移り、それを本物の梅の花と鶯が間違えて・・・と書いてある。そんなことあるかいな、相手かてプロの鶯やで。ほな何故「くれない」が匂うのかというと、これを紅梅と解釈する善良な見方もあるのであるが、それは違うでしょ。だって関西では紅梅はもうちょっと咲くのん早いもん。私の思うに、これは紅色の肌襦袢のことであって、そこに梅の香りが残っている・・・のではなくて、男の残り香をはからずも嗅ぎ取って奥の方がズキンときているのである。肌襦袢に男の香りが残っているくらいだから、よっぽど洗濯をしなかったのか、あるいは当時の職業的な女性であって、馴染みの男が他の奴に浮気しそうなので、その不安を歌ったものかもしれぬ。うむ、時間考証としては、最もそれが適当でしょうな。ま、しかしそれにしても健気な女心を持った遊女であることよのう。
「鳴く音をり知る羽風に はらりほろりと 降るは涙か花か・・・」字義通りであるならば、その屯間な鶯がばたばたと羽ばたいて起きた風に、花びらがはらりと、花粉症の涙がほろりと、あおられてと落ちたと書いてあるが、ホントウのところは、その前の「鶯の」からかかっているのであって、「鶯の鳴く声を知っている風」である。つまりそのオンナの男に向けた気をやられたときのアの声がどんなに艶っぽいものであったかを風が知っていて、その風に呼応して、花びらすなわち自分の恋心を思い出してあそこがズキンときて、諦めから来る涙か自嘲する涙か、まあそのへんはオンナになってみたことがないのでわかりかねるのだが、非常に複雑な意味を持つ涙が、ふと流れたということであろう。
ところがここで気を持たせておいて曲は長い間奏、すなわち「手事」に入るのである。こういう憎い展開が峰崎勾当の良くやる「手」であって、これに堪らずハマってしまうとちょっとタチが悪い。のみならず演奏も非常に難しい。先ず曲は、ここまでは三弦は「二上り」で来る。わりと中庸なテンポと指遣いで来るので、歌の間は比較的安泰である。この前歌の文句が終わってから、暫く余韻を残すような演奏の部分があって、少し鎮めたあと、なんと「本調子」に移調する。「二上り」を「本調子」にするには、もちろん真ん中の糸を一音下げるのが通常であるが、ここでは真ん中は於いといて一の糸と三の糸を、それぞれ一音上げるのである。三味線は、一の糸が基本であって、これを弄ると調律の全体が不安定になり、なかなか調子が出るまでに暇がかかる。それは高級な三味線でも同じだというから、つまり細い棹を持つ三味線の構造的な問題なのであろう。それを一気に両側2本の糸を引き締めるのであるから、中の糸はそのままといっても、実は微妙に音が下がるのである。それを気にして手が止まると、当然先方から撥が飛んでくるから、これは手事部分を弾きすすめながら微調整して行かねばならぬ。楽譜には「ゆるやかに」なあんて書いてあるけれども、実際には、左手はツボを押さえたり糸車をギシギシやったりして、大変忙しい。それでも暫くは、極端に細かな移動は出て来ない。と思って油断していると、なんと中指で三の糸を押さえ、同時に人差し指で一の糸を押さえ、中の糸は解放弦で順番に弾くという部分が出てくる。つまり指はブリッジの形になっていて、あの細い棹の上で瞬時にその形を作り、また次の拍では素に戻すということを、10回ぐらい繰り返して、最後はなんとその不自然な形のまま、ずるずると音を一音ずつ上げて行く箇所がある。全く不自然なことこの上ないが、そう書いてあるのだから仕方がない。この部分を、実際の演奏ではどう聞こえるのか、来週が楽しみである。このほかにも、左手を棹から放して、三の糸を下から4本の指で順番にはじく技法「サカハジキ」や、私の細棹では最も苦手とする「中糸ハジキ」も出て来て、艱難辛苦の末、這々の体で「次第に徐」と書かれた手事の終わりにたどり着く頃には、「降るは涙か花か」どころか脂汗をびっしょりかいて、背中で息をし両手は引きつって今にも反乱を起こしそうになっている。後歌にかかる前に少し間があるので、ふと目の前のお師匠様を見やると、全くこの御老体のどこにそんな力が残されているのか、眉ひとつ動かさずに、にこやかな笑みまで浮かべて楽譜を折って・・・、いや、追っておられる・・・いや、楽譜も左下を折ってね、めくりやすいようにしとくんよ。
「花を散らすは 嵐のとがよ いやあだし野の 鐘の声」これも字義通り解釈すれば、梅の花を散らしてしまうのは嵐の仕業である、と思ったら化野念仏寺の鐘の音が鳴ったというのである。なんのこっちゃ。化野念仏寺というのは京都嵯峨野にあって、古来より一帯は死者風葬の地であり、いまでも無数の無縁仏に灯明を上げる「千灯供養」というのが幽玄に行われている。地唄や日本の古い歌には、「あだしの」という言葉を、転じて、寂しい恐ろしいところ、うらみつらみのこもった状態、無常、死を連想させる言葉として使われていることが多い。「花を散らす」の「花」とは、当然女心であって、それを踏みにじった「嵐」というのは、男の心変わりであるのか、世の中の急激な変化であるのか、家庭の事情であるのか、あるいは生死を決するほどの深刻な事故や事件であったのか、そのへんはわからん。しかしそのために彼女は花を散らしてしまったのである。その心の痛手はまだ癒え切ってはおらぬのである。男の残り香に奥の方がズキンとくるのである。しかしこれは仕方のないことなのであって、自分で自分の気持ちに整理をつけないとどうにもならないのである。その男が本当に不慮の死を遂げてしまったのかもしれぬ。また、彼女の心の中で、男は死んだとして気持ちに整理をつけたいのかもしれぬ。あるいは、「私の恋は死んだ」と嘆いているだけかもしれぬ。いずれにせよ、そのような女心の風上から、化野念仏寺の鐘の音がゴーンと響いて来た。しかも夕景、いかにも西京らしいではないか。ちなみにこの後歌は、二上りからルートが一音上がった本調子で演奏されており、そのままの調子で歌に入ると、最後の「鐘の声」は、出だしが「乙」の「五」、つまり中の糸の「五」のツボの音の1オクターブ下と指定されていて、これは男でもなかなか出ませんな。そこで楽譜には、ここに「甲(かん)の声で歌うも可」と註釈してある。「乙」に対して「甲」であるが、つまり「乙」からみれば1オクターブ高い声であり、このことを「甲」の分だけ高いから「甲高い(かんだかい)」という。この常套句は、元はと言えば実は古典邦楽の音楽用語だったのである。まあイロイロと勉強になりますな。せやけど、なんで、梅の「月」なんやろ? そこがわからん・・・
Posted: 日 - 11月 25, 2007 at 03:09 午後