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『地震をめぐる空想』

  第三章、財産の保全行動のあらまし

 ひさしぶりに安らかな一夜を明かしたあと、私は昨日一緒に来たメンバー夫婦とともに再び西へ戻るべく、朝から自分の靴や避難所へ持って行くための食料などを買い集めはじめた。当座の金は友人たちがカンパしてくれたのでなんとかなった。また、新聞報道で、身分証明のできる証拠書類を家屋の全壊などで全て失なった人でも、銀行は預金者の払戻しの相談に応じると聞いていたので、とりあえずは金の心配もしていなかった。おにぎりやパンは救援物資のほうに任せるとして、それ以外のものについて考えた。まず、管理人の旦那が入れ歯を瓦礫の中に残してきたままで、配給のりんごや乾パンが食べられずにしょげていたので、レトルトの粥や野菜スープ、それにおろしがねとボウル、暖房がないので使い捨てカイロを買った。さらに、火を使えるかどうかわからなかったので、化学反応で燗ができる缶入りの日本酒を買った。これは酒好きなじいさんに中身をまず冷やでぐっとあけてもらったあと、スープでも入れて暖め、ばあさんに飲んでもらおうと思ったのである。この試みは「熱燗セット」といって、教室内で一時もてはやされたが、思ったほど温度が上がらなかったのと、そこにいたその酒造メーカーの重役婦人が、「本来の目的以外に流用して万一事故でも起こされてはかなわない。」と強硬に訴えたため、ほどなくすたれてしまった。ここが灘五郷のど真ん中だということを、ついうっかり忘れていたのである。こうして数日間は、夜は友人宅で泊り、朝から物資を持って避難所を訪れ、昼間は宝山荘で財産の捜索をした。日没とともに出てきた形のあるもの全てを集めて、自分のもの以外は避難所にいるかつての住人たちに見せて回り、帰りに少しずつ友人宅に荷物を移すという作業を繰り返した。朝、西へ向かう電車は大きなリュックを背負った人でごった返していた。普段なら見知らぬ者どうしが電車の中で口をきくことは珍しいが、今度ばかりは状況が違っていた。中年の会社重役とみえる人も、髪を染めた若い男と、これから赴く先の情報交換に余念がなかった。

 折り返し地点の駅に着くと、きのう電話をくれたギタリストが、力強い笑顔で待ち受けていた。駅前広場は昨日を上回る人でごった返していた。週末とあって、いくらか華やいだ雰囲気が漂い、お祭り気分の屋台も多かった。ある老人の言うには、それはまさに戦後の混乱期の買い出し行列と同じだということだった。西へ行く人たちは例によって快活だった。しかし、私は逆に、補給路の確保された基地から離れて、前線に赴くかのような心境だった。車内での光景と同じく、明らかに見知らぬ者どうしが連れだって共通の目的地へ急ぐ姿が見られた。周りに倒壊家屋が目立ちはじめるあたりまで来ると、はしゃいでいた周りの人たちも、いよいよ事態が容易ならざることに気付きはじめたのか、口数が減ってきた。西の空には暗雲が垂れこめていた。テレビという切り取られた画面でなく、眼前一帯に延々と広がる廃墟の連続と、溢れかえって動かない車の列、その排気ガスと瓦礫の放つ強烈な臭い、相変わらず唸りを上げる緊急車両のサイレンや、上空を飛来するヘリコプターの轟音などの緊張感に、すっかり言葉を失なっているようだった。私は、街道筋で大きなバールを買い求めた。今日は徹底的にやるつもりだったからである。われわれは連れ夫婦と避難所で別れ、買い出してきた物をギタリストと手分けして同室の老人たちに配った。その後、われわれは宝山荘へ向かい、近所の水道工事屋でヘルメットを貸してもらった。予報によると、今夜はまとまった雨になるらしい。なんとか、大切なものだけでも今夜中に引きずり出してしまわないと、あとが面倒になる。気合いを入れて瓦礫に立ち向かった。

 連れのギタリストは、さすがに若いのと、地震を経験していないだけあって、われわれがびびって踏み込めないようなところへも、臆することなく果敢に踏み込んで行った。まず、窓を割ってベッドのマットを放り出して道をつけ、手前から荷物を出していった。そこは、壊せばその部分が大きく崩れるのではないかと思って、私が手を付けなかったところである。しかし何事も起こらなかった。それを機に私も大胆になった。内部に入り、柱や梁は手をつけず、抜いても大丈夫そうな木を順番にはずし、間に挟まった瓦や壁土を取り除いた。裸になった屋根の骨格をバラし、のしかかった壁を丹念に破壊して、倒れた本棚や洋服ダンスのあるところまで掘り進んだ。家具類は、当然の事ながら全て倒れて、上から柱や梁などが固くのしかかっていたので、それらを切断したあと、背面からこわして中身だけを取り出した。押入れは、被さっていた天井を破壊して内容物をほじくり出した。割れた床から飛び出した畳の下からも、こまごまとした物がたくさん出てきた。 一日かかって、どうにか部屋の通り側の半分に当たる部分から、千枚近くあったレコードのうちおよそ四百枚、六百本以上あったカセット・テープの大部分、ミュージシャンの命とも言うべき、古くから愛用していた巨大なレコード・プレーヤーを救い出した。しかし、その下にあったカセット・デッキは、なぜかまっぷたつに割れ、鉄の塊ともいうべきアンプまでもが「へ」の字に曲がっていた。続いて、同じ部屋の南端の、一階まで崩れ落ちた地面の底から、カメラとレンズ、アクセサリーの全て、撮りためた写真のプリントとネガやポジの一部、写真関係の書籍とアフリカの民芸品の一部、ドラムセットとハンド・ハンマー仕上げの古いシンバルの一部、コンガとパーカッションなどの民俗楽器の大部分を救い出した。その間、彼はややもすると弱音を吐きがちになっていた私を、何度も勇気づけてくれた。部屋を埋め尽くしていた土砂木屑の量があまりにも夥しく、また地震以来の救援活動や、その後の財産の捜索などの毎日のおかげで、私の肉体もぼちぼち悲鳴をあげはじめていたからである。私は何度も、「もう、どーでもいい」と言ってその場にしゃがみ込んだ。そのたびに彼は、「あの夥しい『OKジャズ』のコレクションがどないなってもええんか。あの絹の織物みたいな繊細な音楽が二度と聴かれへんようになってもええんか。ほな、俺が掘り出したら貰うで」と言って私を奮い立たせたのである。『OKジャズ』というのは、ザイールの古い大編成のグループの名前で、当時の私を熱狂させていたもののひとつだった。それは後にCDとして大部分が復刻されたとはいうものの、私の集めていたアナログ盤のほとんどは、とっくに廃盤となっていた。私は地震翌日の朝、このかび臭い瓦礫のにおいを含んだ砂混じりの風に吹かれながら、変わり果てた自分の部屋を見下ろした時のことを思い出した。そしてその時に感じた大きな喪失感のことを思い出した。あのとき私は、土砂木屑の下敷きになってしまったとはいえ、まだここには自分の持ち物が全て手つかずで残されていると思って気を取り直したはずだったのである。幸いあれから雨もなく、今まさにそれらのものを救い出そうとしているというのに、一時の体の疲れから救出を断念し、明日にでもここが急に解体されることになったら、私は一生この日を後悔することになるに違いない。私はそう思い直して彼に従った。それは、自分の気持ちをこの瓦礫の下の自分の分身へと、ヒステリックに凝縮された単眼的な熱意でもって、無理からに縛り付けるようなものだった。作業は、終始気持ちの面では彼がリードしてくれた。彼は取り除けるゴミは全て窓から通りに放り出していった。部屋の形らしきものが現われると、最も重要なもののありかから順番に、私がそれを指示した。そうしてとりあえずだいたい自分の部屋と推定できるあたりから、先ほどのような品々を通りに運び出すことができたのである。これは全く彼のおかげだった。しかし、最も気にかかっていたもののひとつ、愛用のマッキントッシュは、てこでも動かない複雑な柱の骨組みの下敷きになっていたし、長い間かかって書きためたノート類、特に過去二度のザイール旅行の日記は、それを入れた頑丈な机は、なぜか影も形も見えなかった。

 全てを通りへ出し終えてみると、我ながらよくもこんなにあの狭い部屋にはいっていたもんだと、つくづく感心した。しかしこれでもまだ半分だった。まだやり足りない彼は、通りかかったアパートの別の住人の荷物まで片付けてやった。私は、通りに山と積まれた自分の荷物をどうするか考えていた。とりあえずばらばらのレコードやテープ類は箱に詰めて、住人のほとんどが逃げ出した倒壊寸前の隣のマンションの階段の下に隠すことにした。楽器などの大道具は、反対側に立っているハイツの軒を借りることにした。なんとか通りから自分の荷物を片付けたあと、いよいよ本格的にこれらを運ぶ段取りをしなくてはならなくなったので、だめだろうと思いながらも車を買った業者に電話してみた。偶然つながった電話口の向こうで、なじみの車屋は二つ返事でキーの複製を請け合ってくれた。われわれはそのまま現場をあとにしたのだが、その車屋の社長は、自宅や工場が全壊していたにもかかわらず、寸断された街道筋を原チャリでぶっ飛ばし、なんとその夜のうちに私の車を捜し当てて、真っ暗闇のなかで錠前からキーを複製し、それを車体の裏に貼り付けておいてくれたのである。暗くなってきたので、ちょうど通りかかった昨日の連れとともに、再び数時間を費やして電車に乗り、メンバーの家へ戻った。われわれがメンバーの家で飯を食い終わったとき、家から電話が入った。それは車屋の作業の完了を告げる伝言だったので、私は急遽その日に家に帰る予定を一日ずらした。いよいよ動きがとれるようになったのだ。早ければ早いほうがいい。母は不満がったが、私としてもここから現場に戻ったほうが時間の節約になるからと言って説得した。当時そこには神戸方面のメンバーが何人か避難してきていたので、車が使えるようになったことは彼等にとっても有利なことだったからである。翌日、私は世話になったそのメンバーの家に別れを告げ、相当な渋滞が予想されるので、なるべく早く搬送の段取りをした。その日、地震後初めてのまとまった雨が降った。私は連れのギタリストのおかげで、すんでのところで荷物を雨にさらさずにすんだのである。

 私が荷物を整理していると、通りの両側から木のきしむ音や、どすんという腹に応える音が、ひっきりなしに聞こえてきた。それは、全壊した家屋が、雨に濡れて崩れていく音だった。それまでは乾いていた瓦礫が水を含んで重たくなったために、脆いところから崩れだしたのである。宝山荘に目をやってみると、その時まさに、まだいくぶん膨らみを保っていた屋根が、スローモーションのように、すなぼこりをあげながらゆっくりと内側に沈み込んでいくところだった。それまでは、まだアパートとしての痕跡を残していた宝山荘も、これで全く見る影のないものになってしまった。さて、荷物を整理していた私は、車に積み込む順番を考えていた。到底一度には乗り切らないので、何度かに分ける必要があった。そこで、ドラムなどの大道具は重たくて盗まれる心配はまだ少ないので、マンションの階段下に隠したレコード類から手をつけることにした。まだ現場に車を乗り付けられる状態ではなかったので、雨の中の積み込みには思いのほか手間取った。私の車はバンタイプだったが、荷台を満杯にしてみると全部で三回は必要だろうと見当がついた。市内の渋滞状況はわかっていたので、実家へは六甲山の東側を越えて行く山越のコースをとることにした。このルートはまだ圏外から来た救援車両には知られていないだろうと踏んだからである。

 半日掛りは覚悟の上だったのに、行ってみるとその道はがらがらで、ものの三十分であっけなく自宅に到着した。私は手っ取り早く荷物を降ろしてしまうと、すぐさまもと来た道をとって返し、交通事情の変わらないうちにと、さらに二往復した。夕闇迫るその二往復目の帰途、被災地へ向かう自衛隊の派遣車輌や、鉄道の代替輸送に使われるらしい遠方からの観光バスの長大編成が、それぞれパトカーの先導を受けて反対車線を擦れ違っていくのに出会った。ラジオは全域に施行された交通規制や、落橋や陥没などで不通となっている区間の詳しい内容について明らかにしていた。高速道路や一般道路の被害状況、鉄道の運行状況、絶え間なく襲う余震の情報、避難所の案内や安否情報、各地区別の死亡者の氏名、行方不明者の身体の特徴、尋ね人の情報など、震災関連の情報を流し続けていた。コンスタントにこういう情報を聞き続ける時間が今までになかったので、あらためて災害の現実を肌で感じる思いがした。戒厳令こそ敷かれてはいなかったが、まさにこれは非常事態だった。FM放送に切り替えると、さまざまなミュージシャンから激励の言葉が寄せられていた。それを聞きながら、雨の降りしきるなかを懐中電灯の光をたよりに、道路に飛び出した二階部分の瓦礫を黙々と片付けている一家の横を通りすぎた。山を越えて東の方へ降りて行くと、平野部を中心に海沿いと同程度の全壊家屋が分布しているのに気がついた。地区によっては海沿いよりひどいところもあった。こちらの状況はあまり報道されておらず、こんな内陸部にまで激震域が分布していることを知って驚いた。

 家に帰りつくと、とりあえずおろしておいたもののうち、汚れのひどいものを除いて応接間に荷物を運びこんだ。子供の頃から親の言うことを聞いたふりをしながら実は自分勝手に行動し、十年前に家を飛び出してからろくすっぽ帰らず、いい歳をはるかに超えたのに結婚もせずに、「べつに他人に迷惑をかけているわけじゃないんだからいいじゃないか。」というひと言で、ぶらぶらと気ままに遊びほうけているこの親不孝者の突然の帰還を、それでも母は喜んでくれた。私からの初めての電話があるまで、母は三日間も泣き暮らしたという。というのも、私はおよそ二十五年ぶりに、その年の正月三が日を実家でまるまる過ごしたからである。いつもなら、年越しライブイベントに出演したり、たまに帰ってくる古い友人と遊び回って、正月休みは全く家にいないのが常だった。しかし最近ではそんな悪友たちもひとりふたりと所帯を持ちはじめたので、今年はとうとう誰からもお呼びがかからなくなったのである。年始に集まった親戚たちに、物置におびただしく保存されていた私の蔵書などを、好きなものを好きなだけ持って行ってくれと言って気前よく分け与え、自分の不要品を徹底的に始末してしまったのだが、あれは自分が死ぬ前の身辺整理だったのではないかと、母は悪いように悪いように解釈した。それに対して、私のごきぶりの様な生命力を信じて疑わなかった妹は、いつまでも電話が通じないものだから、交通機関が全て途絶えたなかを、徒歩ででも六甲山を越えると言ってきかない母を思いとどまらせるのにひと苦労だったらしい。縁起の悪い話だが、新聞の死亡者の欄に私の名前が出てこないのを見て、ほっと胸を撫で下ろす日々が続いたという。こんな形で転がり込むことになろうとは、おたがい予想だにしなかったことである。

 実家には私の多くの友人知人が、私の安否を気遣って連絡を取ってきていた。私は自分の実家の電話番号をあまり人に知らせる方ではなかったので、彼等はおそらくそれを知っている人を捜し当ててここに連絡してきたのに違いなかった。母は機転を利かして、私の連れから連絡があると、そのメッセージを録音しておくことにした。そうして残された伝言のなかには、心配してわざわざアパートまで見に来てくれたものの、そのすさまじい潰れ方を見、さらに私がいなかったことから最悪の事態を予想して、今にも泣き出しそうになっている女の声まであった。私がはじめて実家に連絡できるまでは、母でさえそんな電話にどう答えるべきかわからなかった。そんな人たちは、まだ私の安否を知らないはずである。しかし、私も電話番号を控えた住所録を失なってしまっていたので、こちらから連絡して彼等を安心させてやることができなかった。私は、すぐさま伝言とともに自分の連絡先を残していってくれた人から手はじめに電話をかけはじめた。そしてその人から人づてに、電話番号のわからない人の連絡先を聞き出し、即席の電話帳を作っていったのだが、なかには避難して連絡の取れない場所にいる人も少なくなかった。私は、ぼろぼろに破れた人脈のネットワークの網目を泳ぐように迂回して、様々な人の安否を知り、自分の無事をなるべく多くの人に伝える努力をした。その頃は、どこで誰がどうしているのか、ほとんどわからなかったからである。便りのないのはよい便りと思って、連れの無事を信じるしかなかった。その夜、ひさびさに母の手料理を食ったが、ここは海沿いと同じく水道もガスも止まったままだったので、母は腕の振い甲斐がなさそうだった。こうして実に十年ぶりに、私は両親とともに生活することになった。

 しかしこのように荷物を回収して、実家などという恵まれた場所に車で運び込めた私は、全くもって幸せである。宝山荘でもそうだったが、せっかく持ち出された荷物も、その多くは持って行き場がなくて路上や空き地に放置されていた。それらはやがてブルーシートを被せられロープで縛られるようになったが、長い月日の間に、雨風の浸食するにまかされたからである。家が壊れてしまったために、また地震の恐怖のために親類や縁者のところに身を寄せた人々は少なからずそうだったに違いないが、今まで別々に暮らしていた者どうしが、急に一緒に暮らすのには、数々の困難があるだろうと予想された。いかにただならぬ災害で放り出されたとはいえ、この興奮状態が一段落して、日常生活を取り戻していくにつれて、様々な不満や鬱憤が噴き出すだろうことは十分に考えられるからである。私の方もとりあえず路頭に迷わずにはすんだものの、これから先、どうやって生活していくのか、家族との衝突をどうやって避けていけばよいのか、全くめどは立っていなかった。気に入らないからといって出て行っても、もはや一帯は住宅そのものが激減していたし、特に私が住めるような安アパートは全滅に近い状態だった。おまけにその頃は、もはや再び木造アパートになど、恐ろしくて住めない気分だったから、出て行けと言われても出て行きようがなかったのである。私などはまだ一人ものだからよかった。ひと家族でも狭苦しい日本で、さらにもうひと家族を受け入たところなどは、さぞかし大変だったに違いない。通りにさほど壊れてもいない立派な家具が、惜しげもなく捨てられているのを何度も見かけたが、その多くは被災した家族を受け入れたために、住む場所がなくなったからだという話を聞いた。いちはやく貸倉庫の業者があちこちの電信柱に広告を貼り出していたが、すでにその頃にはそれも満杯の状態だった。

 翌日は仕事へ出た。とはいっても、単なる顔みせと生活必需品の調達が目的だった。仕事先ではやはり誰もが心配してくれていた。借り物のジャンパーを着て、取り合わせのちぐはぐなジャージを身につけ、砂にまみれた浅黒い髭面の中から目ばかりをぎらつかせた状態で現われた私を見て、仲間は呆気にとられたようだった。しかし仲の良かった何人かは、冗談めかしてその格好は滑稽だと言った。私もお返しに、「君のその考え方は間違っている。風呂にすら満足に入れない状態なのに、服装が滑稽だなどと言うのは、まるで車椅子の身体障害者に向かって、邪魔だから街へ出て来るなと言うのと同じくらい不見識な発言だ」とかみついてやった。それで誰もが、私は元気で何の問題もないとわかって、安心してめいめいの仕事に戻っていった。私の上司は神戸の自宅に問題があったためか、その日は欠勤していた。私の仕事は某加工食品メーカーのセールスを委託契約でこなす仕事だったのだが、緊急に作られた対策本部では、神戸方面の食品流通関係の情報を収集していたので、私はすぐに呼ばれ、見てきたことを全て報告した。そこでさらに克明な情報の収集と、得意先の要望にはできるだけ応えるようにという指示を受けた。そして、その前に自分の持ち物の後片付けのために、さらに四日間の休みがほしいと願い出て認められたので、瓦礫の捜索に日中専念することができるようになった。大阪へ出てみて驚いたのは、より世の中が「平常に」動いていたことである。大阪の人が地震といっても他人事のように考えているという話もうなずけた。まだ阪神間は、私が寝泊まりしていた連れの家の近所でさえ、別世界とは言いながらも、娯楽的な施設はほとんど営業していなかったが、大阪は娯楽までが平常通りだった。昼からやっているカラオケ・スナックの横を通ったとき、中からは調子っぱずれなおっさんの奇声がいつものように聞こえていたし、ピンサロの前では、兄ちゃんが手もみしながら声をかけてきた。産業道路を走る「族」までが平常通りだった。それを見て、私はふと安心した。

 私は次の日から、自転車を車に積み六甲山を越えて海沿いに出て、アパートの近くに借りていた駐車場から自転車に乗って仕事を再開した。まずは仕事先の上司を尋ねるべく、国道を西へ走り出した。当時、すでに全域に緊急輸送のための通行規制が敷かれていて、その輸送路に指定された道路では、主要な交差点を除いて多くの信号機が撤去され、残った信号も明らかにタイミングが変えられて、交差する道路からの進入が極端に制限されていた。それは国道を走行する車を優先させる措置だったが、それでも猛烈な渋滞だった。全く動いてないといってもよいくらいだった。芦屋川を過ぎたあたりから、国道沿いの家屋の倒壊が激しくなり、道の両側に砂だらけになって跡形もなくなった家々や、ありとあらゆる方向を向いてねじれるようにへたり込んだ建物が延々と続くようになった。崩れた建物やビルの看板などが歩道を埋め尽くし、車道の左側車線にまではみ出しているところが至る所にあった。その都度、バイク、自転車、歩行者が車の間をかいくぐり、中央分離帯にまで逃れるありさまだった。自転車で走っていても後ろからバイクでけしかけられ、危うく歩行者と接触しそうになり、そのつど何度もおばちゃんに突き飛ばされながらも、とにかく黙々と前へ進まざるを得なかった。目の前の風景をロープでたぐり寄せるようにして進んだ。道を進むのにこんなにパワーを要したのはザイール旅行以来だった。私がライカを買った老舗の写真材料店も全壊していた。そこの老主人は、車の中から従業員が店の後片づけをしているのを見ていたが、私の姿を認めると、にこやかな笑顔を浮かべながら出てきた。主は言った。「この光景はまさに空襲の直後だ。ちゃんと写真にして残しておけ。」さらに進むと、私のバイト先のかつての営業所のあったところに出たが、その付近一帯はひどかった。後に発表された統計では、このエリアが圏内でも最も死亡率が高かった。営業所の近くの顔見知りの老人は、「両隣もお向かいも死んでしまって、近所に知り合いがひとりもいなくなった。」とつぶやいていた。道路沿いの倒壊した建物の間の空き地では、バイクや自転車を売るテント商店が所々にあった。また、ボランティア団体や宗教団体、果ては指定暴力団や右翼団体に至るまで、道行く人々に炊き出しを行なっていた。この状況は、海外の報道各紙が大きな驚きを以て伝えた。腹が減ったり喉が乾いたら、そこで簡単に用をたすことができたが、リュックを背負い、キャリアを引いて延々と西を目指す歩行者の面構えは厳しく、だれもが急ぎ足で、そこに立ち寄る人はまばらだった。それに対して、渋滞のなかをひたすら待ち続けているドライバーやバスの乗客は、全てを諦め切ったように気の抜けた表情で外を眺めていた。停車中はエンジンを切ってくださいという看板が至る所に揚げられていたが、大して効果はないようだった。当時はまだ、路線バスなどは運行されておらず、たまに見かけるバスもどこかの団体や会社がチャーターしたと思われる、ボランティア要員や復興作業員などの送迎用の観光バスばかりだった。緊急車両の優先通行にも、ほとんどの車が対応できなかった。というのも、通れる車線が一つしかなく、いくらサイレンなど鳴らしても退避する場所がなかったからである。業をにやした救急車が、中央分離帯の芝生の上を突っ切る姿も見られた。また、国道を埋め尽くしたほとんど全ての車が、実はこれまた緊急車両だった。それらの車両は全て、公安委員会が発行した、にわかづくりの緊急マークをつけていたが、当初それらは大量にコピーされ、街を行くおばちゃんの自転車にまで貼られる始末だった。そんなところへ自衛隊の派遣部隊が、長大編成で踊り込んできたときにはもう目も当てられなかった。機転をきかせたつもりの警察官が、反対車線の交通を一時遮断してそれらを通そうとしたのだが、それはあまりにも長い編成だったため、一つの信号のブロックに収まりきれず、西行車線の動かぬ車の列を、東行車線に移しただけのことになってしまった。どこもかしこも、そこら中のせまい路地に至るまで、あらゆる形態の車輌と歩行者でごった返していたので、通せるどころか、どこにも待避できない車で、混乱に輪をかけるだけだった。もうすでに当初ほどドライバーはエキサイトしなくなった。というのも、この状況を見れば怒ってみてもはじまらないのは分かり切ったことだし、一週間ともなると、これが現実だと諦めざるを得なかったからである。

 自転車でさえ十キロあまりの上司の家まで一時間以上を要した。しかし、これがこの時点でバイクの次に速い交通手段だったのである。上司の家は無事だったが、まわりの木造住宅が一斉に庭に倒れ込んできていて、家の一階の高さまで庭を埋め尽くしていた。私は押し寄せた阿諛追従の輩どもとともに、憔悴しきった上司の無事を喜び、媚びへつらったあと、何軒かの重要かつ懇意な得意先を訪ねるべく、さらに西へと走り出した。結局、その日訪問できた七軒の得意先のうち、三軒は壊滅、残りも辛うじて無傷な在庫を路上に並べて店開きの準備をしているところだった。また、阪神間では絶大な勢力を誇る生活協同組合の本部ビルに至っては、まるでケーキを切ったかのように半分が吹っ飛び、前の道路にコンクリートの山を築いていた。以後、私は手近なところから得意先を回りはじめたのだが、ある者は行方不明となり、ある者は死亡が確認された。助かった者のなかでも自分の店舗を維持し得た者は少なく、避難所でようやく尋ね当たるといったありさまだった。そんなわけで、当時はとても商売になどならず、私はその現状を仕事先に報告した結果、商売抜きで得意先の流通業者の食料品の輸送や情報収集に、全面的に協力することになった。

 地震から九日目、宝山荘からひとつ南を走っていた鉄道が芦屋まで復旧した。これで宝山荘の周りの人の列はようやく少なくなり、カメラをぶらさげた見物人も減って、一種の観光名所のようだった街にも落ち着きが戻ってきた。しかし依然として南方からは、サイレンやクラクションの音が鳴りやまなかった。それまでは阪神間を移動するには、自転車かバイクぐらいしか有効な手段がなかったのだが、その頃から寸断された鉄道路線の間をバスが走りはじめたので、避難所から会社に出勤しようとする人が増えてきた。ところがそれが知れ渡ったとたん、夜も明けないうちからバス停には長蛇の列ができ、乗り込めるまでに半日、不通区間を乗り切るのにさらに半日という信じがたい事態に陥った。とても使い物にならないので、一層自転車やバイクを使う人が多くなり、開通している鉄道の折り返し地点の駅のまわりは、それらの放置車両で埋め尽くされた。しかし、他に交通手段がない以上、取り締まるわけにもいかず、またそんな余裕も当時の警察にはなかった。このような状態は、その後ひと月近く続いた。

 その翌日、急遽宝山荘が解体されることになった。これは裏の一軒家の主人が、宝山荘の崩れた西側半分が自分の家にもたれかかっていたので、その影響を心配して手配したのである。当時、建物の解体に重機が入ることは、道路を塞いでいるとか、倒壊の危険性があるなどの、緊急を要するものに限られていたから、この対応は早かったといえる。私の方は、ひとまず自分のライフワークに関する、今や金では買えない部分だけは、たとえ半分とはいえ救出を終えていたので、まだ平静でいられた。しかし避難所で一週間あまりを無為に過ごした住人たちは焦った。ある者は解体してもらったほうが二次災害も防げるし、ゆっくり荷物を掘り出せるだろうから賛成だと言った。またある者は重機を入れるなんてとんでもない、人の持ち物を何だと思ってるんだと憤った。当時、必ず連絡のとれる場所にいたのは私だけだったので、急に決まった今回の話も、一方的に伝えるしかなかったのだが、アパートの住人のなかには、地震のあと連絡の途絶えている人もいたので、捜し出して用件を伝えるのには苦労した。特に、やっとつかまった電話口で解体に強硬に反対した人があったが、その人はあの日ほかならぬわれわれに救出されたあと、消息がわからなくなってしまったのである。われわれも随分さがした。現場か避難所に一度でも来ていれば、また避難したならしたで、どこにいるのか現場の柵に貼り紙でもしてくれていれば、何らかの方法があったはずである。彼は自分のおかれている状況に余りにも無頓着だった。家主が亡くなったことも、その家屋が全壊したために住人台帳が逸失していることも、従って住人が自ら連絡をつけないと、自分の意思を反映させることすらできない状態になっていることも知らなかった。それに、現場を見ればわかることだが、地震当日の救出活動や、一週間の間に絶え間なく襲った激しい余震と二度の雨、さらに南方から大挙して押し寄せた夜盗の被害にあって、彼の部屋に限らずどの部屋も、すでに天井は崩れ落ちて床はなくなり、すべてが押し流されてとっくに空っぽになっていた。それにもかかわらず彼は箪笥や整理箱の中がどうのこうのと電話口でまくしたてた。そんなもんはとっくに粉々になってますよ、と言っても頑として信用しなかった。当日現場を前にして、「文句を言うくらいだったらこうなる前に手を打っておくべきだ。」と言った私を睨みつけて、彼は二度と私に口をきかなくなった。要するに、もうこの建物には財布のなかのいくばくかの現金だとか、過去を偲ぶことのできるちょっとした人形だとか、なくなった主人の位牌だとか、そういうごく小さな品物しか形を留めたものはなく、それらとて、この膨大な土砂や瓦礫の中から探し出すのは到底至難の業だったのである。

 今回の解体の本来の目的は、裏の一軒家にのしかかっている宝山荘の二階部分を一軒家からひきはがし、その途中で住人の荷物が出てくれば捜索にも協力しようということだったので、廃材の搬出は原則的に行なわないとされていた。解体は九時からということになった。ところが業者は六時には到着していた。私は大事をとって七時に車で家を出た。仕事を手早く片付けたいと思っていた業者は、いつまでも重機で道路を塞ぐわけにもいかないので、玄関なら問題なかろうと思い、キャタピラーをその上に乗せた。彼等は、まさか目の前の瓦礫の山が二階建てのアパートだったとは思わなかったという。しかし彼等が鉄の爪を最初にかけた場所は、崩れ落ちて判別不可能になっていたとはいえ、宝山荘で二番目に古い、あの丸々と太った女性のれっきとした部屋だったのである。彼女は、避難所で今日の解体に備えて朝食を終え、保健室にいた別の住人の病状を訊ねに行こうとしていたところだった。一方、私の実家から宝山荘へ向かう山越の一本道は珍しく渋滞していた。私はこの裏道もすでに知れ渡ってしまったことを悟って、渋滞の列の中で何度もハンドルをたたいて舌打ちをした。私の車が海沿いへ出る最後の坂道を下り終えたときには、キャタピラーが玄関の上で足場を固め、ひきはがした瓦礫の置き場所を確保するために、手前側の私の部屋のあたりをならしはじめたところだった。宝山荘に至る最後の交差点の手前の道路は、倒壊しかかったビルの撤去のために通行止めになっていた。迂回路は一方通行で、はるか東方の街道筋まで並ばざるを得なくなった。そこから引き返そうとしたが、目と鼻の先の路地を曲がれば宝山荘というところで今度は折れた電信柱の撤去工事に阻まれ、東西に伸びる国道へ向かう南行きの渋滞の列に並ばされた。 ところが当時、緊急指定道路に当たっていたその国道は、すでに交通規制が徹底されてきており、全ての交差点に警官が配置されるようになっていたから、許可証のない私の車は入ることを許されず、その国道でUターンしようとしていた私は、さらにはるか南方の海岸の近くまで迂回させられた。ようやく北上できる道路を見出だして現場近くまで戻ったときには、すでに九時を過ぎようとしていた。私の部屋が平らにされ、一回目の瓦礫の積み込みが始まったのはその頃である。一方、玄関の上の部屋の女性は、病人の看護に手間取っていた。前夜からの厳しい冷え込みで、病人が風邪をこじらせていたからである。当時の避難所は、たとえ保健室といえども、医師や看護婦が常駐していたわけではなく、病気になっても、たまたま知り合いやボランティアがいなければ、看病すら満足にしてもらえる状況にはなかった。宝山荘のように、独居老人の多いアパートでは、住人の誰かが誰かを看なければならなかったのである。また一方、渋滞を避けるために早朝に重機が到着していたことを知らない住人たちは、「なにあせることはない、どうせまわりは大渋滞だ」と、完全に高を括って避難所でくつろいでいた。ある意味ではその通りだった。私はその頃、鉄道の高架の解体現場で迂回させられ、その迂回路に指定された細い路地で脱輪したおばちゃんの車を救い出し、その先の小川にかかる落ちた橋や、陥没した道路の手前でさらに何度も迂回させられたあげく、宝山荘の前の一方通行を強行に逆進して反対側の角から現場に入ろうとした。その目の前を、瓦礫を満載したトラックがスーッと曲がって行った。玄関の上の部屋の女性と私は同時に到着し、現場のありさまを見て息を呑んだ。ともに部屋はほぼ丸ごと持って行かれた後だったからである。すでに九時半を過ぎていた。もう若い連中は集まっていて、私の衣装ケースが一個だけ確保されていた。「もうだめね。」初めての解体で、よりによって真っ先に自分の部屋にその鉄の爪がかかったのを見て、彼女は苦笑しながらつぶやいた。「でも家族の写った、たった一枚の写真だけは取り出したかった」とひと言だけこぼしていた。

 その後、一軒家にもたれている部分の解体が南端から始まった。まず二階とおぼしき部分の口を開けたあと、住人がそこへもぐり込んで部屋の中を捜索した。搬出には若いもの全員が携わった。その後、その下を掘りすすめて一階を捜索し、完了すれば解体して隣に移る、という段取りで作業は進められていった。作業は一日がかりでゆっくり進められた。裏の一軒家からアパートを引きはがすには、建物全体を解体する必要がないことがわかったからである。解体を強硬に反対した人の希望をいれて、彼の部屋には手をつけず、瓦礫はその周囲にうず高く積まれる格好になった。自分の部屋は望み通り残ったのに、彼はこんなんじゃあ危なくて入れないと言い出したが、もはや誰も相手にする者はなかった。トラブルはまだあった。受験を控えた学生の親は息子とともに作業を見守っていたが、自分の部屋が掘り出されてもじっとしていた。あなたの部屋ですよと声をかけようかとも思ったが、ガキじゃあるまいし見りゃわかるだろうと思って黙っていたら、もう業者が引き上げる段になって、やれ参考書やノートが出てこなかった、息子の将来をどうしてくれるんだと、われわれに食って掛かった。執拗に訴えるので、住人の若いのが何人か、あとで自分たちも部屋を掘り返すつもりだから、そのついでに捜してみましょうということで何とか収まった。それで何を探してほしいのかと、当の息子に聞いてみると、ラジカセやビデオなどと、受験とはおよそ関係のなさそうなものを書き連ねるありさまだった。そんなこんながあったものの、解体作業はおおむね好評だった。業者の若者たちは非常に手際がよかったばかりか、とても心のこもった対応をしてくれたからである。なかでも鉄の爪を自分の指先のように絶妙にあやつる若者の腕前には誰もが感服させられた。土砂が飛散しないようにと畳を一枚ずつつまみあげ、柵の内側に器用に立てておいてから作業にはいるお行儀のよさだった。ただでさえ見えにくい土砂のなかから、タンスや衣装ケースの角っこをいち早く見つけると、すぐに手を止めてわれわれに注意を促した。ときには、その鉄の爪先に小さなハンドバッグを引っかけ、ついた砂をきれいにふり落としたうえで、持ち主である老人の手許にそっと降ろしてやるような場面もあった。それは、まるでウルトラQにでてくる子供好きの恐竜が、少女にプレゼントを渡しているような光景だった。彼等は常に笑顔で対応してくれたので、荒々しい現場だったにも関わらず、老人達でさえ、掘る場所やその加減を臆することなく要求することができた。暗くなったので作業を終え、瓦礫の山を崩れないように均したあと、道路に散らかった木片などを、まるでほうきででも掃くかのように鉄の爪先で掃除してから道路に出たとき、住人たちは拍手をもって彼等を送り出したほどである。 後から聞いてみると、彼等は解体業者ではなく、プロの庭師だということだった。それでみんなが納得した。このどさくさのなかで、よくもそんなていねいな業者を見つけてきたもんだと、口々に一軒家の主人を褒めそやした。しかし、二次災害によって崩れる心配をせずに、ゆっくり荷物を捜し出せると思ってのんびりしていた住人たちは、解体とは屋根だけがクレーンか何かで取り外されるものだと思い込んでいたために、切り崩されて単なる土砂や木屑のてんこ盛り状態となってしまったかつてのわが家を見て、複雑な思いで現場を後にした。

 宝山荘が解体されたために、財産の捜索も様変りしてきた。多くの住人が今回の解体ですっぱりと潔く自分の財産に見切りをつけたというのに、私をはじめ、若い何人かの住人は、その日以降も性懲りもなくその場に這いつくばって、てんこ盛りの土砂木屑の山につるはしをふるいはじめた。私の部屋は、たしかに通り側半分は持って行かれたものの、残りの半分は均されてそのまま下に落ち、多分ほかの部屋の瓦礫や木材の下に踏み固められているに違いないと思ったのである。たいした確信はなかったのだが、納得のいくまで掘り返さないと気が済まなかった。仕事先のほうは、一旦言い出したらてこでも動かない私の性格と、おかれた状況をよく理解してくれていたが、そうそう好意に甘えてばかりもいられないので、約束通りその週の金曜日には出社することにした。私は仕事先が行なった希望退職者の募集に自ら進んで名乗り出た。当時の心境としては、金や生活のことよりも、ゆっくりとした時間がほしかったからである。こうして、私は次の給料の締め日である二月十日でお役御免ということになった。従ってその日から約二週間というもの、昼は業務の引き継ぎをはじめ、私の担当していた県南東部の各得意先をまわって、その要望にできるだけ応え、夜は宝山荘の現場で瓦礫をほじくり返した。この時期は、われながら気の遠くなるぐらい、夜明けから夜遅くまで休むことなく働いた。瓦礫の山の中では、初めのうちは懐中電灯のたよりない光をたよりに、寒さにふるえつつ夜中まで作業した。あとどうしても二度にわたるザイール旅行の日記と、ザイールの母国語であるリンガラ語と日本語の自作の単語集を捜し出したかったからである。日記のほうは、すでに物語風の旅行記として、ちゃんと人が読めるようにまとめはじめ、どうにか完成に近づいていた矢先だった。これだけは、どうしても自分の手で完成させたかったのだが、それを打ち込んであった愛用のマッキントッシュは、もはや瓦礫の下敷きで、しかも二度の雨と、キャタピラーの地固めを被っている。それには旅行記だけではなく、私のバンドの曲作りに使った細かいデータや、ザイール人の主なドラマーやパーカッショニストのリズム・アレンジを分析したデータ、さらにラテン系の音楽に使われるほとんどすべてのリズム・パターンをまとめたデータが大量に蓄積されていた。バックアップもふたつ取り、念のために部屋の中の別々の場所に保管してあったのだが、それらは周辺機器とともに同じ運命をたどった。リズムのデータや周辺機器などはまだ諦めることができたが、苦労を極めたザイール旅行の唯一の記録である日記帳は諦めきれなかった。単語集の方も、実際にザイール人と話しながらまとめたものなので、日本における生きたリンガラ語の数少ない記録となるはずだった。だから固執したのである。ご近所には一応声をかけておいたが、それでも暗闇でごそごそやっていると、二度ほど警察の職務質問を受けた。このあたりも治安が悪化しはじめていたからである。身分証明書などがここに埋まっているから捜しているのだと、何度言っても身分を明らかにするように求められるので、つい押し問答になりかけると助けてくれるのは、やはりご近所の人たちだった。裏の一軒家の主人は見るに見かねて工事現場用の投光器と電源を提供してくれた。おかげで作業はやりやすくなり、現場が明るくなったことを聞きつけた若い連中が、仕事帰りに立ち寄って自分の部屋のあったあたりをごそごそやるようになった。そのうちどこから調達してきたのか、自ら投光器を持ち込む奴や、果ては知り合いの音響屋から発電器を借りてきて据え付ける奴まで出てきて、現場は夜中まで結構賑わった。仕事を終えて暗闇の瓦礫の中から自分たちの持ち物を探し出す青年たちとかいうテーマで取材を受けたこともある。噂を聞きつけて、天晴な若者たちをひと目見ようと、遠くから駆けつける人が後を絶たなかった。一時は、投光器に照らし出された現場に人垣まででき、雛段がしつらえられ、夜店の屋台まで立ち並ぶありさまだった。夜になっても飯が食えるとあって、近所はたいへんな騒ぎになった。あんまりみんなの威勢がいいので、苦情でも出て作業を中止させられはしないかとひやひやしたが、それはいらぬ心配だった。すぐ北の高架鉄道の復旧現場も二十四時間の突貫工事で遥かにうるさかったし、夜遅くに主人が戻ってからあと片付けをしている家を、われわれが手伝うように気遣ったりもしたので、結構評判は良かったからである。またわれわれは彼等の家族の命を救った張本人でもあったので、きっと大目にみてくれていたに違いない。ひところの騒ぎが収まってあたりが静かになった後も、ときには、寒いだろうからと、ポットに入った熱い紅茶を差し入れてくれる人まで現われたほどだった。このあたりは古くからの閑静な住宅街で老人が多く、そんななかにぽつんと安アパートがあったものだから、安普請で苦労を重ねたあげく、地震で何もかも失なって放り出されてしまったわれわれは、いたわるべき存在だと彼等には映ったのかも知れない。

 とにかく、われわれはお互いに一つの目的に向かって協力するようになった。道具は全員で持ち寄り、各自名前を書いて一ヵ所にまとめておくようにした。これで、誰がいつ来ても作業ができるようになり、さらに懇意にしていた近所の人にも使ってもらえるようにした。それから現場に来たら必ず声をかけて回るように取り決めた。これは自分が作業している位置を互いに知らせることによって、誤って物陰の住人に瓦礫をぶつけてしまうことがないようにするためである。さらに、せっかくひとが穿った穴を自分が邪魔になる瓦礫の捨て場所としないようにと、丸太や土砂の置き場所がそれぞれ分けて決められた。また、大きな籠を現場内の至る所に置いて、他人のものが出てきたら最寄りの籠へ入れるようにした。こうして、捜索に参加できない老人たちも、大体自分の部屋のあったあたりの籠を覗いてみれば、少しづつでも、労せずして自分の品物を取り戻すことができたのである。しかし、どこを掘り返すにしても、まずはうず高く積み上げられた柱などの木材を撤去することから始めなくてはならなかった。火事場の馬鹿力というか、自分でも信じられないことだが、直径三十センチ、長さ三メートルはあるかと思われるような太い丸太を、あの頃は一日中何本も投げ飛ばしていたものである。それが一段落すると、今度は瓦や、竹で編まれた格子に土の詰まった壁の層が出てくるので、苦労してそれらを退け、木切れや砂地が現われると、そこから先はまさに発掘調査だった。自分の穴にうずもれて潮干狩りをしていると、素頓狂な奇声がよく聞かれたものである。何だと思って行ってみると、いい年をした大の男が、女にもらったとかいうぬいぐるみの泥だらけになったやつを抱きしめて、感涙にむせんでいたりした。そのうちアパートの敷地の中は、本物の遺跡の発掘現場のように、瓦礫の台地のあちこちにすり鉢状の穴があき、その尾根を畳を並べた道が通されるようになった。その様子を二階の窓から見ていた裏の一軒家の奥さんは、捜し物が見つからないかして、日に日に少しずつずれてゆく穴や畳の道を毎日観察するのは、結構楽しいものだったと述懐している。とにかくここに集まった連中は、そろって気が置けなくて元気だった。誰かがちょっと手伝ってくれと声をかければ、みんなが快く駆けつけた。作業が遅くなって疲れてしまったら、みんなで避難所へ行って泊まればよかったし、そこにいる近所の人たちもとてもよくしてくれた。「今度はうちも頼むわ」とよく声をかけられたものである。 時々様子を見に来る老人たちも、自分の思い出の品々を籠の中に見つけると、子供に返ったように喜んで、手に入りにくい飲み物をわざわざ買ってきてくれた。こうして、地震後のつかの間の平和な時間が流れていった。

 しかし、日を追うにつれ、実家では私が宝山荘の瓦礫の山から掘り起こし、母屋のビニール・シートを敷いた応接間に持ち込んだ荷物がただならぬ量になってきたので、いつまでもかび臭いにおいを放つ、砂にまみれた見苦しいものを家の中に散らかしておくわけにもいかなくなり、ときどき時間を作ってはそれらを清掃しなければならなくなった。これは思ったより厄介な、手間のかかる仕事だった。最も気になっていたのはカメラやレンズなど、写真関係の器材だった。コレクターというほどではないので台数はそう多くはないが、古くて気に入っているものもあったので、いちはやくそれらを清掃しはじめた。驚くべきことに、高い所から落ちてあちこちぶつかったうえに、砂にまみれて掘り出されたにもかかわらず、壊れていたものは一台もなかった。六十年も前にドイツで作られ、かずかずの戦争を生き延び、おそらくは残酷な現場をたくさん見てきたであろう古老ローライフレックスでさえ、軽快なシャッター音を響かせていたし、四十年前に作られ、当時世界一の性能と気品を誇り、他の追随を許さなかったにもかかわらず、あんなボロアパートの柱と本棚の間で、圧死寸前の憂き目にさらされた孤高のライカも、メカニズムに砂のざらつきひとつ感じられなかった。日本人の手に最も良くなじむカメラとの評価の高かった初期のペンタックスに至っては、ねばりきっていたはずの低速シャッターが目を覚ましたように甦っていたくらいだった。それでも至るところに擦り傷や小さなへこみが認められた。本来ならばそういうものはマイナス要因として、コレクターの神経を苛立たせるものだが、私にとっては、それらはかえって自ら救い出したものの証として愛着さえわくようになった。 メインに使っていたコンタックスのセットは、頑丈なポーチに密閉してあったので汚れひとつなく、その点では安心だった。そのほかの古いカメラは、もはや万能のものとしては考えず、無理のない範囲でいたわりながら使っていくことにした。楽器関係の大道具はぞうきんがけでかたがついた。アフリカからやってきた木彫りの人形たちは母をいたく喜ばせ、ついぞ私などがしたことがないぐらい丁寧に磨いてもらったほどである。母は本が好きなのでそちらのほうを任せていたら、砂が落ちるのも構わず食事を作るのも忘れて、日向で読みふけるありさまだった。救い出された幸運なレコードたちも、幸いなことに破損したものはなく、ジャケットの中は実にきれいなものだった。問題はCDとテープ類だった。プラスチックと砂という絶妙の取り合わせには、濡れ雑巾もウェット・ティッシュもほとんど役に立たなかった。CD本体にはさほどの影響はなかったが、カセットやそのケースは拭いても洗っても乾いた端から砂が噴き出した。CDに収められているブックレットに至っては、一体どこからこんなに入り込んだのかと思うくらい、ざらざらと果てしなく砂が流れ出した。作業とともに猛烈な瓦礫のにおいが家中に漂い、家族を悩ませた。体中にかゆみが走り、くしゃみが止まらず、花粉症のように目がかゆくなった。自分の息子が九死に一生を得て、ほかならぬこの瓦礫の中から助けを求めて転がり込んできたというのに、たまたま何事もなかったがために、災害の深刻さと恐怖と憂鬱についてさっぱり理解できない父は、無言の威圧感をもって、あからさまに不快の意思を表明した。親とトラブルを起こして再びここを出て行かねばならなくなるのを避けるために、作業を急がねばならなかった。何日も徹夜した。休みの日には一日中かがみこんでごしごしやったこともある。

 しかし古いレコードなどを清掃していると、どうしてもそれを聴いていた頃の自分を思い出して手が止まった。特に初期のイギリスやヨーロッパのアングラなプログレッシブ・ロックのレコードなどが出て来ると、精神的に不安定で困難だった、長くて暗い十代後半の時期の記憶が甦ってきた。そうして自分の生まれ育った場所で精神的な遍歴を追想していくと、徐々にこの家の持つ独特の雰囲気を思い出し、家を飛び出して奔放な生活を始めるに至った経緯をありありと思い出すことができた。好奇心と試行錯誤の連続だった今までの人生を振り返り、おそらくこれからもそれは少しも変わらないだろうが、いずれここを再び出て行くときは何歳になっているのだろうかと思うと先が思いやられた。実家では部屋が一つ空いていたが、そこが純和風の座敷だったのと、長年の一人暮しから急に家族と同居するのは精神的に耐えがたいものがあったので、転がり込んで数日後には、母屋の脇の、物置になっている古いプレハブに住むことを決めていた。実際、生活習慣から人生観から何もかも違う家族との共同生活は、たった数日間で、すでに気を遣わされることの連続になってしまったからである。何を好きこのんでそんな汚いところにもぐり込もうというのかと母はいぶかったが、私は頑として聞かなかった。その建物は三十年以上前に建てられ、私が二歳の時からこの家を出て行くまで、実際に住居として住んでいた建物である。何年か前に母屋が増築されたのを機に、その一部を取り壊して残りを物置としたものだった。それは古いプレハブだったにもかかわらず、ガラス一枚割れていなかった。しかし、昔からこの家にあったものや祖母の家に代々伝わるものがぎっしりつまっていたので、まずはそれらを整理し、住めるように片づけなければならなかった。長い間使われていなかった窓が開け放たれ、淀んだ空気が追い出された。屋根裏にもぐり込んで傷んだ屋内配線を修復し、母屋から電気を引いてもらった。叔父たちが使っていたという四十年以上も前の洋服ダンスや食器棚が叩き起こされ、太陽にさらされた。先に亡くなった母の長兄が愛用していた古いステレオセットを改造して、バッタ屋で買ってきた安物のミニコンポを格納し、救出された愛用のプレーヤーを接続して、連れにもらったスピーカーを鳴らした。リサイクルショップで、おそらく粗大ゴミとして捨てられていたと思われる、とても頑丈なテーブルと整理ダンスを格安で仕入れ、それを仕事机と六百本のテープの収納に充てた。どうしても手許に必要な書籍や、何度も読み返して自分自身の一部にまでなってしまった愛読書を買い直した。安物の棚を補強して、救い出された四百枚のレコードを収め、格安のパイプベッドに友人からもらった上等なマットを敷いた。拾ったテレビを一日乾かしたあとで通電してみたら生き返ったので、屋根に登ってアンテナを修復して同軸ケーブルを接続した。さらに、救出された二台のビデオデッキを介してオーディオセットまで足を延ばし、AVシステムも完成した。毎日のように両手いっぱいに、ネジや電線や工具や金具などのつまった袋を下げて帰る日々が続いた。

 当時、すでに近所のホームセンターには、作業服を着た明らかに訛りの違う高地の人たちが、工具の部品を求めてやって来ているのが多く見られたものである。家具を固定する金具や防水シート、ヘルメットや非常持ち出し袋などは、何日も前から売り切れ状態だった。また、家にはコーヒー豆をわざわざ手で挽くための立派なミルがあるくせに、満足なやかんひとつなく、複雑な仕組の高価な鍋があるくせに、ごく普通のフライパンさえなかったので、そんなものまで買い込まなければならなかった。 当初は、背丈以上の家具には恐ろしくて近づけなかった。母は、そんなにこわいのなら壁に固定すればよかろうと言ったが、壁ごとぶっ壊れたところから這い出してきた私にとっては、それはあまりにもナンセンスに聞こえた。それでもしばらくしてから、壁そのものを補強したうえで家具を固定する工作に取りかかったのだが、内心こんなことをしても地球の力を前にしては所詮無駄なことだという思いが頭を離れなかった。宝山荘から帰ってきたものたちのなかには、祖父の愛用した四枚羽根の扇風機や小さな卓上書類ケース、おばあちゃんの手鏡などがあった。母はそれを見て、ほかならぬ母自身が捨ててしまおうとしたのを私がもらい請けたというのに、いつの間に持ち去ったのかと私に詰問する始末だった。とにかくそうしておよそ一ヵ月後には、新しいものと古いもの、高価なものとただ同然のもの、しっかりしたものとやっと形を保っているもの、何もかもがちぐはぐだったが、再び馴染みの雰囲気の古いものたちに囲まれて生活することができるようになった。こうして自分の時間と空間をどうにか取り戻すことができたのだが、この建物は、ガスと水道の設備がなく、トイレも埋めてあったので、ここらにそれらが復旧したあとも、夜にトイレに立ちたくなっただけで、真っ暗な中を母屋まで行かなければならなかった。しかし当時、寒風の吹きすさぶなかでテント暮しを強いられていた人がごまんといたから、それに比べてみれば、雨露がしのげて暖房もあり、プライバシーまで保たれているこの場所は、まさに極楽だった。また、形あるものは必ず潰れるという動かし難い確信を得ていたので、家具調度には殆ど金を使わなかったから、この期間に生活の再建のために使った金は約四十万円で落ち着いた。それは県や日赤から支給された義援金や、アパートや駐車場の解約金で得た臨時収入とほぼ同額だった。当時、最も被害の激しかったところでは、世帯主一人の損害額が数千万円に上ることは、むしろ普通だったので、そんな人とひき比べてみてもこれは全く不幸中の幸いだった。

 さて、友人達がカンパしてくれた現金も底が見えはじめたので、そろそろ金のことが気になりだした。当時、まだ宝山荘近くの銀行は復旧していなかったが、周辺地域で営業を始めたところは休日返上で利用者に便宜をはかっていた。そこで二月のはじめの日曜日、身分証明書がなくても払戻ができるかどうかを、開いていた銀行に問い合わせてみたら、少なくとも何か本人と確認できる物的証拠が必要だと言われた。もっともな話だが、それがあるくらいなら苦労はしないので、先に運転免許証の再発行をしてもらうことにした。ここだけの話だが、それまでは免許不携帯で公然と運転していたのである。免許更新センターは地震で機能がストップしていたが、緊急事態として一切の面倒な手続きなしで、手書きで免許証の再発行に応じていた。こっちが呆気にとられるぐらい簡単なものだった。それを持って再び銀行に掛け合ったが、震災のために再発行された免許証での身分証明には応じかねるという返事だったので、一日の苦労が水の泡になってしまった。とりあえず自分の口座を凍結することだけはできるらしいので、その手続きと通帳その他の紛失届、住所変更届と、印章の変更届の用紙を送ってもらうことにした。となれば瓦礫の中から何か身分の証明できるものを探し出さなければ、自分の口座から金を引き出すこともできないことになってしまうので、再び瓦礫の山と闘う羽目になり、現場に舞い戻って園芸用のくまでで少しずつ掘り進めた。砂の中から使用済みの通帳やクレジットの利用明細が出てきたが、これらは、直接銀行の口座の復活には役立たなかったものの、信販会社と連絡をとることができた。ただしそちらのほうも、神戸のオンラインが壊滅しているので、復活するまでは口座の凍結しか受付けられないという返事だった。しかし、時間がたてばカードの再発行はできるだろうし、それなら身分証明には十分だとのことだったので、一応、可能性のひとつに数えておくことにした。 その後、いろいろな会員証や証書が土の中から掘り出されたが、どれも決め手にはならず、可能性のひとつに並べられただけに終わった。そんなこんながあって、より一層の熱意を込めて瓦礫と対決したのだが、その間に出てきたものは、思い出深いのはやまやまだが、自分の身元を証明してくれるものではなかった。 ついに自分のものよりも一階の画家の先生の立派な額縁に入った絵や、美術、書道、登山関係の書籍が大量に出土したので、まとめて保全したあと、探索の方針を根本的に練り直すことにした。

 このとき保全した先生の持ち物は、傍目にも高価なものが多かった。特に額に入った多くの絵画などは、ていねいに割れたガラスや土砂を取り除いて実家の物置に保管し、預かっているから取りに来てくれるようにと貼紙をしておいた。先生とはなかなか連絡が取れなかったが、二週間ほどたって、なんでも去年の暮れに改築したばかりの自宅が全壊してしまって、とてもそれどころじゃないが、そのうち取りに行くとの伝言が入った。住所を調べてみると、そこは宝山荘の西のほうの、ある大学の立派な校舎が吹っ飛んだ場所のすぐ近所だった。そのあたりは、鉄筋コンクリートの建物ですら、まともに立っているものは少なかったのである。そうこうしているうちに、われわれが救出して、どこかの救急病院に入院していた、アパートの斜め向かいに住む初老の婦人が戻ってきた。われわれは近所のよしみから、型通りのお祝いを述べたのだが、そのうちなにを思ったのか、自分の家の前に乱雑に積み上げられた、近所の人の持ち物を次々と宝山荘の敷地の中に投げ入れはじめた。何をするのかと思って問いただして見ると、どうやら自分の家の周りにそんなものが置かれているのが不愉快だったらしい。そんなことを言っても、その頃は通りの家々のほとんどが倒壊してしまっていたから、解体するにも何をするにもまず、まず中身を出して、とりあえず通りに出すより仕方がなかったのである。確かに宝山荘は二十四世帯も入っていたから、その住人の荷物は通りのかなりの部分を占領していた。なるべく彼女の家から遠ざけるように気を遣い、整地された後で再びもとの敷地に戻すからと言っても、彼女は聞き入れなかった。とにかく、この通りの全てから、一切の荷物を退けろと言い張った。そんなことをして何になるのか、こんな非常事態じゃないか、あたりの様子が目に入らないのかと、近所の人々と揉み合いになりかけたが、それでも頑として主張を譲らなかった。すぐに撤去しないと、警察に通報するとまで言った。通報されても、持って行き場のない住人たちには、なす術もなかった。しかし、最終的には大事にならずに済んだ。近所の庭つきの家の主人が、置き場所を提供してくれたからである。 あるとき、地域のボランティア活動の一環で、地震当日彼女を救出した宝山荘の住人の一人が、派遣された若者数人と、たまたま彼女の家の中を片付けることになった。朝、応対に出た彼女は、手伝いに来た若者たちの間に、自分の家の前に荷物を置いた男がいるのを見て取ると、ぴしゃりと扉を閉ざしてしまった。何を言っても帰れの一点張りだった。一部始終を見ていたわれわれは、ついに堪忍袋の緒が切れた。「もっぺんあの恩知らずを潰れた寝室に埋め戻してやる。」と言ってスコップを手に走っていく奴まで出る始末だった。その後、彼女はついにわれわれの前には姿を現わさなくなった。近所の人の話によると、なんでも遠くにいる親類を頼ってそのあとすぐに町を出て行ったということだった。

 さて、肝心のものが見つからない私は、掘り進めるべき場所をもう一度きちんと測定し直した。そのとき私が探していた身分証明書や財布、日記その他のものは、すべて窓とは反対側の、廊下側の板の間にあったはずなので、敷地の大体の位置関係から投光器の光を頼りに、目測で板の間が落ちたであろう場所を割り出し、再び穴を穿つことにした。まさにそれは宝探しだった。わずかなサインが差し示す方角に向かって探索の路線を絶えず修正しなければならなかった。動物的な勘をフルに発揮して、大地の下の呼び声に耳を澄ませた。こうして長い闘いのあと、どうにか台所の内容物がちらほらと出て来はじめると、それらはさらに掘り進むべき方角と、衝撃で飛び散って離れたところにいる相棒の居所を指し示した。ある夜遅くのことである。単なるベニヤ板だと思ってひきはがしたのは自分の部屋の扉だった。突然、土砂にまみれた二階の鴬張りの廊下のまぶしい光に目も眩むばかりだったが、そこに、押し潰された台所の、粉々になった食器類や流しの中身の残骸の中に、キャッシュカードやクレジットカードや免許証の入ったどろどろの財布を見出だした。続いてその光に照らし出された窓枠の向こうから、仕事関係の書類や常に座右にあった書籍の一部、筆記用具や工具類など板の間にあった品物が、泥にまみれた状態で次々と出てきた。いよいよ核心に近づいてきたのだ。確かな手応えを感じてその夜は引き上げた。財布が出てきたのは万に一つの幸運だった。現金は幾ばくもなかったが、これさえあれば、身分証明もできるし、銀行口座も復活できる。何か、一人前の人間に戻ったような気持ちだった。その後、再び何日かの収穫のない土の日々を過ごしたあとの、バイトをお役御免になった翌日の午後のことだった。ようやく仕事から解放されて、心置きなく朝から現場に這いつくばっていた私の手に、プラスチックの白い塊が当たった。その手触りから、明らかにマッキントッシュの本体だとわかったので、素手でその周りを掘りはじめた。土砂の中から掘り出されたマックはスクリーンこそ割れてはいなかったものの、リヤパネルは吹っ飛んで基盤がむき出しになっていた。その空洞には土がつまり、傾けると放熱孔から砂が流れ出る始末だった。どう見ても再起不能だった。気を取り直してさらに進んだ。何度も建物の基礎に達しては進路を変え、一階の向かいの部屋に侵入しては引き返した。地面の底を掘り返していると、とても懐かしい、甘酸っぱい香りが漂ってきた。掘っていくと、手にころころとまとわりつくものがある。よく見ると、それはずっと前に亡くなった祖母が、生前漬けていた二十年ものの見事な梅干しの一部だった。私のところにはそうした梅干しの瓶がいくつもあったのである。思わず泣きくずれそうになる気持ちと、梅干しの発するにおいに刺激された空腹感とで変な気分になりながら、ありぢごくの巣の様な巨大なクレーターの底で難渋していると、ぼろぼろになった厚手のクラフト紙の切れ端が風に舞った。

 それは、まぎれもなくザイールの旅行日記が綴じられていたファイルノートの表紙だった。それがどこから飛んできたものかわからなかったが、とりあえず周囲を取り囲んだ斜面を片っ端から調べていった。どんな物の色も、被いかぶさる土によって見分けがつかなくなっていたが、ちょうど自分のしゃがんでいる位置より北にあたる、まだ手つかずになっていたひとかたまりの瓦礫の山のすそあたりに、少し大きめの穴が開いているのに気がついた。それは、一階の梁の下の崩れそうになった土砂の横穴だったが、覗き込むとその奥に、懐中電灯の弱々しい光に照らされて、それら日記帳と自作のリンガラ語の単語集、それに預金通帳や健康保険証などの一切が入った書類ケースの明らかな輪郭が見えた。しかしそこはどう考えても一階の向かい側の部屋の隣に位置していた。ついに見つけたという喜びに、はやる心を抑えつつ、私はその上にかぶさっている瓦礫をもう一度上から取り除きはじめた。再び丸太や瓦を投げ飛ばし、砂や竹格子の入った土壁を取り除いて、地面を均し、穴を広げ、他人の持ち物を保全した。そしてようやくそこまでたどり着くと、一階の天井板を引きはがした。とうとう、まぎれもない自分の日記帳と単語集を手に握り締め、書類ケースの中身を出して必要なものが全てそろっているかどうかをあらためた。そして砂をはたいて、ていねいに持って帰るものの箱の中に並べ、満ち足りた感動のなかで三週間に及んだ作業を終了した。

 同じ現場で別の穴にもぐっていた若いのが、それを聞きつけて瓦礫の山の上から声をかけてくれた。私は彼と缶コーヒーで祝杯を上げた。「ここまでできた俺たちは幸福だ」と、彼がしみじみ言った。全くその通りだった。瓦礫の中を自由に掘り返すのを、誰も邪魔だてしなかったからである。私は自分の幸運を神に感謝するとともに、幸運のあるうちにそれを吸い尽くしてやると心に誓った。実際、こんなまねができたのはごく一握りの人だったにちがいない。というのは、やる気があっても、肉体的や社会的理由のために自由の利かない人が多かったし、また、束縛されるものが一切なくても、家主の独断や公共の緊急性のために、財産を持ち出す暇もなく一方的に住居を撤去された例は後を絶たなかったからである。とりもなおさず私自身が、地震当日の朝、隣の文化住宅の一室を、人命救助とはいいながら、完膚無きまでに破壊した張本人であることを、思い出さずにはいられなかった。私は、山のてっぺんに畳を敷いて、夕陽のなかに疲れた体を横たえた。

 結局、持っていた書籍のほとんどは、もはや開くことさえできないほど砂にまみれてぼろぼろの状態だったので、そのほとんどを放棄した。箱に入ったものであろうと、中にどんなに深遠なことが書いてあろうと、あの一撃の前にはただの紙屑だった。砂の中からざくざくと、割れたカセット・テープが大量に出てきたときには思わず泣いてしまった。形をとどめたものでさえ、当然ハーフの中にまで砂が入り込み、リールはびくとも動かなかった。そのなかには、様々な危険と苦労を冒して録音したザイールでの現地録音テープの一部、それも常に愛聴していて机に放り出してあったがために、もろにやられてしまったものまで含まれていた。自分が命がけで録音したとはいっても、所詮それは厚さ何ミクロンかの儚い磁性体だったのだ。そんな頼りないものに結果的に自分の命を賭けてしまった滑稽を、私は自嘲せずにはいられなかった。また、子供の頃から長い間使ってきた濃い色合いの古い本棚は、中身を出すために自らの手で破壊してしまった。祖母から譲り受けた上等なフランスベッドのフレームは、窓際にあって助け出せたのに放置してしまった。その中に大量のレコードが収納されていたことを、最後の最後まで思い出せなかった自分を、つくづくバカだと思った。その他、実家の物置で眠っていた古いものは、自分がそういうものが好きだったので、たいてい引越のときに持って来ていたから、両親の結婚記念の時計やラジオ、両親が新婚時代に使っていた食卓セット、祖父の会社設立記念に贈られた立派な鏡など、値打ちもありゆかりもある家の古い物のほとんどを失なってしまった。そうしたものは全て諦めなければならなかった。努力したのに、結局報われなかったのだ。黄色い砂が飛んでいく空を眺めながら、少し空虚な気分になった。

 しかしその反面、日記帳などを救出するまでの間に、ありとあらゆる実に細かい持ち物をたくさん拾い集めていた。そのなかには、常に身の回りに置いて末永く使ってきた文房具や裁縫セットなどをはじめ、ポシェットに入ったソニーのウォークマン・プロもあった。こいつは二度にわたる過酷なザイール旅行に私と同行し、襲いかかるスコールや砂嵐に耐えて、希少な現地録音を果たした信頼の置ける相棒だった。さらには、小学生のときに初めて買ったシャープペンシルや、鼻毛を切るのに毎日のように使っていたごく小さな握りばさみ、やはり子供のころから使っていた、当時としては高級品だった、アメリカ製のステンレスで出来たよく切れる爪切りなど、そんなものまで出てきた。今から考えてみれば、このだだっ広い宝山荘の、こんなてんこ盛りの瓦礫の山から、よくもまあそんなちっぽけなものまで捜し当てられたもんだと、われながら感心した。こうして万にひとつの確率で私の手許に戻ってきた愛用の品々には、深い縁を感じざるを得なかった。子供の頃から物持ちの良いのが取り柄だったが、母でさえこれほどのものとは思わなかった。マッキントッシュの本体をはじめ、壊れて使えなくなってしまったものも、出て来たものは全て持ち帰り、今も置物として私の手許にある。次の日、銀行から各種喪失届けの受領書類と連帯保証人の申請書が郵送されてきたが、もはや銀行に身元確認の面倒を見てもらう必要がなくなったので、今度はそれらを取り消す手続きをしなければならなくなった。その頃には、最寄りの銀行も再開しはじめていた。こうして自分の財産の捜索にけりをつけたのは、地震からひと月近くがたった頃のことである。


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