「愛地球博」アンゴラ・ナショナル・デイ

09/06

 「愛地球博」アンゴラ・ナショナル・デイへ行く。太鼓でも投げ売りしとるやろと期待して行ったが、前回来た時より商品は少なく、傷んでいた。スーダンのタラブッケ小さいものしか残っていなかったので、大きいのはないのかと聞くと、なんと傘立てに使ってやがった。あちこち割れてるのに1万2千円なんて抜かしよるし5千円言うたら怒りよったんで7千円で手うったがそれでも高いんとちゃうか。ちょっと後悔した。前来たときに奇麗な奴買っとくべきやった。こんなんが売り切れるとは思わんかった。

 さて、本命のアンゴラ・デイ、なんと、今をときめくアンゴラの国民的若手歌手Paulo Floresと、アンゴラのモダン・ポップスの生みの親Carlos "Liceu" Vieira Diasのグループ、Ngola Ritmosの看板女性歌手だったLoudres van Dunem、バックはまさかと目を疑うBanda Maravilha、すなわち、Liceuの息子Carlitos Vieira Diasなど音質面精神面でコアとなる重鎮は不在ながらも、縮小版Quintal do Sembaともいうべき極上のラインナップ。さらにシンガー・ソングライターのCarlos Lopes、Wyza、伝統音楽のGrupo Kituxiほか、アンゴラ国立バレエ団、さらにファッション・モデルなど総勢100人を超える大所帯での来日。こんなものを日本で見られるなんて誰が想像しただろう。すぐにアンゴラ音楽やアフリカ音楽に造詣の深いキーマン達に知らせたが、誰も知っている人はおらず、みな一様に驚き、悔しがるばかり。全くと言っていい程情宣されておらず、来て初めて驚いた次第。なんということだ。招聘した側のアンゴラ・ブースの日本人職員でさえ、彼等の名前もろくに知らず、ステージで司会していたお姉ちゃんも、ポルトガル語は堪能なものの、アンゴラについては未だしどろもどろ。彼等の真価を理解していた人は、おそらく皆無と言って良かったのではないかと思う。

 午後2時から始まったステージは、細部にわたってきちんとアレンジが施され、ファッション・ショウを交えながら、立派なスペクタクル・ショウとしての体裁を整えていた。この日のため、あるいはアンゴラの復興を世界にアピールするため、厳しい練習を積んで来た事が忍ばれる。緊張感の途切れない、至宝のステージであった。印象に残ったアーティストを順にレポートしよう。

 Wyza、若手のシンガー・ソングライターと思われる。Dalu Rogeeというパーカッショニストをバックに弾き語りに近い演奏だったが、随所にアンゴラ特有の棘のある即興が織り込まれていて、非常に良かった。たった二人の演奏ながら、ダンサブルなグルーブ感の中にクールな情感を秘めた、静と動が旨く絡み合った名演だった。

 写真はないがBanda Maravilha、簡単なサウンド・チェックの後すぐ本番に入った。その途端、蒸し暑い名古屋の会場の空気がグッと下がる。それは、イタリアで見たBongaのバック・バンドの演奏を遥かに凌ぐ彫りの深さ、救いようのない哀切の情感、全身に一気に鳥肌が立つ。泣きたいような感動をもたらしてくれるインストゥルメンタルだった。全く美しい。至福の時間である。彼等の演奏は、現代の最も流行のSembaのスタイルである。形としては、Zouk、Kompas、MPB、Salsaなどのニュアンスを借りているが、コード展開その他、歌の持って行き方はアンゴラならではのものである。最も聴きたいときに、最も聴きたかった演奏を、生で聴く事が出来て、全く幸せだった。しかし、これはほんの序の口だった。

 Carlos Lopes、Banda Maravilhaをバックに歌う。人間味あふれる歌手である。言葉は解らないが、どちらかと言うと地味な印象の歌を、語りかけるように優しく歌う。しかし、観客の日本人は所詮通行人、会場内を歩き疲れた休憩場所代わりにステージの席にいるだけだ。食べ物の包みを広げたり、静かな曲のときに大声でわめいたりして、なんとももったいない。途中、政府要人が通りかかって、ステージそこのけの騒ぎになってしまい、可愛そうな幕切れになった。

 Lourdes van Dunem、しばしの休憩の後、気を取り直してステージ再開。引き続きBanda Maravilhaをバックに歌う。その姿はまさにCelia Cruz。Ngola Ritmos時代の名曲Muximaを含め、古いスタイルのSembaを朗々と歌い上げ、途中、感極まって泣き出した。「日本に来られて良かった」と、・・・戸惑いを禁じ得なかったが、現在のSembaと違って、Ngola Ritmosが目の前で演奏しているかのような気分に浸ることができた。

 Grupo Kituxiはアンゴラ伝統音楽のグループである。Banda Maravilhaはしばしの休憩。民族衣装に身を包み、Bilimbau(アンゴラでどう呼ばれているのかは聞きそびれた)、2本のDikanza(竹製の等身大の長いギロ)、Mpuika(ブラジルではクイーカと呼ばれ、皮に当てた棒を濡布でこする片面太鼓)、大小のずんぐりした片面太鼓などで演奏される。片面太鼓の高低のふたつの音が交互にリズムの頭を出しているところが、ブラジル音楽のスルドゥを基本としたリズム構成に似ていて非常に面白い。クイーカは、ブラジルのサンバでは、中高音で鳴き声を表現する事が多いが、コンゴやアンゴラのMpuikaは低音である。その持続音が一種呪術的な効果を引き出し、歯切れの良いDikanzaのリズムがメリハリを付ける。これは竹製の本体で地面を突いてリズムの頭を出しながら、細いスティックで刻みをこする。あるいは胴をたたいてアクセントをつける。Bilimbauは使う曲と使わない曲があったが、ブラジルのカポエイラで使われているフレーズと大きく変わらない。

 全体の演奏リズムの基本は、私の聴いたところ、これはサンバである。あとでメンバーに訊いてみると、彼等はアンゴラの音楽がブラジルへ渡る前の伝統的なスタイルを、出来るだけ踏襲して演奏していると言っていたから、おそらくサンバの最も主要な原型がここに含まれているに違いない。これは、アンゴラに限らず、コンゴの中南部一帯の伝統音楽、電気リケンべで今をときめくKononoでも良く聞かれるニュアンスだ。歌声とコーラスが実に素晴らしい。メンバーは全員かなりのお歳で、声も程よくしわがれて、コンゴの奥地を回って聴いた村の音楽を思い出す。仮面をつけ、全身を麻布と思われる衣装で覆ったダンサーが出て来て場を盛り上げる。Sembaにみられるアフリカン・サウダージな側面とは、全く異なるアンゴラの一面が見られて、とても新鮮だった。

 最後はPaulo Floresの登場である。暗くなって来たのでぶれてしまい申し訳ない。このような場でフラッシュは焚かない主義なのだ。彼は、かつて発売されていたAngola 90'sやポルトガル語圏アフリカ音楽のコンピレーションなどでよく取り上げられる歌手で、先に触れたQuintal do Sembaというプロジェクトの中心人物でもある。未だ若いはずだが、既にミュージシャンとしての貫禄は充分、カスレ加減の甘い声質を持ち味とする。バックはBanda Maravilha、本日最後のステージだけあって、アンゴラ独特の、深く切れ込むようなマイナー調のイントロ、鋭利な刃物によって研ぎ澄まされたような、冴え冴えとした演奏は文字通り鳥肌の立つほどであった。選曲は、ライブ・アルバムQuintal do Sembaからのものが中心。ささやきかけるような歌と華麗なダンス・パートが混在する。ポルトガルのファド、ブラジルのサンバに深く影響された、夏の終わりの寂寞感のような、儚く繊細なサウダージ感覚に満ちていながら、躍動的なアフリカ音楽としての土台はしっかりと残った、見事なダンス音楽であった。

 そのミス・マッチな魅力を見事に体現してみせたステージに酔うことしきり、夢のような時間は瞬く間に過ぎて、フィナーレはアンゴラ国立バレエ団やファッション・ショウに出演したモデルも入り乱れての総踊り。なかでもバレエ団の男性グループは、そろいの白の無地Tシャツと白キャップで固め、全員息の合った腰の動きのタメ具合が見事にアフリカ的で、繊細な音楽の中にもアフリカ的な躍動感を意識させる、ファンにとってはたまらない見せ場が至る所にあった。よく練習して来たのであろう事を印象づけられて感心するばかりである。すばらしい。延々6時間あまりのステージが終わった頃には、既に「螢の光」が聞こえそうな時間だった。

 私はステージを終えて談笑する彼等に近づき、感動のお礼を申し述べた。彼等の音楽の事を良く知っていると言うと、さすがに驚いたらしく、すぐに会話の輪に入れてくれた。閉場時刻まで1時間程度、さらに場所を変えて近所の焼肉屋でさらに2時間、アンゴラの音楽についていろいろな事を聞く事が出来た。概略を記録すると、ほぼ次のようになる。

 Sembaに特徴的な、あのマイナー・コードの使い方や独特の演奏リズムなどは、実はアンゴラやコンゴでは一般的に既存のものだが、特にアンゴラでは、独立が1975年と周りのアフリカ諸国より15年も遅く、その間の軍事独裁や、独立後30年も続いた内戦のために、人々が音楽に求める哀切の気持ちには特殊な想い入れがある。しかもその内戦はアンゴラの国民が望んだものではなく、アメリカとソ連の代理戦争であり、列強諸国の利権によって、何も知らない国民同士が否応なく殺し合いをしたのであり、その壮絶な不幸のために、人の心や国土、ありとあらゆるものが、引き裂かれ、破壊され、掻きむしられたのである。

 代理戦争は、イデオロギーの対立などではなく、実は石油とダイヤモンドという、資源の争奪戦であった事は、コンゴもアンゴラも同じだ。そのため、それらによって私腹を肥やした両勢力の相互不信は根深かった。1960年代のLiceuの時代のSembaは、もっとキューバ音楽の影響が色濃く、その頃のアメリカの黒人音楽、ジャズやファンク、ソウルなどの影響も濃い。政治的には不幸だったが、音楽的には豊かなバリエイションがあったと言える。その後、1975年以降はまさに荒廃の時代だった。国民は生きて行くのがやっとで、なかなか音楽に時間を割く事が出来なかったので、音楽シーンと言える程のものは産まれなかった。

 ソ連が崩壊して後、本来の代理戦争の意味が喪われたにも関わらず、2002年まで内戦の当事者は和解できなかった。というか、和解する事は自己否定に繋がるので、どうしても出来なかったのだ。そしてUNITAの指導者が文字通り存在しなくなるまで、和解しては覆されるという、イスラエルとパレスチナのような事を繰り返していた。しかし、ここ3年程はようやく和平合意も守られ、首都を中心に国の復興が進んでいて、アンゴラは安定に向かっている。国民は、四の五の言わずに働いている。働いた方が、自分たちの利益になるからだ。逆戻りはしたくない。日本は戦後、焦土から驚く程の早さで復興したと聞いている。同じことが、アンゴラで起こりつつあると信じたいとのことだ。まあ、いくらか差し引いて聞く必要があるだろうが、力説したい要点は解った。アンゴラの復興はBongaも強調していた事である。愛国心の現れか、皆口を揃えて、アンゴラの復興となえる。ステージの司会者も、しきりに同じ事を繰り返していた。

 さて、現在のSembaについては彼もBongaと同じく、インストゥルメンタルの部分は主にブラジルとカリブ音楽の影響が非常に濃い事を認めている。それは、不幸な時代に亡命したミュージシャンが多く、同様に政治亡命したブラジルやカリブの国々のミュージシャンとともに、ヨーロッパで活動した人が多い事、そして彼等が戻って演奏をになっている事、現在の政府が、その成り立ち上キューバと関係が深く、ミュージシャンの交流も多い事などによる。

 1960年代のSembaには、私が聞いても、今のSembaに見られるような、はっきりとした哀切の情感は少ない。それが色濃く出はじめるのは、ブラジル音楽が広く聞かれるようになった1970年代以降だと言う。ブラジルでは政治的に不安定な時期でMPBが勃興しはじめた頃であった。同じポルトガル語を話す国同士なので、理解し合える部分が多かったと言う。そんななかから、ブラジル音楽に独特のSaudadeという情感が、人々のやり切れない気持ちに自然にとけ込んで行き、演奏にも現れるようになったと言う。もちろんFadoの影響もある。しかし、Cabo VerdeのMornaほどのことはない。むしろ、隣国Congo、当時のZaireのロックに触発された演奏スタイルに、今あげた要素が乗った形が、現在のSembaの骨格をなしているという事だった。

 ここ数年はアンゴラも安定し、楽器や録音設備など、インフラも整うようになった。ポルトガルやブラジルとの人的交流も盛んになり、新しい感覚の録音も出来はじめているという。これは貴重な証言だと思う。事実、Paulo Floresの2003年の前作、「Xe Povo」はJacquis Morelembaumも参加してRio de Janeiroで録音されている。リリースしたMaiangaというレーベルは、ブラジルのSalvador de Bahiaと、アンゴラのLuandaにスタジオを持っている。断片的な会話をつなぎ合わせてまとめたものなので、幾分脚色している部分もあるし、誤解を免れるために補足説明している部分もあるが、概ね、話の内容は、以上のようなものだった。

09/07

 気がつけば午前2時を回っていた。今日は7時には播州赤穂で店の改装オープンに立ち会わねばならん。今からひた走ってもちょうど良いくらいだ。やれやれ。なんでこない忙しいんやろ。挨拶もそこそこに彼らと別れ、東名阪をひたすら西進、名阪国道・西名阪・阪神高速を経由して、帰宅したのが午前4時半、ひとっ風呂浴びて着替えて出たのが5時を回っていた。阪神高速・第二神明・加古川バイパス・姫路バイパスをぶっ飛ばし、遅れそうなので竜野から山陽道に乗り、店に着いたのが午前7時5分。ひたすら天ぷらを揚げ続け、一息ついたら午後4時であった。ここは、かつて「白子のり」の仕事のときに非常に世話になった店である。当然、店のスタッフや出入り業者に顔見知りも多い。惣菜の厨房になんだか珍しい顔が見えるぞというので、なにやら騒がしくなったのが5時頃、「ここで会ったが10年目」とばかりに引きずり出され、赤穂市中引き回しの刑に処せられて、情けない事に翌日はさすがに起きられなくて休みました。ワシもだいぶ焼きが回って来たようや。

 

以下、これはおまけ・・・

09/10

 朝から島根へ走る。兄上の仕事で、松江の少し南にある熊野大社というところで「庭火祭」という催しがあり、そこへB.B. Mofranc以下、東京コンゴおっさんボーイズが演奏するのだ。そこへロコレで参加しろと言う。この祭りは、毎年この神社の文化事業の一環として、質の高いパフォーマンスを村の人たちに見せるという趣旨で開催されているものである。

 しかしながら、どうやら気合いが入りすぎたらしく、芸術的な崇高さが村民の理解を遥かに越えて空高く飛び去ってしまい、昨年などは降りしきる雨の中、インドの伝統楽器タンブーラの通奏低音に合わせて、現代舞踏家が踊り狂うという、頭が痛くなるだけの企画だったらしい。一体どこがそんなに崇高なのかさっぱり解らずに観客は帰ってしまい、雨と寒さのために実際に熱がでて頭を痛めた人も出る始末だったので、もうそんな訳のわからないものはぶっ壊してしまえと、兄上に声がかかったという訳である。

 辛気くさいものをぶっ壊すならコンゴ人に任せるのが手っ取り早いとばかりに彼等が呼ばれ、ついでにお前ロコレをたたけという事でご相伴にあずかった。メンバーの中にMukunaがいる。彼はThu Zaina出身の、既に老境に入ったパーカッショニストで、Yoka Chocの唯一のアルバムや、三角公園でのイベントでEdouchaとともに来阪した事もある。MukunaとMofranc以外は、特にミュージシャンという程たいした事はない。まあちょろっと合わせてリハをやったら、主催者先生「ああやっぱりこーゆーのんがええわ」と満面の笑顔。そのままなし崩しに本番まで流れ込んで、泉のように流れ出る新旧のルンバの数々・・・いやあ、堅物で有名なこの山陰の山奥の寒村で、村人の皆さん踊らはりましたね。えらい喜びようやな。「わしゃ生まれてこのかた、こんなに村の人が踊るのを見た事がない」やて、たしかに観客が一斉に踊りはじめた瞬間は感動ものだったとですよ。兄貴も踊っとったな。

 この熊野大社というのが、出雲大社のもとの神社という由緒で、鎮守の森がなかなか霊気あふれる。控え室の濡れ縁を渉る風のすがすがしさに、日本に帰って来た事を、今頃しみじみと実感する。ステージを終えて打ち上げがあり、近所のアグリツーリズもの宿泊施設にて泊まる。疲れてすぐ寝る。

09/11

 コンゴ人ご一行様を送り出した後、たまたま同宿していたインドネシア人ガムラン奏者で、Haryanto先生という若者が、今から生徒達にガムランを教えるから、一緒に来んかと仰るので、先ほどの主催者先生が買いとって子供達に開放している山奥の民家で、兄貴とともにガムランの練習に参加する。ひとつの音をたたき、次の音を出す直前に前の音を止めながら演奏する手の素早さに目を見張る。ううむ。世の中にはものすごい事をする人がおるもんや。インドネシアの両面太鼓や、ルバーブという胡弓にも触れられて、なかなか音楽的な一日であった事よ。生徒の可愛い女の子達も集まって来て兄貴もまんざらではない様子。

 先生は、予定では今夜10時の夜行バスで梅田まで行き、そこから電車で関西空港へ向かうはずだったのだが、私との話に興味がわいたらしく、結局私が自分の家まで先生をお連れしてお泊まりいただいた後、翌朝空港までお送り申し上げる事になった。ほな夕方には出発するからなて言うてあったのに、先生との別れを惜しむ合奏というのんを、生徒達がおっ始めてしもて、先生これに感銘し、食事の差し入れが入ったりしてなかなか終わらん。結局予定とあまり変わらん午後9時頃島根の山奥を出発し、自宅に帰り着いたのは日付の変わる頃だった。

09/12

 先生はその間助手席でぐうぐう寝とったしええわいな。こっちはずっと運転してたのに、先生私の部屋の楽器の山見たら興奮してあれこれと弄りはじめる、これがまた興が乗って私も業が深いさかいつき合うとったら、かれこれ4時過ぎになってしもて、もうええわとばかりにそれからメシ作ったって先生と一緒に食うて、ちょっと早いけど出発したんや。フライトは9時やいうさかい、7時に着いといたらよかってんけど6時半やった。ガルーダ・インドネシア航空のカウンターまでお連れ申し上げて、漸くお役御免や。ほいでこの日からまた結構きつい仕事が入りまくっとってな、暑いし眠たいし往生したで。これが私の「2005年ひと夏の経験」や。

 


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