Ariano Folkfestival 2005

08/18

 Teifilo Chantreのステージが終わった後、いきなり広場でブラス・バンドが演奏を始めた。2拍子の明確なマーチだ。それまでゆったりとした哀切極まるMornaの空気に呪縛されていた欲望が一気にはじけたように、わっと観客が盛り上がる。やはりイタリア人はこの方が良いのであろう。マーチはそのままFolkstageへと向かって行進しはじめた。観客が踊りながらその後を追い、次の演し物へ導くという趣向だ。Folkstageでは、地元のレゲエ・バンドが演奏していた。イタリアではレゲエがはやっている。演奏内容は言わぬが花だが、観客の盛り上がりを見ていると、それはそれで楽しい。疲れたので一旦場外へ出て休んでいると、スタッフが来て飲め喰えと、また色々奨めてくれる。今夜の泊まりのことなどいい加減どうでも良くなったところへ酔いも回って、急転直下の展開に疲れが出たのか、いつのまにかテントのベンチで寝てしまっていた・・・Rossanaに起こされたのは午前3時頃だった。明日というか、今夜の出演者であるLuraとバンドの一行を連れている。これからホテルへ行くが一緒に来るかというので、全部お任せすることにする。連れて行かれたのは、予約したのとは別の「Incontro」というホテルだった。そこでSilvestroという、これも英語の喋れる男性を紹介された。滞在中は、彼にも大変世話になることになる。私は予約したホテルの連絡先を書いたリストを示して、このホテルに予約を入 れてしまったんだがと相談したら、なにも心配するなというので信じることにした。部屋を与えられて横になったのは、かれこれ明け方近くである。

 目が覚めたのは朝10時頃と結構早かった。ロビーに未だ朝食が残っていたので、それを平らげた。ホテルの前庭に出ると、Teoのバンドのミュージシャンが、パラソルの下でカプチーノをすすっている。私もカプチーノをひとつ注文して、彼等の会話に加えてもらった。彼等はパリ近郊に住んでいて、英語とフランス語が通じる。ドラムのFabrice Thompsonは、その名の通り英国系だ。ヴァイオリンのKimは未だ若いが、他はかなり年輩だ。話は主に、私の専門とするRumba CongolaiseとMornaやColadeiraの違いに終始した。Mornaは、もちろんポルトガルのファドに大きく影響された歌謡曲だが、Coladeiraは、一聴するとMerengueやZoukとなんら変わるところがない。その点について訊いてみると、彼等はあっさり同じものだと認めた。特に形式にこだわるつもりはないらしい。Teoもそうだが、Cabo Verdeといっても彼等は純粋な黒人ではない。Teoは幾分黒人の血が入っているが、Kimはもちろんヴェトナム人だし、他のメンバーは白人と言っても良いくらいだ。クレオールだから、カリブの音楽にも当然心情的に造詣が深い訳だ。

 彼等は寧ろ、日本人でありながら、コンゴのルンバのニュアンスを出せる私を大変珍しがった。Fabriceと実際にスティックを握って、いくつかの奏法のやり取りが出来たのは有意義だった。彼等は全員クラシックの専門的な教育を受けていた。だから音楽の学術的な話になると、私には全くお手上げだったが、ジャズ・ドラムの鍛錬も経て来ているFabriceの表現の豊かさには舌を巻いた。どんなに引き出しが多くても、実際にひとつの演奏の中で使えるものはいくらもないと、しきりに強調していた。私なんか引き出しひとつしかないから、いっつも開けっ放しやけどね。そんな話で笑い興じているうちに彼等は荷物をまとめるために部屋に戻って行った。

 Napoliへ発つ彼等を見送ったあと、どこかで昼メシにしようと中心部へ向かった。バスがちょうど出たあとだったので歩きはじめたら、Silvestroが車で追いついて来た。「おいイターミ、どこ歩いてんだ。Rossanaがホテルで待ってるぞ。」ああそうだった。彼女が私の送り迎えをすると言ってたっけ。Silvestroの車でホテルに戻ると、Rossanaが少しむっとした表情で、赤いAlpha Romeoで待っていた。「あなたは私のお客様よって言ったでしょ?」「・・・Si・・・」(怒った顔も奇麗だよ。) 「これからは私が迎えに来るまで、ここで待っててね。」それから毎日、私は絶世の美女の運転する、この田舎町にしては少々派手な車での送迎に預かることになる。ホテルの従業員が、慇懃にこやかに並んで冷やかした事は言うまでもない。

Hotel Incontro

Hotel IncontroからAriano Irpinoの街を望む

ホテルから中心部へは、このような車道を歩いて小一時間。

 Ariano Irpinoという街は、なだらかな丘の上に建つ城郭都市である。Napoliからだと車で一時間半程度なので、特に辺鄙な場所という程ではない。A16という高速道路でGrottaminardaという街まで来て、そこからSS90という州道で15分程度のところにある。しかし私が経験した通り、バスを乗り継いで来るのはなかなか手強い。また、先述した通り城郭内に宿泊施設はなく、私の滞在したIncontroのみがほぼ唯一の選択肢である。インターネットで検索すると、あと3件ヒットして来る。そのうちの1件はKristall Hotelといい、上の写真に矢印の看板が見えている。これはIncontroよりも幾分中心部に近いが、いずれにせよ40分程度歩かなければならない。ほかの2件は街の人も知らないと言っていたので、通りが良いという点ではIncontroは安心できる。このホテルは、結婚式場、フィットネス・クラブやレストランが併設された、かなり大きな娯楽施設という感じで、敷地面積は大きく、前庭にテラスがあってなかなか美しい。しかし、シングル・ルームは一階の片隅の奥の方に位置し、眺望はゼロ。部屋は清潔で設備は申し分ないが、脚の悪さと環境という点では全くお奨めできない。しかし出演するミュージシャンは、ほぼ例外なくこのホテルに泊まるので、私のようにミュージシャンとの交流を目的とするならば、このホテル以外に選択の余地はない。従って、一般的には、レンタカーを利用して他に宿泊施設を求め、周辺の美しい村々を観光したあと、夕刻にこの街を訪れてフェスティバルを楽しむのが賢いやり方だと思う。

 街は、いわば馬の背のような尾根の頂上にノルマン時代の城跡があり、そこからしばらく下った位置に大きな教会があって、その前の広場が中心地になっている。ここが昨日Teoのコンサートが行われたPiazzaStageである。更に下ると、城郭の入口になり、そこにFolkstageがあって主にここでコンサートが行われる。そこまでぶらぶら歩いても15分程度、街全体は小一時間あれば回る事が出来る大きさだ。そこを出ると道はヘアピンを描きながら州道へと下って行く。城跡とFolkstageを結んだ線が尾根のようになっていて、街は細い入り組んだ路地を積み重ねるようにして、その両側の斜面に張り付くように構成されている。日本人から見ると、非常にエキゾチックで憧れる風景だ。眺望のきく場所には、時折小さな公園があって、散策に疲れると休むことが出来る。Piazzaから城跡にかけてが、いわば観光コースとなっていて、小さなブティックなどが軒を連ねている。ギャラリーや教会も多く、この辺りでフェスティバルでの映画祭と芸術祭が行われている。城郭内にレストランは3件しかない。しかも全く理解できないことだが、昼食時には店を閉めてしまう。Ariano Irpinoでは、11時から15時頃までは、全ての商店が閉まる。人々は、飲食業の人も含めて、この時間帯は昼食と昼寝の時間である。

 そんなことを知るはずのない私は、ぼちぼち腹が減って来たから、さっき見かけたピザ屋でメシにしようと思って街を上がりはじめた。しかしどうもさっきと様子が違う。人影が消えたのである。あれよあれよという間に、うじゃうじゃいた観光客らしき姿も消え、街はさながらゴースト・タウンのようになってしまった。空きっ腹をかかえて街をさまよったが、レストランはおろか、ピザ屋や食料品店、「Supermercado」と書かれた商店ですら、シャッターを下ろしている。しかたなく、ドラッグストアのようなところで厚手のビスケットのようなものを買い、城跡の公園で貧しい食事となったが、これが非常にまずい。甘過ぎると言うか、脂っこくぼそぼそで掴んだ端から崩れて口に入らない。入れたら入れたで口の中でネバネバに固まり、嚥下できない。ううむ、喰えん程まずい食いもんがこんなとこにあったとは。南イタリア、奥行き深し。

 気を取り直して散策を続ける。城跡やカテドラルなどからの眺めは、まさに絶景である。周囲の山は、丘と言える程になだらかで、そのいくつかには山の上に街が広がっている。山と山の間の斜面は、見渡す限りのオリーブ畑やぶどう畑で、それらを結ぶ道沿いにレンガ造りの美しい家々が並び、緑とレンガ色と白のハーモニーは、まさに南欧の田舎を思わせるにふさわしい。そんな風景が360度のパノラマとなって眼前に広がっている。 しかし、見た目は美しいのだが、自然な森林の多様さが全く欠如していることに、すぐに気づかされる。街を降りて、車道から脇道へ入ってみる。果樹園であるから致し方ないとはいえ、あまりの植生の単調さにすぐ飽きる。植物写真を志している私としては、なんとも腕のふるいようがない。自然のたおやかさを南イタリアに求めるのは無理としても、あまりに人工的な風景に息詰まる思いがして、すぐ街へ舞い戻ってしまった。

 Ariano Folkfestivalを主催しているのは、Associazione Culturale Red Soxというグループである。フェスティバルは、おそらく日本でいう「町おこし」運動かなにかで公的な予算がつき、更にいくつかのスポンサーがついて実現しているものと思われる。というのは、フェスティバル期間中に招聘しているアーティストの数が多く質が高いにも関わらず、催し物が全て入場無料で、会場周辺で飲食の物販が行われているだけであることを考えると、いくら入場者が多くてもまかない切れるとは思えないからである。主にコンサート関係を取り仕切っているのはFrancesco Scauzilloという、物静かだが人望の厚さのにじみ出た大男。Rossanaは主にプレス関係、Silvestroは出演者との折衝などを担当していたようだ。ほかに物販関係を取り仕切っていると思われる数人の中心メンバーがいて、そのまわりに百人近いボランティアが働いているという構図だ。フェスティバルは、コンサート・芸術祭・映画祭・アグリツーリズモなど、いくつかのセクションに分かれ、街を挙げて行われている。情宣はかなり綿密に行われているらしく、新聞広告はいうに及ばず、立派な印刷物がそこかしこに見られる。

Red Sox代表、Francesco Scauzillo (左)

 街の入口からFolkstageへ行ってみる。ステージの音響機器のサウンド・チェックが始まっていて、ミュージシャン・モードに気持ちが切り替わる。Folkstage入口のテントに近づくと、「オオオ、ジャポネ、オオサカ、イターミ、パシュカー」と、たむろしているスタッフの一団から歓声が上がり、若いのが何人か走って来て私の腕を掴んで、ぐいぐいテントの方へ引っ張って行く。みると、どうやらさっきまで飲めや喰えやの大宴会が繰り広げられていたらしく、パスタの皿や肉料理の皿が散乱し、ビールやワインの瓶がそこらに林立して、さながら強者どもの夢のあと、長椅子に屈強な男達がゆでダコのような赤い顔をして臥せっている。

 声をかけて来たのは、それでも未だ飲み足りない連中で、私をテントの中央に座らせて、さあもう一度フルコースを持ってこいとばかりに、まかない担当の少女達に命令する。ビール、ワイン、自家製チーズ、自家製ベーコンがどかどかと並べられ、まずはパスタ、Fusilliという螺旋状のマカロニにしめじとトマトが和えてある。チーズは非常に塩辛い。まずいビスケットもどきを喰っただけなのでこれ幸い、彼等とともにランチのやり直しだ。次に出たのは、挽肉を詰めたパン、ヤギのステーキとサラダにフライドポテト、普通のパンもふんだんに出される。わたしも痩せガラスにしては大食の方だが、イタリア人にはかなわない。盛り方が違うので、3皿も出るとさすがに負担になる。しかもビールやワインで胃袋は既にタプタプだ。ステージのサウンド・チェックが、マイク・チェツクからBGMに変わる。それを合図にしたのか、酔っぱらって寝ていた男達が起き上がり、私を取り巻いていた若いのも立ち上がり、目覚ましにとばかりにスイカの薄切りが配られた。いよいよ今日のコンサートの準備が始まるようである。

 トラックが横付けにされ、生ビールの樽が降ろされる。男達がそれを肩に担いでステージ脇のバーへ運ぶ。ステージはテントのある道路から城壁づたいにお堀端の広場のような位置に、もちろんお堀なんてないのだが、そんな位置に設営されている。その左手に細長いバー・カウンターがあって、そこまで長い階段を千鳥足で男達が列をなして運んでゆくのである。これが結構な腹ごなしになる。帰り道は、昨夜の空になった樽をふたつずつ下げて、階段を登って来る。黙って見ているのもなんだし、周りの風景はもう見飽きたから、私も作業を手伝う。「おうジャポネ、なんなら毎日2時頃ここに来い。街に食うところはないし、ここでメシ食って酒飲んで、一緒にフェスティバルやろうぜ。」「Si」と言うと、周りからどよめきのような歓声が上がった。つくづく賑やかな奴らや。

 こうして私は、この街に滞在している間、午前中はミュージシャンと過ごし、彼等を見送ったあとRossanaに街に連れて来てもらい、食事の用意や配膳を手伝い、昼の宴に参加し、スタッフ達と片言のイタリア語で語らい、ビールを運び、ステージの設営を手伝い、ミュージシャンのリハーサルを見学し、徐々に盛り上がって行くフェスティバルを堪能して、未明には誰かの車でホテルに送り届けてもらうという生活を繰り返した。夕食もテントか近隣の民家に招かれたりして済ませたから、この地方の様々な郷土料理をたらふく食ったにも関わらず、その名前は知り得なかった。また、レストランで食事を注文することもなかったので、メニューの読み方も覚えなかった。そのかわり、カネでは絶対に買う事の出来ない貴重な音楽的体験と、なによりAriano Irpinoという、名も知らなかった南イタリアの街と人の、桁外れのフレンドリーさに出会う事が出来た。

08/19

 さて、未明に始まったLuraのコンサートはもうひとつだったので、私は早々にステージを引き揚げ、夜道を歩いてホテルに戻ることにした。しかしこれは全く奨められない。車道を小一時間も歩いて面白い訳がないからだ。ただ、夜中まで開いてるレストランやコンビニのようなものが沿道にあるのは見た。まあ、本来は歩かざるを得ないのだ。朝になって、今日は一日休養と決め込んで、ホテルの前庭のカフェテリアで本を読んでいると、真っ赤なAlfa Romeoが停まった。Rossanaが迎えに来たのだ。「ちょっと早いんじゃない?」と言いかけた途端、彼女が目を泣きはらしているのに気がついた。つかつかつかと寄って来て「ずいぶん捜したのよ」と激しくなじる。ああ、やってしまった。勝手に会場から去ってしまった事を怒っているのだ。携帯に電話してくれれば良かったのに、と言っても始まらない。完全に怒っている。「よく聞いて。あなたは私のお客様なのよ。だからちゃんと私を待ってて。」「・・・Si・・・」「今日はどうするの?」「夕方まで休んで、バスで行くよ。」「わかったわ、じゃあまたね。」握手を求めたが、笑顔も見せずに行ってしまった。確かに、単独行動をとるなら、私の方からRossanaに電話するべきだったかも知れない。でも、本番中は彼女は楽屋まわりやジャーナリストとの応対で忙しい。それに、こんなにきちんと気を配ってくれているとは思っていなかったので、いつものように勝手気ままに行動してしまった。私は招待客なのだ。突然いなくなれば、彼等が心配するのも無理はない。望むと望まざるとに関わらず、私はVIP扱いだ。しかしなんとも疲れる。そう思っただけで、どっと疲れる。

 もやもやした気分のまま、ホテルの周りを散策する。脇道をどんどん入って行くと、農家の点在する見渡す限りの果樹園に出た。道は更に細々と続いて行くので、それにそって歩く。陽射しは強いが空気は冷涼なヨーロッパの夏だ。玄関前に揺り椅子を出して、日光浴をしている老人がよく目につく。オリーブの木の垂れ下がった枝にぶどうの房が絡んで、そこへ南イタリアらしい鋭い陽射しが斜めに差し込んで来る。その様子が美しくて、何回か写真を撮っていると、番犬に激しく吠えられた。その向こうでトマトの柵の手入れをしていた女性が振り返った。犬を吠えさせてしまったので、怖ず怖ずと目を上げると、なんと、「Buon giorno!」と明るく声をかけてくれたその女性の美しさは、何に例えようか。白いギリシャ風の長い布を肩からまとっただけに見える、不思議な着物から 伸びる細い四肢は褐色で長い。一流のファッション・モデル、映画女優と言っても全く遜色のない美貌とスタイル。なにより存在感がすごい。褐色の肌、漆黒の髪、小さな頭に彫りの深い顔立ち、豊かな表情、水色の瞳・・・しかも畑で土に汚れた手を白い服の裾で軽くはたき、ほとばしる汗をさっと払う仕草までが、光に満ちあふれて言いようのない程美しい。

 黙って埴輪のように見とれている私に、なおも気軽な感じで話しかけて来るが、残念なことにほとんどわからない。こちらから英語を発してみるが通じない。もどかしさのなかで、おのずと、わかる範囲だけの限られたやり取りになる。「Incontro?」「Si.」「Festival?」「Si!」にっこり微笑みながら、彼女はトマトをひとつもいで私の方へ差出した。受け取ると、彼女はもうひとつもいで、軽く服の裾で拭いたあと、がぶっとかぶりついた。果汁がほとばしり、純白のドレスに降り掛かる。汚れ るのもかまわず、さらに一口、私にも食えと目で合図をする。私もTシャツの裾で軽く拭ってかじりつく。その味には、日本のトマトがとっくに喪ってしまった甘みと酸味とコクの見事なハーモニーがあった。喉が痒くなるのもかまわず、私はがつがつとその一個を食ってしまった。彼女は口元を赤く染めながらにっこり笑っている。その表情が、心臓を貫く程なまめかしくもあり、崇高なまでに美しくもある。互いにかけるべき次の言葉の見つからぬ気まずい数秒が流れた。私は「Grazie mille.」と声をかけて日本風の正しいお辞儀をした。彼女は少し戸惑った様子だったが、すぐに大きくうなずいて、「Prego!」と笑いながら言った。その意外に低い声には、母性のやさしさと貫禄さえ聞こえるような気がした。

 夢のような時間に気もそぞろのまま、私は来た道を取って返した。そのままホテルの暗い部屋に戻る気がせず、前を行き過ぎようとしてると、オレンジ色の路線バスが右手からやって来たので乗った。Folkstage前のテントに着くと、まさにランチが始まろうとしていた。ビールとワインが配られ、チーズとベーコンの大皿が回される。今日のメニューは、ペンネをバジルとキノコとマヨネーズで和えたもの、フランクフルトを開いて焼いたものにレタスやセロリのサラダをつけ合わせたもの、それにラム肉の串焼きであった。パンはベーグル風のもちもちしたものである。日本の折り紙を持って来ていたので、スイカのデザートのあとビールを積んだトラックが来るまでの間に、それを見せて話をしていると、女の子が集まって来て、「オリガーミ、オリガーミ」といって、はしゃぎながら どんどん鶴を折っていく。かわいいかわいい。

 ヨーロッパでは、犬を家族のようにかわいがるというが、犬を連れた客が多いので閉口する。私は犬が嫌いだ。しかし、女の子達とオリガーミをやっていると、偶然通りかかった2匹の犬が、突然交尾 しはじめた。これがすごいのなんのって、初めはじゃれ合っていると思って、飼い主も穏やかに見守っていたが、2匹がダンスするように組んだり輪を描いて小走りしたりしているうちに、オスがメスの背後に回り込んで、ずぶっと・・・その素早かった事、いやあ、奥手な私としては見習うべき人生の師匠でんなあ。しかも、おおお、その腰つき、まっすぐにメスの体内に挿入されたピストンがまるで見えるようぢゃ。飼い主が引きはがそうとするのもかまわず、二匹は結合したまま通りの向こうからこっちへ突進してきて、あろうことか、私の目の前で、音まで立てながらグチャグチャと・・・うわぁぁぁぁ。しっかりメスの下腹部を挟み込んだオスの両手の確固たる自信に満ちた力強さ、それを払いのけようとするメスの悩ましい手つき・・・、いやあ参りました。飼い主はというと、何やら不穏な雰囲気で言い合いを始めている。たぶん責任を取れのなんのという、まさにイヌも食わんような話に違いない。それをよそに、ひときわ奥深くぐいっと突っ込んだ雄犬の、明らかに果てる姿に観衆が大拍手。このイタリア人の大らかさもさることながら、まさに天晴南イタリアのイヌ。

 朝からいろんな目にあったしイロんなモノを見た。純粋な煩悩を胸にビールの樽をひとしきり運んだあと街を散策した。美女に会ったので俄然元気になり、周辺の農場に足をのばした挙句、街に登る気がせずにホテル方向へ歩いて戻る事にした。数時間の散策のあとホテルに戻ると、駐車場でSilvestroとRossanaが、明日の出演者であるBongaのマネージャーを連れて、今まさに街へ上がろうとしているところだった。「乗るか」と訊かれて少し迷ったが、Rossanaが笑顔を見せてくれたので乗った。車は白のルノーのワンボックスだ。いつも曲がるところではなく、トンネルを越えて街の背後からアクセスする車道を行った。プルマンの乗り場近くでRossanaが降りた。「一緒に来る?」と訊かれたが、あまりにさりげない訊き方だったのと、今日の出演者のリハーサルを見たかったので断ってしまった。Silvestroが肩をすくめた。彼が言うには、彼女は私と話したがっていたようだと言う。ううむ、朝ちょっともめたあとだけに、関係を修復し親睦を深めるには、またとないチャンスであったに違いない。ううむ、でも今日のリハーサルは、地元の南イタリアのなかなか面白そうなバンドだし、・・・しかし今降りれば間に合うかも、・・・いやいや。結局、業の深いミュージシャン魂は、オンナをとるのか音楽をとるのかという究極の選択に、Folkstageへ行けという苦渋の決断を下したのであった。ううむ、しかしあのまとわりつくような視線、もしや・・・いやいや、ううむ・・・。

< とりあえずリハーサルを満喫して、暮れなずむ街の散策に出た。今夜は、フェスティバルの余興に、ベンガルの大道芸人が花を添えた。Folkstage前の道路で、本番が始まる前のひととき、仮面劇、格闘技、火を使った舞踏など、パレードも交えながら様々なアトラクションが繰り広げられ、一層フェスティバル気分が盛り上がる。しかし街の熱気とは裏腹に、今夜はグッと冷え込んだ。ヨーロッパに来てからというもの、夕方からは涼しいのを通り越して寒いくらいだった。一応、簡易な防寒具は持って来ていたがとても足りない。周りのイタリア人達は、かなり重装備だ。中にはダウン・ジャケットを着込んでいる奴もいる。近くで開いていたブティックで、フード付きの厚手のジャンパーを買った。なんともイタリア的な色彩のちゃらけたジャンパーだが、旅の思い出としてはなかなか 良い。そうこうしているうちに人通りも多くなり、今夜も佳境を迎える。テント脇から、昼間折り紙を折っていた女の子達が現れて、一緒に食事に行こうというのでついていく。通り沿いのとある民家に招かれての食事だ。金曜日の夜なので、ナポリで働いている息子達やその友達もやって来て、家の中はどんちゃん騒ぎだ。玄関先に出したテーブルで、皆で飲み食いする。見ている間に、ワインやビール、生ハム、チーズに、パスタや肉料理が並べられていく。本当にいいんだろうか。戸惑いつつも、何度も乾杯しては料理に手を出す。ステージでひときわ大き な音が響き、Epifani Barbersのステージが始まった。坂の上からどっと人並みが流れて来て、私を誘ってくれた女の子達も、それに乗ってグイグイ私を引っ張っていく。ごちそうしてくれた家族にお礼の一言も言えず観客席へ出て行く。

 今日のメイン・アクトは、Epifani Barbersという、隣のPuglia州の人気バンドである。大中小のマンドリンと、巨大なギター型のベース、キーボードとパーカッションが使われる。パーカッショニストは、大きなタールのようにタンバリンを縦に持って、まるでブラジルのパンデイロのように、手の親指側と小指側を交互に翻しながら器用にたたく。その演奏は、まるでルネサンスの頃の舞曲が、現代にまで形を変えつつ生き残って来たかのような感がある。さらに驚いた事に、ブラジルのショーロに 曲調の酷似したもの、あるいはショーロそのものではないかとさえ思われる節が出て来る。しかも演奏はかなりアグレッシブで、これがなかなかすごい。ブラジルの北東部や、コンゴ中部の山奥の音楽のようにも聞こえる。私も酔っぱらって、客も飛び跳ねてビールを掛け合い、なにがなんだかよくわからない。興奮のうちにステージが終わり、気がつけばDanielaという、地元のワイン工房で品質管理の仕事をしているという、小柄な女の子の車でホテルに送ってもらっている途中だった。いやあ、いろいろありすぎて、あんまりよく覚えてないんですよねえ。

08/20

 朝わりと早く目が覚めた。今日はBongaのライブ、今フェスティバル最後の滞在日である。昨日は休養と決めていたのに、結局未明までバタバタしていたので、今日こそは休養と決めて、ホテルのテラスで本を読んでいると、赤いAlfa Romeoが停まった。やばい。「あの、昨日は・・・」と言いかけるのを制して、「Danielaにちゃんとお礼を言った?」いやあ、あんまりよく覚えてないんですよねえ。でも言ったと思うよ。今日は彼女は怒っていなかった。訊くと、僕が余り酔っぱらっているので、早くホテルに送り届けようと思ったのだが、取材の段取りがあったので、友人のDanielaに頼んだのだと言う。それで怒っていなかった訳だ。「今日は新聞の取材が入るから、ここで私を待ってるのよ。いいわね。」きょとんとしていると、「あなたを取材したいんだって。」「・・・Si・・・」なんで俺が取材されんなんねん? 今朝かて早よからホテルの従業員が「Il Matino」という南イタリアの地方紙を持って来て、「ほれ見てみ、ここにお前の事が書いたある」て、それだけで一時間程つぶしてしもたのに。

 出来上がった記事はこうだった。「南イタリアで一番クレイジーなフェスティバルに、英語しか喋られへんクレイジーな日本人が一人来ている。彼は、フェスティバルに出演するアフリカのバンドを見るために、わざわざ日本からやって来たのだが、イタリア語はもちろん、南イタリアの習慣を何も知らないため、フェスティバルの仕事を手伝いながら三食昼寝をし、時々酔いつぶれて眠っているところを目撃されている。しかし、日本で音響技術を身につけてきたため、リハーサルのステージ・セッティングでその経験を生かし、またビールの樽を運んだりしてスタッフを助けている。アフリカのバンドだけを聴きに来たらしく、フェスティバルの最も大きな呼び物である明日のコンサートは見ずに帰るらしい。なんとクレイジーな奴だろう。」

 Bongaのメンバーが昼過ぎに到着し、にわかにホテルが慌ただしくなった。シャワーを浴びて17時に楽屋入りするという。ならばそれまで私はここでひなたぼっこでもしていよう。ホテルのレストランからピザをとってビールを飲んでいると急に眠たくなって来て、部屋に戻ってぐっすり寝た。表が騒がしくなったので目が覚めた。Bongaご一行様が出発されるようだ。Silvestroがワンボックスで迎えに来た。既にロビーで用意を整えていた出演者一行に合流して、私も ステージのリハーサルに参加した。

 アンゴラの音楽には、Dikanzaという、竹製の長いギロが使われる事が多い。これは、コンゴの伝統音楽でもよく使われていて、ドラムセットが一般化する前のルンバ音楽にも広く使われていた。コンゴでは、この音をハイハットで表現するようになってから廃れてしまったが、アンゴラでは現在のSembaでもよく使われている。私は実物を見るのは初めてだったが、非常にていねいに仕上げられている。Bongaの持っていたそれは、長さは1メートル強、ギザギザは円筒の一面であるが、ほぼ全長に渉って掘ってあり、仕上げは良い。その真ん中に、竹を割るように縦長のスリットが入れてある。上部には、スティックを収納したり、差し込んで持ちやすくするための穴がふたつ開けられていて、そのうちのひとつは予備のスティックを入れておくためにある。それらを使った特別な技はないとの事。リハーサルが始まった。とたんにあたりの空気がひんやりとし、アンゴラ音楽特有の、鋭利な刃物で切られた直後の生傷のような、独特の痛みを伴った哀切の響きが街にこだまする。Bongaのカスレ声がその情感に拍車をかける。非常に彫りの深い、哀感のあるアフリカ音楽。これだ。これこそが、私が生で聴いてみたいと思っていたものだ。音楽に酔いしれる間もなく、リハーサルは数曲の演奏の確認をしただけで終了した。BongaはDikanzaを専用ケースにしまった。そうして持ち運ぶ程、大切な楽器なのだ。

 例によって、テント脇の通りに出ると、スタッフが本番前の景気付けに、というか、朝から、いや、フェスティバルが始まった日から飲みっ放しに違いないが、この地方特産の巨大な陶製のジョッキで赤ワインをがぶ飲みしている。本人の意向とは無関係に、その渦の中に引きずり込まれ、私にもアルコール消毒が行き渡るようになる。Rossanaが楽屋のしつらえを終えてステージから出て来た。「イターミ、今日は地元誌とテレビの取材があるから喋る事を考えといてね。私が帰って来るまでどこへも行っちゃだめよ」と言い残して、忙しく街へ上がっていった。「でへへへへ、『私が帰って来るまでどこへも行っちゃだめよ』か、おいイターミ、おめぇいつの間にそんなこと言わせるようになったんだ。もう一杯飲めこの野郎。」テーブルにさんざん這いつくばらされてしこたま飲まされ て、いい加減べろべろになった頃、Rossanaの友達という、すらりと背の高い透き通るような白い肌を持った、素晴らしい美女がやって来て、「Rossanaが、あと一時間で戻るからここで待っててねと言ってたわ」と流暢な英語で言い残し、また忙しく去って行く。電話してくれればいいのに。こっちは既に酩酊状態で、仲間と意味不明の歌とも嬌声ともつかぬものを上げながらほたえ散らかしとる。さすがに客を迎える準備に邪魔になるのか、女の子達に追い出されてしまったので、仕方なく下の道にあるレストランへ行ってどんちゃん騒ぎの続きをやった。

 どれほど時間が経っただろう、あたりは夕刻の気配だった。やばい。酔いも血の気もぶっ飛んで、私はふらつく脚を酷使して登り坂を走った。テント前には明らかにプレス関係者と見られる、業界人風の数人の男達と撮影クルーが来ている。その中でRossanaが大きな身振り手振りで何かを説明している。いよいよやばい。「Rossana、許してくれ。」「イターミ!・・・・・・もういいわ。始めましょう。」ああ、キッとした鋭い目もまた美しい。なんて美しい人なんだろう。この瞬間のためなら、俺の一生なんて全部捧げても悔いはないよ。惚れ直してる場合やないわな。雑誌のインタビューは、Rossanaを通訳として、インタビュアーが形式的な質問をするところから始まった。内容は特に変わった事ではない、というか、酔っていたので忘れてしまった。続いて地元のテレビ局の取材だ。これもよく覚えていないが、始終上機嫌だったと、それを見た人からあとで聞いた。そんな事をしているうちに見物客が集まりはじめ、例によって余興のアトラクション、今夜はストリート・サーカスとも言うべき軽業師の一団のパフォーマンスが始まった。

 Bongaのコンサートは、初めこそ彫りの深いSembaの演奏が聴かれたが、イタリア人の食いつきがあまりにも悪く、途中から乗りの良いコンゴ風のSoukousの演奏がメインとなった。こうなると、私の方が遥かに耳が肥えてしまっているので、粗ばかりが気になるようになり、余り楽しめなかった。SebenにおけるAnimationと演奏の絡みなどの詰めが全く甘い。15年も前にヒットしたダンス「Pesa」をやられたりしてもう意気消沈。アフリカのダンス・ミュージックは、ルンバのニュアンスを基本としているものが多いが、面白い事にイタリア人は、このリズムがとりにくいようである。Bongaが聴衆を煽るために、クラーベのリズムで手拍子を求めたところ、彼等のほとんどが三連符を打てなかったのだ。こういう横に揺れるリズムを聴いても、ほとんどのイタリア人は飛んだり跳ねたりしている。奇っ態なこっちゃ。

 Rossanaの導きで、コンサートのあと、楽屋でBongaとゆっくり話す事が出来た。それは私にとって、今回の旅で非常に有意義な経験だった。話は長引き、場所を、夕方どんちゃん騒ぎの続きをやったレストランに移した。メンバーにリンガラ語のわかる奴がいた事で、一層話は盛り上がった。話の内容を要約すると、ほぼ以下の通りである。

 2002年、アンゴラ政府と反政府勢力UNITAとの間で恒久的な和平合意が成立したが、それで30年近く続いた内戦がどうにか終結し、それから3年経って本物の和平が実現しようとしている。内戦、すなわちアメリカとソ連の代理戦争で、国は何もかも破壊されてしまった。その事については多くを語るまい。Bongaもサッカー選手でありながら政治的な発言をし、それがもとで亡命を余儀なくされことはよく知られている。「あの頃は皆そうだった。」しかし今は、もちろん色々問題はあるが、アンゴラはだんだん良くなっている。先進国からの資金援助は、確実に首都Luandaの街を安全で便利にしている。音楽をやる環境も良くなった。若いミュージシャンの勃興もあり、Luandaに音楽シーンが出来つつある。この事は、ミュージシャンがアンゴラからリスボンへ、また亡命先からリスボンへ、さらにリスボンからアンゴラへと盛んに行き来できる状況を作った。同じポルトガルの植民地であったブラジルで録音したり、作品をリリースする機会も非常に増えた。「LuandaとLisbonのアンゴラ音楽シーンは、今までになく活気づいてるよ。」彼は何度も強調した。「アンゴラは良くなった。」

 アンゴラというと、内戦・難民・飢餓・地雷という暗いイメージが一般的だ。おそらくその解決はまだまだこれからだろうが、とりあえず首都が安定し、人の交流が盛んになって、徐々に平和が広がっていく事は、問題の解決に寄与するに違いない。彼はしきりに、今のアンゴラは「国民がひとつになって」国づくりを進めているんだと強調した。一時は国を追われたミュージシャンの言葉として、重く受け止めたいと思う。・・・で、今のSembaという彼等の演奏スタイルについても訊いてみた。「いまのSembaは、亡命して主に中南米やヨーロッパで活動して来たミュージシャンが戻って来てシーンを作っている影響で、特にMerengue、ZoukやKompas、キューバのRumbaやブラジル音楽の影響を色濃く受けている、というよりスタイルとしてはそのままの演奏が多いと言って良い。ただ、音楽的な情感は、Liceuの時代から変わっていない。」ううむ、演奏スタイルについては私も同感だが、それに盛られた内容がどうかという点については印象を異にする。Bongaと日本人が話し込んでいるというので、地元のテレビ局が入って来たために、話はそこで終わってしまっ た。続きは翌朝だ。

08/21

 朝9時前にBongaを送るバスが来た。私は荷物をまとめて便乗した。1時間そこそこでNapoliのCapodichino空港に到着したが、その道中、私は話をどう切り出したものかと考えていた。正直言って、Bongaに直接会った印象では、彼はミュージシャンというより体育会系の人である。ただ、彼の独特のカスレ声が、Sembaの持つ哀切のアフリカ音楽、アンゴラの困難と苦悩を象徴しているかのようで、訊く人の琴線に触れてくるのであろう。しかし彼は、音楽、演奏、歌の美しさに楽しみを見いだすというよりは、音楽を通じて何か別の目的を達成しようとしているように見える。もちろんそれが何かはわからないが、アンゴラの音楽について、アンゴラを代表する人気歌手の一人に直接話を聞く事が出来たという点では、非常に大きな収穫だった。

 結局バスの中では雑談に終始した。私のやっていたバンドの事、アンゴラやカボ・ヴェルデという、ポルトガル語圏アフリカ音楽に興味を持ったこと。その特性、独特の情感についての一般的な話だ。空港に着いて別れる時、Bongaが名刺をくれた。「Lisbonへ来い。きっと多くが得られるだろう。」メンバーもしきりに奨めてくれた。再会を約して別れた。私もここからは一介の旅行者だ。お祭りは終わった。お客様待遇もVIP扱いも終わりだ。Ariano Irpinoで世話になった人たちに、お別れらしいお別れも言えなかったが、とても楽しい経験だった・・・。

 ・・・・・・あっ、やってしもた!ホテルをチェック・アウトしてへんわ。フロントに鍵を置いて、目で合図しただけや。宿泊料は前払いしとったからええとして、ミニ・バー使たぶんの料金清算してへんやんけ。こらあかんやろな。発つ鳥跡を濁さずゆーて日本男児たるもの、ArianoでVIP待遇を受けてさんざん歓待してもろたうえに、飲み物代踏み倒して出て行ったちゅうことになっては日本の名折れや。次にここを訪れる日本人に迷惑がかかるやも知れぬ。ああどないしょどないしょ。ときどきやっちゃうんですよね、こーゆーこと・・・帰りかけた運転手を止めて相談しようとしたが、このおっちゃん英語がさっぱりや。しゃあないしSilvestroに電話したが、電波状態悪うてよう聞こえへん。空港前のロータリーを渋滞させる訳にも行かんので、運転手が駐車場へ車を移動させようとして駐車場の警備員ともめ事になった。普通に車を駐車場に入れようとしただけやのに、何を言うとんのかさっぱりわからず、そこへ警官が3人も集まって来て、結構な騒ぎになってしもた。同じように普通に駐車場に入ろうとする車が渋滞して大混乱になるわ、二人とも警官にパスポート取り上げられるわ、私に対しては空港のインフォメーションへ行けと言いよるわ、わけわからん。パスポート預けたまま警官とはぐれたらそれこそ一大事やから、とにかく食い下がって小一時間の押し問答の末、ようやくパスポートその他は戻った。事情を説明しても英語が通じひん ので、仕方なく遠路はるばるもう一度ホテルまで戻る事にした。

 ホテルの前でSilvestroが心配そうな顔で待ち受けていた。事情を説明すると「なんや。そんな些細な事のためにわざわざ戻って来たんか。俺らは友達ゃないか。払といてくれの一言で済むもんを。」とあきれてしまった。まあええやんか、みんな良くしてくれたから気持ちよう発ちたいんや。フロントで正式にチェツク・アウトすると、エクストラ・チャージは7ユーロであった。そこへこのホテルのオーナーであるPuopolo Pietro氏が現れた。私が予約したと思った名前は、ホテルの名前ではなく、彼の名前だったのだ。だからみんな「問題ない」と言っていたのだ。これで疑問が解けた。さらにもうひとつの疑問も解けた。氏はいかにもイタリア人やり手実業家という感じだ。その物々しい雰囲気を見て、イタリアにおける「スポンサー」というものの実態をかいま見る事が出来たような気がする。

 そんな事に感心してる場合ではなかった。ホテルを出てAvellinoへ向かうプルマンに乗ろうと、Ariano IrpinoのAIR事務所へ行ったのだが、そこは堅く門が閉ざされていてとてもバスなど出て来そうにない。おかしいとは思いつつ30分程待ってみたがバスは来ない。しかたなくAvellino寄りの隣町Grottaminardaまで行ってもらってAIRの事務所で聞くと、今日は日曜で本来バスは少ないが、この町がフェスティバルなので、「バスはない」とぬかしよる。しかもにっこり笑って・・・。Arianoに戻ってSilvestroが親身になって方々へ電話したり、フェスティバルの関係者達がいろいろな可能性について探ってくれた。それこそ日に何便あるかというイタリア鉄道のAriano Scalo駅の時刻や、Autostradaを疾走するNapoli-Bari間やNapoli-Foggia間のプルマンに飛び乗る事が出来るかどうかという交渉までしてくれた。結局どれも功を奏さず、今日予定していた旅程、北イタリアのLevantoに到達する事はおろか、Napoliに行く事さえ到底できそうにないことがわかった。なんちゅうこっちゃ、未だ昼前やで。

 そのうち私の帰国は街を挙げての心配事となり、方々から慰めや励ましのワインやビールが届けられ、たむろしていたカフェはさながら酒盛りの場に変わってしまった。「見ろイターミ、たかが7ユーロのためにこんな大事になっちまったじゃないか。」「・・・Si・・・」ううむ、・・・しゃあないな。ううむ、・・・「ほな、もう一泊するかぁ!」「やったぁ!」て感じで、景気の良いかけ声とともにシャンパンの栓が抜かれ、本格的な酒盛りがおっ始まってしまった。もうどうにでもしてくれ。ああRossana、何もこんな手を使わなくてもいいじゃないか。俺ともう一日一緒にいたいのなら、そう言ってくれればいいのに。どこにいるんだRossana?・・・噂を聞きつけてRossanaがほんまに来てしもた。「イターミ、なんて人なの、信じられないわ。」どうやら話は詳細に伝わっているらしい。やっぱり田舎町の口コミはすごい。恥ずかしくてアナがあったら・・・ははは、そうとわかったら楽しみましょうという訳で、酒盛りは河岸を変えてFolkstage前テントに移った。

 「おうイターミ、どうした、もう一年経ったのか。」テントで真っ赤な顔を膨らませてとぐろを巻いていた巨大な兄ちゃんたちや、賄い調理にあたっていた女の子達や音響スタッフらとともに、フェスティバルは今日限りよとばかりに、なおさら念の入ったどんちゃん騒ぎがくり広げられてしまった。もうどうでもええわ、なんとでもしてくれ。そんななかでもSilvestroは、Incontroをもう一泊追加したあと、今日私が泊まるはずのLevantoのホテルへ連絡した方が良い事を私に思い出させた。そして、ぐでんぐでんに酔っぱらっている私に代わってそのホテルの電話番号を調べ、御自ら電話して予約を延期する交渉までしてくれた。いやいや、いまとなっては、恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちである。しかしこのアクシデントのおかげで、見る予定のなかった今日のコンサートを見る事が出来た。それはまさに神が、いやRossanaが私に与えたもうた幸運というより他にない。それは、Roy Paci amp; Aretuskaという、シチリアを拠点に活動するスカ・バンドである。南イタリアでは大変な人気という事で、客の入りも最高、フェスティバルの呼び物という事もあって、関係者の意気込みも最高潮に達していた。このバンド、前評判もすごかったが、実物はとてもそれまでの出し物の比ではなかった。こんなバンドがあったのか。なぜ全員白人のくせに、こんなに黒いスカが演奏できるのか。どんな言葉を以てしても、この日のライブを表現する事など出来ない。バックの演奏は沈着冷静で緻密に構成されていながら、イタリア的に明るくホットだった。なによりリズム・セクションの安定性と音の輪郭の太さがすごい。フロントは3人。2人はDJで、ほとんどラップをしている、そこへ途中からRoy Paciが入ると、途端に会場はエキサイトする。煽り方はじけ方ぶっ飛び方が桁はずれている。往年のキンシャサ・ロックに決して引けを取らないばかりか、演奏やアレンジが緻密な分、厚みと深みが勝っている。もちろん単純な比較は出来ないが。もうすっかりイタリア人の乗り方に慣れてしまった私は、仕事から解放されたRossanaと一緒にビールを何杯も煽り、手に手を取って今宵限りのどんちゃん騒ぎ、抱き合いながら彼等と同じように飛んだり跳ねたり、周りの人に当たっても全然お構いなしの、日本ではただ迷惑なだけのガイコクジンになり切っていた。いやあすごい。とにかくすごい。

 


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