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師匠についてパーカッションの修行を始める

 

ズジさんの家に招かれる

 

 ある日、ズジさんが私を家に招いてくれた。夜勤明けの帰り道に一緒に家に行こうというのである。私はこのような形で、正式に家に招待されるのは初めてだったので、日本から持ってきた扇子の置物や、新品のTシャツなどのおみやげを持ち、ちゃんとした服を着て、ズジさんとともにマテテ行きのタクシーに乗った。ズジさんの家は、大きな高い塀と鉄の扉に守られた広い敷地の中にある、豪勢な屋敷が家主をしている長屋のなかのひと世帯だった。しかし、さすがにちゃんと家庭を持っている人らしく、当たり前のことだが穴蔵ではなくて、れっきとした家だった。

 部屋は三つほどあって、そのうちのひとつが応接間だった。ズジさんの嫁さんにまず紹介された。名前はクリスティーヌといい、とても愛想のいい格幅のいいママだった。子供は、子供はなんと十三人もいた。日本人が珍しくてついてくるのだろうと思っていたのだが、この家に来る途中で我々の回りをちょろちょろと走り回っていたたくさんのガキどもがいた。失礼、その子供たちは、実は全部ズジさんの子供だった。ズジさんがいかにもうっとうしいという剣幕で叱りつけるものだから、てっきりよそのガキどもかと思っていた。彼等は我々が家の中にはいっても、家の中や外を構わず元気に走り回っていた。私は応接セットの一番奥に席を与えられ、そのほかに知り合いとおぼしき人たちが何人か座った。ズジさんは、応接間の窓際に置かれた、上開きの巨大な冷蔵庫からビールを五、六本出すと、さあ飲めと言った。まだ午前中だった。

 躊躇する私に構わず、彼は私が初めてほうほうのていでディアカンダに着いたときと同じように、二つのコップにビールをなみなみと注ぐと、がっちゃんがっちゃんと音を立てて、大声で「ウェルカム・トゥ・ンダコ・ヤ・ズジさん」、と言いながらコップを打ち合わせた。「ンダコ」とは、リンガラ語で家のことである。おかげで、また我々は肘までビールに濡れ、コップの中身は半分がたこぼれてしまった。「おおおぅ」、回りで歓声が上がった。窓の外を見ると、なんとすでにいくつもの黒い顔が応接間を覗き込んでいた。応接間の奥にはテレビがあり、その脇に巨大なラジカセ、その両側に扇風機が二台も置いてあった。その二台の扇風機は、最強の速さでがんがんに風を送っていた。ズジさんはラジカセにテープを入れると、フル・ボリュームでそれをかけはじめた。こうして窓の外の人たちにもビールが振る舞われ、実に賑やかに宴会が始まった。

 それにしても彼等は全く、適当ということを知らないようだった。扇風機は二台もいっぺんにフル回転させるし、ラジカセのボリュームも右に回し切ってあった。ただでさえやかましいところへ、ガキどもがわめき散らしたり泣いたりするので互いの会話もままならず、ボリュームを下げればそれで済むことなのに、決してそうしようとはせず、隣同士でさえ、大きな身ぶり手振りのひそひそ話をし、台所のクリスティーヌでさえ、わざわざズジさんの耳元まで来て用件を怒鳴らなければならないほどだった。ズジさんが、同席の人たちを一人一人紹介してくれた。全部で五人ほどだったが、そのうち半分は、同じ敷地内の賃借人で、あとは遠い親類だった。騒ぎを聞きつけて、家主も顔を出した。ズジさんと私は、立って彼と握手を交わし、彼も宴席に連なった。さらに何本もビールの栓が抜かれ、集まった屈強な男たちの腹に吸い込まれていった。「何だ、お前はちっとも飲まんな。」という不満の声に私は、私はあまり酒が強くないし、日本人はお天道様の出ているうちは酒を飲まないしきたりだとお茶を濁した。ありがたいことに彼等は酒を強要しなかった。しかし彼等は旺盛に飲んだ。

 ズジさんは私の隣にやってきて、がなり立てるスピーカーの音に対決するかのように、一言一言ゆっくりと私に話しかけた。話の大半は、日本人でここに来たことのある人たちの近況についてだった。「ピリピリはどうしてる、アラタは、ダイスケは、カタヤマは・・・」と、なじみの名前がぽんぽん飛び出したが、ほとんどが東京の人だったので、詳しくは知らなかった。そこで、紙に簡単に日本の地図を書いて、ここがトウキョウ、ここが私の住むオオサカ、と指し示し、ここからここまでが何キロあって、その間には新幹線という列車が走っていて、片道三時間ほどだと言った。「すんげえ、そいつはそんなに速く走るのか」「ああ、確か時速二五〇か三〇〇キロぐらいのはずだ。」「なんと、小さい国なのによくもまあ。」と彼らは感心した。

 確かにその通りだった。ここの世界のスピードの緩さは日本とはケタが違っている。日本から来た私は、ほんのちょっとした用足しにも随分待たされたり、遅々として進まないことをすでに経験していた。おそらくアフリカではすべて同じだろうが、こうしようと思っていくら走り回っても、周りの悠長な時間の流れに巻き込まれ、一人の力で太刀打ちしようとしても、空回りしてスタックして、暑さにやられて倒れてしまうのが落ちだった。私はその頃にはすでに、自分だけがいくら焦っても、なるようにしかならないと見当がついていた。日本でも同じなのだが、ここではそのタイム・スパンが、ちょっと信じられないほど長い。

 我々は大音響の中でビールを飲みながら、そんな話をした。「そうか、日本人はそんなに走り回るから、世界中に日本の物があふれるのか。」彼等は異様に感心していた。日本人はモサラ・ミンギだ、と彼らは言った。仕事をいっぱいするという意味である。全くその通りだった。日本では、食い扶持を得るための仕事が多すぎて、本当にやりたいことをやるためのまとまった時間など、ほとんど得られない。何かしようと思えば、私のように仕事を辞めざるを得なくなる。「なんと、じゃあお前は帰ってからどうするつもりだ。」「一からやり直しだ。」「嫁さんや子供は?。」「いないよ。」また彼等の間でひそひそ話が始まった。彼等は私の将来を気遣ってくれているのだ。

 「ならば、こうすればよかろう。お前はここに住め。仕事なんてしなくてもいいし、飯はふんだんに食える。お前の好きな音楽も腐るほどあるし、お前だったら女でも選り取り見取りだ。こんないいことはないじゃないか。パスポートやビザが問題なら、オレが何とかしてやる。」これだ。そうしろそうしろ、それがいいという客たちにどうリンガラ語で答えたらよいのかわからず、「いや、そうも行かないんだよ。」「何故だ。」彼等に詰め寄られて、「オレには日本に将来を誓い合った女がいるし、日本は日本でいいところなんだ。」などといい加減な受け答えをしているうちに、いい匂いがしてきてメシの時間になった。

 

ザイールの食事

 

 ザイールの主食は「フフ」という、キャッサバ芋の粉を熱湯の中で勢いよくかき回して作った、一種の餅のようなものである。さらに保存食品として「クァンガ」というものもある。米もたまに食う。おかずとしては、牛、豚、羊、山羊、鳥、魚などは、概ねトマト・シチューにする。野菜は、代表的なものに「ポンドゥ」や「フンブァ」、「マテンベレ・バンギ」などという葉っぱがあって、それらは赤いどろどろした椰子の油とピーナッツをすりつぶしたバターで煮る。わざわざ油で煮るのは、水が危ないためにそうするらしいが、驚いたことに魚を入れてダシをとったりもする。豆もよく食べるが、これはトマト・シチューにする。変わったものとしては、「サフ」という薄い紫色をした、中に大きな種のあるキィウィぐらいの大きさの実である。これは焼き茄子のように直火にくべて料理する。薄皮と種の間の、わずかな果肉を食べるのだが、これが柔らかくて酸っぱくて実に食欲をそそる。そうしたものを大鍋にどっかりと作ってテーブルに並べ、その周りに男たちが車座になって食うのである。これは私が公の場しか見ていないせいかも知れないが、女が客と一緒に食事をするのを見たことがない。

 しかし、ずっとあとになってクリスティーヌと仲良くなってから訊いてみると、女たちは、たいてい作っている間につまみ食いしてしまうので、できあがった頃には腹がいっぱいになっているのだという。多くの家庭では裏庭で調理をするので、味見と称して女たちは料理している間に、作っているものを交換し合って食べる。しかも気前良く一皿ずつ分け与え、たいてい何家族かの女たちが共同で炊事するので、いきおい味見の量も膨大になる。「今夜のお宅のおかずはなあに?。」と言っているうちに平気で五皿ほど平らげてしまうので、「だからザイールの女たちはこんなに太るのよ。」と彼女は大きな口を開けて豪快に笑った。なるほど。「だからあなたはそんなことで女たちに気を遣う必要はないのよ。」なるほど。

 客席では、食う前に必ず手を洗うための水を入れた洗面器と石鹸とタオルが回される。ザイールでは基本的に素手で料理を食べるからである。この石鹸がまた臭い。消毒薬のきつい匂いが手にしみこんで、初めのうちは素手では食べられなかったが、そのうちその強烈なにおいもアペリチフのひとつと感じられるようになった。さて食べ方であるが、まずはフフをむんずとつかんで配られた取り皿に入れ、好きなおかずをよそう。ピリピリという、日本でいうところのトウガラシのなまのやつを、塩とタマネギでたたきつぶして発酵させた辛みのものがあるので、好きな人はそれも適量皿に取る。で、フフを一口大に右手でとって手の中で丸め、それでおかずをつかみ、ピリピリをちょっとつけて、あんぐりと食うのである。日本人にとっては、初めはやはり抵抗がある。しかし彼等の言うには、まずは料理を手で味わう。そして次に舌で味わい、心ゆくまで食ったあと、腹で味わう。何とも贅沢なことだ。満腹するというのを、リンガラ語で「コトンダ」というが、椅子にどーんと腰掛けて、両手を力無く広げ、満腹感に打ちひしがれる様子をよく表わす語感で面白い。料理のバリエーションこそ日本の比ではないが、その食い方、味わうことに対するおおらかさは、日本人には見られないものがある。

 その日食卓に並んだものは、家主が振る舞ってくれたものも含めて、一〇品近くにのぼったと記憶する。そこに着いてから三時間も飲みっぱなしのところへ、さあ食えとばかりにどかどかと並べられた料理の山を前に、私は正直言って吐き気をもよおしてしまった。しかし、とりあえず珍しいものからと思ってサフを食った。これが効いた。たちまちのうちに吐き気は治まり、猛烈な食欲がわいてきて、次から次へと、彼等も感心するぐらいに食った。およそ一時間後、あとからやって来たズジさんの実の兄弟二人も入れて、多分八人ほどで、そこに積まれた一〇皿ほどの料理と、てんこ盛りのフフの山は、きれいに男たちの腹に収まってしまった。さすがにあれほどやかましかった男たちも、とろんとした目つきになって椅子に力無くもたれ掛かり、大きなためいきとげっぷばかりがその口をついて出る有り様だった。

 その後、夕方になるまで我々は料理を腹で味わっていたのだが、そろそろ動きたくなってきた。私はカメラを持ってきていたので、ズジさんが写真大会にしようと言いだした。これがまた大変な騒ぎになった。応接間では全員は入りきらなかったので中庭に出たのだが、一枚撮るごとに大騒ぎになり、どよめきと歓声が上がった。例によって応接間からは大音響でルンバ・ライのテープが流されていたから、気のいいクリスティーヌなどは、飛び跳ねて踊りだす始末だった。こうして賑やかで楽しいズジさん宅での一日が終わり、夜になって私はヴィクトワール・マトンゲ行きのタクシーを拾ってホテルに帰ってきた。その後、私の滞在期間中に、何度も土地の名士や実業家達の訪問を受け、彼等の家に招待されてご馳走をよばれる機会があった。彼等にとっては、日本人を家に招いてもてなすことは、周囲に対する自慢になるとのことだった。私もそのおかげで随分と滞在費用も浮き、ザイールの様々な階層の人たちの生活や、数々の風習にも接することが出来た。これは貴重な経験である。

 

いかに信頼できる人間をつかむか

 

 しかし、訪問者は必ずしも好ましい客ばかりとは限らなかった。むしろ毎日招かれざる客の攻勢にさらされていたといっても過言ではない。ディアカンダは不埒な輩を追い払ってくれるのには大変助かったのだが、それでもこれは天然の象牙だと言って、誰が見てもすぐわかるようなイミテーションを持ち込んだり、黒檀の人形だと言って渡されたものの足の裏を見てみたら、まだ乾ききっていない靴墨が残っていたりするのを、したり顔で持ち込む輩が後を絶たなかった。どうやってホテルのロビーをくぐり抜けたのか、あからさまに金の無心だけが目的でやって来る奴もいた。はっきり言って、彼等の一人に甘い顔をすると、必ず同じ施しを求める者が、軽く百人はやって来る。私がいくら貧乏でも、彼等にとっては、うなるほどの金を持っていることになるのだ。

 あたりを見渡してみればわかることだが、走っている車はトヨタやマツダで、カセットはソニーとTDK、電化製品もほぼ例外なく日本製で、しかも彼等の現金収入からすれば、計り知れないほど高い。日本人は、誰でもそんな高度な技術を持った優秀な国民だと思われている。いきなり初対面の男から、日本に帰ったら俺に車を送ってくれと言われてたまげたことがあるが、ザイールでもこんなに日本の車があふれているのだから、日本国内ではさぞかしだろう、そのうちの一台や二台俺に送ってくれたっていいじゃないか、と彼らは真顔で言う。経済格差は計り知れず、一九八九年の段階で、食料品や飲料水は大体日本の物価の五〇分の一、しかしカセットや電池などは、日本で買うのと値段はそう変わらないから、彼等にとってみれば、いかに高嶺の花なのかがわかる。この違いは肝に銘じておかないととんでもないことになる。この垣根を飛び越えて友達づきあいを始めなければならないのだ。ミュージシャンなどと付き合おうと思えばなおさらのことである。しかし、根のいい奴等はいる。要は、どうやって信頼できる伴侶を見つけるかということだ。

 私はこんな方法を使った。彼等の言うことは大体同じである。「家には腹を空かせた子どもや病気がちの親がいて、いくらかでも持って帰ってやらないと、明日にでも死んでしまうだろう、だからそのTシャツをくれ。それを売った金で俺は薬を買う。」勿論そんなことは嘘っぱちなのだが、むげに追い返すわけにもいかないので、私はこんな交換条件を出すことにしていた。「こんなTシャツをお前にやることなんて、私にとっては何でもないことだ。お前はそれで喜ぶだろう。だから、お前にとって何でもないものでも、日本人の俺が喜ぶものを持ってきてくれたら、それと交換しようじゃないか。」たいていの奴はこれで片が付く。能のある奴は、「この日本人は音楽を聴くためにやってきたのだから、古いレコードを何枚か持って行ってやれば喜ぶに違いない。」と気を利かすだろう。事実、ここでは、そこらに古いドーナツ盤がいくらでも捨ててある。ラベルをよく見てみると、我々が飛び上がりそうな幻の名曲の、しかもオリジナル・バージョンだったりする。そんなものでなくても、何か珍しがられそうなものを探して彼等は持ってくる。中には涙ぐましい奴もいて、「これは古い録音だがレコードにならずにお蔵入りになったものだ、しかし素晴らしい曲だからお前にやる、そのTシャツと交換してくれ。」そう言ってざらざらに砂だらけになったカセットを持ってきた奴がいた。私はそれをダビングして本体は返してやり、Tシャツを持たせてやった。しかし、大半はそうした考えも浮かばずにそのまま来なくなる。こうした取引によって、不埒な来訪者から少しでも私のことを考えてくれる者を選り出すことが出来る。汚いやり方かも知れないが、私はそうして、何人かの信頼できる友人をつかんだ。

 しかしこれも長くは続かなかった。あの日本人のところへ何か持って行ってやれば、日本の服がもらえるぞ、という噂が広まって、民芸品やレコードを携えた奴等がホテルに列を作るようになったからである。毎日それを避けるために朝早くから逃げ出し、彼等が暑さのあまり帰る頃を見計らって舞い戻ることが多くなった。アリもよく尋ねては来たが、彼は当時問題を多く抱えていたので、常に私を案内できるほど暇ではなかった。こうして得た友達の中には、わがままな私の要求にもよく耐えて、何とかいい思い出を作らせてやろうと気を遣ってくれた奴もいた。ともに都心まで私を案内してくれて、トランスポールを要求して帰ったシンバ君もそんな一人だった。ただ、彼はあまりにも常識的な考え方を私に押しつけるものだから、あれもダメこれもダメ、それは危ないからやめた方がいい、早く部屋に帰って寝ろと、何かにつけて忠告が多かった。あまりに口うるさいものだから、ときどきいやになることがあるのだが、買い物とか、両替とか、ごく普通の生活をしている分には、ザイールの慣習まで含めて、何かと勉強になる人ではあった。

 彼と外出することは少なかったのだが、彼は実にいいタイミングで私の部屋を訪れた。ぽっかり暇な時間が出来たなと思っていると、彼がなにか珍しいものを持ってきた。物価の相場について、あらかたの知識を与えてくれたのも、ザイール人が好んで使うリンガラ語の独特の言い回しを教えてくれたのも彼だった。車に貼る国名認識票のステッカーを手に入れてくれたり、ビール・メーカーのキャンペーングッズなど珍しいものをもらってきてくれたりしたのも彼だった。日本でもラジオの愛聴者がするような趣味を彼は持っていた。彼は、アリやその他の若い奴等と違って、保守的な人間だった。音楽の趣味までが保守的で、ニボマという、七十年代後半に一世を風靡した古いスタイルのルンバ界のスターを今も敬愛していた。音楽を学ぶために来た私にとっては、彼の言うことだけを聞いているわけにはいかなかったが、彼の考え方は、時として危険に陥ることから私を救ってくれた。バランス感覚という点では、軍事独裁政権下のこの国でどう振る舞えばいいか、トラブルを避けるにはどうすればいいかを事細かに教えてくれたのは彼だった。そういう点で、派手さやエピソードはないものの、彼はキンシャサにおける重要な友人の一人である。

 

巷にあふれる音楽に接する

 

 さて、このように、ホテルで寝ていると朝早くから毎日のように誰かが私を起こしに来る。たいていその日はそいつと行動をともにすることになるのだが、何日か過ぎるうちに、自分のしたいように出来ない窮屈さを感じはじめたため、私はもっと早くに起きて、彼等がやってくる前に部屋を出ていくようになった。確かに誰かが町を案内してくれたり、労せずして色々なつてに巡り会えたりするのは便利なことだし、私自身まだこの街を一人歩きできるほどではなかったが、例のアンチ・ショックのレペ場でレコード会社の重役に席を譲らせたような、身に余るようなVIP扱いも困るし、もっと社会の底辺で音楽をやっている人たちと接したかったからである。危険はあるだろうが、それを恐れていたんでは何のためにここまで来たのかわからない。それに、巷は音楽に満ちあふれていた。人に連れられてあちこち行く途中でも、広場の隅や木陰で生ギターを手にたむろしている若いのがたくさんいた。通りすがりに耳にした彼等の音は、それまでエレクトリックできらびやかなロック的なものばかりと思いこんでいた彼等の音楽が、実はアコースティックなフォーク調の歌にベースをおいていることに気がついた。キンシャサに来て、ここでしか見られないスター達の追っかけをするのもよかろうが、そんな名もないストリート・ミュージシャンと友達になることの方が、よっぽど面白そうだと思ったのである。

 ディアカンダの前の空き地で、座り込んで音を出している男達がいた。何日も前から気になっていたのだが、ある日思い切って彼等に近づいてみることにした。それは、日本で聞き知っていたものとは全く違う演奏だった。連中は若いとはいえなかったが、おずおずと近づいてきた私を見ても、知らんぷりをして自分たちの演奏に集中していた。最初は恐ろしかった。彼等が私を無視するからではない。彼等が葉っぱを吸いながら演奏していたからでもない。その音楽に不穏な厳しい雰囲気を感じ、彼等の没頭する目に、社会に対する敵愾心のようなものを感じざるを得なかったからである。

 初めの日は、私がしばらくそこにいただけで彼等は無言で演奏をやめてしまい、さっさと立ち去ってしまった。嫌われたのである。しかし、彼等は仕事がないのか、次の日も、また次の日もそこに集まっていた。それも大多数の若者が動き出す午後の遅い時刻ではなく、夜明け直後から、暑さが厳しくなる昼前までに限られていた。今から考えても、それは奇妙なことだった。私はどんなに夜遅くまで遊んだ次の日も、夜明け頃には起き出して、通りでパンとバナナとコカを買い、朝食と排泄と水浴びを済ませて彼等のところへ行った。彼等はなかなか打ち解けなかった。しかし、二日目から私は、ギターと声だけの彼等の音楽に、そこらに落ちていた瓶を拾ってきて、それを石でたたいてリズムを合わせることを思いつき、別に呼ばれたわけでもないのに無理矢理にその輪の中に踏み込んでいった。

 彼等は終始無口だったし、ことに私に対しては一言も声をかけなかった。ごくたまにメンバー同士で交わされる言葉も、明らかにリンガラ語ではなかった。私は大変無茶なことをしているのではなかろうか、彼等と打ち解けるどころか、彼等の領域に土足で踏み込んでいるのではなかろうかと、常に自問自答した。彼等の音楽は、砂っぽくてざらざらした、荒っぽい独特の刺を持っていた。それは、次第に私の耳を、果てしない荒野の旅を続ける隊商の魂の叫びを聞いているような、郷愁に近い快感で満たしていった。空き瓶を石でたたいてリズムを合わせようとしていた私に、彼等は長い間目もくれなかった。しかし彼等は演奏をやめなかったので、私は伴奏を続けた。

 彼等の演奏は、ごく単純なツー・コードのハーモニーの上に、歌とも叫びともガナリともいえない、今でいうとラップ的、日本の芸能でいうと河内音頭のような、延々と続く語りによって構成された即興演奏だった。言葉が多い部分と、かけ声が盛り上がってダンサブルになってゆき、ギターによる激しいソロが延々と繰り広げられる部分とが、長い時間をおいて交互に、いつまでも、繰り返し行なわていた。歌が入ると、その邪魔にならないように私は瓶をたたく手をゆるめた。演奏が盛り上がり出すと、私もそれにあわせて音を盛り上げていった。何時間かやっているうちに、ギターのフレーズが微妙に変化していくことに気がついた。フレーズの変化は、おのずからリズムの変化を要求してくるので、私はその変化の行き先を手探りで探し求めた。相変わらず無視され続け、演奏が終わると彼等は無言でどこへともなく去ってゆくので、あえて私の方からも声をかけなかった。しかし、彼等は定刻に、同じ場所に、毎日やってきた。

 そんなある日のことだった。その日も相変わらず私は無視され続けながら、彼等の輪のすぐ外にいた。それまでは基本的にルンバのニュアンスでリズムを出していた私は、どうにも居心地の悪さを感じていたのだが、思い切ってリズム・パターンを縦ノリの頭打ちに変えた。ラテンでいうところの「グアヒーラ」、曲でいうと「グァンタナメラ」という、あの名曲のリズムである。私の対応の変化を知ってか知らずか、やはり彼等は私を無視して演奏を続けた。そして何度目かの歌の多い部分が終わって、演奏が盛り上がりはじめたとき、ちょうど四掛ける四の十六小節を区切る節目にあたる部分で、私はリズムの変化を予測して、思い切って大胆なリズム・パターンに変えた。すると、それまで何の反応も示さなかった彼等が、一斉にギョロッとこちらを向いたのである。あまりにまっすぐにこちらを見るものだから私は鳥肌が立った。彼等の目は、葉っぱにやられて真っ赤だった。私は何かとんでもないことをやってしまったのかと思った。怒っているのかそうではないのか、何とも不気味な無表情な目だった。もういい加減に俺たちのじゃまをするのはやめろと言っているのかとも思った。さもないとぶっ殺すぞ、というような迫力まで感じられた。私は伴奏をやめなかった。内心はびくびくしていたが、一方でその音楽に合わせていることに、たまらない喜びを感じていたからである。しかし次の瞬間、私は自分の目と耳を疑った。彼等はにっこり笑ってうなずき合い、ソロをとっているギタリストが、実に華やかなフレーズを弾きはじめたからである。私はやっと受け入れられたことがわかって、リラックスした気持ちで伴奏を続けた。演奏中も、彼等は私と目を合わせるようになった。「次、変わるぞ。」

 こうして彼等とは友達になった。彼等は南方のカサイ州から、キンシャサに出稼ぎに来ていた労働者だったが、約束されていたはずの仕事がなくて、毎日ぶらぶらしているとのことだった。別にミュージシャンというわけでも何でもないのだが、自然にここに集まるようになったらしい。その音楽は「ムトゥアシ」というスタイルだった。彼等の言葉は「チルバ」といい、彼等の部族の名前は「ルバ」といった。彼等は四人で、特にリーダー格の者がいるわけでもなく、キンシャサの街角で偶然知り合い、現在は別々の身よりの者に頼って生活している。初めて私が近づいて行ったとき、彼等は恐ろしくてたまらなかったらしい。生きていくために仕方なく危ない橋を渡っていたからだ。何か嗅ぎつけられたのかと思って気もそぞろだった。そのうち私が空き瓶を片手にリズムを出しはじめたのを見て、恐怖は反感に変わった。界隈でも有数の高級ホテルから私が出てくるのを見て、物好きな外国人旅行者がおちょくりに来たと思ったからである。のみならず、私が彼等の音楽とは全く合わない、甘っちょろいルンバのリズムを入れはじめたので、我慢も限界に来ていた。考え方が少し変わったのは、私が通りを歩いているガキどもと、リンガラ語で話し合っているのを見たときだった。なんだ、こいつはリンガラ語が話せるのか。しかし、それでも彼等は警戒を解かず、自分たちだけで、チルバ語で話し合った。ある日、私が明らかにリズム・パターンを考え直してやってきたとき、やっと私の真意を理解することが出来たという。

 私は音楽がやりたかっただけなのだ。しかし、それを相手に伝えるのは容易なことではないということを思い知ったのは、そんなことがあってからのことだった。しかし、彼等とのつきあいは長くは続かなかった。そのうちの一人がやばい取引の運び屋に利用されて、ドジを踏んだからである。残った連中も、とばっちりを恐れて散り散りに去っていった。最後に彼等の一人を見かけたのは、あるコンセールから帰りしなの、明け方の人気のない路地だった。アリが一緒にいたが、彼はあんな奴等には関わるなといって私の腕をつかんだ。しかし、私は問題ないと言って、その暗がりへ入っていった。彼は怯えていた。残る二人も捕まったからである。彼は行くあてをなくしていた。のみならず無一文だった。彼は故郷へ帰りたいと言った。私は道中の足しにと、彼にいくらか握らせてやった。彼は怯えて、疲れきった目をしながらも、精いっぱいの感謝の表情で私に答えてくれた。その後彼が無事に故郷に戻れたかどうかは定かではない。

 

フィストン登場

 

 ある日、くちびるが驚くほどでかい物静かな男が尋ねてきた。「ワタシハ、ふぃすとんトイイマース。るんば・らいノ、オンガクカ、デース。」そのたどたどしい日本語には疑いを禁じ得なかったが、彼は私の日本語による壁越しの立ち入った質問にもちゃんと日本語で答えたし、警備の頑丈なわがディアカンダの検問をくぐってきたことでもあるので、部屋に入れることにした。「フィストン」という名前は、日本で発売された二枚のルンバ・ライのレコードに、リード・ギタリストとしてクレジットされていたのでよく覚えていた。ドアを開けて迎え入れてやると、彼は兎のような笑顔で入ってきた。彼は、マライからのルンバ・ライへの正式な招待状を携えていた。彼は今作ろうとしている新生ルンバ・ライのメンバーを一人一人読み上げたうえで、レペが二週間後には始まるだろうと伝えた。そのメンバーを聞いて私は興奮した。それはそうそうたるメンバーだった。有名どころでは、かつて第一回の「ビバ・ラ・ムジカ」来日公演で日本に来たベーシストのゴーチェ・ムコカ、さらに「ランガ・ランガ・スターズ」の歌手の一人で、「ダリダ」という涙の出そうな名曲をものしたディッキー・レ・ロワがいた。そして、「イストリア」やコフィ・オロミデにセンチメンタルな曲を提供し、名前こそ表に出なかったものの、知る人ぞ知る作曲家のバテクルが歌手として加入、また「ビバ・ラ・ムジカ」のヨーロッパでの現地調達ミュージシャンとして確固とした地位にあったギタリストのジョジョがいた。当然、かつての彼等のアルバムに名を連ねていた、歌手のグロリア、ミシャ、デスカも在籍、さらに、正確で力強いアコンパのワジェリ、タブー・レイ率いる「アフリザ」で演奏していたこともあるベースのライ・ブルンダ、ドラムにはエドゥシャ、パーカッションにイェンゴとシモロの名もあった。ルンバ・ライを支えてきたオリジナル・メンバーの中で名前のない者に、レコードの中で輝くような芯のある高音をひびかせていた歌手のレトゥシャナやオノリア、かつてストゥーカスのギタリストとして鳴らし、のちにルンバ・ライのリード・ギタリストとして抜擢されたンデンガスなどがあったが、彼等は事情があって故郷に帰っているとのことだった。ザイールの音楽を知らない人には何のことだかさっぱりだろうが、このそうそうたるメンバーに私は怖気をふるってしまった。こわいぐらいの幸運に眠れぬ夜が続いた。

 さて、その日はフィストンと外出することにした。木彫りの人形や、偽物の象牙や、金細工や、ダイヤモンドの原石を売り込みに群がった奴等を後目に、彼の住む「ゾーン・デ・リングァラ」へ歩いていった。道々、私は彼にザイールの民俗楽器のロコレというものについて訊ねた。この楽器は、初期のビバ・ラ・ムジカのレコードを聴くと必ず聞かれる木製のスリット・ドラムで、スリットの両側に音程の差をつけたものである。その乾いた深みのある音と、独特のリズム・パターンを勉強することがここへ来た目的だったといっても過言ではないほど、私にとってはあこがれの楽器だった。写真では見たことがあるが、実物は見たことがないと言うと、彼はそんなものはどこにでも転がっているはずだと言って、あぜ道の脇の茂みを降りていった。そのとき歩いていたところは、ちょうど町外れになっていて、何軒かの家が林の陰に集まって立っているような場所だった。

 一本の木の下で老人が昼寝をしていた。フィストンは彼を起こさないように気をつけながら、中にいる若いのを呼んだ。意に反して出てきたのはほんの子どもだったが、フィストンが彼にひとことふたこと話しかけると、彼はわかったという顔をして我々の前に立って歩き出した。彼が案内した場所は、その集落の集会場らしかった。そこで彼は誇らしげに藁葺きの小屋の方を指さした。私は、この子どもは我々の言っていることをよく理解できてないのではないかと思った。しかし、彼が執拗にあれを見ろ、よく見ろというので、そっちの方を見た。やはりそこには藁葺きの小屋と、その手前に木が倒れて腐っているだけだった。しかし、フィストンが笑いながらそれに近づいて、割れ目の中からでっかい棍棒を二本引きずり出したとき、私はあっと声を上げた。それは、私が想像もしていなかった、実に巨大なロコレだった。腐っていると思ったのは、実はどでかいスリットだった。全体の長さはゆうに五メートル、太さは一メートルはあった。形はまさに丸木舟で、中に雨水がたまり、これがとても楽器とは思えなかった。

 フィストンはそれをたたいた。それは何というか、日本の湿気とはまた違う、しっとりとした低い、それでいて腹に応えるほどよく響く音だった。音を聞きつけて村の人たちが集まってきた。それは明らかに合図だったからである。通信手段とはいえないまでも、ここではロコレは楽器ではなく人々に物事を伝達するものという、その本来の機能をまだ失なっていなかったのである。どこからか子供たちが立派な椅子を運んできて、私に座れと合図した。村人たちは、この見慣れぬ色をした人間を、初めはじろじろ眺めていたが、特に危害を加えそうにないとわかって、一斉に握手を求めてきた。一人一人に握手するたびにリンガラ語で挨拶をすると、女たちはけたたましい笑い声をあげて喜んだ。しばらくしてその村の主がやって来て私に握手を求め、私は立ち上がって一緒に彼の家まで行くことになった。ほかの村人たちはリプタという一枚の布をまとっていただけだったが、主は盛装だった。村人たちがこちらへ来ると同時に、子供たちが主に知らせに行ったに違いない。私は正式にこの村の客として迎えられたのである。

 主の家は集会所からほんの数十メートルといったところだった。その間を、町中とは明らかに違う、実にのんびりとした歩調で、ぶらぶらと歩いた。主の家はさすがに大きく、周りには大きな木がたくさん植えてあって、それらが家全体と、家の前の広場に陰を作っていた。我々が到着すると、主の妻が迎えてくれた。主の妻だけあって、実にしとやかで気品に満ちた鷹揚な物腰だった。家族や使用人などとの一通りの挨拶を終えたあと、彼等は家の中に引き下がり、子供たちが立派な椅子を最も大きな木の下に運んできて、私に座れと合図した。ぞろぞろとついてきた人々のうち、やはり女たちは主の家の中に消えてゆき、男たちは運ばれてきた椅子に座って円陣を組む格好になった。子供たちが汗を滝のように流しながら、ビールを運んできた。驚いたことに、ここには電線一本見えないのに、それはよく冷えていた。あとから訊いてみると、子供たちが町まで走って買いに行ったとのことだった。おかしかったのは、子供一人がビール二本を大事そうに抱え、なんと総勢二〇人ぐらいで四〇本ほどのビールを運んだのである。まだ私はこういうアフリカに慣れていなかった。そんなものリヤカーか何かで運べばよいものをと思ったのだ。しかし彼等は、ちゃんと一本ずつタオルにくるんで運んできたのである。さめないように、また開けたとき泡が吹き出さないようにとの配慮だった。

 そうして楽しい時間が始まった。矢継ぎ早の質問責めに合ったのは言うまでもない。「ロコレをたたいていたが、お前はミュージシャンか?」「日本はどんなところだ?」たいていは外国へ行けば誰でもする会話だったが、それでものんびりとした田舎の風景と、木陰をゆったりとわたる涼しい風に吹かれ、ビールの快い酔いも手伝って、極楽の気分になった。そこへ、予想されたことだが葉っぱも振る舞われた。私は既に苦い経験をしていたので、ほんの二口、それも浅くしかやらなかったが、それでもよく効いた。そうした談笑の時間が小一時間ほど流れただろうか、家の方からいい匂いがしてきた。食事が出来たようである。みんながそわそわしはじめた。もうかれこれ夕方に近かったので、私もそろそろ腹が減ってきていた。さらに食前酒としてのビールが振る舞われ、それが行き渡った頃、女たちが大鍋をいくつも運んできた。それが車座の中央に置かれると、水の入った手洗い用の洗面器が回され、男たちは料理の周りにしゃがみ込み、子供たちが取り皿とフォークを渡すと、賑やかな食事の宴に変わった。何か儀式でもあるのかなと思ったが、この時ばかりは主も客もなく、ただただ彼等はほおばってはしゃべり、しゃべりながら料理に手を伸ばしていた。

 食事が佳境を迎えた頃、椀に入った強い酒が出された。椰子酒が切れているので、これはキャッサバ芋の焼酎だということだった。酸っぱさが実にさらっとしていて、癖はあるが抵抗のない味だった。その頃には、男たちは誰もが腹くちくなって、とろんとした目をしていた。女たちが再び出てきて鍋と食器を片づけると、男たちは酒の入った椀だけを持って椅子に下がった。暗くなってきたので真ん中に火が焚かれ、その光をたよりに何人かずつがかたまって話をしていた。私は、フィストンとその隣の若者と三人で、南半球でしか見られない星の話をした。蚊が多くなってきたので、そろそろ終わりにしようかという雰囲気になった。主をはじめ、村人たちは実に快く握手を求めてきた。「いつでも来い。」ディアカンダで、列をなして襲ってくる物乞いたちにうんざりしていた私は、歓迎の気持ちをこんな形に表わして、しかも何の見返りも要求しない彼等にいささか驚いた。フィストンに訊いても、問題ないというのでありがたく好意を受け取ることにした。女たちにも挨拶しようとしたが、フィストンは、台所にいる女を客は訪問すべきでないと言ったので、私は主に、彼女たちにもよくお礼を言ってくれ、料理は大変おいしかったと伝えてくれるようにと頼んでそこをあとにした。

 すっかり暗くなってしまったので、結局その日はフィストンの家には行かず、帰り道を急いだ。そこは街外れといっても、遠くにキンシャサの市街地の明かりが見えていたから、足許は大丈夫だった。一時間ほど歩いてディアカンダに戻ってきたら、なんとイチャーリという、かつてのビバ・ラ・ムジカのパーカッショニストがしびれを切らして私を待っていた。ほかならぬ彼こそ、我々が感激したあの怒涛のビバの音の中で、ひときわその激しさを象徴するようなロコレの音をたたき出していた張本人だった。私はその音を聞きながら、この楽器をなんとかマスターしてやると心に誓っていたほどである。ロコレをリンガラ・ポップスの中で使い広めることに貢献した立役者、おそらくはザイールを代表するロコレの名手が今、私の前にいて握手を求めている。夢のような出来事の連続だった。私は長い間待ってもらったことの苦労をねぎらい、今日見てきた巨大なロコレのことを話し、私の旅の目的について語った。もし出来ることなら、あなたの許に弟子入りしたい、と厳かな気持ちで申し出た。「なんでもします。」

 私の真剣な申し出に対する師匠の答えは、「お前のそのTシャツが欲しい」という一言だった。私は、村でのもてなしも、ビールや葉っぱや芋焼酎の酔いも、うまかった料理のこともすっかり忘れてその場に力無くくずおれてしまった。次に彼が出した条件は、弟子入りを認めるかわりに毎日昼飯をおごれ、というものだった。今まで神様のように崇めてきたお人からの、このような現実的なお言葉に、私はどう返答を申し上げてよいのか戸惑ったが、とにかく次の日から彼の家へ行くことになった。彼は今やごく普通の人だったのだ。そのときも彼は遠い「ゾーン・デ・キンシャサ」から歩いてきていた。トランスポールがなかったからである。私は自らお送り申しあげなければならないという律儀な思いを押さえて、彼の両手にトランスポールを渡した。何とも複雑な心境だった。

 私を待っていたのは彼だけではなかった。朝方おしかけていた阿諛追従の輩の一部が、まだ残っていたのである。仕方なく彼等にもトランスポールを渡し、もういなくなったかなと思っていたら、一番奥にアリが憮然として座っていた。「イタミサン、オカネ、イッパイ、ダメ。」彼は正しい忠告をしてくれていた。しかし私は疲れていた。なんとか手っ取り早く片づけたかったのである。確かに彼等はここへ来ればいくらかでももらえると、味をしめて帰ったに違いない。明日もまた来るだろう。彼が機嫌を損ねていたのにはもうひとつ訳があった。「いくら連絡を取り合う方法がないとはいえ、一日中ホテルを空けることはなかろう。」彼は我々が出発したのと入れ違いにやってきて、ずっとここで待っていたのである。一日中待ちぼうけを食らわされて、周りからは冷やかされ、さんざんな気持ちになっていた。しかしこれは仕方のないことだった。電話などあるところではないし、今日のようにどんな成りゆきでことが進むかわからないからである。とにかくアリがしょげているので、フィストンと一緒に、近くの「バー・ムココ」で一緒にビールを飲むことにした。三人のテーブルに十本も空き瓶が並ぶ頃には、アリは機嫌を直し、私は逆に頭痛と吐き気に苦しんでいた。とにかくそうしてようやく一日が終わった。

 

イチャーリ先生の許へ弟子入りする

 

 さて、これで日課らしきものが出来た。まだカサイの人たちがいた間は、私は早朝から起き出して演奏の輪に加わった。そして昼前にはディアカンダに戻り、昼食をとった。その後、一時過ぎから始まるFM番組を聴いた。その番組は「タンゴ・ヤ・カラ」といって、ザイールの古い時代の音楽を日替わりで紹介するものだった。一時間ほどのその番組を聴き終わると、ぶらぶら歩いてイチャーリ先生のところへ行った。

 驚いたことに、先生はザイールきってのロコレの名手というには、全くもって想像を絶する貧乏暮らしだった。その家は間貸しだった。真ん中に大きな家主の家があり、その周りにコの字型にバラックの長屋が建っていた。間口は一間程度、日本でいうなら三畳ぐらいの土壁の細長い部屋である。窓はあってもあかりとり程度のもので、風が通らないから中は猛烈に暑い。そんな部屋で生活している人がここでは多かったが、たいてい外で寝るので、雨や秘め事でもなければ中にはいることはないらしい。部屋というより、いくばくかの自分のものを置いておくための物置のようなものだった。

 初めて先生の家を訪れた日、彼はちょうど起き出してコの字に並んだ長屋の、通りに面して開いた側にある溝にまたがって、歯を磨いているところだった。私を認めると、先生は「おう、いいところに来た、早速メシを食いに行こう。」と言った。あきれる気持ちを抑えつつ、私は彼に従って近くの安メシ屋に入って行った。飯を食いながら、私は彼の往年の話をした。彼はまんざらでもないようだったが、さほど感動したようにも見受けられなかった。彼は言った。「いくらレコードで名前を呼ばれようと、クレジットに自分の名前が出ていようと、俺の生活は今も昔もこんなもんだ。ザイールのシステムでは、バンドのトップや歌手たちが取り分をすべて持ってってしまい、下々の、特にロコレなどという、あってもなくてもいいような楽器の担当まで金は回ってこない。何故よりによってこんな陽の目を見ない楽器を習いに、はるばる日本からこんなところへやって来たんだ?。」私は、初めてリンガラ・ポップスに出会ったときのこと、初期ビバのアグレッシブな演奏の中に占める、ロコレの重要な役割のこと、そしてその感動が今でも忘れられず、何とかこれを修得して帰って、日本でやっている自分のバンドの演奏の中に生かしたいこと、イチャーリというその名をまるで神のように崇めながら、今日までやって来たことなどを切々と訴えた。彼は、「やれやれ」といった顔をして、「今はもうそんな時代じゃないんだよ、もう世の中はコンピューターが音楽をやる時代だ、パーカッションなんてほとんど必要とされていないし、ドラムですらマシーンがやる始末だ、必要なのは、歌手とギタリストぐらいのもんだ。」と言った。しかし私は食い下がった。「ザイール人ならみんな出来るからそうかも知れないが、日本は違う、テクノロジーが進みすぎてもう一度手作りの感触を見直したいと思ってる人がごまんといる、音楽だってそうだし、私もそのつもりだ、だから教えて欲しい。」とねばった。「わかったよ、だけどこれはあまり格好のいいことじゃないぞ。」と彼は言ったが、その意味はそのときはさっぱりわからなかった。

 次の日からイチャーリ先生の地獄の特訓が始まった。私が訪れると、彼は飯を食いに行こうとは言わず、すぐにロコレのスタンドを持ってきて、その上にラジオカセットを置き、ビバの古い曲をかけた。何が始まるのかわからずにぽかんと曲を聴いていた私に、先生から檄が飛んだ。「何をやっとる、さっさと踊らんか。」踊る?。私は耳を疑った。「私はロコレのたたき方を習いに来たんだ、早く教えてくれ。」「そんなことはわかっとる、だからさっさと踊れ。」私は子供の頃から、およそ踊るとか歌うということに縁遠い人間だった。このことはあの暗い高校時代に私の友人だったすべての人に訊いてもらえばわかる。その私に向かって踊れだと?。しかし、先生は容赦しなかった。「お前は俺にロコレを教えろと言ったんだ、だから今教えようとしとる、さっさと踊らんか。」先生はいきなり私の腰をつかむと、ぐいぐいと回転させはじめた。「こうだ、ちがうちがう、こうだ。あそこをだな、あそこを中心にしてぐるぐると回転させてみろ。だめだだめだ。ちゃんと男のものがついとんだろうな。じゃあ両手を上に上げて、ぶらぶらさしちゃいかん。頭の上にでも乗せておけ。腰だけを動かすんだ。何だそりゃあ?、お前リズムを聞いとんのか?、よくそれでパーカッションをやろうなどと言えたもんだな。ほらまた足が動く、腰だけだと言っただろ、何度言ったらわかるんだ、このばかたれが。」

 なにごとが始まったのかと思って集まってきた暇な奴等で、長屋の前の広場は黒山の人だかりになってしまった。先生の檄が飛ぶたびに、あたり一面が爆笑の渦に包まれた。それはそうだろう、肌の色の違う結構いい服を着た日本人が、ごみだめのようなこの街の一角で、時代遅れの曲に合わせて両手を頭に乗せたまま、足を動かすなと言われてしゃちこ張りながら、腰ばかりぐるぐる回しているのである。足がもつれてこけることもしばしばだった。これを踊りだと誰が思うだろう、これが笑わずにいられるだろうか、もう私はキンシャサへ着いた次の日の、あの大麻事件以来何日も経っていないというのに、またしても穴があったら入りたいほどの猛烈な羞恥心に耐えるはめになった。一体何をやっとるんだ俺は。私は昨日先生が別れ際に言った言葉をいやと言うほど思い知ることになった。その特訓は三時間も休みなしに続いた。しかし上半身と足を動かさずに、腰だけをまるで別の生き物のように動かすことなど、そんなくらいで出来ようはずがなかった。見るに見かねた若いねえちゃんが私の前にやってきて、からかい半分で見本を見せてくれたが、その動きは人間のものとさえ思えなかった。まだ自転車に乗れなかった子供の頃、あんな二輪のものが走れるわけがない、あれは目の錯覚だと確信していたのと同じぐらい、とても信じられないもののように思われた。結局その日は、その腰の回転運動だけでレッスン終了となった。私はへなへなと地面に倒れ込み、ガキどもがはやし立てるのも構わず、猛烈な腰のだるさから長い間そこにじっと寝ていた。先生が道具を片づけ終わって、「早く飯を食いに行こう」と言ったときも、力無く「もうちょっと待ってくれ」と答えたほどである。「なんだ、口ほどにもない。」道のりは長そうだった。それもいいだろう、時間はたっぷりある。

 次の日も、昼過ぎに私は先生の家へ向かった。近づくにつれ、いやな予感が漂いはじめた。道を行くザイール人たちの興味津々の眼にはもう慣れっこだったが、今日のは少し質が違っていたからである。のみならず押し殺したくすくす笑いまでが聞こえるようだった。先生の家に通じる最後の角を曲がったとき、予感が見事に的中して、私はそこに座り込みそうになった。何十メートルも先の先生の長屋のあるあたりに、通りからあふれんばかりの黒山の人だかりが、既にできあがっていたからである。その周りでは、ピリピリ売りのおばちゃんや、タバコや日用品を売る兄ちゃんまでが、小さな机を出して店を開いていた。まるで市でも立ったようなにぎわいだった。

 「来たぞ。」ガキどもが走ってきた。「早く来い、この日本人。」人だかりはみんなこっちを向いてにやにやしている。こんな面白いことを、ザイール人たちが放っておくわけがない。私が近づいていくと、人だかりはさっと割れて一本の通路が出来た。その先には、イチャーリ先生が、やっぱりにやにやしながら立っていた。「あーあ、こんなところでまたあれをやるのか。」私は暗澹たる気分とか、そんなものを通り越して、死んでしまいたいほどだった。

 「ではレッスンを始める。」観客から大きな拍手がわき起こった。確かにこれほど面白い見せ物には、ちょっとお目にかかれないだろう、飲み物売りや、タバコ売りの少年たちも、仕事そっちのけで何が始まるのかと見守っていた。「早速昨日の復習だ。」観客から一斉に歓声がわいた。うわあ、やっぱりあれをやるのか。先生は容赦なくテープをかけた。もうそのあとのことは細かく書く気がしない。ただ、その日は少し進展があり、頭にあげた両手を降ろすことを許され、そのかわり腰を低く下げる練習が加わった。この動作も観衆の爆笑を買った。日本人は腰が弱いことが彼等にはわからないようだった。ひざを直角に曲げたまま、腰だけをぐるぐる回すなど、五分ともたなかった。すぐにひっくり返りそうになったり、苦しさのあまり腰が伸びそうになると、そのたびにブーイングが飛んだ。ああ、やっぱりこれ以上書く気がしない。その後どうなったかというと、ダンスのレッスンはさらに一週間も続き、腰をなんとか落とせるようになると、今度は肩をふるわせる練習、さらに中腰のまま肩を小刻みにふるわせて、腰を回しながら歩く練習と続いた。それが出来るようになると、今度は腰を上下に大きく動かして、いやらしいピストン運動をさせながら中腰で進む練習とか、肩、腰、足を、右、左、左、右という風に、別々にいろんな組み合わせで動かす練習とか、それはもう地獄よりも陰湿な、いじめに等しかった。見ていた方も命がけだった。笑いすぎて痙攣を起こしたり、本当に泡を吹いて倒れてしまった奴等がいたからである。ともかくそうして十日も経つ頃には、待望のロコレに触らせてもらえるようになった。

 

平和な日々の様々な出来事

 

 さて、ルンバ・ライのレペが始まるまでの間は、イチャーリ先生の地獄の特訓のあと、アリやフィストンとともにキンシャサ中を歩き回って、珍しいものを見たり、買い物をしたりと、結構のんびりした平和な時間を過ごしていた。アリはヴィクトリアのレペやコンセールのあるときは、機材を運んだりそれをメンテナンスする事で、わずかな収入を得ていたのだが、ある日のこと、彼が壊れたミキサーの中の基盤をむき出しにして頭を抱えているところに通りかかった。私は近づいて、どうかしたのかと訊いてみたが、彼は何でもないというようなことを言った。彼は、簡単な十六チャンネルのそのヤマハのミキサー卓の構造をよく理解していなかった。取り繕ってはいたが、明らかに状況はただ事ではないようだったし、その日はレペのある日だったので彼は青ざめていた。面白いと言っては失礼だが、彼等の黒い顔も見慣れてくると、顔色の悪いときや、酒に酔ってすぐ赤くなる奴などがいるのである。アリはおっちょこちょいのタイプだったから、よく真っ青な顔をして、助けてくれと言って飛び込んできたものだった。とにかくそのときは、私はディアカンダに帰って、日本から持参したはんだごてなどの工具一式とトランスを持ってヴェヴェ・センテールに戻った。私が日本で音響の仕事もしていたのを知らない彼は、それを見て目を丸くして驚き、フェーダーに詰まった細かい砂のために、接触不良を起こしていた箇所のアタリを調整する私を呆然と眺めていた。私がそんなものを持ってきていたのは、ミュージシャンに取り入るためのきっかけになればと思えばこそだったが、もはやその必要はなかったため、それらの工具類は帰国するときにアリに置きみやげとしてプレゼントした。彼に才覚があれば、その道具で立派な商売が出来ることだろう。というのは、日本でなら誰でも持っていそうな、そんなごく普通の家庭用の工具でさえ、ここでは手に入りにくかったからである。

 一方フィストンは、付き合ううちに面白い奴だということがわかってきた。彼は基本的には善良な男で、人をだましたりものをねだったりすることはなかった。そしてザイール人には珍しい職人気質のミュージシャンだった。楽譜の読み書きは出来なかったが、様々なフォルクロール(民俗音楽)に使われるスケールを分類して説明することができた。これは私には大きな助けとなった。さらに彼が日本語が堪能であることでも分かるように、大の日本贔屓だった。なんと、琉球音階や、私の知らない信州の民謡をそらで弾くことが出来た。彼はキンシャサ市内にある日本語学校へ通っていた。

 ある日のこと、私は彼とともにその学校を訪れたのだが、そこは広大な大学の敷地のなかのある教室だった。キンシャサの、がさつで荒々しい場面ばかりに慣れ親しんできた私の目には、その緑の芝生や樹木に囲まれた、静かなキャンパスは、まさに憩いの場だった。いかにも大学らしいアカデミックな雰囲気に、思わずなつかしささえ覚えたほどである。そこには市民のための美術教室や、美術アカデミーという組織などがあった。後日、ふとしたきっかけで仲良くなった、彫刻家や画家を目指している学生を訪ねて、暇を見つけて何度かそこへ行ったものである。

 さて、その日本語学校は、日本大使館の協力で設立された、ザイールの日本語教育機関だった。そこの先生に、日本滞在経験もあり、大使館の仕事もしているキヴレさんという人がいて、今日はその先生の授業だった。先生の日本語はさすがにずば抜けていて、全く私と対等だった。生徒は三〇人ほどで、老若男女入り交じっていたが、何ともかわいらしい小学校の机や椅子に、大きな体を押し込んでいた。先生がある提案をした。ネイティブの日本人がここを訪問する機会など実に稀だということなので、私が教壇に上がり、生徒たちと実際の会話をしようというのである。さて、先生のアイディアとは、生徒たちが日本語で質問をし、私がリンガラ語で答えるというものだった。生徒たちの日本語に不適当なものがあれば私がそれを指摘し、私のリンガラ語に不適当なものがあれば生徒たちがそれを正そうというのである。これは盛り上がった。お互いの興味が一致したために、質問事項はわずかだったのに、こんな時はどう言うのか、などという具合に話が広がっていったため、あっという間に三時間ほどが過ぎてしまった。彼等は教科書にない、かねてから知りたいと思っていた日常的な会話表現をいくつも覚えたようだったし、私も頭のなかにあった数々のあやふやなリンガラ語をはっきりさせることができた。その日本語学校は、毎週月曜日の午後開かれていたので、その後も時間を見つけては、何度かそこへ行った。

 さて、その日本語学校の生徒に、サムライと呼ばれている男がいて、授業のあと、フィストンや何人かの生徒たちとともに彼の家へ行った。彼も音楽関係にいっちょがみしていて、ゴーチェ・ムコカのバンドの知り合いだった。彼は嫁さんにメシを大量に作るようにと言いつけたあと、我々はぞろぞろとすぐ近くのムコカのバンドのレペ場へ行った。ムコカは、かつてはビバの有能なベーシストのひとりだったが、ビバがこぞってヨーロッパへ活動拠点を移した際に取り残された者のひとりである。彼は再起をかけてルンバ・ライに加入したのだが、それでも自分のバンドは独自に維持していた。バンドでは彼はギターを弾いていた。フォルクロール調の独特なニュアンスを持ったルンバだったが、少し彼のギターが前に出すぎているような気がした。二時間ほどレペに立ち会ったあと、サムライの子供が、メシが出来たと知らせてきたので、また我々はぞろぞろと引き返した。

 メニューは、赤魚のような魚の煮込みと、マテンベレ・バンギという黒いほうれん草のような野菜の煮付けと、ビテクテクという山菜のおひたしだった。例によって心ゆくまで喰ったあと、家の裏庭で例によってバンギが回ってきた。私は、かたや日本語教室に通いつつ、裏庭でバンギを吸うこの若者達を面白いと思った。その夜は星空がことのほか美しく、月も落ちて来そうなほどだった。嫁さんが窓からラジカセを出してくれたので、様々なテープを聴きながら時を過ごした。酔いが回るにつれて、誰もが快活になり、みんなで何度も大笑いした。のどが渇いたなと思っていたら不思議なことにガキがコカを持ってきて目配せした。タバコを吸いたいなと思ったら、隣の男がすっと差し出した。何とも不思議な世界だった。

 ある日のこと、こんなことがあった。フィストンと通りを歩いていて、真っ黒に顔や手を塗った人々が走ってくるのに出くわしたのである。彼等は大声でわめき散らし、通行人に当たり散らしていた。私はトラブルに巻き込まれるのではないかと思って、さっと身を隠そうとしたのだが、彼等が、「あっ、ジャポネだ。」と叫ぶ方が早かった。彼等は一斉に私のところへ駆け寄ってきて、手を差し出した。私はたかられると思い、フィストンに助けを求めようとしたが、彼が落ち着いて言うには、「アノヒトタチハ、オソウシキヲ、シテイマース。」なるほど、確かに彼等は危害を加えようという雰囲気ではなかった。ただ飛び跳ねながら私に向かっててんでに手をさしのべていた。「わかったわかった、で、どれぐらい協力すればいいのかな。」と私は訊いた。それは微々たる金額だった。私は快くそれを渡してやると、彼等はより一層大きく飛び跳ねて、手をたたきながら走り去っていった。フィストンは、「カレラハ、トテモ、ウレシイ。」と言った。彼等は、葬式の前に近所の人たちにそれを知らせ、ともに別れの場に立ち会ってもらい、また資金としていくらかの寄付を集めて回る役割の人たちだったのである。葬式のことをリンガラ語で「マタンガ」という。私はほぼ三日に一度の割でマタンガに出くわした。それほどここではよく人が死ぬのである。マタンガには音楽が付き物だった。それらはことごとく賑やかで、しんみりした雰囲気はなかった。

 ある日、交通事故で死んだある子供のマタンガに正式に招かれた。その家はディアカンダのすぐ裏手にあった。私が着いたときには、例の手や顔を黒く塗った人たちが帰ってきて、葬式の資金としてこれだけ集まりました、と家の主に報告しているところだった。その頃にはすでに近所の顔見知りや、親戚とおぼしき人たちが集まって、庭に置かれた椅子にかれこれ二〇人ばかりが座っていた。ビールが振る舞われ、何人かの泣き女が絶叫していた。程なく楽師達が到着し、マーチ風の賑やかな音楽が奏でられはじめると、家の中から小さなお棺が出てきた。それを見て泣き女達は一層大きな声でわめき散らし、人々の膝にすがって大粒の涙をダラダラとこぼした。それから、お棺は男達の肩にかつがれて町中を練り歩き、我々はそれにつき従った。泣き女も泣きながらついて来た。黒く塗った人たちも行列の周りを飛び跳ねながらついて来た。我々のなかには、マーチに合わせて踊り出す人も多く、歩きながらも何本ものビールの栓が抜かれた。町内をほぼ一周し終わると、そこに車が待っていて、お棺はそれに積まれた。そこから先は親族だけがつき従って、町外れの丘に埋葬しに行くということだった。我々一行はそこから家に引き返し、そこで用意されていた料理を心ゆくまで食べることになった。

 こうして、朝から始まったマタンガは、たいてい夕方の食事で終わることになる。マタンガで演奏される音楽は、死んだ人の故郷のものとされていた。しかし、今日のように、年端の行かない子供や、キンシャサで生まれ育った若者や、行き倒れの身元不明者などのマタンガには、マーチやルンバ調のものが使われた。私は街を歩いていてマタンガに出くわすと、必ず入って行ってその音楽を聴くことにした。それはここでは決して失礼なことではなく、あの世へ旅立つ死者をともに見送ってくれる者として、むしろ歓迎されたのである。そんな場で、私は多くのフォルクロールに接することが出来た。なかには写真や録音をとってくれと求められることもあった。私は快くそれを引き受け、ホテルに戻って機材を用意し、撮影や録音をした。そして写真は焼き増しし、テープはダビングして、その家族に渡してやった。日本では不謹慎と考えられるそんな行為も、死者についての一生の記念になるものらしかった。もちろん死んだ人の経済状態や社会的地位によって、葬式の規模は異なる。金銀で飾りたてられたトラックに棺を乗せて町中を走り回るマタンガもあった。そんなマタンガでは楽師達も立派なオルケストル編成で、トラックの荷台で演奏した。また随行する人たちも車で列を作り、クラクションを鳴らしっぱなしにしていた。

葬列。右下に霊柩車、その左に楽師、棺は左端から進んで来ている。ホテルの窓から。

 

グラン・マルシェ

 

 イチャーリ先生の地獄の特訓は、先生の都合で週に一回程度お休みがあった。そんなある日、私はたまたま尋ねてきたアリと一緒に、グラン・マルシェへ買い出しに出かけることにした。ヴィクトワール広場から、例の「ザンドゥ、ザンドゥ」と叫んでいる兄ちゃんの車に乗り込み、車に揺られてグラン・マルシェへ行く。グラン・マルシェとは、その名の通り、さしずめキンシャサの中央市場のようなものである。非常に広いグランドのようなところに、真ん中に巨大な体育館みたいなものがあって、そこが服地や既製服の売場、その周りに日本でいうところの屋台のような店がところ狭しと並んでいて、食品はもちろんのこと、日用品、家電製品、靴、ハンド・バッグなど、庶民生活に必要なものはすべてここでまかなうことが出来た。もちろん中は動けないほどの人で埋め尽くされている。私は運良くチャック付のポケットのあるパンツをはいていたが、それでも日本人と見てか、いくつもの手が用もないのに私の腰や尻をまさぐっては諦めるのを感じることが出来た。私はそのうちのどんくさいのを一人捕まえた。手を逆手にとって、すぐに放してやったが、しばらく怯えた目をして私を睨み付けたあと、彼は走り去って行った。

 グラン・マルシェでは、色々なものの物価を知ることが出来た。そしてホテル暮らしに必要なものを遅まきながら色々と買いそろえた。歯磨きや歯ブラシや洗面器やタオルなどは、近所のちょっとした市場ですでに手に入れていたが、物を干すロープや、クローゼットの南京錠、テープを整理するケースや、筆記用具など、手近に入手できなかったものを買い込んだ。ここで買ったものの中に、その後ずっと私が好んで吸うタバコ、「ザイール・レジェール」がある。私は常日頃キャメルの両切りを吸っていた。ザイールへ来てから、それに似た味わいのものがなかったので、色々不満だったが、ついにここで見つけることが出来たと喜んだものである。それはカートン売りだった。売り子の若者は気前良くパックを開けて、一本吸わせてくれた。火をつけたとたん、私の好みの味であることがわかったので、その開けたパックを含めて一カートン買うことにした。レジェールは大きな市場にしか置いていないマイナーなタバコだった。アリは、「よくそんなものが吸えるな。」と感心していた。それは日本でいうとショート・ピースみたいなものだったからである。

 色々なものを買い込んで持ちきれなくなったので、袋屋へ行って丈夫な買い物袋を買ってそれらを詰め込んだ。暑くてのぼせそうだったので、中央の建物の中に入り、冷たいものを売っているガキからコカと簡単なサンドウィッチを買って食べた。そのあと、すぐ近くの服地の売場で色々な柄のリプタ、すなわち布を見た。「日本で俺の帰りを待っている十一人の女たちのために色柄を考えているところだ。」と売場のおばちゃんに言ったら、「ならば私を一二人目の女にしてくれ」と言って、がははははとけたたましく笑われてしまった。そのおばちゃんのところで三人分ほどのリプタを買ったあとで、市場の北に面しているグラン・ポスト、すなわち中央郵便局へ行った。そこでかねてから書いておいたピリピリとトミヨリ氏への手紙を出し、路上で絵はがきと便箋や封筒を買った。そしてさらにその近所を散歩した。

 そこは、マルシェから都心に至る途中で、街の雰囲気も庶民的な賑やかさから都心のムードを増し、建物も高層建築が多くなる一帯だった。アラブ人がやっている電気屋街を通りかかったので、楽器関係のものを尋ねてみると、ここらではギターやドラムなどのセットは売っているものの、弦やスティックや皮などは全く置いていないことがわかった。アリに訊いても、楽器屋というものはキンシャサにはなく、楽器類はかろうじて電気屋に少し置いてあるだけだと言う。音楽の都のはずなのに、この貧困さは一体どうしたことだろうと思って、さらによく話を聞いてみると、楽器関係の消耗品は、ここではレコード会社が一手に牛耳っていて、彼等が価格をつり上げているとのことだった。「だから金のないミュージシャン連中は、自分で何とかするか、ヨーロッパへ行く人に頼むか、裕福なミュージシャンから回してもらうしかない。」自分で何とかするとはどういうことかというと、スティックは木を削って作り、弦は夜中に電線を切りに行くらしいのである。何とも悲惨な現状だった。

 その後、キンシャサ市内に住む白人たちを対象にしたスーパー・マーケット「シュペール・マルシェ」を見物した。値段は日本と変わらなかった。しかしさすがに白人相手だけあって、阪神間でいうイカリ・スーパーのように、ゴージャスな品揃えで、店内はまるで別世界だった。私はキンシャサに来てから炭酸飲料しか口にしていなかったので、フレッシュなオレンジ・ジュースが欲しいとかねてから思っていたのだが、そこに置いてあったイスラエル産のオレンジ・ジュースは、なんと一本千円ほどだった。アリの手前もあるし、さすがに高すぎるので、それはぐっとこらえた。何も買わずにそこを出て、さらに北の方に向かった。本屋が集まっているところまで来たのでリンガラ語関係の書籍を探したが、気に入ったものはなかった。さらに大使館の近くまで来たので顔を出しておこうとしたが、行ってみると「大喪の礼」でお休みだった。歩き疲れたので、交差点の角に立っている飲み物屋で一服し、ブーレヴァールまで戻ってヴィクトワール行きのタクシー・ビスでマトンゲに戻ってきた。なかなか楽しい一日だった。

 

柔道の試合

 

 また別の日のこと、その日も特訓はお休みだったが、私は朝からひとりでぶらぶらと散歩に出た。ディアカンダからヴィクトワール通りへ出ると、向こう側の学校の前に人だかりがしていた。何だろうと思って通りを渡っていくと、そのひとだかりが突然私の方を向き、「あっ、日本人が来た。」と口々に叫んだ。こっちが身構える間もなく、私は校門の中に引きずり込まれてしまった。連れ込まれた場所は校庭の真ん中で、そこには懐かしい日本の畳が敷き詰められていた。なんとその日は、キンシャサ市内のゾーン対抗の柔道の試合だったのである。そんな中に連れ込まれた私は、たちまちのうちに最前列の審判席の真ん前に座らされ、試合の成りゆきを観戦することになった。

 見ていると、試合はハナからエキサイトしていて、選手の怒鳴り声、観客の野次、走り回るガキどもと、やかましいことこのうえない。畳を取り囲んだ客席は、大体ゾーンごとに分かれているようで、自分のゾーンの選手が勝ったときばかりか、相手の選手が見事な技をかけたときにも盛大な拍手を送っていた。判定が下されると、選手はどちらも真っ白な歯をにっと出して笑いながら抱き合い、大歓声とともに試合が終わる。それを一人ずつやるのである。まだ朝の結構早い時刻だったので、最初からこんなにぶっ飛ばして観客も疲れないのかとこちらが心配になるほどだった。それでも観客たちは、選手の一挙手一投足に声援を送ったり、ブーイングを発したりというリアクションに手を抜くということはなかった。そんなこんなで、こっちが炎天下の午前中に結構参ってしまったのに、彼等は疲れた様子もみせず、昼休みまで騒ぎが続いた。私はキンシャサに来ても、一日三食の習慣を捨てられなかったので、休みにはいるとそそくさとそこを抜け出し、近所の安メシ屋で昼飯を食ったのだが、その後会場に戻ってみると、今度は畳の真ん中に引きずり出され、ぼろぼろの柔道着を一着手渡された。

 日本人だから柔道ぐらい出来るだろう、ひとつ手本を示してくれというのである。恭しく相手として名乗り出た男は、身長二メートルはあろうかという大男だった。「冗談じゃない、体格の違いを見ろ。俺にそんなことが出来るはずがないじゃないか。」と断わろうとしたのだが、周りの人だかりがそれを許さなかった。あたりが静まり返り、真剣な眼差しが私に集中した。誰も信じてくれないことだが、何を隠そう私は柔道の黒帯を持っている。といっても、中学生の頃だったから少年の部で、正式な有段者ではないけれど。そんなわけで、とにかくそこは型だけを教えるということで、渋々着替えることにした。もうやけっぱちである。

 「お前らの柔道は型がなっとらん。初めは正座の特訓じゃあ。」と居並ぶ選手たちに正座を命じ、観客のために、さっきの大男相手に主だった技の手順足順をなんとか思い出して、ワン・モーションごとにコツと注意点を伝授した。彼等は四肢が長いため足技を得意とし、腰技は苦手だったので、タイオトシという技を例にとって、右手を痛めずに重い相手を倒す方法とか、コウチガリという足技で相手の体のバランスを崩させた後で、タイオトシや背負い投げに持ち込む組み合わせ技などを教えた。彼等の柔道は日本人とは違って、実におおらかで一発芸的だった。のみならず、柔道が、相手の反動やこちらの体をてこのように使うことによって、小さな力で大きな相手を倒せるように考えられているのに、彼等は力そのものがずば抜けているため、どう見ても力ずくだった。だから、ほんの小さな子供をその大男と組ませて、教えたとおりにコウチガリとタイオトシを使って、何度かの失敗の後、本当にその大男をよろめかせたときには、観客はどよめいた。

 こうして、午前と午後の取り組みの合間のアトラクションを何とか切り抜けることが出来た。しかし、夕方近くになって、だんだん実力者ばかりが勝ち残ってくるようになると、さすがに技も洗練されてきて、見ていても見事な取り組みが多くなってきた。しかし、会場の四隅に照明機材が準備されたのを見て、私は不安になった。夕方になれば終わるだろうと高をくくっていたからである。しかも、控えの選手は心なしか時とともに増えていくように思われた。おそるおそる隣の男に、「試合はまだ続くのか」と訊いてみたら、なんと夜中までは続くだろうという絶望的な答えが返ってきた。私は逃げ出したかったのだが、もうすでに私はその場の審判長ででもあるかのように大きな態度でふんぞり返っていたし、昼休みにあれほど大見得を切った上、大歓声とともに、「さすがは日本人のジュウドウカだ」などと彼等を喜ばせてしまった手前、途中で逃げ出すなど、とても出来そうになかった。

 長い午後の部が終わった。校庭の少し離れたところに大きな焚き火が焚かれ、大量の食事が用意された。ビールや飲料水が配られ、会場は賑やかな休憩に入った。何とも日本人とは比べものにならないほど濃い奴等である。朝から見ていた人も多かったのに、彼等は疲れひとつ見せずに、食い物を口から飛び散らせながら、試合の成りゆきについての議論に余念がなかった。それに引き替え、私の気持ちは真っ暗だった。この宴が終わったら、次のアトラクションは昼間のようにはいくまい。実践で相手を倒すことを要求されるだろう。今さら、実は私は初心者ですなどと言っても彼等に通じるはずもない。宴会が佳境を迎え、いよいよ観客がぞろぞろと畳の周りに陣取りはじめた。観客は空っぽの畳に向かって、早く次の出し物を出せと怒鳴っていた。私は緊張が頂点に達し、心臓が口から飛び出そうになっていた。

 あたりが突然静まり返った。ふと目を上げた私は、ほっと胸をなで下ろした。なんと、三人のコミカルに化粧したミュージシャンが、畳の上に立っていたのである。それは正式なコンセールの場にもときどき姿を現わし、ステージの合間に観客を笑わせるザイールのエンターテイナーだった。彼等はわざとぼろぼろの衣装をまとい、眉毛や髭を白く染め、手作りと思われる危なっかしいギターを抱えていた。彼等のやっていることは、日本でいうとおおむね、音入りの漫才だった。おもしろおかしくリンガラ語で掛け合いをし、合間に芝居がかった歌い回しで何曲か演奏した。独特の誇張されたしゃべりなので、半分ほどしか笑えなかったが、それでも楽しいひとときだった。とにかく命拾いした思いで、その日の柔道の試合は楽しい雰囲気のまま、夜半過ぎに終わった。

 

ピクニック・ア・マルク

 

 ザイール河をキンシャサから車で二時間ほど遡ったあたりに、「マルク」というちょっとしたリゾート地がある。ルンバ・ライのレペがもうすぐ始まるという頃、私は今後はレペに拘束されることになるだろうと思ったので、アリとフィストンに、その前にどこかへピクニックに連れて行ってくれないかと頼んでおいた。彼等は考えた末、私をそこに連れ出すことにしたのである。「まるくハ、トテモキレイナトコロ、デース。」がさつな街ばかり見てきた私は、その言葉をにわかに信用できなかった。マルクへはタクシー・ビスが通っていた。例によって車内は都心のものと変わらないほどの混み具合で、我々は初めの三〇分ほどを中腰で耐えた。マルクへ通じる道は、ンジリ国際空港を通ってさらに河上へ至り、ケンゲからバンドゥンドゥ州第二の都市キクウィットへとつながる幹線道路だった。混雑は空港で終わり、我々は座ることが出来た。そのあたりは川沿いのなだらかな丘陵を上り下りしていたが、時折現われる、蛇行するザイール河の流れは、ここへ来てやっとの思いで雄大なアフリカ大陸の時間の流れを実感できる眺めだった。しかし、タクシービスの中は、エンジンの焼け付く匂いと排気ガスで吐きそうなほどだった。のみならず運転手は荒っぽく、道の穴ぼこを無視して疾走するので、仲間の切符切りの兄ちゃんでさえ舌打ちをしたほどである。

 さて、車酔いと猛烈な悪臭による頭痛と吐き気によろめきながら、我々三人はマルクの街に降り立った。シテの方へは行かず、河へ通じる赤土の道を降りて行った。しばらく歩くうちに、河から吹き寄せる新鮮な空気と静かなたたずまいのおかげで、我々は次第に元気になっていった。河に沿って開けたリゾートは、さすがに彼等がきれいなところと形容しただけあった。斜面はむき出しの赤土だったが、そこに真っ白に縁取られたガーデン・テラスがいくつも並び、色とりどりのパラソルが花開いていた。その間から何本もの椰子の木が高く伸び、緑と赤と白の、見事なコントラストを作っていた。その風景はザイールで私が好んで飲んでいたプリミスというビールのその年のカレンダーにも使われていた。我々はそこで何本かのビールを注文し、河を渡る爽やかな風と、空に吸い込まれていく大音響のルンバに耳を傾けながら、椅子にゆったりと腰掛けて午後のひとときを楽しんだ。そのあと河に降りて、ボートに乗って舟遊びをした。夕方近くになって腹が減ったので、そのガーデン・レストランで、贅沢なバーベキューをして、充実した一日を締めくくった。

 暗くなったので腰を上げ、来た道を遡って街道筋に出た。本来ここに遊びに来るような人は、自分で車を持っているような裕福な人に限られていた。我々は分不相応にも車なしでやって来たために、帰りの足の確保に苦労させられることになる。真っ暗な街道で、星を眺めながら遠くに車のライトが現われるのを待った。何人もの人が、河の方からやって来て、シテにある自分の家に帰っていった。何台ものベンツやBMWが、やはり河の方からやって来て、キンシャサへ向けて走り去って行った。我々は三人組だったのでヒッチ・ハイクもままならなかった。それでもアリは、何台かの車を止めて、私だけでも乗せてやってくれないかと、運転手に掛け合ってくれたが、私の方がそれを断わった。彼は明らかに、自分が言い出したこの計画で、このような不手際を起こしてしまったことに気を遣っていた。しかし、そんなことはここでは仕方のないことだったので、私はアリに「そんなことは気にせず、のんびり星でも眺めて寝転んでいようや。」と言った。

 小一時間ほどして、シテの方から車のライトが近づいてきた。音からして明らかにタクシー・ビスだったので、我々は立ち上がり、その車を止めた。それはマルクからキンシャサへ向かう最後の便だった。運転手は、「お前らはとても運がいい、今日は客がつかなかったので、マルクで泊まりにしようかと思っていたところだ。」と言った。しかし、その日は国際線の飛行機が到着する曜日にあたっていたので、彼は、ひょっとしたら空港からキンシャサ市内までひと稼ぎできるかも知れないと思って、車を出したのだった。乗客は我々を入れて一〇人ほどだった。車は走り出した。しかし三〇分ほどして、急にエンジンが止まり、動けなくなってしまった。その5分後、我々は客や運転手ともども、再び星を眺めて道に寝転がっていた。何台もの乗用車が通り過ぎたが、人数が多すぎるので乗せられようはずがなかった。私は結構このハプニングを楽しんでいた。もうキンシャサでのトラブルには慣れっこだったからである。思うように行かなくて当たり前なのだ。

 小一時間ほどして、河上からヘッド・ライトが見えた。疲れ切っていた我々は再び立ち上がり、その光を待った。我々の前に現われたのは、実に立派な観光バスで、オレンジ色の穏やかな光をたたえた窓の中に、シャンデリアまで見えた。それはキクウィット発キンシャサ行きの長距離バスだった。運転手は快く我々を救ってくれた。そしてタクシー・ビスの運転手にマルク・キンシャサ間の運賃を訊くと、我々からその半額を徴収した。それはとても良心的な措置だった。バスは空いていたので、我々は全員座ることが出来、星降る夜の川沿いを、時折月が川面に光を反射させるきらめきを見ながら、キンシャサまでの道のりを快適に過ごした。あとにも先にも、ザイールでこのような快適な旅行はしたことがない。

 

リンガラ語を覚える

 

 こうして、この町で様々なハプニングに見舞われながら何日かを過ごすうちに、たどたどしかった私のリンガラ語も、だんだん板に付いてきた。私は出発前に、日本でおそらくただの一冊と思われる広瀬一彦大先生の『やさしいリンガラ語』という本をひもといて来てはいたのだが、それは随分と古い時期に書かれたものだったし、先生自身が商社マンでもあり、その一方でザイール人に柔道を教えるという立場にもあったから、私の周りにいる、しかも一九八九年という時代の、若い音楽バカたちの使うリンガラ語とは、随分食い違いがあった。本を片手に彼等と言葉遊びをしていると、もう使われなくなった言葉や、年寄りだけに通用するもの、軍隊が好んで使うものなどがかなり多く出てきた。リンガラ語は、元来ザイール河流域の諸民族が、通商のために使いはじめたものといわれていて、その発祥の地は、ザイール河中流のエクアテール州「ンバンダカ」のあたりとされている。そこでは今でも古い形のリンガラ語が使われているらしく、キンシャサで使われているものと比べると、動詞の活用などが非常に厳密だということだった。先生の本にも、言い回しのあちこちにそうした古い表現が残されていたが、それはその本が書かれた時代背景に、この国の独立以来の民族意識の高まりがあったことがあげられると思う。

 それは、植民地時代の名残ともいえるフランス語を廃して、リンガラ語で言い表わそうという運動となって現われていた。今では、それらは再びフランス語で言い換えられてしまい、また、外来語をかっこよく自分たちの言葉の中に溶け込ませる美的感覚は若い奴等の心をつかんで離さないものだから、そうしたザイール製フランス語が、彼等の会話の中に実にふんだんに使われるようになっていた。しかし、本来の文法や構文は変わらないので、古いリンガラ語でも、枠組みさえ頭に入ってしまえば、あとは、食う、寝るなどの、どうしても覚えなければ命に関わるものから順番に覚えていけばよかった。また、彼等は非常に大きな身ぶりで話すので、それも未知の単語の意味を推定するのに役立った。フランス語が多いということは、英語をフランス語風に発音していけば、リンガラ語が思い浮かばなくても的中する確率が高くなるということにも気がついた。さらに、彼等のフランス語は正当な発音ではなく、どちらかというとカタカナ発音に近かったから、ディクテーションに苦労はいらなかった。構文がわかってしまえば、あとは「これは何というのか。」というひとつの疑問文さえ覚えておけば、同じ質問で無限の語彙が知り得る理屈になる。これでかなり手間が省けた。また、物事の善悪の判断がつかない場合が多いので、「これをどう思うか。」という言い回しを覚えておくと、やっていいことと悪いことの察しが大体つくようになる。そうして私はリンガラ語を覚えていった。

 彼等が私に対して話すときには、かみ砕いた表現をしてくれていたのは確かである。ズジさんなどはそうだった。日本人にとって、非常にわかりやすい言い回しがあるのかも知れない。その点、地方出身者のリンガラ語はわかりにくかった。部族語でリンガラ語と共通するものがあれば、率先してそれを使うし、響きが部族語訛りになるからである。また、私がリンガラ語を修得できたのは、たった一人でここへ来たことが大きく作用しているように思う。日本語をしゃべる相手がフィストンだけでは、どうにもならないので、リンガラ語を覚えなければ生きていけないからである。初めの頃は、面と向かってゆっくりしゃべってもらわないとわからなかったが、そのうち複数の人の会話に徐々に入っていけるようになった。ひと月も経つ頃には、他人の喧嘩に割って入ることが出来るようになり、帰る頃には実質的にルンバ・ライのマネージャーまがいのことをやっていた。その頃には、起きている間の考え事はおろか、寝ている間の夢や寝言までがリンガラ語になっていた。帰国してからも、外国人、特に黒人と話すときは、相手がたとえアメリカ人とわかっていても、頭の中に先にリンガラ語がわいて出て、それを必死で払いのけながら英語を探さなくてはならないほどだった。

 


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