宮崎勤死刑囚に死刑執行


私は死刑制度に反対する

 連続幼女殺人事件の宮崎勉死刑囚が処刑された。この事件は、私が初めての海外旅行として、ザイールを訪れていた最中に起きた。キンシャサでもテレビで見た。なぜ日本ではこんな事件が起こるのかと、よく人に訊かれた。1989年当時のザイール共和国と、当時の日本の社会の違いを彼らに上手く説明する事は出来なかったが、バブルの日本では物があふれ、都市生活はとても便利になり、生きて行くための苦労なんて、捜す事の方が難しくなってしまったがために、生活実感のない若者が増えて、夢の世界と現の世界を混同してしまう病気が流行っているのだ、とかなんとか言ったように思う。キンシャサでは、道をまっすぐ歩くのでさえ、強靭な遺志と体力を要求される。そんな世界に生きている人たちに、便利すぎて現実感を喪失した日本人の話など、通じようはずがなかった。
 思えば、私も大した苦労をしていない。苦労を苦労と感じていないのもあるが、赤貧芋を洗うがごとしという暮らしはした事がない。現実感を喪っているという点では、今の若者とそうは変わらないだろう。しかし、人間は実体的生物であって、現実の中に生存している事は、まぎれもない事実である。その主体感覚に現実感が薄れているというのは、本当は深刻な問題であって、何としても解決しなければ、世の中の何もかもが危うくならざるを得ない。たとえば自動車の性能が向上して、悪路でも快適に走行でき、居住性が増した事により、スピード感や運転感覚が薄れてくるのと同じである。しかし、いかに快適な移動空間とはいえ、自動車は、おおむね1トン前後かそれ以上の強固な物体であり、それがままならぬ速度で移動する凶器である事には変わりはない。運転者が現実味を喪ったとき、外界と自分をつなぐ連続的な注意力も喪われ、事故に直面して初めて目が覚めるのである。
 ヴァーチャルな感覚で自動車を運転しているとき、運転者にとっては、往々にして外界は目的地へのアクセスに過ぎない。進路に現れるものは、すべて障害物である。それが仮に人間であったとしても、自分と同じ意識や感覚を持った人間としてではなく、すべて障害物である。つまり、彼は運転席にいて、彼自身が世界万物唯一の絶対的存在であり、「他者」は存在しない。こういう感覚に人間が陥りやすい事は、日常の細かい事に注意しているだけで、容易に観察できる。自動車の運転に例えるなら、ウィンカーも出さずに右左折や進路変更をする人は、自分が行きたい方向へ行くのに、なぜ周囲の車に知らせる必要があろうかと感じているのである。そして高級車に乗り、合流と同時に最も右側の車線に陣取って、急加速して他者を圧倒する事に快感を覚える。こんなことは、日常頻繁に見かける事だ。
 今の日本人の、主に都市生活者を取り巻いている環境は、アクセルを踏めば到底人間などが出し得ない速度を、いとも簡単に出しうる自動車に乗っているようなものである。別にその人が偉い訳ではない。何億年もかけて地球のあらゆる生物が堆積して出来た化石燃料を、市場原理とやらで適当な値段を付けて取引の対象とし、そこから生み出される化学物質をきわめて熱心に飽く事なくに加工した結果、便利に便利を上塗りしたありとあらゆるものであふれかえっているだけの事だ。高齢者は、何もない時代からこんなに豊かな時代になったと言って、諸手を上げて喜ぶだろう。それはそれで良い。何事も基本があって応用がある。彼らは基本をよく知っているから、応用されたものも理解できる。しかし、我々の世代の頃には、既に電化製品は家庭にあふれていたから、応用されたものから始まっているので、基本を知らない。ちょうど知らない都市へ車で行ったときに、次の交差点を右折しようと思って右に寄っていたら、その交差点が立体交差になっていて、右折するには左端の側道へ出なければならないのと同じ事である。こうした複雑な変化が、クモの糸のように現在の社会の様々な事物に絡み付いていて、シンプルな状態を知らないものには、到底理解しがたいほど怪物化している。現実感など生まれようはずがない。食べるものもほとんど加工食品で画一的な味だし、即物的な欲求を一時的に満たしてくれる魅惑的な刺激は豊富に取り揃えられている。しかも安価だ。これでは、空腹に耐えたり、欲望に打ち勝ったりするチャンスさえない。これが今の世の中の実際ではなかろうか?
 私は死刑制度に反対する。死刑とは、国家による殺人に他ならない。人を裁く基準となる「法」というものが、無謬である事を前提にした制度である事は疑いを容れない。しかも、いつ誰を死刑にするかは恣意的である。さらに、死刑執行の方法や死刑囚の生活について、一般国民はほとんど何も知らない。罪と罰というものは、考え方の基本としては、健全な社会があって、そこに何かの事情で不健全な行動をとった者が出たから、それを罪として罰を与えるというものであろう。罪の程度に応じて、罰の重さは変わり、最高に重い罰が死刑である。これを法体系という。社会が、基本からいくらも変わらない、というか、誰もが共通認識として基本を知っていると疑いを容れない社会に於いてならば、このような体系は意味を持つ。しかし、上にも述べたように、現在の日本の社会はきわめて解りにくく、善悪の基準が曖昧になっている。こうした社会作りに邁進し、宮崎勉に加工食品を与え、画一的な味覚で現実を見失わせ、幼女を人間としてとらえる感覚を喪失させてしまったのは、彼の親たちの責任である。彼を処刑して世の中から抹殺するのであれば、阪神高速湾岸線で、合流するなり最初から右端の車線へ出て、猛スピードで突進する高級車を運転しているバカたれを処刑すべきであり、そうやって弱者を押しのけて這い上がる全ての者、つまりほとんど全てのサラリーマンを処刑すべきであり、つまりこんな国を作った日本人は全て消えた方が世界のためである。なぜならば、今あげた奴らの思考パターンは全て同じ原理に基づいており、その結果現実の解りにくい社会の仕組みが出来上がったのであり、たまたま転がっていたボールと幼女を取り違えた宮崎勤が、この間違った社会の生みの親に殺されたというのが、今回の死刑執行の真相だからである。彼を殺したという事は、この社会を築いた全ての人間を殺した事と同じであり、もし我々が彼を処刑した事によって、この社会の病理を水に流す事が出来ると考えているのならば、それは全くの間違いである。彼は、この社会の深刻きわまりない病巣を垣間見た生き証人であって、彼を殺す事は、永遠にその口を塞ぐ事になる。死刑執行を命じた鳩山法務大臣は、「正義の実現のため、死刑執行を粛々と進める」と明言した。この言葉は、大臣にとっては、現行の法体系は無謬であり、それを実行する事が正義であって、その行為に何のためらいもない。殺人に何のためらいもなく、自己の判断の正当性に疑いを持たない。これは、上に述べたような複雑な価値観の交錯する社会という現状認識からは大きく外れていて、単純な勧善懲悪の二元論で割り切られているのである。これが国民の大多数に支持されているのだとすれば、それは砂上の楼閣を崇める空虚な偶像崇拝と同じであり、私にとってはそれこそ心からの恐怖を覚える者である。そういう意味では、そのような単純な価値観に対するアンチ・テーゼの実行者として、私は宮崎勤に共感する事を、彼の霊前に告白する。彼にとっては、全てがグレーに見えたのだ。本当は、白い物は白くて、黒い物は黒くて、色鮮やかな世界のはずなんだが、その上につもりに積もったほこりが、何もかも覆い隠してしまった。そのことは、はっきりと認識される必要がある。残された我々には、かろうじて、まだもとの色を伺い知る事が出来る。だから、こんな不幸な死を二度と繰り返さないために、この病んだ社会に於いては、まずは死刑制度は廃止されるべきである。
 この事件を思い出して、私は1980年に起きた「神奈川金属バット両親殺害事件」を思い出した。犯人は私と同じ年齢、東大卒のエリート・サラリーマンと教育ママゴンによる厳格で閉塞し切った家庭環境、果てしなく続く理不尽な締め付けと激しい暴力・・・そのなかで発作的に起こってしまった殺人・・・しかも金属バットで両親の顔かたちも判別できないほどメッタ打ちにした犯行・・・同じ境遇に発狂しそうになっていた私は、犯人一柳展也に心からの拍手を送った。当時私は20歳。成人していたのに、まだまだ精神的にはアンバランスであった。この頃は、多分まだ世の中はシンプルだった。しかし、これはその後日本の社会が抱える様々に複層した問題から生まれる、オトナの人たちにはよくわからない犯罪の端緒だったように思う。彼は犯行を認め反省し、尊属殺人であるにも関わらず懲役13年という温情判決で社会は応えた。彼は控訴しなかった。そして刑期を終えて社会復帰し、現在NPOを率いて南アジアで活躍中と聞く。私は、なんとか無事ここまで犯罪を犯す事なく半生をわたり仰せ、今は経済活動を停止して農業に打ち込んでいる。

Posted: 水 - 6月 18, 2008 at 01:39 午前          


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